2018年11月9日金曜日

句集歌集逍遙 佐藤清美『宙ノ音』/佐藤りえ


本書は佐藤清美さんの第三句集。『鬣』創刊同人で、20代の頃「俳句空間」に投稿していた旨が略歴に書かれている。
全体的に風通しの良い、すーっと澄み渡る秋の空のような句集だ。刊行時期にかこつけていうわけではないけれど。

 見送りも無用と言われる春があり

食客か、渡世人か、情緒をたちきるように旅立ってゆくものがある。それが誰あろう春のことだという。浸っていたい気持ちを寄せ付けず、ふいに変わってゆく季節がある。

 一等の猫となるまで花を食み

「一等の猫」という把握がおもしろい。ワールドチャンピオン、みたいな壮大な野望ではない、ちいさな競争の勝者、といった感じがする。それまでになされる努力が、花を食べること、というのもかわいらしく、目尻が下がってしまう。

 厨には李の光正しくて

食べごろの食物が奇妙に生命力を漲らせる瞬間、というのは、あると思う。それにしても、キッチンでほの光る李、その光に「正しさ」を感受するのは、不思議なことだ。正しいかそうでないか、ジャッジを求めることなどなさそうなものなのに、この組み合わせは不動に思えてしまう。「李」の字がもたらすいくつかの故事の印象がそうさせるのか。

 身のほかに何を投げこむ秋の河

隣あうのは「秋空を失うもので光らせる」の一句。河も空も自分に勿体ないほどに広く神々しい。投げこむものがこの身一つでは物足りない。あやういようでいて鬱屈さえどこかほの明るい。

 傷む日は冬の眠りの中に住む

落ち込んだり、傷ついて引きこもりたいような日、それが冬なら、冬眠してしまいたい、とも思うだろう。その時すむ「場所」が「眠りの中」なのも、道理である。外界と自分を、ぶあつい獣毛で隔てるがごとく、眠りの中に入っていく、これは自衛なのだ。

 秋の海船魂ありて見送れり
 青柿を手袋の手で触れている

2017年に福島県の久野浜と双葉町を訪ねた旨の前書きのある一連から。訪(おとな)う者として、福島第一原子力発電所の帰還困難区域をどのように詠み、読んでいくのか、を念頭に置いて読んだ。見送りたい者の目に船魂は映るのだと思う。
青柿に触れる「手袋の手」は、防護服の装備のことなのだろう。捥がれる予定のない青柿に触れている、その空間が簡略に伝わってくる佳作だと思う。

作者が上毛の地で、光や風を感受しながらしなやかに息づいている様子が、ありありと伝わる一冊だった。

 冬来たる『北越雪譜』をポケットに
 常世まで翼を濡らし鳥はゆく
 欲しければ銀河は河に落ちており
 梅雨の夜を魚群となりて行く車
 隠り世へ続く道なり曼珠沙華


『宙ノ音』六花書林/2018年10月刊

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