2026年2月27日金曜日

第263号

    次回更新 3/13

【告知】 現代俳句協会・日本伝統俳句協会共催シンポジウム「昭和俳句、何が争点?」

【お知らせ】樋口由紀子同人の逝去と追悼句会のお知らせ 》読む

追悼:樋口由紀子
句集歌集逍遙 樋口由紀子『めるくまーる』(再掲)/佐藤りえ 》読む


■新現代評論研究

【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して(続)  筑紫磐井 》読む

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)2 》読む

新現代評論研究(第20回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

現代評論研究:第24回各論―テーマ:「魚」を読む・その他― 藤田踏青、北村虻曳、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第7回:「実作者の言葉」…「頭燈」について/米田恵子 》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

[新春論考]1954年の寺山修司 佐藤りえ
    (前編) (後編)

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第六(12/26)神谷波・川崎果連・加藤知子・曾根毅・松下カロ
第七(1/9)渡邉美保・小林かんな・田中葉月
第八(1/16)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹
第九(1/30)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子
第四(12/26)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第五(1/9)神谷波・川崎果連・曾根毅
第六(1/16)渡邉美保・小林かんな・田中葉月・小野裕三
第七(1/30)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹
第八(2/13)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

 俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【新連載】俳壇観測279 ユネスコ登録の進め方4 有馬氏とマーティン氏の論点[1](誰も言っていないこと)  筑紫磐井 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり45 西村小市『途中下車』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(67) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り[in Japan](59) 小野裕三 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『岡田史乃の百句』(辻村麻乃) 豊里友行 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・6 金光 舞  》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

1月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【告知】 現代俳句協会・日本伝統俳句協会共催シンポジウム「昭和俳句、何が争点?」 筑紫磐井・井上泰至


  現代俳句協会では昭和百年にあたる昨年、『昭和俳句作品年表』が完結しました。他方、日本伝統俳句協会では、一昨年の虚子生誕百五十年に関連した講座が続いています。

 

 こうした時代区分は、「伝統」と「現代」の立場からの見方を当然反映していますが、長い「昭和」の中で、どこをターニング・ポイントと考えるか?という点では一致しています。その一方で、その「事件」の評価は、当然のことながら大きく見方が異なる。

 

 俳句における「昭和」を考えるうえで、争点となる「事件」をあぶり出し、その評価の違いを明らかにすることにより俳句の「今」を考える起爆剤にしたいと考えています。

 

1.昭和20年代、ふたつの「現代俳句」山口誓子vs石田波郷・山本健吉

2.昭和30年代、「現代俳句」の分裂と俳壇の保守化金子兜太vs角川源義

3.昭和40年代、前衛の風化、戦争の心象化、女性俳句へ

今回は「1.昭和20年代」「2.昭和30年代」を中心に議論を深めていきます。

 

【報告者】

👤筑紫磐井 👤井上泰至

 

【コメンテーター】

👤岸本尚毅 👤後藤章 👤堀田季何

 

◆開催概要

開催日:2026430日(木)14:3017:30

 

場 所:江東区芭蕉記念館1階 第1会議室

   東京都江東区常盤1-6-3

(オンラインおよびオンデマンド配信を想定)

 

参加費:2,000

 

定 員:先着20名(現代俳句協会受け付け枠)

 

お申込み方法

①申込フォーム下記のリンクまたはQRコードからお申込みください

https://forms.gle/1Yw4hSx76s9gk1Mb8

 ②電話

現代俳句協会事務局(03-3839-8190)までご連絡ください

 ・お名前

・協会員資格の有無

・電話番号

・参加人数(ご本人を含む人数)

 

お支払い方法

ペイパル(paypal

下記のリンクからお支払いください

 💰参加料:2,000

https://gendaihaiku.gr.jp/item/20334/

 

お申込多数の場合はご希望に添えない場合がございます。あらかじめご了承いただきますようお願いいたします。

 

一般社団法人現代俳句協会

東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル外神田7

TEL 03-3839-8190 FAX 03-3839-8191

【お知らせ】樋口由紀子同人の逝去と追悼句会のお知らせ

 既に御承知の通り、令和8年2月11日に、豈同人の樋口由紀子さんが闘病の甲斐なく永眠されました。川柳誌「晴」も終刊されての整理も進められていました。 

 由紀子さんへの感謝を込めて、追悼句会が行われます。


【投句】 

未発表句、お一人様3句。 

投句締め切り:令和8年3月3日(火) 23:00 

以下のフォームからご投句ください。 

https://ws.formzu.net/dist/S522456260/


【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して(続)  筑紫磐井

 3.私的解説

 昨年11月24日、現代俳句協会の第50回現代俳句講座「昭和100年 俳句はどこへ向かうのか?」のテーマでシンポジウムがあり、その結びで、〈二十年後の俳句がどうなっているか〉を示してほしいと司会から求められ、私が示したのが次の句であった(「現代俳句」8年2月号)。


渾 煌く犠      筑紫磐井


 これに対し自由律俳句の人から、会場でもその後の懇談やその日以後の意見交換でも活発な意見が寄せられた。その過程で、個人的な動機ではなく、俳句の未来を考えての宣言としてまとめて見ようと考えた。俳句における宣言は、金子兜太の造型俳句論以後あまり出ていないと感じたのもある。しかし何より、前衛俳句作家は決して自句自解してはならないという信念を持っているからだ。自句自解できる俳句は前衛ではありえない。前衛俳句作家が自句自解以外できるのは宣言しかないのだ。

 掲出の句は自由律俳句ではない、少なくとも私は自由律俳句として書いたものではない、しかし自由律俳句作家が自由律俳句として見ることは拒否しない。それでは作者はいかなる俳句として書いてみたのか。自由律俳句と私の俳句の結節点は「短律」にある。もともと私は、東日本大震災直後に短律作品を発表し色々物議をかもしたことがある。阪神は衝撃と炎、東日本は津波。俳句形式はその圧倒的な破壊の映像に敗北した、誰の句もあの映像を超えることができない。映像の前に句は嘘だ。だから人は考えるべきだ、表現とは何か、俳句形式とは何かと。ここにあって諸々を捨て去るべきだ、季語も定型(律)も。従って、個人的には短律はほとんど違和感がない。こうしてできたのがこの宣言である。

 もちろん私は定型無季俳句も作れば、花鳥諷詠俳句も、分かち書き俳句、諧謔俳句(川柳に近いと非難する人もいるが別に気にしてはいない)も作っている。俳人はそれくらいの器用さは持ち合わせるべきだと思っているからだ。しかし未来には何が待っているかわからない。混沌とした国際情勢の中で、我々は20年後の末期の句を英語や中国語で書いているかもしれない。そうした私の棚の一つに短律があるのだが、短律が際立っているのは、超・刺激的であるとともに最も未来に近いかもしれないという予感があるからだ。

     *

 私の詩歌の経験は、前田夕暮の創刊した「詩歌」への投稿だった。ここで初めて自由律短歌を知ったのだが、考えてみると、自由律短歌は決して自由な短歌ではなかった。厳密な定型でこそなかったが、大半は31文字±αであった。17文字まで近づくことさえなかった。自由律俳句と区別がつかないからだ。一方自由律俳句は、限りなく短句に近づける。つまり自由律短歌は短くなると俳句になってしまう恐れがあるが、自由律俳句はどんなに短くなっても俳句である。


4.参考:GANYMEDEより(五一句)(2013年8月)【作品51句】

(すべ)る手

地震(なゐ)る日

(たぎ)水門(みと)

藻ねむり

(たま)()

()れ草

()

()

祈り火

()(をち)

(をや)去り

()(ぎん)断ち

風うそ哭け

()と無

()(まく)

()が潮

(にが)の子

()()

わつと言ふくさむら

かげろふ歴史(ふみ)

   *   *

()(のろ)

(たみ)(くた)

賄賂(まひな)ふ国

(まが)つまこと

(から)波騒ぐ

ひたち憂き

逃げれば郭公

画像()を商ふ

   *   *

遠くひぐらし

鵜となつて水と空

黄色く夢

()をあければ波!

はらいそ祈る

弥陀も微笑(みせう)

溶解(とけ)()

無垢の吏

   *   *

(むご)く雪降る

そよ花、そよ死

明日のほかこそ未来

嘔吐して萬歳

森は滴り

溝が螢の(たま)

虹真白

黒乙女

()るる(わた)

馬は波頭(なみ)

鳥の奇怪

屍の美

本当をいふ

人知無涯(はてなし)

人もすなる(あやまち)


【新連載】俳壇観測279 ユネスコ登録の進め方4 有馬氏とマーティン氏の論点[1](誰も言っていないこと)  筑紫磐井

  「豈」68号「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」でトマス・マーティン氏は「俳句の神話」として四つの点を挙げる(そのほかに2項目もあげている)。有馬氏の主張とは齟齬がある。有馬氏は言っていない、登録派の人が一方的に言っている論理等が混じっているからである。それを厳密に区分した上で吟味してみよう。

 そこには初期の有馬宣言がユネスコ登録の絶対条件であるからそれとの齟齬を眺めて見よう。(私の抜粋であるから少し間違いがあるかもしれない)


【俳句の4つの神話】

➀俳句は誰でも簡単に詠める【有馬必須要件第1、第3にある項目】

➁俳句は誰でもすぐに理解できる【有馬になし】

➂俳句は自然との調和を象徴する文学である(自然と共生する文学)【有馬必須要件第2にある項目】

(→マティン氏は温暖化の阻止【有馬願望】に言及がないが、この項目と関連すると思われるのであげておいた方がいいだろう)

④俳句は平和の文学である【有馬願望】


【その他】

❶外国の俳句が認められないということ。【有馬になし】

❷なぜ俳句が単独で進むのか。【有馬になし】

❸俳句を無形文化遺産に登録しようとする動機【有馬氏はないも言っていない。これは内心の動機なので推測にしか過ぎないので最後にまとめて述べよう】

これについて、吟味してみよう。


 順番として、(1)有馬氏が必須要件としてあげていないこと(➁❶❷)、(2)有馬氏の必須要件(➀➂)、そして(3)有馬氏の願望事項(④それにマーチン氏が触れていない温暖化の話を加える)、と見て行くことにしよう。


(1)俳句は誰でもすぐに理解できる【有馬になし】

 マーチン氏は一例として、伝統俳人が尊重する季語は予備知識がなければ理解できないと述べている。また近代の作品についても一定の学習が必要だと述べる(これは新興俳句や人間探求派の俳句を念頭に置いているのかもしれない)。もっとものように見えるが、私は少し違和感を覚えるところがある。それは後の項目で述べることにしよう。ただ「俳句は誰でもすぐに理解できる」ものでないことだけは間違いなくマーチン氏と合意できると思う。

 そして有馬氏の必須要件・願望は、どう読んでも「俳句は誰でもすぐに理解できる」という発言につながらない。有馬氏の正確な発言は「俳句の影響で、世界的に3行詩が増えていますけれども、短いが故に今まで詩を作らなかった人も含めて俳句への関心が世界中に広まっていること。その世界に共感者が増えることによってお互いにそれぞれの民族の意志を疎通し合う事、俳句によって疎通する事が出来るようになるということなどです」である。短詩型は意志疎通に向いていると言っているだけなのだ。

 だから「俳句は誰でもすぐに理解できる」は有馬氏ではなく、その後の追従者が述べた発言なのであろう。こうした言説の普及したのがいつのことであるかはわからない。有馬氏が逝去した後の後任会長による「(有馬先生は)子供から100歳に至るお年寄りまで、幅広い人たちと創作及び鑑賞が共有できることを挙げられておられました」(俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会会長挨拶)といっている、「子供から100歳に至るお年寄りまで、・・・鑑賞が共有できる」の言葉あたりから「誰でもすぐに理解できる」は近そうである。このあたりから、こうした誤解を与え始める発言が始まったようである。

 重ねて言うが、協議会発足に当たり行った4協会の合意の中に「俳句は誰でもすぐに理解できる」等と誰も言っていない。単純にこれは間違いだと言っておけばよいだろう。


(2)外国の俳句が認められないということ。【有馬になし】

 マーチン氏は登録論者、特に協議会の文書で「外国の俳句がしばしば認められない、また受入れららないということだ」と述べる。「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会のウェブサイト上の記載が、最近良い方向に変化したことは評価できるが、依然として「本物の俳句」や「正しい俳句」は、基本的に日本で、そして日本語でしか詠めないという考え方が感じられる。」と述べる。明言していないが、俳句は日本固有の詩であり、海外の俳句はまがいものである、という主張を批判していると思われる。

 実は私が現代俳句協会に入会したのはちょうどこの時期であり、ウエブサイトの変更は現代俳句協会が働きかけて実現したものだと担当から聞いており、いいことであると考えていた。逆に言うと変更前の記事がどのようにひどいものであったかはよく分からないし、既に電子資料は消去されてしまっており確認のしようがない。我々に今できるのは、現状を踏まえてより洗練された表現に修正することを期待するぐらいであろう。よりよい修正の意見を出せばよいのではないか。

 何れにしろUNESCO(国際連合教育科学文化機関)の名を冠した登録制度に国際を排除するなどナンセンス極まりない。

     *

 我々に確認・推測できることは、協議会発足の時に「外国の俳句を認められない、受入れららない」という考え方が存在したかどうかを知ることだ。もし存在しなかったとすれば、上の(1)と同様、つい最近の恣意的な変更であったことになる。

 興味深いのは、平成29年1月26日、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会第二回発起人会で行われた記者会見だ。この場で、俳句は有季定型以外の無季・自由律が含まれることが言明されたのだが、4協会会長により様々な議論が行われた。俳句と世界の関係については異口同音に賛意を表したのだが、その中で、記者から俳句でノーベル賞が取れるのかという質問があった。

 有馬氏の意見は後述するが、日本伝統俳句協会の稲畑会長は「俳句のノーベル賞受賞は難しいと思う、日本の俳句を伝えるのは問題が多く課題がある。日本語とドイツの俳句とどれくらい差があるかを痛感した。まだ時間が必要だ。ただ、海外の三行詩からノーベル賞が出るかもしれない」と述べた。ノーベル文学賞は海外の俳句が取れても日本の俳句は難しいと言っているようである。

 俳人協会の鷹羽会長は、「ノーベル賞を目指すのは難しい、それは自ずからなるもので意図しない方がいい、ユネスコ登録でノーベル賞の名前が出ない方がいいと思う。世界へと世界へと俳句が進むことで日本語の乱れを心配する。俳句は美しい日本語を守る最後の砦と言われた時代があった。この立場に立って俳句も伝統を守りつつ、現代性を探るという努力したい」と述べた。稲畑会長とロジックは似ているが、俳句で最優先すべきものの心配をしている。ユネスコに参加し、ノーベル賞を目指すことが目的になることにより日本語が乱れることの方が気がかりなのである。

 極めて乱暴な言い方になるが(ただ何となく一般人の意識にはそっていると思う)ノーベル文学賞受賞が一流の文学の証拠であるとすれば、国際俳句は文学であるが日本の俳句は文学ではない、文学をめざしてはいけないと言っているようにも聞こえる。

 これに対して、国際俳句交流協会の有馬会長は、「海外の詩人の詩でも俳句に近い、短いものがある。自然を詠んだ詩でノーベル賞を取っている。将来俳句でノーベル賞を取る可能性はある」と述べた。こうした有馬氏の楽観的見通しは、稲畑・鷹羽氏と違った有馬氏なりの根拠があった。

     *

 有馬氏は、ユネスコ俳句以前に国際俳句に関する関心が深かった。師の山口青邨が海外俳句を多く詠んだこともあるが、有馬氏自身が海外俳句に熱心であったからだ。物理学者としての勤務地は、昭和34年~35年、36年、38年にアルゴンヌ研究所、41年にデイトン大学・プリンストン大学・バークレー研究所・アルゴンヌ研究所・メキシコ大学、42年にラトガス大学・プリンストン大学・ブルックヘブン研究所・ニューヨーク州立大学、44年にカナダチョークリバー研究所に在籍した。一時は米国永住の決意をしたという。だから第一句集『母国』の半ばは海外の生活の中での作品であった。

 やがて50代後半から国際俳句の振興に奔走し、1989年設立した国際俳句交流協会副会長就任、1996年会長に就任(文部大臣、参議院議員就任中は辞退)、2019年亡くなるまで在任。その後1999年愛媛県で「国際俳句コンベンション」を開催し文部大臣として講演、(有馬、金子兜太、宗左近、芳賀徹らと)国際俳句に関する「松山宣言」を取りまとめる(➀国際俳句研究所の創設、➁ 国際俳句賞の創設の提言)。これを受けて2000年~2008年に正岡子規国際俳句賞(選考委員長有馬朗人)の授与を進める。国際俳句賞は、大賞(イブ・ボンヌフォア(仏)、ゲーリー・シュナイダー(米)、金子兜太(日))、俳句賞(8人)、EIJS特別賞で受賞者の大半が外国人であり、国際俳句に大きな貢献を果たした。その後最晩年には、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の設立に尽力した。

 これを見てもわかるように、有馬氏の俳句活動は、海外俳句、国際俳句の振興であり、ユネスコは最晩年のごくわずかな時期の活動であった。国際俳句の理念の実現のためにユネスコを振興したのであって、国際俳句をないがしろにするようなユネスコ登録を進めることはあり得なかった。

 これは個人的な感想であるが、有馬氏の真意は国際俳句研究所の創設にあったと思われる。自治体の資金問題から設立できなかったが、日本の伝統的な俳句、国際俳句とは何であったのかの究明を進めることが望まれたのだ。俳句とはこうしたものだという定義は永遠にできないと考えていたのではないか。国際俳句賞の授与にそれが表れている。大賞、俳句賞の授与は圧倒的に海外作家が多かった(日本人は金子兜太と河原枇杷男の前衛作家だけであり、伝統俳句作家は一人もいなかった)が、評論・研究を対象とするEIJS特別賞・スウェーデン賞はほとんどが日本人であった(佐藤和夫、和田茂樹、筑紫磐井、内田園生、李御寧)。日本からの俳句の詩学が期待されていたというべきだろう。

     *

 「外国の俳句が認められないということ。」が当初なかったことは明らかだが、問題はユネスコ登録の日々の活動の中でそうした意識が生まれては消え、生まれては消えしていることだ。俳句は日本固有の詩であり、海外の俳句はまがいものである、という主張を常に打ち破ることが大事だ。

 私自身は、俳句は日本語の作り出した詩であり、国際ハイクはそれぞれ独自の言語が作り出した詩だと考える。決して一方が片方を真似したものでなく、言語原理がそもそも違うのだ。だからその向こうにはいまだ形ならざる抽象的な俳句(俳句でも国際ハイクでもないもの)が想定される。これを見出すことが俳人の使命であり、有馬氏もそれに期待していたと思う。こうしたシナリオに沿い取り敢えず日本語で作られた詩の探求を行ったのが私の『定型詩学の原理』(2000年)であり、そしてこれにEIJS特別賞が与えられた。私の目論見は間違っていなかったと思っている。一昨年国際俳句協会の大会の講演で招待され、これを踏まえて『新しい俳壇をめざして』と題して講演を行ったのがその後のささやかな私の貢献であった。この時、国際俳句協会の会員から、入会していたものの従来から俳句と国際ハイクの違いが分からなかった、と告白を受けた。我々は真摯にこれらに対する回答を用意しなければならない。


(3)なぜ俳句が単独で進むのか。【有馬になし。】

[1]なぜ俳句と短歌を切り離すのか(事実関係)。

 まだ俳句を単独でユネスコ登録すると誰も決めていないし、文部科学省が登録に先立って行っている本年度の「生活文化調査研究」では、短歌、俳句、川柳、雜俳【注】を対象としているので、本当に短歌が切り離されるかどうか現在のところ誰もよく分からない。「生活文化調査研究」を踏まえて文部科学省が決定するものである。たぶんこんな状況だし、良心的な俳人が的確なパブコメを出していけばユネスコ登録はなかなか進まないに違いない。

(今後の予定では、既に決まっている書道(令和8年)の次は、神楽(令和10年)、温泉(令和12年)と続くようである。さらにその後、文部科学省の「生活文化調査研究」が既に行われているジャンルが、➀華道、➁茶道、➂煎茶道、④香道、⑤和装、⑥礼法、⑦盆栽、⑧錦鯉であり、その後⑨短歌、俳句、川柳、雜俳が入ることになる。ユネスコは2年に1回しか提案できないルールとなっているから、単純な算術計算で8ジャンル×2年=16年となり、令和30年(あと24年後)ごろ俳句・短歌などがユネスコ登録の俎上に上がることとなる可能性がある。そしてそれまでの間に何があるかーーー例えば3協会統合――全く分からないのである)。


[2]なぜ俳句はユネスコ登録に熱心なのか。(「俳句ユネスコ登録」とする理由)

 前々号に述べた態度に応じて回答は違ってくる。


➀ユネスコ登録賛成論(ユネスコ登録を進めたい)

➁ユネスコ登録反対論(ユネスコ登録を進めたくない)

➂ユネスコ登録戦略論(ユネスコ登録は便法・戦略であり、無季自由律こそ大事だ)


 ➀➁はさらにさまざまな思惑もあり(例えば➀について言えば、現代俳句協会と俳人協会ではだいぶ違いそうに思う)、それぞれの人で考えてほしい。私は➂の態度であるからこれを回答しよう。

 ➂の態度はかなり単純である。俳句のユネスコの登録運動を進める限り、限りなく俳句の定義の議論が先鋭化され、有季定型・無季・自由律の境目が崩壊するからである。これこそが「ユネスコ登録戦略論」の目的だからである。

 言っておけば短歌ではこうしたことはない。確かに複数の協会・クラブが短歌でもあるが、(伝統と前衛はあっても)前衛を許容しない協会はないと思うし、短歌全集から前衛歌集を除外せよという主張もない。教科書に前衛短歌を掲載させないという運動はないし、前衛短歌を「短歌に似たもの」と呼べという主張も見たことがない。短歌と俳句の政治状況は全く異なるのであった。

 ちなみに[1]で述べた登録までの時間については、時間がかかればかかるほど、有季定型・無季・自由律の境目の崩壊が進むから、きわめて都合がよいのである。


【注】登録のジャンルについてマーチン氏は、「絶滅の危機に瀕しており、あまり知られていない都々逸という形式もある。」としているが、私は都々逸は既に絶滅していると考える(今様や隆達小歌と同様だ)。生きている詩歌としては、新しい作品が公募され、選評され、雑誌や句集に掲載・刊行され、古典として残って行くプロセスが必要だと思っているからである。その意味では、「琉歌」こそ漏れている最大のジャンルだと思う。8・8・8・6のこの詩型は、沖縄において現在も新聞・雑誌やテレビ・ラジオで募集され、毎月膨大な作品がつくられ発表されている。

 1975年、現上皇(当時昭仁皇太子)が皇室として初めて沖縄を訪問した時に鎮魂歌として詠まれた琉歌がある。


[琉歌]

花ゆうしゃぎゅん 人ぅ知らぬたまし(8・8) 

いくさねらぬ世ゆ ちむににがてぃ(8・6)

(花をささげる 誰かわからない魂 

戦のない世を 心に願っている)。


 おそらく皇室における沖縄への贖罪の意識もあるのだろう。琉歌にはそうしたものを受け止める歴史がある(結局、昭和天皇は戦後沖縄訪問を果たせないまま崩御した)。だから現在も生きているのだ。沖縄を犠牲にして戦後の復興を遂げた日本政府、文部科学省としては、俳句や短歌に先んじてユネスコ登録してほしいものである。ちなみに文部科学省の行っている「生活文化調査研究」に琉歌は入っていない。

【新連載】新現代評論研究(第20回)各論:後藤よしみ、村山恭子

 ★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第七章 戦後の出立 ―「敗北の詩」からの跳躍―

 敗戦後の日本社会は、価値観の逆転と思想の混乱に包まれていた。戦前の皇国史観やファシズムは否定され、占領下の新たな秩序が急速に浸透していく。高柳重信もまた、この激動の中で精神的な崩壊を経験する。戦中派としての自己確立は、敗戦によって深い傷痕となり、虚脱と虚無の状態に陥った。彼はこの時期を「魂も身体も根こそぎ病んでいた」と回想している¹。

 しかし、この挫折は重信にとって再出発の契機でもあった。1946年には俳誌「群」を復刊し、創作活動を再開。病床での闘病生活は、自己省察を促し、内面の追及を深める時間となった。翌1947年、重信は「敗北の詩」を発表する。これは、戦前の思想との訣別を示すと同時に、俳句形式への新たな思想的接近を意味するものであった²。

 「敗北の詩」は、重信にとって思想の再構築の宣言であり、俳句という形式に対する批評的眼差しを明確にした論である。彼は「俳句文学そのもの、いわば反社会性、ならびに敢えてそのジャンルを選択した俳句作家の反社会性を、如何に明確に、正直に自覚するかにかかっている」と述べている³。これは、俳句を単なる形式ではなく、思想の器として捉える姿勢の表れである。

 重信は、評論活動を通じて自己の思想を鍛え、論争を通じて新たな表現を模索していく。石原八束は、重信を「人斬り以蔵」と呼び、同人誌「薔薇」を擁して論戦を挑んだ姿勢を評している⁴。塚本邦雄も「刺し違えて死ぬべき敵を求め」と述べ、重信の批評精神を高く評価している。これらの論争は、重信にとって思想的鍛錬の場であり、創作の原動力となった。

 「敗北の詩」によって、重信は俳句形式を「危険な形式」として認識し、敢えてその不毛な形式に向き合うことで、思想的な跳躍を果たす。坪内稔典は「瀕死の俳句形式と瀕死の高柳が出会って生まれた」と評し、重信の孤独な内面から生まれた勝利の詩と位置づけている⁵。

 この選択は、皇国史観とは異なる権力に最も遠い詩型としての俳句を選んだことを意味する。重信のエリート意識は、あえて不毛な形式に挑むことで、思想的な純粋性を保とうとしたのである。とはいえ、戦前期に培われた皇国精神は、完全に精算されたわけではなく、日本的なるものとして彼の深層に残り続けた。

 「敗北の詩」の誕生は、第一次世界大戦後のシュルレアリスムの出現と同様、灰燼の中から生まれた創造性の表れである。思想の崩壊を経て、そこから脱出した表現の獲得は、重信にとって生きる姿勢の再構築であり、俳句詩論の根幹を形成するものとなった。


脚注

¹ 高柳重信「略年譜」『高柳重信全句集』沖積社、2002年。

² 高柳重信「敗北の詩」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

³ 同上。

⁴ 石原八束・高柳重信「現代俳句協会の来し方行くえ」『現代俳句1970』、『座談会集第四冊』夢幻航海社、2004年。

⁵ 坪内稔典、同上の論評より。


★―7:藤木清子を読む10 / 村山 恭子

10 昭和11年 ⑤


 手記

不楽(さぶ)し妻春荒びたる部屋がある    京大俳句5月    

さびしい妻。春になりましたが、荒れている部屋があると言っています。荒れている部屋とは、自分自身の心の内でもあります。上五で心情「不楽し」と中七下五具体的な物「荒びたる部屋」で、さびしさを畳み掛けています。

季語=春(春)


ひしがれし涙が針にきらめくよ    同

深い悲しみで流した涙が、針にきらめいています。針から夜なべ仕事を想起します。暗い夜の部屋で針仕事に勤しみながら、悲しみの涙をぽとりと針に落としています。その針の金属のきらめきに、涙のきらめきが重ね合わされています。

季語=無季


わが墓標無明の行路(みち)のいや果に    同・旗艦18号・6月

 私の墓標は、灯りのない行路の一番最後にあります。まだ生きていますが、「墓標」で寂しく悲しい心情を打ち出しています。現実の生活を憂い、死を見据えながら、「無明」「行路」「いや果て」と詩的な言葉を用いて詠いあげます。

季語=無季


飢えつゝも知識の都市を弟離(か)れず    京大俳句5

 弟を思う句。都市生活で飢えている弟も、以前は作者と一緒に田舎で暮らしていた。知識は無いけれど、温かな人情がある暮らし。都市を離れられない弟を嘆きながら、田舎へ帰って来ないのか、いや田舎で暮らしても幸せではないかもと反芻しているようです。

季語=無季


 しひたげられたる妻の手記         

さびし春機械の如く生くる妻    旗艦18号・6月

 機械のように生きている妻。感情を抑え、人間としての喜びも感じられない生活をしています。上五「さびし春」で詠嘆し、中七下五のやや常套的な表現を補填しています。

季語=春(春)


春日落つ白妙の雲しき展ぶる      同

春日の落つる悩みのまたゝきを     京大俳句6月

春日の落つまなかひの街幸福に     同


一句目は、枕詞「白妙」により雲の美しく広がる様を詠んでいます。

二句目は、「春日の落つる」の七音と、「悩みのまたたき」と残り九音を組み立ています。春日が落ち暗くなった夜空に、悩みが瞬いている詩情。字足らずが、落ち着かない心情を表しています。

三句目は、春日が落ちた目の前の街は幸福だと言っています。逆説的に今の暮らしが不幸せとも感じます。

季語=春日(春)


春日没るひかりにくろく人うごめく    同

春日没り黒塊人にかへりけり       同


 いずれも黒を取り入れています。

一句目は、春日がしずんだ光の中で、黒く影のような人がうごめいています。下六の字余りが不穏さを増しています。

二句目は、春日がしずんだ後の黒塊が人にかえったと言い、静けさ、恐ろしさを語っています。

季語=春日(春)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり45 句集『途中下車』(西村小市・2022年刊・つむじ書房)を再読する。  豊里友行

  西村小市俳句の良さは、気の置けない普段着の俳句である。


 平凡でいいではないか柏餅

 自分をなだめるようにも読める俳句で好感を持てる。

 平凡でいることと柏餅。

 それは、御茶をすすりながら承認欲求を満たしきれないモヤモヤもありつつも平凡だからこそ柏餅の持ち味を活かせるのかもしれないと私もよく味わいたい俳句だ。


 春愁や山口百恵のプロマイド

 この蜂は高倉健の面構え

 俳句で俗っぽさを出せるのは、西村小市俳句の普段着で春の愁いを青春切符だったであろう山口百恵のプロマイドに溜息をついたりできること。

 蜂(はち)の貌(かお)から高倉健の面構えを見い出す。

 この素直に生活空間の現象を俳句に取り込めるのは、平凡でいいではないかと嘆きつつも非凡である。

 自分の持ち味をじっくりと活かす丁寧な生き方が、句集『乱雑な部屋』(西村小市)にあったし、今回の句集『途中下車』(西村小市)にもある。


 秋高し下駄を履いてるケニヤ人

 下駄の分だけ秋は高く感じれるのは、日本文化の良いところかな。

 と思いきや下駄の主は、ケニヤ人だった。

 この意外な取り合わせ。

 素直に普段着の日常を俳句の器に掬い取ることこそ西村小市俳句の真骨頂ではないだろうか。


 三塁のベースの上にいる飛蝗

 俳句という五七五の器に盛るのは、一億総俳句時代のこんな時代だからこそ花鳥諷詠や季語に囚われ過ぎないでいると同じ季語や題材をどう切り口の違いを見出だせるか。

 いっそのこと西村小市俳句のように潔く同じ俳句や題材を違う切り口で詠んでみるのは、いかがだろうか。

 野球俳句と云えば、野球場の球児や大谷選手を詠みたいものだが、誰もいない球場をうろつく。

 1塁を回った。

 2塁を回った。

 3塁を回ろうとしてハッとすると西村小市俳句の飛蝗(バッタ)がいた。

  たぶん私の知る限り野球俳句でこのように野球を詠わずに、だが野球場の日常を俳句化している俳人は、西村小市しか私は、知らない。

 そのままっそのままっそのままの普段着で新たな俳句世界を切り拓く西村小市俳句の世界は、あかるい。

 何故なら俳句らしい俳句でなく西村小市にとって西村小市らしい俳句を綴るということは、俳人・西村小市俳句の道のり、生き様、そのものではないか。

1生涯に1句集を俳句世界のために捧げるよりも生きる糧として普段着の俳句交流にこのような冊子句集が、俳句の開花を彩ってくれる時代が近い未来に到来してくれるのかもしれない。


 共鳴句もいただきます。俳句の未来を照らし出す句集を私も待ちわびています。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


翳りたるところに集う目高かな

春の風できちゃったのか三人目

花曇りあと十年は生きたいな

蓑虫の揺れて地球は廻ってる

今日もまた同じ作業か心太

十九歳桃にかすかな指の跡

小鳥来る横浜地方気象台

独立をめざし戦う霜柱


【参考リンク】

【読み切り】俳句日記の普段着で生きている ~句集『乱雑な部屋』(西村小市)~豊里友行

https://sengohaiku.blogspot.com/2020/08/blog-post.html


【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)2 横山航路

今村俊三『鳩の頸』の再評価——あるいは俳句的遺産の発掘について 横山航路(北大俳句)   

はじめに

 病むは罪か初蝶に手をさしのべぬ

 掲句は今村俊三の第一句集『鳩の頸』の巻頭二句目に掲載されている。病涯にあった作者の主情的な叫びが初蝶へ伸ばした手に仮託されている悲痛な句と解せる。

 いま俳句に取り組んでいる作家の中でも、今村俊三の名を聞いたことがある人はほとんどいないだろう。国立国会図書館の資料に限ると、その名は平成十二年四月の『角川』に見られるのが最後であり、もはや忘れられた俳人とも言える。しかしながら、十句集をすべて通読する中で、魅力的な俊三句に出会う機会も多く、忘れ去られた俳人のままにしておくのは俳句の共同体にとって損失があるのではないかと考えた。

 そのため本稿では、第一句集となる『鳩の頸』を取り上げながら、その境涯的作品群の表現上の巧みさと、俳句という詩型への信頼という二つの側面を中心に論を進めていく。

 

一、今村俊三の経歴

 俊三は昭和三年に大分市に生まれる。昭和十八年に右上葉浸潤、昭和二十一年には左肺上部空洞、左腎臓結核を併発し、その青春時代は闘病のさなかにあった。それは「青春は病臥に潰ゆ柿甘し」からも見て取れる。

 昭和二十五年に「学苑」(のちに「霜林」)へ参加し、俳句の出発点とするとともに、昭和二十八年の「鶴」復刊と同時に参加した。「霜林」の桂樟蹊子、「鶴」の石田波郷に師事しながら、昭和三十四年には「霜林」同人、翌年には「鶴」同人となっている。

 『鳩の頸』が刊行されたのは昭和三十六年八月であるため、昭和二十五年からの約十年間、その初期衝動が散りばめられた句集でもある。吉野裕之は自身のブログでこう評している。 

 「二十代でこの世を去るべき病床の肉体が、現代医学のおかげで、還暦まで生きのびて、…」と句文集『桃滴記』(昭和62年、桃滴舎)の後記で自ら記すように、この第一句集に収めた作品の制作時期の俊三の病状はそれほど重く、しかし、「若い魂を病ましめることなく、(略)短小十七字詩たる俳句に、傷痍の青春を賭け、日々の生命を刻みつけて」(石田波郷『鳩の頸』序)いた。天性の明るさが、それを支えていたのだと思う。(1、原文ママ)

 俊三自身も『鳩の頸』のあとがきに「私の十数年に及ぶ闘病生活も、明日が知れないとあっては、眼の開いているうちに句集を作ってあげようという皆さんのご援助を、時期尚早と断る理由もなく……(後略)」と記している。結果的に平成二年まで生きたとはいえ、その当時においてはこの句集が唯一の碑となってもおかしくないという切実さが、強く句集を印象付けている。

 

二、『鳩の頸』の特徴

 本句集を方向づけるキーワードとして、「病涯」と「青春」を欠かすことはできない。句集全体が十一章に章立てされている中で、その始まりは昭和二十六年頃の入院・手術の日々を題材にした「無影燈」という章である。

 

 短夜を母に水乞ふとめどなし

 昼夜なく汗の拳を投げて耐ふ

 稲妻の硬き翼を握れる死

 鵙われを謗りつゞけて雨となりぬ

 

 こうした「短夜」「昼夜なく」の句における身体性と切迫感の表出、「稲妻」「鵙」の句における景の大きさと把握の巧みさ。痛ましい病涯詠を読者が受け止めやすい形に保っているのは、小さな技術の重なりの賜物であろう。

 しかし、病状の悪化により再入院を余儀なくされていた昭和三十三年の「波濤」の時代にはすこし変化が見られる。

 

 シクラメン医語の端々盗み臥す

 日傘まだ冷めざる母を帰しけり

 神想ふべし円錐の蚊帳の底

 湾あくびして白鷲を漂はす

 

 句群を通して無影燈時代のような切迫さではなく、日常の小さな出来事に対する客観的な眼差しに主眼を置いた句が増える。だが、「日傘まだ」の「まだ」の挿れ方、「神想ふ」「湾あくび」の把握には無影燈時代からの進展が窺える。

 また、青春という観点では、石田波郷がこう評している。

 

 苺つぶす若さ次第にあはれなり

 青春は病臥に潰ゆ柿甘し

 胡桃割るどこも傷つく木のベッド

 この期間に作者を苦しめたのは病苦の他には、自身の青春の意識だったにちがひない。「苺」「青春」の句は文字通りに自らの虐げられ失はれゆく青春を嘆いた句だが「胡桃割る」の句は、直接青春の文字はないが、作者自身が「どこも傷つく木のベッド」として把握されてゐることを見逃してはならないのである。闘病生活といふ現実を詠出しようといふ念願と、作者の内部にある浪漫性が希求するものとが、混然と同居し、……(後略) (2)

 波郷が引いた三句はいずれも俊三の苦しみの発露として受け取れる。「青春は病臥に潰ゆ」は嘘偽りのない俊三自身の魂の叫びだが、それを「柿甘し」の一筋の明るさが支えている。

 他にも、句集の後半にある「茶色の瞳」という章では、恋愛体験を主題とした連作形式を採っている。

 

 ロケ来ると五月のベッド揺り誘ふ

 海吠えて晩夏傷つきやすき愛

 雪晴に愛がすべての茶色の()

 

 この中でも「海吠えて」の句は主情的な叫びの強い句だが、海に「吠える」の動詞を斡旋する把握、「傷つきやすき愛」のフレーズの象徴性、季語としての晩夏を一句のこの位置に挿し込むことの韻律構成が連作内でも群を抜いている。

 

三、俊三の「信頼と覚悟」

 吉野裕之は俊三の第七句集となる『翼』を念頭に置きながら、「この作品に限らず、俊三の作品を支えているのは、俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟ではないか、ということにあらためて気づきました。」と述べている(3)。この、「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」というのは何であろうか。

 詩型への信頼は、句材の豊かさと規定の強引さの両面から説明できるだろう。

 林樟蹊子は『鳩の頸』の跋文でこう評している。

   

……(前略)俊三さんが、自分の狭い拾材範囲の中を、いかに刻銘に見すえているかということを知ることが出来るが、さらに、

  胡桃割るどこも傷つく木のベッド

  倖か眼鏡に凍てし星の数

  仮に置く七夕竹が書架隠す

  画鋲ひとつ落ちし壁の絵四月馬鹿

  東風や喪の消毒液を波立たす

 俳句になる題材はいくらでも我々の周囲にあるのであり、もつとそこに詩情を掘下げなければならないことを、これらの句から教えられる。 (4)

 

 また、吉野裕之は第五句集となる『立歩』を踏まえた上で、

「立春の二日後屑屋来てゐたり」「墓地ありて奥に暮春の寺ふたつ」「裏に車庫ありて年逝く耳鼻医院」「白魚を食べたる宵の火事近し」。普通はこのような拾い方をしないのではないだろうか。「立春の二日後」「墓地ありて奥に」「裏に車庫ありて」「白魚を食べたる宵」。こうした規定のしかたに、ある強引さとしたたかさがある。俊三の俳句に対する姿勢のひとつの断面である。 (5)

と指摘している。

 両者が評するように、俳句という詩型の豊かさを信頼し、その懐の深さというものに身を委ねていればこそ、「白魚を食べたる宵」という一見あやうい規定の仕方・一句の立ち上げ方が可能になるのだという観点が、俊三俳句を見つめる上では重要になるのではないか。

 それと同時に、俳句という詩型に対して俊三は韻律という形で応えていると言える。たとえば「万愚節飲食をけふ地下街に」(『翼』所収)「化石この億年の黙蕗の薹」(『摘花集』所収)などの句では、「けふ」や「この」が意味からの要請ではなく韻律面からの要請として挿し込まれている。前出の「海吠えて晩夏傷つきやすき愛」の「晩夏」も季語としてのイメージ喚起だけではなく、韻律を形作る意味合いが強く出ている。俊三は師・波郷から韻律への強い意識を継承した上で、独自に昇華させたとも言えるだろう。

> また、石塚友二は『鳩の頸』について、「〝地蟲出づ病者はおのが影に佇ち〟から始まって、巻尾の一句に至るまでの悉くが病床句、若くは闘病句でありながら、その病状の最悪を思はせる折節の句に於ても、不思議に底明るい一筋の光の如きものを感じさせたのは、疑ひもなくその巌にも似た性根の据えから来たものであったのだと思はれる」と評している。(6)

 俊三の生まれ持った向日性は「ベッド逆さに寝て母待てば涼しかり」「聖夜とて猫に臥食の汁頒つ」などからも垣間見ることができる。俊三は、俳句という詩型の懐の深さを信頼し、韻律を以て応え、天性の明るさを以て病涯を詠み抜いた、と評することもできよう。

 

四、まとめ

 これまで『鳩の頸』における「病涯」「青春」と俊三俳句に通底する「詩型への信頼」「俳句に対する覚悟」というトピックに注目しながら論を進めてきた。その上で、青春期を病とともに過ごした俊三にとって、韻律や構成の巧みさと生まれ持った明るさとの両輪が、その境涯を謳い上げるための支えとして機能しており、その発露として『鳩の頸』の句群と向き合う必要があるのではないか、との結論に至った。

 俊三は『鳩の頸』以降「どの屋根も鳩待つごとし花芙蓉」(『家』)、「息かよひ飽かぬわが身ぞ終戦日」(『翼』)などを経て、「白木槿いのちは息にほかならず」(『摘花集』)の境地に至っている。これらの句に触れるたびに生への明るい肯定を思う。そして、それを可能にしているのは「俳句という詩型への信頼と俳句に対する覚悟」であるだろうし、その信頼と覚悟について考えることはすなわち俳句という詩型そのものを問い直すことにも繋がるだろう。そうした意味で、俊三を今読むことに少なからぬ意義があるだろう、と私は考えている。

 本稿では俊三を取り上げたが、魅力的な句を残しながら俳句史上に埋もれてしまった俳人は決して俊三だけではないだろう。そうした“忘れられた俳人”の遺構を掘り起こし、正当な日の下にさらすこともまた、今の俳人に求められる仕事のひとつなのではないだろうか。

 

参考文献 カッコ内は引用部

今村俊三『鳩の頸』S36,竹頭社 (2)(4)

今村俊三『家』S47,福岡鶴俳句会 (6)

今村俊三『翼』S53,桃滴舎

今村俊三『摘花集』S63,桃滴舎

吉野裕之『今村俊三作品選』 (1)(5)

吉野裕之『Madein Y』  (3)

 

【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

横山航路 「➀俳句とは何なのか:俳句甲子園をきっかけとして作句開始。日常を能動的に生きる一環として創作活動、特に短詩に傾注。➁俳句で何をしたいか:200年生きる。関心は今村俊三、林田紀音夫。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句的遺産の発展。」

 

【筑紫磐井感想】

 メジャーでない俳人は引き出したのはよいことである。今村を選んだ理由が聞きたいと思ったが、この論ではそうした個人的事情は伺えなかった。ただ、横山の論が『鳩の頸』を中心に考察した為に、今村の生涯に及んでいないこと、またそのために今村の全生涯の俳句に対する評価が抜けていることーーそれは結局『鳩の頸』の評価にも微妙な影響を与えることとなると思われるのである。

 例えば今村の略歴を見ると、昭和3年生れ。28年鶴参加。35年鶴同人。44年波郷死亡。54年「桃滴舎」創刊、協会・鶴同人辞退。H2没(62歳)となる。句集は『鳩の頸』36年、『家』47年、『蟹曼荼羅』47年、『冬の樫』48年、『立歩』50年、『至順』50年、『翼』53年、『樫のほとりに』54年、『摘花集』63年、『深養集』令和3年、エッセイ集は『桃滴コラム』58年、『桃滴記』63年、『桃滴日録』令和4年。

> これを見ると、今村の全活動は俳句と身辺エッセイとなる。特に後半生は俳句より文章に傾いている。今村の全存在を見ると、後半生は散文へのシフトが大きく、論者の考察も晩年の句集及びエッセイ集まで広げると厚みのある研究となったと思うのである。

 これを考えると、協会・鶴同人を辞退し、「桃滴舎」を創刊することに重い意味を感じる。波郷一辺倒であった今村が協会のみならず鶴同人を辞退したことは誠に衝撃的である。なぜ波郷との縁を切ったのか。最晩年の「桃滴舎」9月号の巻頭鑑賞で、俳句は境涯を詠うことだ、波郷はそれが俳句の基本だと教えてくれたと述べているのは今村らしいと思う一方、これほど波郷に忠実だった今村にしてなぜ「鶴」から離れたのかが不思議に思われるのである。

 さてこの新しく得た場である「桃滴舎」は今村と同人の文章を多く発表する場でもあった。そして前半生が句集を中心とする時代とすれば、「桃滴舎」以降は俳句とエッセイを同時発表する時代に移り変わる。文章とは俳句の補完であった。俳句とは物言えぬ文学であることを実感し始めたのではないか。「桃滴舎」の新しく得たこの場で今村は境涯を詠う(語る)ことを始めている。

 私の個人的経験から言うと、「鶴」の出身が多かった「沖」では、今村俊三ファンも多かった。その中で、「鶴」の元同人であった久保田博は今村の親しい友人であり結社外の注目作家として今村を取り上げている。実は「桃滴舎」以降の時代に今村を論じた作家論は珍しい。それくらい中央俳壇から忘れられていた今村であった。その中で特に注目するのは、久保田が、第1句集『鳩の頸』の「俳句の凝縮」から第2句集『家』で「散文精神」に移動していると指摘している点である。私が、今村の後半生では、俳句だけではなく文章の比重が高まり、今村の全存在は俳句+身辺エッセイとなったのではないかと言った点と重なり合うように思う。俳句とは物言えぬ文学であるとの自覚が出たのではないかと思う。(「鶴」には、波郷、麦丘人ほか散文の名手も多かった)

 最後に付言であるが、今村俳句はこうした特質を分析すると、現在話題となっているAI俳句に最も対峙する作家となっており、現代性のある研究となったと思う。

【連載】現代評論研究:第24回各論―テーマ:「魚」を読む・その他― 藤田踏青、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年05月04日/11日/18日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】、

 魚を競る銀河魚臭を発す   注①

 テーマに添った句を探してみたが、数は少なかった。

 さて掲句であるが昭和53年の作であり、夜明け前の下関あたりの漁港の風景とみるのが妥当であろう。そして宇宙の生と死を象徴する銀河が発する魚臭もその超越的存在としての神意でもあり、スケールの大きな句柄となっている。渡辺白泉に「ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ」という句があるが、イロニーの有無と生死への言及の有無との差異が、大空、銀河への対峙の仕方の差異となっている。

 また「魚」そのものを詠んだ詩も下記の1篇があるのみであった。


 <魚と思想>   昭和27年作   注②

 罐詰の魚には頭がない

 脚ばかりを揃えて並んでいる

 身うごきも出来やしない

 窓のない部屋は真黒だし

 思想は海に忘れて来た

 だから罐詰の魚には頭が無い


 この詩が発表された昭和27年までには、昭和23年に帝銀事件、昭和24年に下山事件・三鷹事件・松川事件が起り、昭和25年には朝鮮戦争が始まり、昭和27年には皇居前広場にてメーデー流血事件が起る等、当時の世相には不穏な気配が漂っていた。その閉塞状況が「罐詰」の状態であり、それ等を前に国民はただ黙って見つめているしかなかったのであろう。この詩の「魚」を「人間」に置き換えればそのような状況が把握されるのではないか。思想とは体系的にまとめられたものであるが故に、揃えて並んでいる脚が示すものは思想の喪失という不気味な重層感を伴なってくる。またこの詩から小林多喜二の「蟹工船」も想起されるのではないであろうか。過酷な蟹工船の中の未組織労働者の姿もそこに垣間見られる。

 他の「魚」に関連した句(既掲出句を含む)を掲げておこう。

 漁夫の手に濃い夜があるランプ     昭和30年  注①

 漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら  昭和53年   々

  戦後、不当に設定された李承晩ライン(注③)によって、日本海西部から日本漁船が締め出され、強引に拿捕されたりしていた。その様な状況を把握して前句を読めば、自ずからその「濃い夜」の奥深い何とも言えない哀しさと、チラチラと点る「ランプ」の儚さが伝わってくる。また後句は先にも取り上げたもの(第4回テーマ「死」)だが、何故か当時の漁村の風景やそこに生きる人達にはある種の冥さが感じられ、一抹の不安というか、哀しさが漂っていたように思われる。そして又漁村にはいつもと変わらぬ生活が巡ってくるだけの日々が・・・。それを圭之介は次の様な詩で捉えている。


 <漁村にて>   昭和28年作   注②

 朝になると黄色い太陽のまわりに

 魚のうろこがあった

 夜が来ると

 乾しひろげた網の目の中に 星がたくさんあった

 立ち並んだ家々の封建性が岬を突き出して波浪をさけている


今は昔ではあるが。


注① 「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注② 「近木圭之介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ 李承晩ライン:昭和27年に韓国の李承晩によって一方的に、済州島付近から対馬海峡にわたる漁場での日本漁船の操業が禁止された。しかし昭和40年に日韓漁業協定の成立とともに撤廃された。


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦後編) 

 春雷や焼け残りたる土蔵に住み   『榧の実』

 土蔵には「くら」のルビが付く。赤坂福吉町には、年譜上では昭和14年(1939)から昭和34年(1959)の20年間居住していることとなっているが、戦争中は疎開し、戦後は焼失した家屋を再建するまでの間、弟家族の暮らす鵠沼に身を寄せもし、気に入りの場所さえ安住を思うにまかせることはできなかった。体調を崩したきくのは半年余り築地の病院に入院するが、看護婦と一緒に銭湯へ行ったり、買い物や歌舞伎にも出かけられる心安い場所だった。再建中の家も、病院からたびたび赤坂へと見に通っていたようだ。

 入院中のエッセイによると「焼跡へ小っぽけな家を建てた」とあるのは、きくの流の謙遜がいわせた言葉だが、のちに借家として貸し出したこの家を作家の瀬戸内寂聴が借りる前提で見に行った折りの記述が残されている。

 「大きな石垣の積まれた見るからに豪壮な邸宅の構えで、私は高い石垣の前に立っただけで、怖れをなし、とても私の住める家ではないと思った。(中略)平屋の邸宅は見るからに上品な数寄屋造りだったが、雨戸が建て廻してあるせいか、陰気な感じがした」(『孤高の人』瀬戸内寂聴)

 広大な敷地のなかに自宅と離れを建て、離れには満州から引き揚げてきた末弟一家を住まわせた。彼らが引越したのち、離れを母屋に移築したかたちで、ロシア文学者の湯浅芳子との同居がある。先に引いた『孤高の人』は、寂聴が書いた湯浅の評伝である。本書に登場するきくのは、湯浅から聞いた話しとして「女優だったが芸が下手」「男爵の囲われ者」「句集も二冊出たし、俳人協会賞ももらったのよ、でも、まあ、そこまでだった」と散々な書かれようだ。寂聴自身が実際に軽井沢できくのに会った印象も「曖昧な表情、身体のこなしに倦怠感が滲み、メランコリックな雰囲気」と決して好意的ではない。

 水泳が得意で、颯爽としたスキー姿が写真に残されているきくのが、いつのまにか「曖昧でメランコリック」な女性へと入れ替わってしまった。誰の口にものぼっていたのだろう「囲われ者」という言葉が、きくのを徐々に人嫌いにさせていったのだろうか。

 昭和32年(1957)には「さるひとの」の前書がある

 でで虫やどこまでひとのへそまがり

 昭和33年(1958)には「にくきひとの」の前書がある

 言ひ捨ててぷいと出てゆくみぞれかな

 そして、昭和34年(1959)には

 ショールしかとこの思慕そだててはならず

 愛に翻弄され、恋にときめく奔放なつぶやきにだけは、いつまでも溌剌と刺激的なきくのの横顔を見せ続ける。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄の晩年の三句集(『狩眼』『雁道』『無畔』)から魚の句を見つけるのはたやすい。そしてあることに気が付く。「なぜ、こんなにも鯉の句が多いのか」と。『狩眼』17句、『雁道』24句、『無畔』5句。数字を並べてみてもあまり意味はない。

 曠野より遠へ行きたき春の鯉   昭和47年作 『狩眼』

 〈春の鯉〉に自己を仮託しているのはあきらか。病床にある玄は、春の野原に遊ぶことを夢想した。池の中を泳ぐ鯉もまた、自分と同じく池の外に出ることを希求しているにちがいないと把握した。そして〈曠野より遠へ〉という空間的な範囲を示したうえで〈行きたき〉という心情をダイレクトにぶつけることで、〈春の鯉〉の閉塞感と作者の鬱勃とした心情が重なりあって、リアリティが増してゆく。こうした対象への観念的同化は齋藤玄の俳句のひとつの特徴でもある。

 寒鯉に見ゆれ光の棒に見ゆれ   昭和50年作 『狩眼』

 動かぬが修羅となるなり寒の鯉   昭和50年作 『狩眼』

 寒鯉の腹中にてもさざなみす   昭和50年作 『狩眼』

 対象を観念的に把握しているとはいえ、基底部にあるのは、対象を凝視する確かなる眼であることは疑いようがない。

 たとえば、一句目、動きのない寒鯉を見ているうちに、それが〈光の棒〉なのか〈寒鯉〉なのか、判然としなくなる。その感覚のゆらぎを〈見ゆれ〉のリフレインによって表現しているのだが、ここにも凝視のちからを読み取ることができるだろう。

 二句目、水底に魚体を沈めてじっと動かない〈寒の鯉〉を見て、そこに〈寒の鯉〉の動かないことへの執念を読み取ってしまうところが、さきほど指摘した「観念的同化」にほかならない。感覚器官を通して対象の特徴を概念的にとらえたあと、心象内で対象と自己とが同化してしまう。それを観念的同化と名付けてみた。〈寒の鯉〉もほんとうは動き回りたいのだ、しかし、動かないことに決めたから何が何でも動かない。そうだ、寒鯉は今、水と戦っているのだ。そうに違いない。動かないように水と争っているのだ。その観念的把握が、〈動かぬが修羅となるなり〉という措辞に結実して一句を構成していく。

 三句目の〈腹中にても〉がまさしく観念的把握であり、眼前にあるのは〈寒鯉〉と〈さざなみ〉でしかない。〈寒鯉〉の静と〈さざなみ〉の動を結び付けているのは、玄の心中で混ざり合い、つかみ出してきた造型のためのことば〈腹中にても〉にすぎない。そこがこの句の生命線である。水面に起きた〈さざなみ〉が水中の〈寒鯉〉にまで及び、動かない鯉の腹中に入って通り抜けてゆくまでを写生したものである。見えてはいないものを見えているように描くこと。虚実の間にひそむ真実をことばのちからでとらえようとする齋藤玄の意思のようなものが、この句からもうかがえるだろう。

 鯉喰つて目のあそびゆく冬の山   昭和50年作 『雁道』

 声持たぬ涅槃の鯉と遊びけり    昭和51年作 『雁道』

 ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉    昭和51年作 『雁道』

 鯉と遊びをモチーフにした三句をあげてみた。

 一句目の不思議なおかしみは〈鯉喰つて〉の俗っぽさと〈冬の山〉の神々しいまでの静けさが同列に扱われている点にある。〈目のあそびゆく〉に作者の心象がよく表れている。ここで喰われているのは、筒切りにした鯉の切身を赤味噌汁でじっくり煮込んだ「鯉こく」だろうか。あつあつの鯉こくをすすりながら〈冬の山〉に目を泳がせてしまったことを鯉に言い訳しているような気分が伝わってきて楽しい。人は皆、他の生き物を喰うことでしか生きられない。この世に生きるものの哀しみのひとつである。避けて通れない哀しみであれば、生き切るしかしょうがないのである。根源的な哀しみをおかしみに包んであらわすのが俳諧のひとつの道筋でもある。二句目、三句目は、そうした玄の考えが〈声持たぬ〉、〈遊戯を尽くす〉ににじみ出ている。

 裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈    昭和52年作 『雁道』

 人の口腹を満たすために鯉は裂かれている。もちろん鯉の目に〈涅槃の見ゆる筈〉などない。涅槃自体が人間の生み出した観念だからだ。だが、涅槃の日に鯉を裂くという殺生を犯すことを誰がとがめられよう。誰人もとがめようがない。しかし、罪の意識は人の心に残る。だからこその〈涅槃〉なのではないか。人に裂かれて喰われていく鯉の姿に人の命を慈しみ自ら身を投げ出した仏の姿を見出したおかしみ。そして、裂かれる鯉に仏の姿を見出さざるを得ない哀しみが、この句にはある。明らかに嘘であるにもかかわらず、〈涅槃の見ゆる筈〉の〈筈〉という肉声のことばがあることで、一句にリアリティが生まれている。それが肉声であるがゆえに、読者を「そんなばかな」という観念世界から「そうかもしれない」という虚の中の実へと軽みに包み込んでいく心地よさを持つ。

 「詩は肉声であること」と書いた齋藤玄の達成を示す一句といえるだろう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】

 木星号墜落す鯖焼きをれば   日野晏子

 掲出の一句に登場する「木星号」とは1952年(昭和27)4月9日に発生したいわゆる「もく星号墜落事故」のことを指している。出発してすぐに消息を絶った羽田発福岡行の日本航空の旅客機「もく星号」(当時はノースウェスト航空の委託運航)は、懸命な捜索も空しく、翌日に伊豆大島の三原山の山腹で墜落しているのが見つかり、乗客・乗員37人全員の死亡が確認された。事故の原因は現在に至るまでわかっていない。当時の日本では例のない旅客機事故により多くの犠牲者を出したこともさることながら、「もく星号」事故では捜索の過程においてほとんど手がかりがつかめなかったために未確認情報が錯綜し、その結果「海上に不時着」「乗客・乗員全員の生存を確認」との誤報が流れたり、九州の地方紙では亡くなった乗客に「生存者」としてのコメントを創作するなどの混乱が相次いだという(ここまでウィキペディアの記述を参照)。

 おそらく自宅のラジオを通じて大惨事の一報とその後の未確認情報の錯綜による混乱ぶりを耳にしていたであろう作者であるから、もしかしたら「乗客・乗員全員無事」の誤報を聞いてひとたびは安堵したのかもしれないし、墜落した機体が発生されて「乗客・乗員全員死亡」が確認されたとの一報には安堵から一転した最悪の結末に気の沈む思いにとらわれたのかもしれない。気の沈む思いにふけるなかにあって、ラジオは墜落事故の続報を伝え、犠牲となった乗客・乗員たちの名前を次々と読み上げてゆく。練炭コンロの上で脂の乗った鯖のバチバチと焼ける、いつもと変わらない日常の光景に響く音が、なぜかいつも以上に大きく聞こえているように思えるのは、「生存」と「死亡」の間に振り回されながら、最悪の結末を迎えてしまったやりきれなさからのものなのだろうか。整理のつかない気持ちを表すかのように、この1句で作者はただ「木星号墜落す」と鯖を自分がいま焼いているという行為とを取り合わせることのみに徹し、決して自分の感情を露わにはしていない、いや露わにはできなかったというほうが正しいのかもしれない。その間も鯖は脂をしたたらせながら焦げてゆく。この鯖を食べるであろう病床の夫もきっと大惨事に心痛めているのかもしれないが、夫婦にとってはあまりにもかけ離れた場所で事態は刻々と動いているのが、どうにもやるせなさを感じさせ、かえって1句に自分の想いを書くことを思いとどまらせたのかもしれない。

 ラヂオ啾々と濁流に人溺る    日野草城

 泣く母の声届く霜置く船に

 静臥時のラヂオ職業案内を

 妻の作品に続いては、夫である草城の最後の句集となった『銀』からラジオから伝えられる世相をモチーフに詠んだ作品を引いてみた。こちらも余分な感情の露出はできうる限り避けて、起こったニュースの核心をそのままに掴み取るような作風でまとめている。1句目は「北九州南近畿水禍相次ぐ」との前書きが付く。「人溺る」の結句にラジオの前と現場との距離感を感じさせはするが、水害のニュースを読み上げるアナウンサーの声と大きな被害をもたらす濁流の響きとを微妙に重ね合わせることで、現在進行形の水害の臨場感だけでなく、刻々と伝わるニュースに昂ぶりと恐れを抱え込んだ自分の心情も表している。2句目はこちらも「帰る興安丸」との前書き付き、引揚船「興安丸」の舞鶴港への到着を伝えるニュースからのものであろう。「泣く母」と「霜置く船」の取り合わせはシベリア抑留を背景にした有名な「岸壁の母」のエピソードにつながる面と持ち合わせているのが興味深い。3句目は「職業案内」、今でいうところの求人情報がラジオで放送されていたというところが当時の雰囲気を伝えているが、ラジオから流れる求人に耳を傾ける「静臥」を余儀なくされている自分の姿への、さまざまな思いも病と闘う身体中を駆けめぐっているのだろう。もちろん全身全霊を傾けて自分の看護に取り組んでくれる妻への感謝も大きいはずだ。看護する妻と看護される夫、ふたりの明け暮れにとって、ラジオの存在は確かに大きかったのである。病床の草城にはラジオで楽しんだ音楽に関しての作品も多いが、これはまた別の機会に。

 最後に。「もく星号」事故で亡くなった乗客のひとりだった漫談家の大辻司郎、墜落地点の伊豆大島から遠く離れた九州の地方紙に「無事生存」のコメントを創作されてしまったこのベテラン芸人は、戦前の西東三鬼に「サアカス」連作で次のように詠まれている。

 大辻司郎象の芸当見て笑ふ    西東三鬼

 戦前に新興俳句の旗手だった西東三鬼にサーカス見物を楽しんでいる様子を1句に詠まれ、戦後は自分が亡くなるきっかけとなってしまった航空機事故を、新興俳句のもう一方の旗手だった日野草城の妻である晏子によって詠まれたというのは、何かしら因縁めいたものを感じずにはいられないのだが、戦前戦後と自分が俳句のモチーフとして取り上げられていたのを芸人大辻司郎、果たして気づいていたのかどうか。


●―9:しなだしん【上田五千石】、

 鱒の陣冬の清水を聴くごとし

 第二句集『森林』所収。昭和四十八年作。

 この句の自註には〈富士永明寺に岸風三楼を招いて句会。泉水の鱒の群れは整然としずまりかえって、なにかを聴聞しているようであった〉とある。

 「永明寺」は、富士市にある曹洞宗の名刹で、富士山の湧水があるようだ。掲出句は、永明寺、富士市泉水辺りを吟行した中での作だろう。

     ◆

 自註にある岸風三楼は、明治四十三年岡山県生まれ。富安風生門で私の先師に当たる。

 五千石は著書『俳句 1983-1994』(*1)の第一稿の「一月 戦後俳句の見直し」の中で 

岸風三楼の遺句集『往来以後』(角川書店)など、まさに「戦後」の証言といっていい内容で昭和二十二年から昭和五十七年六月の「六月の夢の怖しや白づくし」「泰山木仰ぐ躬を寄せ過ぎゐたる」に終わる氏の第二句集。質量とも読みごたえがある。

 きりん草咲けども焦土かくし得ず (昭22)

 甘藷かつぐ未婚の腰のたしかさよ (昭32)

 水中花明日あるために美しく (昭42)

 魂迎ふ不死男仏をはじめとし (昭52) 

任意に抽いても時代が滲透している。風三楼作品の検証もまた忘れられまい。

と、頁を割いている。

     ◆

 さて、掲出句の「鱒」はサケ目サケ科の、「マス」あるいは「~マス」という名のついた種類の俗称。この句での「鱒」はいわゆる虹鱒のことを指しているように思われる。湧水に棲みついたものだろうか。真冬の静かな湧水にじっと動かない鱒の群れは、儚いが美しい姿をしていたに違いない。

 この句の制作年、昭和四十八年は、『畦(通信)』の第一号発行の年。さまざまな俳人との交流が深まっていた頃だったのだろう。風三楼を招いた句会もその一環で、楽しく緊張感のあるものであったと想像する。

     ◆

 ちなみに『俳句 1983-1994』は昭和五十八年から平成六年までの俳句時評で、主として読売・朝日・共同通信系の新聞に執筆したものを編んだものである。


*1) 『俳句 1983-1994』11994年邑書林刊


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】

 余寒原稿あと二時間で妻起きる

 昭和63年『方壺集』より。

 あまりにも楠本憲吉の軽薄さを述べすぎた。他の「戦後俳句を読む」ではこれほど主人公の悪口を書いている例はないであろう。それは、憲吉がそう読める俳句を書いているからであるが、逆にそうした読みが可能であることを本人も覚悟しているせいもあるであろう。小悪人ぶったスタイルを、本人も肯定しているのである。

 しかしそうした句ばかりが並んでいると、時折、そうした演技の向こうに見える憲吉の素顔も見つけることが出来そうだ。

 掲出の句など、夫は夫、妻は妻で全く別の生活をしているように見えながら、夫は妻の起き出す時間を知っているのである。最低限の関心を持っていることが伺える。それがどうしたといえるかも知れないが、憲吉にしては珍しいことであるのは間違いない。

 ほうれん草炒めつつ妻の古き唄

 昭和43年『孤客』より。

 妻が知っているのは古い唄だと言うことに作者が関心を持ち心が動かされること自体、ちょっと今まで見てきた憲吉とは違う思いがして違和感を感じるのである。今まで見てきたというのは、

 寒厨(かんぐりや)暗いシャンソン歌うな妻

 惜春や妻の寝息のアンダンテ

 終い湯の妻のハミング挽歌のごと

のような派手さのあふれた句のことである。

 そしてその時感じる違和感は決して嫌なものではない。かえって、こんな心境にほんの僅かでもなれることにほっとする感じを抱く。

 正直言って、楠本憲吉は嘘つきである。四六時中嘘をついている、俳句は上手に嘘をつくことだからそれは決して非難されることではない。しかし、こと男女関係や人間関係を俳句に持ち込んで嘘をついていると、日常生活と文芸の間の揺らぎが、人格的な嘘つきに見えてしまうことがある。憲吉はそれに近い。しかし、そうした嘘つきが洩らす僅かな溜息や眼差しを見逃してはならない。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】38.39.40.41.

38. うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 「ガチ」という言葉が2000年後半から20-30代世代で使われるようになったようだ。「本気/本当」の意味だが、現在ではそれを飛び越えて「超」や「激」と同様の「程度が激しい、出来がいい」という意味合いも持っている。接頭語として使う。しかし、収録作家の年代が30-40代だからか『超新撰』は「ガチ新撰」とは呼ばれていないようだ。接尾語としての「がち」。「勝ち(がち)」であれば、「その傾向が目立つようになるさま」(『三省堂古語辞典』)ということ。

 産土神(うぶすながみ、うぶしなのかみ、うぶのかみ)は生まれた土地を領有、守護する神。あるいは本貫(先祖の発祥地)に祀られている神。

 では、「うぶすな(産土神)の藁がちの香」とは、私たちの祖先が土地に根付いて生きてきた証のような香り、家畜糞とともに藁などの副資材を混合した堆肥の匂いの中から藁の香りに傾いて薫ってくるということを想像する。いわゆる土の第一印象の香り、トップノートが「藁がち」であるという中でトランス状態となり「疲れ勃つ」。肉体を酷使した男、田園の男、再びミレーの『種まく人』である。伽羅、栴檀などの源氏物語の王朝の香りとは異なる農耕民族の香りである。

 そして「疲れ勃つ」っている作者敏雄の目線はあまりに遠い。自己の姿でありながら醒めすぎる目で望遠していると思える。別の「われ」を観察しているように映ってくる。

 33句目から38句目までの句を配列順に記す。

 行雁や港港に大地ありき

 捨乳や戦死ざかりの男たち

 然(さ)る春の藁人形と木の火筒(ほづつ)

 正午過ぎなほ鶯をきく男

 共色の青山草に放(ひ)る子種

 うぶすなの藁がちの香よ疲れ勃つ

 ただ寡黙に生きることに従い、流されて港へ行き、死にゆく男達を葬り、呪術ともなる道具を回顧し、耳の奥にいつまでも鶯の声がし、野に出て肉体が性的に反応し、脳裏に蘇るさまざまな出来事が反転しているネガフィルムのように、われの中で螺旋を描いている。全ては事実でありながらもうそれは過去という夢に変わったのか。全ては何も無かったということに等しい。ただ、ここにわれが生きるというだけの現在の生という命があるのみである。出会った人も、見たものも、聴いたことも全てはまぼろしだったのではないか。事実と事実の間、瞬間と瞬間の間にただわれがいたというだけなのだろうか。

 産土神に導かれるように自分の肉体は興奮し、子種を放出する健康な肉体を持つ。われは孤独な塵でありミトコンドリアと同じ生命体をただ老いていくだけなのである。そして命ある以上、いつかは死ぬのである。今ある個の命を生きている、ただの「われ」が存在することが感じ取れる。


39. 真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし

 桐の箱に入った臍の緒を母から渡された。確かに真綿にくるまっていた。ミイラのような臍の緒がただそこにあった。生体から水がなくなると繊維質だけになる。母と自分を結ぶものであった証、己が人の腹から生れて来たという証である。しかし母と己の関係は今は別の人間として別の時間を生き、生まれたときから別のことを考えている。いつから自分は自分というひとりの人間であることに目覚めたのだろうか。真綿で大切にくるまれたように赤ん坊は祝福され大切な宝のように育てられる。このミイラのような臍の緒がなくなったとしても何の影響もない。戸籍も年金番号も電話番号も今まで通りである。自分が死んだらこの桐の箱は誰が始末しなければならない。燃えてしまえばなくなって何もなかったかのようだ。母と自分がこの管で結ばれていたという事実も過去もなかったことと思うこともできる。

 措辞「燃えてなし」ということは、今まではあったものが存在して今、ここにないこと。けれど関係とは目に見えないものである。管は切られてなくなって、それでも縁は切れないもの、母子以外の縁もそうなのだろうか。


40. 夕より白き捨蚕を飼ひにける

 「捨乳(すてぢち)」が出てきたが、ここでは「捨蚕(すてご)」である。病気あるいは発育不良の蚕は、野原や川に捨てられる。「捨蚕」と「捨て子」同じ響きであることがどこまでも悲しい。蚕は家畜化された昆虫であり野生に生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、人間による管理なしでは生育することができない。人の手により育てられる蚕は人間の赤子のようでもある。

 生きながら捨てられているものを飼う。臍の緒が燃えてなくなり、捨て子となったわれのように。生きているものはいつか死ぬ。生きているものだけがこの世にいる。今、生きているものは、この作者と蚕だけのような錯覚にも陥る。他に生きているものはいないのか、という問いでもあるように。

 「夕より~飼いにける」という時間経過は何なのだろう。夕べから現在までの時間経過が妙な想像をも働かせる。正確に時制を考えると、夕から現在まで捨蚕を飼い続けているということだが、ではこの先をどうするのかは、何も言っていない。捨蚕を飼うことがはたして慣れない人にできるのか。蚕は野生回帰能力のない動物であり、蚕を桑の葉にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚が退化しているため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまうからだ。加えて病気あるいは、発育不良の捨蚕である。

 過去から現在進行形で捨蚕を飼っていることがわかるが、この先おそらく長くは生きていられない命であることが伝わってくる。


41. あまたたび絹繭あまた死にゆけり

 真綿、捨蚕の次は、絹繭である。敏雄の生れた八王子は絹織物の産地として名高い。蚕の一生はわずか57日ほどで幼虫は桑の葉だけを食べつづけ4回の脱皮を繰り返す。やがて蚕は1,500mほどの糸をおよそ2昼夜吐きつづけ、頭を8字形またはS字形にふりながら、美しい一粒の繭をつくりあげる。蚕は繭の中でサナギとなり、蛾になって繭殻を破って飛び立つ。蛾になる前に殺蛹し、かたちのよい正繭が絹となる。これが「絹繭」ということになる。それが死んでいく状態とは、繭玉の数だけ殺蛹が何度も繰り返えされることを詠んでいるのだと解釈する。

 蚕の養蚕は中国で発生し5000年以上の歴史がある。日本では『古事記』『日本書記』にも登場する。幼虫が吐き出したもので生糸ができるということはまさしく不思議な発見だ。絹繭になる蛹は死ぬことが決定づけられることになる。 

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて何方(いづかた)へか去る(『方丈記』)

 「死にゆけり」という直接的な命の終りを詠うことにより命の行く末を正視しているといえよう。前句「夕より白き捨蚕を飼ひにける」の「飼いにける」と同様、「けり」が過去を抱えた形をとっている。過去も沢山の絹繭が死んでいったが、今も沢山の死んでいく・・・過去を抱えた死であることがわかる。前句の「生」と掲句の「死」の配列であるともに二句にわたり「けり」を使用し、生きていることも死ぬことも過去から現在、そしてその先へ繋がる普遍なき輪廻であることを言わんとしていると読みたい。


42.父母や青杉の幹かくれあふ

 「隠れあふ」というのは、青杉が重なり合い、青杉が青杉に隠れているということなのか。杉の木と木の間に父と母の幻影をみたというのだろうか。

 ルネ・マグリットの絵画『白紙委任状』(原題- Le Blanc-Seing )を思い浮かべる。まさしく敏雄の俳句の投影のようである。

「目に見えるものはいつも別の見えるものを隠している」

「馬上の女性は木を隠し、木は馬上の女性を隠す。しかし私たちの思考は見えるものと見えないものの両方があることを知覚している。思考を目に見えるものにするために私は絵を利用する」-ルネ・マグリット

 見えているようで見えていない世界、思考が螺旋のようになっていく敏雄の俳句。思考は17文字の中から広がり読者の脳裏に絵を描きだす。

 父母。42句目にして同時に出て来る父と母。われよりはるか遠いところにいる。そして見えるような見えないような。われの中にあるチチハハ。

 ちーちーはーはー。杉林の中で遭難したような気になる。新緑の山に足を踏み入れると杉の香りに誘われて自分のルーツがそこにあるようだ。村はすでに消えた。眞神の山の杉の木は青くそして昏く、奈落という死の淵がいつもその脇にある。鳥の声がする。


43.きなくさき蛾を野霞へ追い落す

 2012年3月某日。快晴。

 それは北関東、狼信仰の名残りある山。狼の狛犬、カラス天狗を確かめたく車を走らせた。途中には庚申塚や道祖神が山の懐のように路肩から手を伸ばすと届く位置にあった。川の流れる音だけがする。民家が幾つかあり茶畑の手入れをしている人が不思議そうに車を見送っていた。山道は意外にも奥の奥まで舗装され、「熊出没」の立て看板を幾つも通り過ぎた。この先に民家が無いという印のようにとうとう舗装が途切れた。ところどころに落石が散乱する道に突入し、山側には伐採された杉の木がばらばらに横たわり崩れてきそうだった。突然とうっそうとした杉林が道幅を暗くしている。右は谷。奈落は深く明るく落ちて行くにはあまりに晴れていた。その時点で町に引き戻ろうと足をすくめ出直すことにした。あの時、蛾を見なかったことが幸いしたのだろうか。

     ◆

 「きなくさき」という措辞により、物騒なことが起こりそうな気配をもつ蛾である。

 日本では、古来、蝶と蛾の区別はなく、かつては、かはひらこ、ひひる、ひむしなどと大和言葉で呼ばれていた。蝶と蛾の区別は、英語圏の博物学の導入によ”butterfly”と”moth”の分類法が日本語に導入されたらしいことに依るらしい。蛾類学会の生物学上の分類は、昼間の環境に特化して飛翔力の鋭敏な一群を蝶と呼び、それ以外のものを蛾と呼んでいる。

 蝶や蛾は、蛹(さなぎ)から飛び出してくるので、人間の体から抜け出る霊魂と同じように考え、あの世(常世)とこの世(現世)を行き来する吉と不吉との両面から意識されていた。「日本書紀」には虫神として祭られ「常世(とこよ)の神」と表現されている。蛾は特に嫌われ者という扱いではない。

 この句で意識するのは、「常世」そして、追い落とすという措辞から「奈落」の世界が考えられる。40句目の「夕より白き捨蚕を飼ひにける」41句目の「あまたたび絹繭あまた死にゆけり」の繋がりを考えると、養蚕の神として「おしら様」と崇められもする蚕が、今度は、蛾となって野霞の奈落へ追いやられ、嫌われもの扱いのように読める。小さな共同体の中のいじめのようにも思える。いわゆる村社会である。

 馴染みの人々も老いて死に、かつての家族は都会へ移り住み、村から人が消え廃屋となった家々が残る。どこか時間が止ったような世界は、時間軸のない常世の世界という映り方。再び、阿部公房の『砂の女』の世界へ入ったような、主人公の男も昆虫採集の途中で穴に落ちた。人は、時間軸のない世界へ興味をもつ。

 この句の常世と思える世界は、奈落なのである。時間軸のない奈落。

 39句目「真綿ぐるみのほぞの緒や燃えてなし」から時間軸が停まったような句が多くなる。

 しばらく、読者はその停滞した時空を読者は浮遊していく。


44. 箸の木や伐り倒されて横たはる

 「横たはる」と言っているだけで何も主張していない句。しかし読者は何故か、その先に眼をむける。それは書かれていないものを読もうとする俳句だからだろうか。

 「伐り倒されて」の受動する措辞。倒されるのは箸の意志ではなく、人の意志がそこにあるということだろう。そして「横たはる」という人を想像させる擬人化に近い表現からだろう。殺されて横たわっている箸の木という生き物。死者が横たわるように描かれているのではないかと読む。

 掲句が収録された『眞神』上梓の時代は「エコロジー」という言葉が定着していない時代である。「箸の木」は消費されるために倒される。『眞神』上梓の頃にインドネシアで日本の割り箸の木となる木が伐採されて山が枯れている写真をみた。おそらくその頃から箸をとりまく環境問題が論議されてきたのだと振り返る。現在『眞神』上梓から38年経過した。箸の木の伐採が本当に環境破壊を引き起こしているのかどうかは、論議が繰り広げられる難しい問題となっている。


割り箸から見た環境問題

 日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期。その当時の箸は、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形であり、一般人の用途ではなく、神様が使う神器、または天皇だけが使うことを許されたものだった。7世紀の初め、中国での箸の使用について遣隋使から報告を受けた聖徳太子が朝廷の人々に箸の食事作法を習わせ日本での食事に箸を使う風習が始まったらしい。「古事記」にも箸が登場する。敏雄の生れ育った八王子・高尾山の飯盛杉は地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする箸立伝説が残っている。

 切り倒され横たわっている箸の木を想像し、お箸の国について考える。いただきますとごちそうさまが言えることに感謝し、箸をもつ指先から箸の木たちの魂を感じ取りたいと思う句だ。


45. さかしまにとまる蝉なし天動く

 確かに蝉は逆様には留まらない。コペルニクスは、地球が動くとし、敏雄は天が動くと詠んだ。

 ここで俳句の躍動を感じるのは、「なし」といって「動く」となることだろう。このような当たり前の事実に基づく句が好きだ。事実は動かない。けれど、天が動くのである。このような技を身に着けたい。「俳道」という言葉があるのならば、その道に精進したい。

 ここでの天動というのはピタと木にとまった蝉を中心に天が動いていく風景が見えてくる。天動説(全ての天体が地球の周りを公転しているとする説)の意味に少し近いようなことも考えるけれど、それはジコチューの世のことも言っているのかとも推察したりする。

 「さかしまにとまる蝉」がもしあったとしたら、どうなっているのだろうか。そしたら、「地」が動くのかもしれない。確かに「地」が動いたら、「ビックリハウス」(遊園地にあるアトラクション)になるのかもしれない。そんなことを考える句。地動説(地球が動いている、という学説。)は確かに正しいが、さかしまにとまる蝉は、間違えていると脳が考える。

 事実は動かないのである。それは江戸俳諧を身に着けた敏雄ならではの俳技だ。

 今迄の鑑賞句を振り返り、三橋敏雄は秀才にして多作。ありとあらゆる方法、全く意外な取り合わせに遭遇するばかりだ。

 江戸に花咲き、今も生き残る俳句、現代の俳句として引き継いだ三橋敏雄の功績が賞されることに同意する。


46. 油屋にむかしの油買ひにゆく

 油を買いにゆく、それも「むかしの油」。

 「むかし」とは「油屋」という名称が日常にあった江戸の頃を想像する。

 江戸の風情を買にいく。

 油のリフレインの中に人との繋がりが潜む。

 江戸のむかし、油は行商人が売りに来た。

 そう「油を売る」とは「油売ってんじゃねぇ。」と言われるように「無駄話をして時間を潰し、仕事を怠けること」の意味を持つ。熊さん八っつぁんの江戸情緒、江戸しぐさ(江戸の商人哲学)が伺える。「油売る」のその意味は、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどのかけ離れた因果関係はないが江戸の人の営みが見えてくる。

 髪の油、行灯油は当時、粘性が高く、柄杓を使って桶から客の器に移すにも雫が途切れず時間がかかる。商人が、婦女を相手に長々と世間話をしながら、油を売っていたところからその意味に転じ「油を売る」といわれるようになった。

 あえて「油屋」が示すことは、すなわち、ゆっくりとした時間を共有していることである。人と人とのコミュニケーションが成立していた時代。「ありがとウサギ/まほうのことばで/たのしい仲間が/ポポポポ~ン」という歌詞が繰り返し流れた2011年のあの時も時間の共有であるが、地球の大きさも時間の長さも当時と微妙な差があるとしても、流れる物事の早さが異なる。その感覚が「むかし」という言葉に因り引き出されているのではないか。それを敢て「買ひにゆく」ことにある。

 読者を個々の郷愁に連れ出そうとする『眞神』の時空がそこにある。


47. みぎききのひだりてやすし人さらひ

 利き手は何をするにもまず先に出る。

 利き手の握力は強い。握力の弱い利き手ではない手で、危険と思うことができない。

 人は誰でも弱い部分を持つ。「人さらひ」という鬼畜のような存在がふと見せる人間の穏やかさとしての「やすし」。そこに「人さらひ」の人となりがみえてくる。

 左、右を示す表現は多義である。「人」を除く表記がひらがなであることも人のやさしさに対する配慮であると思える。

 下五の「人さらひ」の取り合わせが読者の想像力を働かせる。けれど、ヒトサライが右利きであることなど、誘拐に遭遇して気が付くのだろうか。それは、ヒトサライを観察してそこにコミュニケーションが生まれなければ利き手などわからないだろう。「わたしを奪って・・・!!」と懇願されて仕方なくヒトサライになった男狼だろうか。それもひらがなが醸し出す淫靡なマジックだ。

 人について考える、人の手について考える。その手には温度があるということだろう。


●―13:深谷義紀成田千空の句

 鯉ほどの唐黍をもぎ故郷なり

 今回のテーマは「魚」である。そのため千空の句集をめくり、魚を対象とした作品を読んでみたが、これと思える作品に出会えなかった。というのも、ずっと頭の中に掲出句が鎮座していて、この句と比較すると「魚」そのものを対象とした、どの作品も物足りない思いがしたからである。というわけで今回は、ストライクゾーンから外れていくチェンジアップ気味に、この句を採り上げてみたい。

 掲出句は第3句集『天門』所収の作品である。津軽の唐黍(玉蜀黍。津軽ではその実の色(黄色)から“きみ“と呼ばれる)といえば「嶽(だけ)きみ」が名高い。千空がいつも眺めていた岩木山の南麓、嶽高原で採れる玉蜀黍だが、小ぶりの品種であることから、この作品の対象となったものではなく、千空が詠んだのはもっと一般的な玉蜀黍だったと思われる。

 さて玉蜀黍と鯉。両者に共通点は乏しく、直喩としてはかなり斬新だ。もいだばかりの玉蜀黍を胸に抱えた時、不意に千空の脳裏にそんなイメージが浮かんだのであろう。少なくとも書斎で作れる句ではない。そうしたイメージが浮かぶほどの量感を持った玉蜀黍であり、抱え込んだ両腕の中で暴れ出しそうなほどの野趣を感じたということだろう。

 そして、下五に投げ込まれた「故郷なり」という措辞。ふるさと自慢というよりも、思わず口をついて出た作者の実感だろう。その意味で、津軽に生まれ、生涯その土地に執した千空ならではの作品だと思うし、飾り気のない詠みぶりもかつて師草田男が「素手で対象を捕まえたような」と評したこの作者らしい作品だと思う。


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(67)  ふけとしこ

  木の橋

暖かや鶯神楽も咲きさうに

浅春の奈良や煮麵いただいて

飛火野や鹿に寄られて春帽子

末黒山三十羽ほど鳥群れて

木の橋の揺れを渡れば囀れる

        ・・・

 最近の新聞広告で「奥村記念館」のことを知った。

 奥村とは建築会社「奥村組」のこと。どんな所なのかな~と興味が湧いた。吟行仲間を誘って行ってみた。

 奈良の町を歩くのはいつ以来だろう。鹿に挨拶されるのも本当に久し振り。いいお天気で紅梅も咲いていて……。

 お山焼きを終えたばかりの若草山もゆったりと青空に映えていて美しい。まさに末黒山だが、いつ見てもなだらかな山容だ。本当は若草山の麓にある刃物屋へ行きたかったのだが、今回は諦めた。

 奥村記念館は2007年に開館されたということだからまだ新しい。創業100年を記念して地元への還元事業とのことである。

 「古都の景観に溶け込むデザイン」とパンフレットにあるように、実際に黒と消炭色を基調にした色合いの建物は、外から眺めるだけでも美しい。入館無料というのも嬉しい。コーヒーサーバーまである。これも無料。

 創業は明治40年とのことで、その当時の品なども歴史を感じさせるように展示されている。創業者の奥村太平氏の手帳もあり、こと細かにびっしりと書かれた文字が几帳面な性格を思わせて興味深い。ただガラスケースの中にあり、読み取ることは難しかった。

 門外漢にはよく解からないが、ハニカム構造や免振技術等、建築関係の人には(ほんのさわりだけにしろ)面白い展示に違いないだろう。

 2階には展望テラスがあって真向いに東大寺が見える。金色の鴟尾が美しく、鳩の群が白く輝きながら舞い上がり、また舞い戻りを繰返していた。


 修学旅行の高校生らしい5,6人のグループに声をかけられた。

「〇〇へはどう行けばいいですか?」

 さて、こちらも分からない。

 「スマホに聞けば? 」「いや、スマホ使えないので」とのこと。地図を見たり誰かに訊ねたりして歩きなさい、と言われているのだとか。

 ふーん、そうなんだ……だったが、成程ね、と納得もした。彼らにはきっといい旅になっただろう。

 和菓子屋の奥の喫茶室でささやかな句会をさせてもらった。この喫茶室も始めてだったが、居心地よく本当に穴場だった。

(2026・2)


2026年2月13日金曜日

第262号

   次回更新 2/27


■新現代評論研究

【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して  筑紫磐井 》読む

【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)1 》読む

新現代評論研究(第19回)各論:後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子 》読む

現代評論研究:第23回各論―テーマ:「獣」を読む・その他― 藤田踏青、北村虻曳、飯田冬眞、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第7回:「実作者の言葉」…「頭燈」について/米田恵子 》読む

現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

[新春論考]1954年の寺山修司 佐藤りえ
    (前編) (後編)

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第六(12/26)神谷波・川崎果連・加藤知子・曾根毅・松下カロ
第七(1/9)渡邉美保・小林かんな・田中葉月
第八(1/16)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹
第九(1/30)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子
第四(12/26)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第五(1/9)神谷波・川崎果連・曾根毅
第六(1/16)渡邉美保・小林かんな・田中葉月・小野裕三
第七(1/30)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹
第八(2/13)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

 俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【新連載】俳壇観測278 ユネスコ登録の進め方3 有馬朗人氏の3つの要件・2つの願望  筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](59) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり44 水野真由美『草の罠』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(66) ふけとしこ 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『岡田史乃の百句』(辻村麻乃) 豊里友行 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・6 金光 舞  》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

1月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【短期連載】未来俳句宣言についてーー高山れおなの読売文学賞受賞を祝して  筑紫磐井

 一.宣言に至る経緯

(1)俳句史の認識

 俳句の歴史とは、子規の「新俳句」→新傾向→ホトトギス→新興俳句・人間探求派→社会性俳句→前衛俳句・心象俳句→閉塞の時代(前衛と伝統の固定化)であった。新しい時代の精神は常に前の時代の否定から生まれてきた。今や「閉塞の時代」から「新しい自由な俳句」に進むべきだ。


(2)新しい俳句をどう模索するか

 我々の望む「伝統」とは、ルールではなく、作品――過去の名作(自由律の名作も含む)という文学的財産である。そして過去の俳句で掬いきれなかったものにこそ「未来」(新しい自由な俳句)がある。

 既存の俳句――それがどんな名作であってもそれを操作するだけでは決して「新しい自由な俳句」は生まれない。我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。


ある日快晴黒い真珠に比喩を磨き  金子兜太

 *ほとんど知られることのない傑作。メタファーを否定した真の「前衛」である。

麿、変  高山れおな

 *自由律俳句を追い抜いた諧謔という天才的思想。

ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

 *川柳作家の傑作。9・11の衝撃が形式を破壊した。

去年今年貫く棒の如きもの  高濱虚子

 *自ら築き上げたホトトギス俳句・花鳥諷詠を全否定した世界観。


(3)宣言

 そうした未来の作品としてのありかたは作家各人が提案すべきものである。それを「宣言」と呼んでみる。

 かつてアバンギャルドは宣言であった。イタリア未来派宣言、ダダ宣言、シュルレアリスム宣言、形而上派の言説(キリコ『エブドメロス』)・・・。

 前衛俳句に自句自解はできない。できるのは宣言だけである。まず宣言があり、それを踏まえた俳句作品が生まれるべきだ。宣言と作品を含めて談論風発が起こる。

 言っておくが、宣言しても、我々は連帯しない。個々の作家であるからだ。しかし、共感はしたいと思う。

     *

 まず、新しい宣言を作ろうではないか。次章に私だけの宣言を書いた。これに呼応する作家に呼びかけたい。これらは伝統派から狂気扱いされるだろうが、我々はそれを恐れない。我々は、過去に見たことのない風景を見たいのだ。

【参考】「豈」では攝津幸彦記念賞を募集発表してきたが、本年の第11回は評論を募集している。新しい評論(宣言)に応募してほしいと思う。


(4)世界へ

 1999年松山で開かれた国際俳句フォーラムで、有馬朗人を中心に国際俳句の「松山宣言」が発出された。これを受けて、2000年に正岡子規国際俳句賞(2000~8年)が創設され、4協会会長の有馬朗人・金子兜太・稲畑汀子・鷹羽狩行を選考委員に、第1回大賞がフランスの詩人イヴ・ボヌフォアに授与された(第2回はアメリカのゲーリー・シュナイダー、第3回は金子兜太)。この時の受賞講演でボヌフォアは、「俳句の命は極端な短さによる凝縮と省略、余白の暗示性にある。」と述べている。この時、彼に力を与えたのは、芭蕉ではない、フランス中世詩の断片だ。


Hélas,Olivier Bachelin 

(ああ悲しいかな、オリヴィエ・バシュラン)


 新しい自由な俳句として短律に限りない魅力を感じる。


二.宣言集(以後続くことを期待する)

➀【筑紫磐井の宣言】

〈設計〉

詩、とりわけ俳句は――

 ①一行があまりにも長い。四文字、ないし三文字で十分だ。

 文法は要らぬ、名詞・動詞だけで辛うじて伝達はできる。

 文語・詩語、誤字・誤用の駆使も一行を更に短くする。

 ②一行の中でたやすく(部分的)類想が発生する。

 だから全体の模倣だけでなく極微の模倣も否定せよ。

 ③隣る二行は連想を結合する。

 行の谷間を極大にせよ、隣人は背くべきである。

 ④一行ですべてを述べ、全体の構想を断ち切ろう。

 偶然がいつか全体を語るはずだ。

〈総括〉

 律(形式)を自由に。


〈作品例〉

●(GANYMEDE 51句より 2013.8)

吾(あ)と無

逃げれば郭公

●(第50回現代俳句講座より/2025.11)

渾 煌く犠

●(GANYMEDE2/豈68号2025.11)      

前頭葉にさわさわ湧いて明易


【新連載】俳壇観測278 ユネスコ登録の進め方3 有馬朗人氏の3つの要件・2つの願望  筑紫磐井

  ユネスコ登録論の従来の最大の課題である俳句の定義問題は上述の経緯でほぼ解決したので、ユネスコ登録についての別の登録的論拠について眺めて見よう。俳句の定義についてと同様、かなり有馬発言と齟齬した内容で伝えられている。ここで有馬氏が俳句ユネスコ協議会発起人会の公開記者会見で述べた論拠をおさらいしておこう。これがすべてのはじまりであり、かつユネスコ登録問題の全てだからである。

 ここでユネスコ登録論者とマーチン氏の対比で眺めて見たいと思うのだが、その前に、ユネスコ登録論を最初に提唱し、協議会を発足させ、登録運動を推進した有馬氏と、それに便乗しているその後のユネスコ登録論者の違いをはっきり眺めておくことが必要である。有馬氏が根拠に挙げていない主張(つまり、有馬氏に便乗した偽ユネスコ登録論者の主張)にマーチン氏の反論を組み合わせても徒労に近いからである。我々は真のユネスコ登録論者には真摯に対峙すべきであるが、偽登録論者は無視してもよいのである。

 これは、すでに決着済みの、先に述べた俳句の定義問題で明らかであろう。それではまず真のユネスコ登録論、有馬氏の登録の考えを眺めて見る。


(1)有馬氏のユネスコ登録する3つの必須要件

 「何故、俳句を無形文化遺産にしたいか、というと私が考えていることは

第1に短いということ。

第2に自然を中心に自然の中で共生している人間の生活を詠むということ。つまり、自然と共生する文学であるということです。

そして第3に短くて自然と共生することの文学で誰にでも書けるということ。」


 これが有馬氏のユネスコ登録必須要件である。

     *

(2)有馬氏の2つの願望

 有季定型か無季容認かは文学的な対立であるが、ユネスコ登録は政治的課題である。そうした政治家とのつながりから補足したものが2つある。それについて有馬氏は要件として断言しておらず、願望として述べているだけである。


➀そして又、自然を愛好することによって自然を大切にする、それが地球の温暖化を防ぐのに大変重要な役割を演ずるだろうということ。

➁そしてやがてはそれが世界の平和につながることを私は考えて、この登録推進運動を進めている次第です。


 有馬氏の言説をこのように分けることは不満の人もいるかもしれないが、有馬氏の発言ぶり(それが…演ずる、それが・・・つながる)は自ずからこうした解釈を要請する。

 大分古いこととなるが、愛媛県で開かれた「国際俳句コンベンション」(1999年9月)で有馬氏は、「俳句よりハイクへ」という基調講演を行っている。これが敷衍されて国際俳句の「松山宣言」となる。有馬朗人氏はこのとき文部大臣であったから、文部大臣講演として慎重な話しぶりをしている。言っておくが、20年前の有馬氏はユネスコ登録の話は全く顧慮していない。なぜならユネスコ登録の根拠となる「無形文化遺産の保護に関する条約」(無形文化遺産保護条約)は、2003年10月のユネスコ総会において採択され、日本は2004年6月に締約国となったから、この講演の時(1999年)、有馬氏はユネスコ無形文化遺産のことも知らず、俳句がこの登録を受けることなどおくびにも考えていなかったからだ。有馬氏は、もっぱら「俳句」と「国際ハイク」についてのみ関心を払っていた。とはいえその方が俳句の本質を的確にとらえていたということができる。


 「俳句の特徴をもう一度考え直してみようということです。きわめて簡単に考えてみると短いこと、定型であること、叙景詩が中心であること、そしてキーワードがあることです。我々は伝統としてキーワードとして季語を用いますし、無季語を容認する方は別なキーワードを持っている。そういう意味で短い、定型、叙景、キーワードがあることで俳句が一番はっきり定義されると思います。」


 20年間の間に有馬氏は俳句の本質を考究した中で表現はいろいろ変わらざるを得なかったが、中核そのものが変わることはなかったと思う。例えば、上の講演とユネスコ協議会の俳句の要件を比較してみると、「定型があること」は「短小な詩であること」「誰にでもかけること」、「叙景詩であること」「キーワードを要すること」は「自然と共生する文学であること」と対応しており、この間の表現における試行錯誤であろう。

 だから微妙な表現の違いはあるが、俳句に関する本質的な点は変わらない。例えば有馬氏はここで、俳句には季語を用いるものと季語を用いないものがあると明確に述べている。この対立軸は揺らぐことがない。ちなみに講演でこのような表現になったのは、このイベントが国際俳句を振興する大会であり、聴衆にも多くの外国人ハイク作家が参加していたからである(有馬氏は講演冒頭で「本来なら英語で話すことが礼儀だがお許しいただきたい」と語っている)。外国人ハイク作家は無季作家だからである。こうした状況認識は、ユネスコ登録に当たっても代わることはなかった。

 だからユネスコ協議会のそれ以外の要件(上述した「要望」)は、あとから追加されたものにほかならない。例えば地球温暖化も世界平和も「松山宣言」の講演では述べてはいない。俳句にとっても、国際俳句にとっても、地球温暖化や世界平和は本質的に関係なかったのだ。言っておくが、地球温暖化も、平和の探求も悪いと言っているわけではない、人類の一員としてそうした願望があっても悪くはない。しかし俳句の本質そのものは、それらと全く関係ない。論理的整合性がないのである。

 地球温暖化や、平和が登場したのは、有馬氏が政治家であったためであろう。ユネスコ登録を政治的に進めようとすれば(言っておくがユネスコ登録は文学的活動ではなくて政治的活動である)こうした願望を添えておくことは、充分あり得た話である。ただそれにしても必須条件ではなく、有馬氏の願望であったのである。

英国Haiku便り[in Japan] (59)  小野裕三

 haikuな日々

 日々暮らすうちに、haikuを巡って海外のいろんな人との接点が増えていく。

 ある日は、人伝てにスウェーデン人のhaijinから連絡があり、現地で吟行をやるので、吟行の心得を教えてくれ、と言う。吟行に特別な秘訣はないけどなあ、とも思いつつ、手帳と筆記具を持ち歩け、思いついたらその場で書き留めよ、の二点をアドバイスした。すると、「わかったわ、やってみる。今度、私たち、宮殿公園で吟行するのよ」と返信が来た。宮殿公園にスウェーデン人が集まって、僕のアドバイスどおりに吟行するさまを思い浮かべるとなんだか面白い。

 それからしばらくして、アメリカ人のhaijinともやりとりした。日頃から疑問に思っていたことを二つ質問してみる。

 質問一、日本人は五七五のリズムが体に滲みつき、指折り数えなくても五七五だとわかるが、アメリカ人はどうか?

 質問二、日本では歳時記は俳句作りには必須だが、アメリカ人はどうか?

 質問一への答えは「最近は指で数えなくても、五七五だってわかるわ」。質問二への答えは「うちの団体では英語俳句のための歳時記を作ってるのよ。ウェブサイトに載ってるわ」。

 そのウェブサイトを見に行くと、確かに季語のリストがある。とは言え、そこにある季語の数は数百のレベル。日本の歳時記のように数千や万を超える数には遠く及ばない。それから会話をするうちに、ねえ、このhaijinを知ってる?、と僕のまったく知らない英語の俳人を紹介してくれた。

 As Nile dusk deepens

 egrets blizzard to the same

 solitary isle.    James W. Hackett

ナイルの夕暮れは深まり / 同じ孤島へ / 白鷺が殺到する  J. W. ハケット

 そんな日々を過ごすうちに、今度は依頼ごとが舞い込む。日本に研修旅行に来るアメリカ人の高校生たちに、俳句を教えてほしい、とのこと。その打診から約二ヶ月後に実際にやることになり、四十人近くの高校生を前に、俳句とは何かの講義、俳句実作、そして討議、とみっちり三時間のワークショップを行った。

 講義開始前にスライドを投影して準備していたら、まだ席もまばらな教室にいた生徒がこんな質問をしてきた。

「この人って、俳句を発明した人?」

 そう言われて振り返ると、僕がレイアウトした芭蕉の肖像が画面に映る。そもそも俳句に発明者はいないなあ、と思いつつ、「うーん。この人は、発明したんじゃなくてね。近代俳句につながる歴史を始めた人、とでも言えばいいかな」と説明すると、小さく頷く。

 そんな具合で、世界各地の俳句をめぐる出来事の推移をかいま見られる僕の〝haikuな日々〟はなかなかに愉しい。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2024年11月号より転載)


【連載】攝津幸彦記念賞応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)1

(解説)攝津幸彦記念賞(第11回)の募集

(1)「豈」における例年の攝津幸彦記念賞は本年(第11回)は評論賞の募集を行うこととした。募集に当たっては、全国学生俳句会(合宿二〇二五)で提供された評論を応募作に加えて、その他にいつもの通り募集も行った(募集はメールによることとし ani-writing@e-primex.co.jp で受け付ける。詳細は「豈」68号138頁)

(2)対象は、特に若い世代の評論家を発掘することを目的とし、新作の評論のほか、既に他の媒体で発表した評論、まだ未完のダイジェストも含めて対象とすることとした。この他に通常評論賞では扱われない「宣言」も含めることとした。

(3)締め切りまでに提出された応募作を逐次BLOG俳句新空間で紹介しつつ、予備選考を加え評論奨励賞を最終決定することとする。

 以下今回から応募作品(全国学生俳句会合宿2025評論)を紹介する[コールサック124号120~123頁で概要が紹介されている](原稿はたて書であるが、BLOG記事に併せて横書きとした)。


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 文人俳句の俳諧性―紅葉・鏡花を中心に―/辻村栗栖(東大俳句会)


序論


  浮世の月見過ごしにけり末二年  井原西鶴

  死なば秋露のひぬ間ぞ面白き   尾崎紅葉

  露草や赤のまんまもなつかしき  泉鏡花

 

 それぞれの辞世の句である。日本文学を語る上で欠かせない作家は数多くいるが、その中でも特に外しがたいこの三人には強い関係性がある。即ち、泉鏡花は尾崎紅葉に強く影響を受け、尾崎紅葉は井原西鶴に強く影響を受けているという縦のつながりである。確かに前掲の三句を解釈してみると、全て秋の句であることは偶然であろうが、鏡花の「なつかしき」は紅葉の「面白き」と、紅葉のからりとした死への書きぶりと西鶴の一歩引いたようなまなざしはそれぞれ類似が指摘できよう。

 さて、井原西鶴は、近世前期に現在の大阪で活躍した俳諧師、浮世草子作家、人形浄瑠璃作家である。矢数俳諧を行ったことや『好色一代男』『日本永代蔵』などを著したことで有名で、芭蕉以前の江戸時代の俳諧の代表的人物でもある。

 本稿では、この西鶴の俳諧に注目し、そこから西鶴の思想や技術などを抽出する。その上で、近現代の作家のうち最も西鶴の影響を強く受けていると言える尾崎紅葉とその弟子の泉鏡花の俳句にどのような西鶴の精神が受け継がれているのか考察した後、現代において文人俳句を読む意義を求める。


二、西鶴の精神

二―一 西鶴の理解へ向けて

 西鶴の思想や技術を理解するためには、まず西鶴が生きていた時代の歴史的背景とその時代の文壇について理解する必要がある。

 序章でも軽く述べたが、西鶴は寛永十九年(一六四二年)に生まれ、元禄六年(一六九三年)に没した。一般的な歴史理解で言えば、この時代は三代将軍家光の元で鎖国と参勤交代が既に確立した後であり、それに伴って町人文化が花開いたころである。同時代人には池田光政や新井白石などの戦乱が終わった世間で政治的手腕を発揮した人物がいる一方で、由井正雪の乱や明暦の大火などの人々を揺るがせる混乱も発生していた。

 そういった中において、町人文化に付随して文学も隆盛し、そのテーマとして政治や混乱などへの揶揄が用いられることも時折あった。その代表格が諧謔を主題とする俳諧である。そもそも「俳諧」の語源が「俳優の諧謔」、即ち人気な人や物を滑稽に詠むことにあることからも、その解釈が可能である。あくまでも俳諧における諧謔とは、和歌や連歌で用いられてきた言葉同士のイメージの連鎖を切ることであったり、新しく縁語を生み出したりすることであると言われているが、これもある種人気なものを滑稽に扱っていると表すことができるだろう。

 さて、しかしその俳諧にも様々な論理があった。芭蕉以前の主な派閥として挙げられるのは、松永貞徳を中心とした貞門派と西山宗因を中心とした談林派の二つである。この違いについて詳述することはしないが、西鶴はクリシェとも表せる和歌や連歌の予定調和を貞門派よりもさらに裏切ろうとして発展した一派である談林派に属していた。

 その宗因は次のような句を残している。

  

お閑かに御坐れいまだ残んの雪

きつたり此つゝけりかな蘭秀る花


 〈お閑かに〉の句は談林俳諧に見られる大胆な破調の句である。即吟句であると伝わる。また、〈きつたり〉の句は、き・つ・たり・つつ・けり・かな・らんの七つの助動詞を詠みこんでいる。

 貞門派が和歌から引き継いだ縁語や掛詞などの技法をまだ用いていたのに対し、その自縛を解いて発展したのが談林風と呼ばれる談林派の特徴である。これが右の二句にも表れている。


二―二 俳諧師西鶴

 序章でも述べたとおり、俳諧師としての西鶴の最も知られた業績として矢数俳諧が挙げられる。一晩で二万句以上詠んだとされるが、その具体的な句数の信憑性はそこまで高いものではない。しかし一方である程度多い数の句を詠んだのは事実であるとされており、これについて加藤楸邨は談林風の流れと絡めて次のように述べる。


 貞門に於けるかかる詞の制限をとり去ったものが、談林の自由性であった。商人の伸びる力のあらわれとしての町人性が俳諧に於て徹底し、心に於ても自由となろうとするのが談林性であり、町人の社会の題材の上を、町人的な見方で伸びて行ったのが談林俳諧であった。西鶴に於てあらわれた談林性もこういう町人性、こういう自由性であり、これが西鶴の対他的優越意識と結びついたところに矢数俳諧があらわれたものであると思う。


 楸邨は談林風を構成する要素を「町人性」「自由性」であるとした上で、その表れが矢数俳諧であるとする。また、当時矢数俳諧を行っていたのは西鶴だけではなく、むしろ西鶴の句数を超える者も数人かいたという。それらに対抗して西鶴が二万句以上作ったとすると、西鶴には「対他的優越意識」があったのではないか、というのが楸邨の意見である。

 このような西鶴のスタンスは「阿蘭陀西鶴」とも呼ばれ、周囲とは一線を画していた。


 三、文人俳句

 三―一 尾崎紅葉

 近現代の作家で、最も西鶴の影響を受けていると言われているのは尾崎紅葉である。国文学者の安藤宏は紅葉の『伽羅枕』と西鶴の『好色一代女』の冒頭部分を比較した上で次のように述べる。


 文章のリズムも含め、かなり意識的な模倣であることがわかる。(中略)紅葉を貫いていたのは徹底した美文意識で、筋立ての妙と文章の技巧によって登場人物の「情」を照らし出していくことをめざす彼らの小説観は、近代人の日常的な内面心理をえぐっていくことをめざした二葉亭四迷のそれにまさに逆行するものであった。


 つまり、明治期の文壇の流れとしてあった二葉亭四迷にはじまる言文一致の運動の揺り戻しとも言うべきこの「西鶴復興」に最も寄与したのが尾崎紅葉なのである。

 紅葉が西鶴に影響を受けたのは小説だけでない。この時代の文豪は教養として俳句を作ることも多く、紅葉もその例に漏れない。現代俳句は、そのほとんどが正岡子規や高浜虚子から始まるホトトギスにその源流を持つが、明治期にはホトトギス以外の一派として文豪の俳句があったのである。詩人の大岡信は次のように述べる。


 僕は、正岡子規がいる一方で尾崎紅葉がいると思う。尾崎紅葉の俳句というのは、今日ほとんどまったく知られていない、といってもいい。『尾崎紅葉全集』の編集に関わった関係で、紅葉の俳諧ならびに紅葉の短詩型文学とその理論を並べた巻に携わりました。その結果、正岡子規の側から近代俳句を見るだけでは、事態の一方しか言っていないことになると感じたのです。


 もっとも、やはり本業でなく俳句を作る潮流は絶えやすく、現代俳壇において紅葉の系譜を自称する俳人は皆無といってもよい。

 具体的に紅葉の俳句を読むと、次のような句に西鶴らしさを感じることができる。


天渺々海漫々ひよつこり一ツ松漁船

稲妻や二尺三寸そりやこそぬいた


 それぞれ談林俳諧の気配を感じることができる。「天渺々海漫々」の句はその破調に西山宗因の作風を感じることができる。俳人の小澤實は、この句を「最初に『天渺々海漫々』と漢語を連ねるが、『中にひよつくり』と途中で俗語に転調する」(小澤、二〇二五)ところに西鶴よりの俳諧の流れを見出している。また、「稲妻や」の句は高山れおなの解説によると硯友社という文芸サークルの場で言語遊戯的に作られた句であるとしていて、これも談林俳諧の即吟の精神を受け継いでいる。

 また、絶筆の句とされる〈寒詣翔るちん〳〵千鳥かな〉の句も、岸本尚毅によれば「『ちん〳〵』は千鳥の声の形容ですが、男女の深い仲も意味し」、直接岸本は述べていないものの、掛詞を用いながら男女の深い仲という卑俗なところを詠んでいるさまに俳諧らしさを感じることができる。

 このように、尾崎紅葉は従来言われてきたように西鶴の影響を色濃く受けているが、それは小説だけに留まるものではなく、俳句にも通じていたのである。

※「ちん〳〵」はくりかえしで「ちんちん」


三―二 泉鏡花

 泉鏡花は尾崎紅葉と師弟関係にあった文人で、句作も行っていた。鏡花が紅葉から受けた影響はとても大きく、文体等において多くの指摘がなされている。しかし、鏡花自身が近世の蕉門俳諧などから直接受けた影響に関する研究はいくつか見受けられるものの、鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について書かれた文献はほとんどないと言ってよい。また、そもそも鏡花の俳句について書かれた書籍や先行研究は、秋山稔編の『泉鏡花俳句集』と前述の岸本尚毅による『文豪と俳句』のみと言ってよいほど少なく、今後の研究が俟たれる。

 さて、泉鏡花の句風の特徴として秋山は「①『色彩の配合』を多用し、『理想美とロマン』を追究した『華やかな句』、②『写生に抒情・感傷をこめたやさしい艶のある句』であり、③『芭蕉・蕪村その他の古句』の影響、④『小説の延長』とみられる句」と述べている。今回着目したいのは③である。なぜ鏡花が紅葉を通して西鶴から受けた影響について論じられてきていないかと言えば、仮に鏡花に俳諧の影響を感じる句があったとして、それが鏡花自身が芭蕉・蕪村から受け継いだものなのか、紅葉越しに西鶴から受け継いだものなのか判別することが難しいからであると考えられる。しかし本稿では既に談林俳諧の特徴と、さらにその中における西鶴俳諧の特徴について明らかにしており、これを用いることで鏡花の俳諧様の句について判別することができると考える。

 

礫打ツへく打破ルへく胡桃に石の手頃なる

とうからしあいつからさが過ぎるてな


 いずれも『泉鏡花俳句集』より。このように、破調と即吟性といった談林俳諧の作り方を想起させながら、口調の砕け方や内容に「町人性」を感じる句が鏡花には時折みられる。もっとも、この作り方が鏡花のメインではないことは確かであり、西鶴の影響を受けた紅葉の影響をさらに受けた鏡花俳句にとっては、既に西鶴要素がかなり薄れていることを示唆している。


四、結論

 本稿では、談林俳諧とその中の西鶴の位置や作風を確認したのちに、近現代において西鶴の影響を受けている作家である尾崎紅葉とその門下の泉鏡花の俳句を西鶴の俳諧と比較し、その影響の度合いについて考察した。談林俳諧の特徴は和歌や連歌のクリシェから脱出しようとしたことにあり、その手段として破調や即吟、雅俗の接続が用いられることがあった。その中でも西鶴は対他的優越意識を持ちながらも町人性、自由性を忘れずに当時の俳壇で大きな存在感を放っていたことがわかっている。

 そして、紅葉はそういった西鶴を再発見し、その写生法などを学びながら自らの俳句にも談林風を取り込んだ。しかし鏡花にまで至ると、西鶴の影響は薄まり、わずかに数句談林風の俳句が見られるだけになった。

 このように、子規の系譜に属さない文人の俳句は、近世の俳諧の特質を独自に受け継いでいるケースがある。現代において子規や虚子などの伝統からの解放を訴えるならば、その枠組みの外側に位置していた文人の俳句を読み直すことも重要なのではないだろうか。


【大学俳句会アンケート回答】➀俳句とは何なのか➁俳句で何をしたいか➂俳句に関して何を書きたいか、

辻村栗栖 「➀俳句とは何なのか:日常の過ぎ去って行く目の前の景色を書き留めたい。➁俳句で何をしたいか:馬酔木の作家に興味がある。かなり血は薄いが馬酔木の作家の系譜に連なる作家としてどのように新興俳句が発展して現代の俳壇で覇権を握ったのか調べたい。➂俳句に関して何を書きたいか:俳句史、特に戦後。もしくは江戸俳諧について。」


【筑紫磐井感想】

 子規、虚子が中心となっている現代俳句の系譜の中で、紅葉・鏡花らを取り上げたのは見識である。ただ、論者は二人を、西鶴の系譜ととらえているがこれは小説であってはそうかもしれないが、俳句にあってはどうだろうか。

 さてこの論では、岸本尚毅『文豪と俳句』、高山れおな『尾崎紅葉の100句』、小澤實共著『近現代詩歌』を使っているが、単著としては高山が圧巻である。高山は『尾崎紅葉の100句』以後、「『尾崎紅葉の100句』補遺」「翻車魚」第6号(2021年11月号)に掲載(『尾崎紅葉の100句』刊行以前に補遺が出るのもすごい)、さらに雑誌「オリジナリ」に「はれのち句もり」と題して紅葉・鏡花のみならず、巌谷小波、徳田秋声、江見水蔭、川上眉山、小栗風葉、柳川春葉の紅葉の門葉、太田南岳、谷活東、石倉翆葉らの晩年の弟子、星野麦人、角田竹冷らの周辺作家を取り上げており、いわば「紅葉山脈」の鳥観図を示している。これを見ると確かに子規一派に対し紅葉一派は見劣りするようだし、紅葉一派が何をめざしたかは子規一派程明確ではないようである。『尾崎紅葉の100句』で示されたように、直線志向の子規と違って得体のしれない紅葉の俳句を知るには、周辺まで視野を広げることは意味があるかもしれない。

 紅葉・鏡花の批評で興味深いのは、この中に三島由紀夫が出てくるのだが、それは、中央公論社『日本の文学』で紅葉・鏡花の巻の解説をしているからだという。力作だそうである。紅葉については、その他の評者として日夏耿之介(意外である!)、荻原井泉水、島田青峰、村山古郷の名も挙がっている。せっかく紅葉・鏡花を取り上げたのだからこれらを踏まえて現代最高峰の紅葉・鏡花論を書いてみてはどうか。俳人で紅葉・鏡花を研究する人は極めてまれだからこれは決して夢ではない。

 この論でもう一つの山となっている西鶴の影響であるが、通説での小説における西鶴の影響は間違いないであろうが、俳諧についての影響はあまり論じている人がいない。現代俳人では、高橋睦郎が紅葉は西鶴の談林でなく、其角の江戸座に近いと言っているのは銘記してよい。高山も同感している。論者独自の論があってもいいが一応参考にしておくべきだろう。

 参考までに、明治時代の子規の日本派の有力なライバルであった紅葉派・秋声会が以後忘れられてゆく過程には、高濱虚子のキャンペーンの影響があったようである。ホトトギスで虚子による「読本中にある俳句」(大正9年1月~大正12年10月)があり、その教科書俳句批判の中でホトトギス以外の俳句を排除された結果と見てよいかもしれない。

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 以上、私が論者を批判できるほど深い見識を持っているわけではないが、私が気づいた紅葉・鏡花論の周辺を掲げてみた。これらを批判できればほぼ完璧な紅葉・鏡花論が完成するだろう。感想と題した理由である。