朗読重視のhaikuに、kukaiは広がるか
先日、英語圏の人たちによるオンラインのhaikuイベントに参加した。合同詩集の合評会のような内容で、僕が何を手伝えるかなあと、とりあえず「僕の気に入った俳句を事前に何句か選んでおきますから、当日にコメントしますね」と連絡した。先方からは、「ありがとう、嬉しいわ。こちらでも、当日参加できる人とその人のhaikuを確認しておくから。じゃあね」みたいな返信が来る。参加できる人のhaikuを確認するって、どういう意味だろう、と少し疑問に思った。
その意味は、イベントの当日にわかった。合同句集の句を各作者が読み上げて、それに参加者がランダムに講評をしていく、というスタイルを採っていた。その形式を採る以上、句の作者が当日に参加か不参加かは重要な要素になる。参加者が次々と自分のhaikuを読み上げる一方で、不参加の人の作品は読み上げもされず講評もされない。日本の俳句とは違う風景だなあ、と感心して見ていた。
詩は、その作者の声と密接に結びつく。この感覚は、西洋の文化では暗黙の前提として根づいているのかも知れない。日本では、高名な俳人の有名な句でも、決してその人自身の声で読まれることは尊重されない。僕自身を振り返っても、一度も自分の声に出して読んだことがない自作の句もけっこうありそうだ。
声と詩のつながりのことはいずれ再考察したいが、このテーマは裏返して言うと、俳句とhaikuの間でのひとつの大きな相違点と結びつくようにも思う。
というのも、haikuが世界に広がっているほどには、無記名・互選による「句会」という形式は浸透していない。俳句文化の重要な要素としてginkoやkigoが認知され敬意を払われているのとは対照的だ。少なくとも僕が見聞きした範囲では、haikuの世界での一般的なやり方は、一覧化された事前投句に作者名があらかじめ表記されている。集会ではその句を作者が読み上げ(つまり朗読)、他参加者が思い思いに感想を言い合う。一方、それが「コンテスト」であれば無記名での評価がなされるが、評者はあくまで少数の審査員で、互選形式ではない。
このような対照の背景には、声による朗読を重視する文化風土もありそうだし、句会や結社の仕組みよりも俳句作品の紹介が翻訳書を通じて西洋では先行したこともあるだろう。とは言え、国際俳句事情に詳しいある人の話では、無記名・互選の形式を西洋人に体験してもらったところ、「なんて面白い!」「なんて民主的!」との声が聞かれたというから、先々はkukaiが受け入れられる可能性もある。ただし、そのことが作者の声の朗読を重視する西洋の詩文化とどう併存できるか、は興味深い問題ではある。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2025年6月号より転載)
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