2026年9月25日金曜日

【未来俳句・短期連載】 共有のアリーナとしての季語・歳時記——未来俳句宣言への応答  谷川嘉浩

 この種の「宣言」を読むのは久しぶりだった。評論が居場所を失うとき、宣言もまた存在感を失う。筑紫磐井の未来俳句宣言は、俳句の現在を「閉塞の時代」と名指し、伝統とはルールではなく過去の作品という財産だと捉え直す。過去の俳句が掬いきれなかったところにこそ未来がある。前衛に自句自解はできず、宣言だけが許されている。作品の内側で自分を説明するのではなく、これから何をするのかを外に出して、応答を待つ。

 宣言をする人が、宣言とは何かを説明しながら宣言するという手つきは、宣言が存在感を失ってしまった時代に見合った、的確な表現だったと思う。俳句について詳しいわけではないが、私は大いに趣旨に賛同する。時代ごとに指摘され、そのたびに指摘する人が誰かから権威的に叱られているが、かねてより受け継がれている事柄や形式をただ単に反復するだけの文化に未来はない。自分たちなりに魂を込めて、(先人を踏まえつつ)先人を裏切るような表現や提案をおこなえる文化が、その表現や提案のバリエーションの分だけ、文化の命脈を保つことができる。


 とはいえ、留保を一つ挟みたい。形式の攪乱は、定義上、攪乱される形式に寄りかかっている。破格が破格として読まれるのは、ルールが共有されているからだ。宣言が手がかりとして挙げる作例を思い出してほしい。比喩を否定したと評される金子兜太の句も、文法の見当たらない加藤郁乎の句も、読者が俳句のルールを前提としているから破壊的に見える。宣言が示す短律にしても、十七音という期待があるから短さが短さとして届くのであって、期待ごと捨ててしまえば、残るのは短い言葉であって短律とは必ずしも言えない。だから、攪乱することそれ自体が作風になり、様式として反復されはじめるとすれば、その振る舞いは何も動かすことができないだろう。個性的になろうとして、いかにも個性的にみられるような装いを反復する人を個性的だと思わないが、それと同じ程度につまらないことだ。(教科書通りの「個性的」な装いの人に微笑ましさというか、妙な頼もしさを感じるのと同じで、そういう周囲が見えていない勇み足は個人的には嫌いではないのだが。)

 宣言は連帯を求めない、と筑紫磐井は述べている。そうなのかもしれない。それでも、言葉はつながらなければならない。それはつまり、たとえ言葉や関心がすれ違っていたとしても、様々な行為者の判断の履歴が人々に共有されていなければならない、ということだ。各人が俳句という文化のために別々の賭けをしてもよいし、その賭けは多様であった方がよいと信じているが、その賭けが互いに競い合うアリーナを形成する必要があるのではないか。このブログ紙面(なんと呼べばいいのだろう)はその一つかもしれないが、宣言が期待する談論風発は、共有をどこまで残すかという設計の問題でもあるだろう。議論や対話の場を工夫しながら構築すること、その努力もまた怠ってはならないのではないか。俳句表現だけでなく、そちらを新しく工夫することもまた必要ではないか。


 最後に、別の提案をさせてほしい。私は学部時代に京大短歌という短歌サークルに入っていた。私は短歌に愛着があり、その可能性を感じていたのだが、同時に俳句への憧れを抱いていた。憧れの対象は、季語である。季語があり、歳時記が何種類もあって、それが一応の共有知識となっている。そういう制度を持たない短歌の視点から見ると、俳句の季語・歳時記という共通言語は、かなり魅力的に思える。誤解のないように言い添えると、これは規則への憧れではなく、共有のアリーナへの憧れである。歳時記は改訂される。季語の本意は動く。新しい季語が入り、気候の変化で季感はずれ、無季をどう扱うかで論争が起きる。季語は、内容の改訂と意味の再編に常に開かれたアリーナとして運用されている。そのアリーナのルールは曖昧で、その曖昧さの中に、季語という制度を新しく捉え直し、実験していくヒントがあるように思われる。

 だとすれば、宣言に応じる道はもう一つある。宣言は、過去の俳句が掬いきれなかったものに未来があると言った。その言い方を借りるなら、歳時記は、掬いきれなかったものを次の版で拾い直すために作られている。俳句の新しさを探すために季語を捨てる道もあるのかもしれないが、私は季語の機能や意味を再定義することを提案したい。

 バリー・スミスという哲学者が、文書や書類を一種の(言語)行為と捉えて、書類の扱われ方について次のように語っていた。「書類とは同一性を保ったまま時間を持ちこたえるものだ。署名され、副署され、保管され、登記され、閲覧され、譲渡され、複写され、批准され、無効化され、押印され、偽造され、隠され、紛失し、破棄される。」 1)まさにこのような形で歳時記の編纂や改定は行われている。それも複数の歳時記を通して。アリーナとしての季語や歳時記が、俳句にとってどんな意味や働きを持っているのか。それはどのようにズラすことが可能であり、どういう変化はどういう帰結につながるのか。その変更は誰にどう届くための変更なのか。考えるべきことは多い。英語化された俳句にとっての季語の意味や役割を実験的に提案するのも楽しそうだと個人的には思う。


 文化には、誰かの否定と裏切りが必要である。それは必ず誰かに権威的に叱られる。だが、裏切りが誰かに届き、肯定や否定、その他の反応を引き出せるのは、判断の履歴を共有できる場所があるときだけである。それは一つである必要はないし、複数の場が設計されていた方がよい。そうした場の設計と並行して、俳句という文化の中に様々なアリーナを発見し、その中で複数の実験を行っていくこと。私は特に季語と歳時記が形成するアリーナに面白みを感じるのだが、実際に俳句を作っている人たちがこの印象をどう受け取るのか、一人の俳句読者として応答を楽しみにしている。

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1)  Smith, Barry (2012). How to Do Things with Documents. Rivista di Estetica 50:179-198.

【谷川嘉浩(たにがわ・よしひろ) 京都市在住の哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。著書に『増補改訂版 スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー携書)、『鶴見俊輔の言葉と倫理——想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学——ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)ほか。】