加藤知子句集『情死一擲』を読むとき、まず目につくのは、いたるところで身体が壊れ、増殖し、変形し、何かを呑み込み、あるいは何かに侵入されていることである。
「風船の首や吊られる一代記」では首が吊られ、「月とるにあばらの骨をそぎ落とす」では肋骨が削られ、「春の馬超えて女に脚六本」では女の脚が六本に増える。「ほと深きところに卍春は傷」は性器の最深部に歴史と記号を刻印し、「雷につらなれる脇腹の地霊」では身体の脇腹から地霊へと回路が開く。ここにある身体は、近代的な主体を包む安定した容器ではない。身体はむしろ、国家、神話、暴力、性、死者、土地が通過する裂け目である。
その意味で『情死一擲』の核心にあるものを一語で呼ぶなら、「逸脱」であろう。ただし、その逸脱は奇矯なイメージを生み出すためだけの技法ではない。加藤の句において逸脱とは、身体を正常化し、分類し、所有しようとする力から逃れる運動そのものである。
たとえば「ニッポンが股間にあるも昼寝覚」。ここでは「ニッポン」という巨大な共同体の名が、唐突に「股間」という極私的かつ性的な部位に押し込まれる。国家と身体の大小関係が逆転しているのである。本来なら個人の身体を包囲し、戸籍、家族、性別、再生産、徴兵といった制度を通じて管理する国家が、ここでは股間にぶら下がる滑稽な異物になる。「昼寝覚」という脱力した季語も重要だ。国家的崇高さは、目覚め際のぼんやりした肉体感覚によって一挙に脱神聖化される。
この国家と身体の転倒は、「長男に継ぐこと無きや梅腐る」にも現れる。家制度的な「継承」の論理、その中心に置かれてきた「長男」に対して、句は「継ぐこと無き」と言い切る。しかも結末は「梅腐る」である。血統や家名の永続性に対して、生物は腐敗する。家父長制が想定する直線的な系譜に、腐敗という循環的な自然時間が侵入してくる。
ここから見れば、本句集のフェミニズムは、「女性」というカテゴリーを肯定的に提示することよりも、女性身体に割り当てられた役割そのものを攪乱するところにあると言える。「神さびる乳房は島へ沖へ波」の乳房は、母性や性愛のために存在する器官ではない。それ自体が老い、神となり、島や海へと漂流してゆく。乳房は所有者たる「女」からさえ離脱している。
「春の馬超えて女に脚六本」に至っては、女は人間という種的輪郭からも逸脱する。二本脚の「正常な女」は解体され、六本脚の異形の生命となる。これは怪物化であると同時に解放でもある。古来、女性の異形化はしばしば恐怖や排除の対象とされてきた。しかし加藤の句では、異形は劣位を意味しない。むしろ二本脚という規範を捨てた身体には、人間中心的秩序から逃走する奇妙な自由がある。
だからこそ『情死一擲』における神話もまた、権威の源泉としてではなく、解体され、食われ、再配置される対象として現れる。
「土蜘蛛を丸ごと吞みし真葛原」の「土蜘蛛」は、古代国家によって服属させられた周縁的存在を想起させる。だがここでは、その土蜘蛛をさらに「真葛原」が丸ごと呑み込んでいる。征服する側とされる側という単純な歴史図式すら、大地の巨大な消化作用のなかへ回収されてしまう。
「神生みの朧を食らうだんご虫」はさらに徹底している。「神生み」という壮大な創世神話の傍らにいるのは、小さなだんご虫である。しかもだんご虫は神話を仰ぎ見るのではなく、「食らう」。高位の神話が低位の虫によって摂取されるこの逆転は、『情死一擲』の詩法をよく示している。高いものは低くされ、大きいものは小さくされ、聖なるものは肉体化される。
「ビル壁を染み出る弥勒汗みどろ」も同様だ。救済者たる弥勒は、天上から清らかに降臨するのではない。都市のビル壁から汗まみれで染み出してくる。救済は超越ではなく、コンクリートと体液の混合として出現する。神は汚れ、肉体化し、都市の物質のなかに閉じ込められる。
この神話の脱神聖化は、そのまま戦争の表象へとつながる。
「自警団うち揃いては西瓜割り」は、一見すると夏の滑稽な景である。しかし「自警団」という語が置かれた瞬間、集団的な暴力の記憶が不穏に立ち上がる。目隠しをして棒を振り下ろし、対象を叩き割る西瓜割りは、遊戯であると同時に、群集暴力の模型となる。ここで恐ろしいのは、暴力が特別な狂気としてではなく、夏の余興のような日常性のなかに存在していることだ。
「花野にてなにするひとぞミサイルマン」でも、花野とミサイルという不釣り合いが強烈である。古典的には死者や旅、秋の美と結びつく花野へ、現代戦争の象徴であるミサイルが侵入する。戦争は戦場だけにあるのではない。花野にも、昼寝にも、冷蔵庫にも、身体内部にも現れる。
その極点が「木下闇強姦兵器生まれつぐ」であろう。「強姦」と「兵器」を直結させることで、この句は性暴力を個人的逸脱ではなく、反復生産される暴力装置として示す。「生まれつぐ」という語が残酷である。生命を継承するはずの「生む」という言葉が、ここでは暴力の継承を意味する。戦争と家父長制は、ともに身体を占有し、次代へ再生産するシステムとして重なって見える。
「人間を狩る冷蔵庫灯るべし」も不気味だ。人間が自然を狩る主体なのではなく、冷蔵庫という人工物が人間を狩る。主体と客体は逆転する。文明が人間を保護するという物語はここで破綻し、道具の側が捕食者となる。その白い内部灯は、保存と死体安置、家庭と戦争、日常と殺戮の境界を曖昧にする。
こうして見ると、この句集で戦争は「戦争を詠んだ句」の内部だけに存在しているのではない。戦争とは、身体を規格化し、性を統制し、敵味方を分け、殺すことのできる身体を製造する原理であり、その原理が日常の奥深くにまで浸透している。
だから『情死一擲』では、死もまた一回的な終点ではない。
「昨日ひとだま今日は瓜へと化すおみな」において、死者は人魂となり、さらに瓜へと変わる。死は消滅ではなく変態である。「夜桜に体当たりして魂入れ換え」でも、魂は唯一不変の自己ではなく、交換可能な何ものかになる。
「電報の死を炙りけり檸檬の香」は、この死の物質性を鮮烈に示す。死の知らせとしての電報が「炙」られ、その傍らに檸檬の香りが立つ。死は抽象的な観念ではなく、紙、火、香りからなる感覚的な出来事に戻される。
さらに「献体を拒みて菜種梅雨の底」「夏果ての自力排泄とは妙技」と進むにつれ、句集は死を英雄的な事件から徹底的に引き離す。死を前にして重要なのは、大義でも記念碑でもなく、身体を誰に渡すのか、最後まで排泄できるのかという、生々しく卑近な身体の主権なのだ。
そして最終的に現れるのが、
「もうよかろう最期は情死帰り花」
である。
表題『情死一擲』へと響き返すこの句の「もうよかろう」には、奇妙な軽さがある。情死は通常、恋愛の絶対化、二人だけの世界への閉鎖として理解される。しかし本句集を読み進めてきた後では、この「情死」はそれほど単純ではない。それは国家、家族、血統、正常な身体、神話、戦争といった、自分の死の意味を外側から決定しようとするあらゆる制度への最後の逸脱とも読める。
ただし、そこには英雄的な自己決定の身振りさえない。「もうよかろう」という投げやりとも諦念ともつかぬ口調と、季節外れに咲く「帰り花」があるだけだ。
帰り花とは、本来の季節から外れて咲く花である。
そう考えれば、この季語ほど『情死一擲』にふさわしいものはない。六本脚の女も、汗を流す弥勒も、神話を食うだんご虫も、人間を狩る冷蔵庫も、すべて本来あるべき位置から外れている。女は女の位置から、神は神の位置から、人間は人間の位置から、死者は死者の位置から逸脱する。
その逸脱は破滅なのか。
おそらく加藤知子の句は、そう簡単には答えない。
「街の足裏が沈みゆくゆく蟻地獄」と詠まれるように、世界そのものが沈下している以上、正常であることの方が危ういのかもしれない。秩序の内部にとどまることが生存を保証しない世界で、身体は怪物となり、虫となり、地霊となり、花となって、別の出口を探し続ける。
『情死一擲』とは、死へ向かう句集である以上に、「正しい生」によって飼い慣らされることを拒む句集なのである。
その意味で、ここにあるフェミニズム、神話、戦争、死は別々の主題ではない。それらを貫いているのは、誰が身体を所有し、誰がその身体に意味を与えるのかという問いである。
国家なのか。家族なのか。男なのか。神なのか。歴史なのか。
加藤の句は、その問いに明快な答えを返すかわりに、身体そのものを変形させてしまう。
肋骨を削り、脚を六本にし、乳房を海へ流し、神を汗まみれにし、死者を瓜へ変える。
意味づけられる前に、別のものへなってしまうこと。
それこそが『情死一擲』における、最も根源的な抵抗なのではないだろうか。