樋口由紀子さんの川柳句集『めるくまーる』は『容顔』以来19年ぶりの第三句集。
『容顔』は怪しくも美しいカバーが想起させる鈍錆の世界を湛えていた。『めるくまーる』ではまた違った世界が繰り広げられている。
どのパンを咥えて現れでてくるか
「パンを咥える」という事柄から思うのは、少女漫画における主人公少女と恋の相手の出会いのシーンにまつわる言説だった。「パンを咥えて「いっけなーい、遅刻遅刻」と慌てて登校する少女が、曲がり角で不注意ゆえに人とぶつかり、その相手に抱き起こされ、一目惚れしてしまう」というのがあらましだが、この言説は複数の情報が長い時間を経て組み合わされ、またギャグとして共有されているうちに、真に存在したように誤解されているものである。
現在では存在しないことを念頭に「遅刻する食パン少女」というアイコンが消費されつつある。
長々と綴ってしまったが、この一句を読むにあたり、どうしても食パン少女が脳内に走り出でてしまう。こういう読み方がよいのかどうかは留保したい。が、曲がり角の向こう側で、やがてぶつかる相手が「今日はどんなパンか」と待ち構えていると思うと、独特の興趣がある。
勝ち負けでいうなら月は赤いはず
一読「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの/池田澄子」を思い出してしまうのは、「勝ち負け」という判断が含まれていること、勝ち負けから起承転結の結へと展開を見せること、前半と後半に論理的な因果関係がないにも関わらず、助詞で結ばれ、順接の関係があるように見えていること――などが要件として挙げられる。
その上で、掲句ではさらに結句が「赤いはず」になっている。断定していない。赤いのが勝ちなのか、負けなのか、も明示されていない。これだけ不確定要素が多い一行なのに、読後にもやもやや不安が残されない。なんだか狐につままれたようである。
今家に卵は何個あるでしょう
なにもない部屋に卵を置いてくる
卵の登場する句を並べてみた。この二句は句集では隣り合って配置されているわけではない。
どちらも句切れをほとんど感じさせない、という点が共通しているが、一句目は話し言葉であり、二句目は書き言葉である。「卵」を何かの暗喩として読むことを一切拒んでいるかのような、するりとした容貌と、読みやすく、且つ一分の隙もない構成に、しばし唖然とする。こういった句に出会うと、意識を一時停止させられてしまう。この一時停止は他所ではなかなか味わえない感覚で、勿論厭うべきものではない。
どう向きを変えても高遠に当たる
「高遠」は長野県の高遠町のことだろうか。疑問形になってしまうのは、そういう地名が実在しているとして、この句に書かれている「高遠」そのものとイコールであるとはかぎらない、とどこか脅迫的に私がそう思ってしまうから、である。
それがどこにあるか、が問題ではないのだ。「どう向きを変えても当たってしまう」ことが問題なのだ。物理の神様に聞いてみたい、どうしたら高遠に当たらないようにできるのですか、と。
しかも、「向き」である。力加減や投擲する方法(いや、そもそも「投げる」とすら書かれていないのだから、投擲とも限らないのだが)が問題ではない。
そして、「高遠」も問題を抱えているのだ。ここでは高遠の広さすら無効化されてしまっている。どう変えても当たる、つまり高遠のどこにいても「当たる」可能性がある、ということだ。なんというスカッドなのか。危険きわまりない。
かように、あらゆる社会通念、社会常識的な理を瞬時にはなれて、言葉に没入していく、あるいは、言葉がそうした「雑音」を遮断してくれる。シャープで、濃厚な句集だった。
短いならば短いように舟に積む
布団から人が出てきて集まった
アフリカのダンスをしよう鳥が来る
暗がりに連れていったら泣く日本
ゆっくりと春の小川がでたらめに
字幕には「魚の臭いのする両手」
わたくしをひっくりかえしてみてください
綿菓子は顔隠すのにちょうどいい
60と61の違いなど
いつだって反対側を開けられる
缶の蓋見つからなくて美しい
空箱はすぐに燃えるしすぐに泣く
『めるくまーる』ふらんす堂 2018年11月刊
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