2025年10月10日金曜日

第255号

     次回更新 10/24


■新現代評論研究

新現代評論研究(第13回)各論:後藤よしみ、村山恭子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」/米田恵子 》読む

現代評論研究:第16回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第16回各論―テーマ:「鳥」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき
第五(7/5)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第六(7/11)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第七(7/25)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第八(8/22)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第九(9/12)水岩瞳・佐藤りえ
第十(10/10)鷲津誠次・仲寒蟬・浜脇不如帰

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博
第七(7/5)眞矢ひろみ・村山恭子・冨岡和秀・田中葉月・渡邉美保・小沢麻結
第八(9/12)水岩瞳・佐藤りえ


■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【新連載】口語俳句の可能性について・3 金光 舞  》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり37 金子兜太『日常』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](56) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(62) ふけとしこ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

9月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …



■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。  

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり37 金子兜太句集『日常』  豊里友行

 句集『日常』(金子兜太、2009年5月刊、ふらんす堂)を何度も読み返す。

 先ずは、帯文を引いておく。

 この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。(あとがき)


長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

 金子兜太の母は、「うんこのように」の強烈な比喩で彼を産むとある。

 己の誕生を長寿の母を眺めつつ自己や母の死が身近な生活空間にある中で俳句に詠まれる。

 これまでの金子兜太先生のパンチの効いた俳句たちに何処か通底している。

 そして兜太先生の晩年の〈生きもの感覚〉やアニミズムについて思考を深化させ続けたのは、誕生とも死とも向き合うその真摯な俳人の姿勢にあるのではないか。


合歓の花君と別れてうろつくよ

 「手術待つ妻に海上の海月」「癌と同居の妻よ太平洋は秋」「病いに耐えて妻の眼澄みて蔓うめもどき」など妻・金子皆子氏との惜別までも俳句に感情を託していく。


いのち確かに老白梅の全身見ゆ

 「シャワーの湯を体にぶつけ冷(すさ)まじや」「荒星に和む眼(まなこ)の友ら老ゆ」「男根は落鮎のごと垂れにけり」「秋遍路尿瓶を手放すことはない」「バナナ一本の朝食や霧の家」「一人寝に鶴瓶落しの湖(うみ)がある」「寒鯉にかこまれている宵寝かな」「おたまじやくし見ていて眼科医と話す」「ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな」など金子兜太先生自身の老いも包み隠さず俳句に生き様を刻み込んでいく。その生き様さえも生きもの感覚の延長線上にあったのだろう。


左義長や武器という武器焼いてしまえ

 社会性俳句の旗手であった金子兜太の態度は、「いのち」に向き合うことだったのかもしれない。命を傷つけ、奪う。そんな武器への戦争への怒りの炎は、その武器を焼いてしまうことにまで言及されていく。

 2015年5月に安全保障関連法案が国会に提出された(同年9月に成立)。その抗議のスローガンは、澤地久枝氏によって考案され、揮毫を金子兜太に依頼された。それぞれの運動の抗議の場でこのプラカードが、躍り狂うようにさえ見えた。社会性俳句への議論は、たとえ議論しつくされたとしても私にとって結論よりもこれから私がどう生きて行くか。私なりの態度を俳句で打ち出していく指針にもなる。

 「父の好戦いまも許さず夏を生く」「新月に浴後の軀一つ曝す」なども金子兜太の社会への態度や葛藤が俳句に刻まれている。


 「海程」会員時代に出会ったこれまでの私なりの俳句への態度は、金子兜太先生たち俳句に人生をかけて刻み込んだ俳人としての態度から、やはりこれからも学び続けることになるだろう。

 共鳴句を下記にいただきます。


秋高し仏頂面も俳諧なり

とりとめなし無住寺のごきぶり

奥山の岩の匂いの無常感

みどりごのちんぼこつまむ夏の父

ここ青島鯨吹く潮(しお)わらに及ぶ

炎昼の茶昆白骨となり現(あ)れしよ

熊飢えたり飢え知らぬ子ら野をゆけり

冬眠も成らずや眼光のみの蛇

母の歯か椿の下の霜柱

東京駅怒鳴る男と寒卵

野に眠る陽炎とともにいる時間

心太真つ暗闇を帰り来て

霧の海ひつそりと春情の野生馬

いのちと言えば若き雄鹿のふぐり楽し

人々に蜩落ちてばたばたす

朴咲けり朝から旧き戀歌ばかり

柿若葉海光とどく頭(ず)や虚し

ごうと黒南風禿頭ほどほどの湿り

頂上はさびしからずや岩ひばり

蟬がこんなに出て寺を猪(しし)歩く

夏の鹿夕日が月のごと赫く

露舐める蜂よじつくりと生きんか

虚も実も限(きり)無(な)く食べて秋なり

山楝蛇の見事なとぐろ昼寝覚

人の子が見ている牛蛙泳ぐよ

ビル街に白木槿フリーターのように

一日中光り貪り夜長かな

梨の花麻痺で曲がつた顔曝す

言霊の脊梁山脈のさくら

源流や子が泣き蚕眠りおり

山霧の触覚もあり螢狩

青胡桃逢いたい人がやつて来る

誕生も死も区切りでないジユゴン泳ぐ

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第5回:「実作者の言葉」…「書」  米田恵子

  『天狼』昭和23年3月号の「実作者の言葉」に「書」と題した随筆が載り、続けて「書 ふたたび」と出てくる。そして、5月号の「実作者の言葉」にも「書 みたび」、8・9月号に「書 よたび」と出てくる。

 誓子の書は、少し丸みを帯びた、細い字であるが、芯の強そうな書である。しかし、決して達筆とは言えず、書道をきちんと学んだというより、誰も真似のできない独自の書である。しかし、そこに至るまでには、いろいろと変遷が見られるのである。いきなり、「誓子流」が完成したのではない。むしろ、誓子ほど書の変化がみられる俳人はいないのではないだろうか。私は「誓子と書―「誓子流」の完成―」(『日本文化論年報』第14号、神戸大学大学院、2011年)において、いわゆる「誓子流」の完成までを、誓子の揮毫や署名の変化から5期に分けて考察した。

 学生時代の書が野風呂記念館(京都市)に保存されているが、書道を学んだとは決して言えない、素朴な楷書である。「素朴」と言ったが、晩年の書から想像できない書である。そこから、誓子は独自の「誓子流」を編み出していった。

 そんな誓子には「書」に関して転機が2つあると私は考える。

 1つ目の転機は波津女との結婚である。波津女は少女のときから、奈良高等師範学校の書道の教授に家に来てもらって、家中で習っていたのである。波津女の書は、誓子とは正反対で、流麗なくずしで「水茎の跡麗しく」と形容されるが、まさにその通りの書であり、誓子とは違い、終生その書は変わらなかった。その書道の教授の手本帖が残されているが、驚いたことにその書はまったく波津女の書と同じであった。波津女も真面目で几帳面な性格であったためか、お手本と寸分たがわぬ書であった。

 ところで、誓子は、良寛のような字を書きたいと目標にしていたが、波津女との結婚によって、誓子の書の先生は実際は波津女であった。ご遺族のお話によると、芭蕉などの江戸時代のものや短冊や色紙もくずしが分からない時は、誓子は波津女によく聞いていたそうである。草書のくずしも、波津女から学んだのである。だからかもしれないが、俳句の作品展で、波津女の清書を誓子の自筆だとした解説があり、これは誓子の自筆ではなく波津女の清書ですと何度か指摘したことがあった。夫婦とは、やはり似てくるものである。わたしなどは、ほほえましく思うところである。

 2つ目は、戦争中、誓子は結核の療養のため四日市市にいたが、空襲のため防空壕に避難するが、そこで誓子は一巻本の『草字彙』を持って入り、指で宙に草書を書いて練習したという。空襲時に何という悠長なことをしているのかと批難を受けそうであるが、誓子の気持ちは、いつ死ぬかわからない時だからこそ、自分を鍛えられるだけ鍛えよう、このままで死んでしまうと恥ずかしい思いをする、だからこそ、俳句と書を極めようとしたというのである。私なら死を覚悟したとき、何を思うだろうか。山口誓子のことは、まだまだ分からないことがあり、私には理解できないところもある。だからこそ、山口誓子を極めようと思うのだろうか。

 ところで、「実作者の言葉」の「書」では、まず、永田耕衣から揮毫するときの遅筆を指摘され、遅筆に関する先人の考えを知ろうとして『玄抄類摘』や中国の書籍から漢文を引用したり、「書 ふたたび」では、漢文の他に鬼貫、藤村を引用する。「書 みたび」では、『孫過庭書譜』の漢文をそのまま引用したが、その読みに誤りがあると読者から指摘を受け、「書 よたび」に、書き下し文を載せる。誓子も書いているのだが、漢文が分かる人は読むだろうが、ほとんどの人は読まないと。私も漢文そのままのところは読みとばしていた。

 それにしても、「実作者の言葉」には、丹念に調べる誓子が出てくるのであるが、負けず嫌いの性格がそうさせるのだろうと思う。

【新連載】口語俳句の可能性について・3  金光 舞

  前稿では、市川一男『口語俳句』(1960)を参照し、口語俳句が決して新奇な潮流ではなく、「生活と詩の直結」を目指す理念のもとにすでに理論的基盤を有していたことを示した。口語俳句とは単にくだけた言葉遣いとは違い、人々の暮らしの中で実際に使われる言葉を俳句という器に定着させる試みであると位置づけた。

 そのうえで、越智友亮『ふつうの未来』より〈すすきです、ところで月が出ていない〉〈草の実や女子とふつうに話せない〉〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉の三句を分析し、伝統的な季語や自然詠の型に口語的なリズムや現代語を重ねることで生まれる表現の新しさを検討した。

 〈すすきです、ところで月が出ていない〉では、「すすき」と「す好き」の音の重なりから、恋の告白を仄めかす二重性を指摘し、理想と現実の落差をそのまま提示することで生まれる欠けの美学を明らかにした。

 〈草の実や女子とふつうに話せない〉では、率直な口語によって青春の不器用さをそのまま俳句の中に定着させた点を評価し、「ふつうに」という語がもたらす日常的リアリティが新たな普遍性を生み出していることを確認した。

 〈焼きそばのソースが濃くて花火なう〉では、SNS的スラング「なう」を取り入れることで、俳句の本質である「いま・ここ」の瞬間性を現代語で再定義していることを論じ、俳句が依然として「生きた言葉の実験場」であり得ることを示した。

 これらの分析を通して、口語俳句は「生活」「青春」「SNS」など現代的なリアリティを積極的に取り込み、俳句の瞬間性を新たな表現形式として更新していることを明らかにした。その一方で、言葉の古びやすさや軽さといった危うさも抱えるため、口語俳句を「生きた言葉としての俳句」の延長上に位置づけつつ、その表現の成熟や持続可能性を今後も検討していく必要があることを確認した。


演出として

 次に、髙田祥聖の指摘を踏まえて考えたい。髙田は、1 口語俳句を特徴づけるもののひとつとして「言い回しによるキャラクター性、関係性の演出」を挙げている。


 2由緒書きをさーっと読んで梅の花

 3肩こって気疲れかしら林檎に葉

 4マフラーに顔をうずめる好きと言おう


 〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉この一句における最大の焦点は、何といっても中七に置かれる「さーっと」という語にある。由緒書きというのは、寺社や史跡に赴けば必ず目にする解説文であり、そこには歴史的背景や伝承、文化的価値などが丁寧に記されている。本来であれば、参拝者はそれをきちんと読み込み、対象物のありがたみを理解した上で花を鑑賞するのが真面目な態度だとされるだろう。しかし、この句の語り手はそうしない。あえて 「さーっと」と、軽く目を通す程度に読み飛ばしてしまうのである。

 この「さーっと」という副詞の効果は絶大である。もしここが「由緒書きを読んで梅の花」であれば、句は単なる観光記録、あるいは少々事務的なスナップにとどまっただろう。だが「さーっと」という言い回しが入ることで、そこには人物の気配が立ち上がってくる。几帳面に活字を追うのではなく、まぁ大体のことはわかったという軽快な態度。堅苦しいものに縛られず、むしろ今この場の梅の花を早く見たいという衝動が優先している。つまり、この句はただの風景描写ではなく、その場に立つ語り手のキャラクターを直接的に表現しているのである。

 ここで重要なのは、この「キャラクター性の立ち上げ」が、俳句という最小の言語形式の中でいかに鮮やかに行われているか、という点だ。わずか五音の「さーっと」が加わることで、読者は几帳面で理知的な人ではなく、肩肘張らず気楽に物事に向き合う人の声を聞き取る。俳句は十七音の限られた空間の中で景物を描く芸術だが、この句はそれを超えて、まるで小説の人物描写や映画のワンシーンのように人となりを立ち上げてしまうのである。高田が指摘する「言い回しによるキャラクター性の立ち上げ」が、まさにここに端的に示されているのだ。

 このキャラクター性は魅力的である。几帳面に全てを理解してから梅を眺める人物よりも、まあまあ、細かいことはさておき、まずは花を楽しもうという態度の方が、むしろ読者には親しみやすく映る。観光地で由緒書きを熟読するよりも、気楽に眺めてああ、きれいだと感じる方が人間らしい。そうした軽やかさは、むしろ現代的な感性とも響き合っている。つまり「さーっと」という言葉によって、この句の語り手は、几帳面さよりも自由さ、理屈よりも感性を大切にする人物として、鮮やかに読者の前に姿を現すのである。

 そして下五に「梅の花」という典雅な対象が置かれることにより、その軽やかさは決して浅薄なものにとどまらない。由緒や歴史を完璧に理解せずとも、梅は梅として美しく咲いている。その美しさに対して、「さーっと」読み流した人間の眼差しが直に向けられる。ここにあるのは、学知や教養を超えた生の感覚の信頼であり、だからこそ句は爽快で読む者を笑顔にさせる力を持っているのだ。

 要するに、〈由緒書きをさーっと読んで梅の花〉は、由緒ある場を訪れた人間の性格の断片を、たった一語の副詞によって浮かび上がらせるという離れ業を成し遂げている。俳句が景物の描写だけでなく、語り手のキャラクターをも描きうることを、これほど見事に示した句は少ないだろう。そのキャラクターは几帳面さとは無縁であり、むしろ気楽で軽やか、どこかユーモラスで人間味に満ちている。読者はそこに共感し、好ましさを感じ、そして自分も同じように、つい由緒書きを読み飛ばしてしまうかもしれないと微笑むのである。この句は、言葉ひとつで人が立ち上がるという俳句表現の可能性を力強く証明しているのである。


 〈肩こって気疲れかしら林檎に葉〉この一句で先ず注目すべきは、中七の「気疲れかしら」である。上五の「肩こって」だけであれば、それは単なる身体の状態の描写にとどまる。肩が凝っている、というのは誰にでも起こる日常的な感覚であり、俳句として取り立てるほどのことではない、とも思える。しかしそこに「気疲れかしら」という言葉が添えられることで、句は一気に人の声を帯びるのだ。

 この「かしら」という終助詞による断定を避け、どこか独白的で柔らかなニュアンスを湛えるその響きは、語り手が自分自身に問いかけるような、あるいは隣にいる誰かに軽く打ち明けるような調子を生む。もしここが気疲れだと言い切られていたならば、句は硬直してしまい、語り手の人柄は立ち上がらなかっただろう。しかし「かしら」と疑問形にずらすことによって、そこには自己観察と同時に微笑ましい曖昧さが生まれ、読者はこの人はきっと几帳面に自己診断をするのではなく、気軽につぶやくタイプなのだと感じ取る。この句は景物や状況の描写にとどまらず、語り手のキャラクターを鮮やかに提示しているのである。

 さらに「かしら」には、独白だけでなく誰かに向けた語りかけの気配も潜んでいる。強く訴えるわけではなく、さりげなく問いかけるような柔らかさ。読者はそれを受け取り、まるで語り手の隣で話を聞いているかのような感覚に包まれる。肩が凝っているんだけど、気疲れかしらね、と言われて、ああ、そうかもしれないねと応じたくなるような親密さが、この句の中で自然に立ち上がるのだ。俳句という短詩が、単なる情景のスナップではなく人と人とのコミュニケーションにまで広がっているのは、この終助詞の選択によるところが大きい。

 そして、下五の「林檎に葉」がこのキャラクター性をさらに補強している。林檎の実に一枚の葉が残っている。その小さなディテールは、身体の疲れを語る人物の前に、ふっと差し出されるように存在している。林檎の瑞々しさ、葉の青さが「気疲れ」という内面的なつぶやきと対比され、句全体に生活のリアリティと柔らかいユーモアを与えている。もし「かしら」がなければ、この林檎の風景はただの季語的な補足にすぎなかっただろう。しかし「かしら」という声があることで、この林檎はまるで語り手がつぶやくときに目に留めている具体物として、ぐっと生き生きと輝き出すのである。

 このように見てくると、「肩こって気疲れかしら林檎に葉」は、単なる身体感覚の報告や自然物の描写を超えて、「声を持った人物」を立ち上げている句だと言える。几帳面に説明するのではなく、ふっと気持ちを漏らす。深刻ではなく、むしろどこか可笑しみを帯びた軽やかさ。そんな語り手の人柄が「気疲れかしら」の一言に凝縮されている。そして読者は、その人柄に自然と惹かれ、句を読んでいたはずが、打ち明け話を聞く時間に変わってしまうのだ。

 俳句の世界において、キャラクター性をこれほど端的に、しかも魅力的に立ち上げてみせる例はそう多くはない。ここでは「かしら」というたった三音が、声の質感を与え、人物像を照らし出し、さらに読者との関係性を生んでいる。俳句が景色の写生である以上に、人の存在そのものを描く文学であることを、この句は力強く証明しているのである。


 〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉この一句で、先ず私たちの心をとらえるのは下五の「好きと言おう」である。俳句という形式のなかで、ここまで率直に、しかも直接的な言葉が置かれることは稀だ。伝統的な俳句では、感情を余情として漂わせ、読者に汲み取らせるものだという美意識が長く支配してきたのである。ところがこの句は、その伝統的な態度をあっさりと飛び越え、「好き」という直球の言葉を句の中核に据える。その瞬間、この句はただの叙景から、読者の心に直接届く告白の場面へと一変するのだ。

 ここで重要なのが、「言おう」という意志形である。すでに「言った」わけではない。まだ心の中にありながら、これから口に出そうとしている。つまり、語り手は読者に向かって私は今、好きと言おうとしていると、その瞬間の揺れを曝け出す。これは単なる事実の描写ではなく、心の動きの実況中継である。勇気を奮い起こそうとする気持ち、言葉が喉まで出かかっているのにまだ声になっていない、その緊張の刹那が、この「言おう」に凝縮されているのだ。ここに現れるキャラクターは、決して完成した人物ではなく、むしろ未完成で揺れ動いている。その不安定さこそが魅力的なのである。

 さらに、上五中七の「マフラーに顔をうずめる」という描写が、このキャラクター性を際立たせる。寒さから顔を守る仕草であると同時に、照れや不安から顔を隠しているようにも読める。つまり「マフラー」は防寒具であると同時に、語り手の感情を象徴する小道具なのだ。その中に顔を埋めながら、「好きと言おう」と心に決めている姿を想像すると、私たちは思わず微笑んでしまう。そこにあるのは、無防備で等身大の人間像である。俳句の中に、これほどまでに具体的で愛らしいキャラクターが息づくこと自体が驚きであり、革新である。

 「好きと言おう」という言葉は、また読者との距離感を変える力を持っている。伝統的な俳句では、読者は景色を鑑賞する第三者に過ぎなかった。しかしこの句では、語り手がまるで目の前にいるかのように、直接「好きと言おう」とつぶやきかけてくる。私たちは単なる傍観者ではなく、その瞬間を共にしている存在として巻き込まれるのだ。つまり、句の中で生まれているのは、語り手と相手だけでなく、語り手と読者のあいだの親密な関係性でもある。俳句がここまで読者に肉声を届けることができるという事実は、驚異的であり、同時に非常に魅力的である。

 このように見てくると、〈マフラーに顔をうずめる好きと言おう〉は、俳句の新しい可能性を開いている句だといえる。自然や季語に感情を託すのではなく、感情そのものを口語で直接表現することで、語り手のキャラクターを前景化する。そしてそのキャラクターは、不安を抱えながらも勇気を出そうとする、まっすぐで可愛らしい人物として描かれている。読者はその人物に強い親近感を抱き、まるで隣で告白の準備をしている友人を応援するかのような気持ちになるのだ。

 つまりこの句の魅力は、単なる告白の場面を描いたことにとどまらない。「言おう」という意志形に込められた揺れによって、読者の前にひとりのキャラクターが鮮明に立ち上がり、その声が直接届いてくる。俳句の中で、ここまで具体的で親密な人間像を立ち上げるのは容易なことではない。しかしこの句はそれを成し遂げ、俳句を「人間の声を描く文学」として新たに提示しているのである。


 三句はいずれも、口語的な言い回しによって、客観的な叙景よりもむしろ語り手の声を前景化している。「さーっと」「かしら」「好きと言おう」といった言葉は、単なる描写の補助ではなく、語り手のキャラクターを立ち上げ、同時に読者との関係性を演出する装置である。つまり、高田が論じる「言い回しによるキャラクター性・関係性の演出」という口語俳句の可能性は、これら三句において具体的かつ鮮明に体現されているのである。


 1 『俳句雑誌「noi」vol.2』(2025) 寄稿:髙田祥聖 49頁を参照

 2 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 58頁より引用

 3 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 66頁より引用

 4 『ふつうの未来』(2022) 著:越智友亮 71頁より引用

英国Haiku便り[in Japan](56)  小野裕三

米国から届いた精鋭アンソロジー

 haikuを通じて知り合ったアメリカ人女性から、一冊の合同句集が届いた。『A New Resonance』という書名で、二十四年前に始まり、巻数を重ねて今号が十三巻目。以前のエッセイで紹介した『英語俳句〜最初の百年』の編者でもあり、英語haikuの唱導者としては第一人者と言える、ジム・ケイシアンが編者を務める句集で、かなり質の高い一冊と感じた。彼の序文にある一節が示唆的だ。

「(この句集には)道理を超え、私たちが既知と思うことに疑問を投げかけ、私たちを別世界へと誘い、感性を変え、狼狽すらさせる、そんな詩がある。革新と伝統の双方にとって場所があることが、詩の集団としての私たちの自負だ」

 ここに指摘のあるように、革新から伝統まで、広い振れ幅の中に優れたhaikuが並ぶさまは壮観で、その許容度は日本の現在の俳句界よりも広いように思うし、それが英語haikuの特徴でもある。


 painting the sea

 she lets the water do

 what water does    Mimi Ahern

海を描く / 水がすることを / 彼女は水にさせてやる


 insomnia

 Jupiter has changed

 windows     Agnes Eva Savich

不眠症 / 木星は変えてしまった / 窓を


 doorknob

 turning

 the world       Pippa Phillips

ドアノブ / 世界を / 回転させる


 これらの句は無季ではあるが、ある意味で大きな自然や世界という存在に真摯に向き合った句であり、かつ極めて現代的な感覚が研ぎ澄まされている。


 on a bus into the mist an idea and us

          John Rowlands

霧へと進むバス 観念と私たち


 forest fire —

 believing I’ll be

 reborn        Cyndi Lloyd

森の火事 / 私は転生する / そう信じて


 これらは有季だが、日本の俳句的情緒とは異なる感覚があり、しかしそれゆえに卓越する。そんな一方で、落ち着いた客観写生の句もこの句集には見られ、時には同じ作者でもそれが同居する。

 果たしてアメリカ人の俳人は、伝統と革新ということをどう思うのか? 知人の一人にメールで訊ねた。難しい質問ね、ちょっと回答に時間をちょうだい、と言いつつ、彼女はこんな逸話を引用した。ある時haikuの先輩に、haikuに必要な条件は何かを訊ねた。彼は答えた。

「書いた人がhaikuと呼べば、haikuさ」

 そんな奔放さは、アメリカ人らしい自由さゆえか、日本語のしがらみに囚われない英語haikuゆえか。とにかくこの句集の輝きは少しばかり羨ましかった。

(『海原』2024年7-8月号より転載)

【新連載】新現代評論研究(第13回)各論:後藤よしみ、村山恭子

★ー3 高柳重信の風景8 後藤よしみ

八 終章

 本連載では、高柳重信の句業における「風景」の概念に着目し、作品の変遷を追ってきた。敗戦後、従来の俳句概念を打ち破り、多行形式による新たな表現を切り拓いた重信の軌跡は、西洋的な象徴主義(『蕗子』『伯爵領』)から、日本的な言霊と呪術の思想(『山海集』『日本海軍』)へと、作風と形式を劇的に転換させた点に特徴づけられる。この大きな転換を駆動した力の源泉こそ、重信が向き合い、そして遊戯的に再構築した風景であった。


㈠  規範化された風景への遊戯的な対応

 重信が生きた戦中・戦後の時代は、風景が二重の意味で規範化に晒されていた。一つは、志賀重昂の『日本風景論』に端を発し、近代国家が精神的な国土を措定するナショナル・アイデンティティとしての規範的な風景である(第二章)。もう一つは、桑原武夫の「第二芸術」論をはじめ、俳壇内部からも突きつけられた形式・美学の規範である(第五章)。

重信は、これらの重圧的な規範化に対し、巧みな「遊戯」性をもって対応した。初期の多行形式による視覚的な「カリグラム」は、五七五という定型の形式的規範を打ち破る、大胆な「遊び」であった(第六章)。


森                            森 の 奥    の

の    夜                           夜    の

更  け    の         *    雪 の お く の

           拝                     眞    紅

火  の    彌  撒           の    ま ん じ 

   に 

身  を    焼  

く    彩

蛾                                       『伯爵領』 


 さらに、関東大震災と戦災により物理的に喪失した小石川の原風景(第三章)の代償として、詩人の想像力のみで架空の自治領『伯爵領』を創設した。これは、国家による国土の上からの「図式化」という空間的規範に対し、個人の詩的意志が仮構された空間を置くという下からの主体的な応答であった。


遂に 

  谷間に 

見いだされたる 

桃色花火                  『伯爵領』 

  

 この遊戯的な構築は、後期の『日本海軍』においてさらに進展させ、挑戦的な局面を迎える(第七章)。軍艦の艦名や地名という、かつての皇国史観と結びつくモチーフをあえて取り上げながら、それをパロディ(松島句)や、少年期の私的な愛着(日本海軍の組み写真)を基盤とする「遊戯的な構築」の題材に組み替えた。そのことにより、重信は公的な歴史の規範から切り離された詩的言説として、自己の深層にあった「日本的なるもの」を「図と地」の反転のように表象することに成功したのである。


松島(まつしま)を 

()げる 

(おも)たい 

鸚鵡(あうむ)かな               『日本海軍』


㈡  原風景への転回と多様性の確保

 遊戯性をもって規範化の圧力を相対化し、形式の限界という課題に直面していた重信に、新たな道筋をつけたのは、一九六五年、宿痾の悪化による入院期の風景の再発見であった(第六章)。日光・筑波の山々との対話は、少年期の眺望体験を再生させ、自己の内省と遡行を促した。このとき、風景は、単なる外界の眺めから、個人の精神と歴史的な古層が繋がる場へと転回したのである。この転回は、それまでの象徴主義から日本的なるものへの反転であり、いわば「図と地」の反転のようであった。

 この転回は、一九七一年の飛騨行で結実する。重信は飛騨の地に、日本的なるものの根源としての言霊や呪術を見出し、風景を神霊の依代と捉えた。ここで生まれた「飛騨十句」は、ゲオルク・ジンメルのいう「感情的統一」や、ニコルソンのいう「崇高」の美学を、日本的な文脈で達成している(第七章)。


飛驒(ひだ)の       飛驒(ひだ)の      飛驒(ひだ)

(うま)朝霧(あさぎり)   *  山門(やまと)の   *  闇速(やみはや)()水車(すゐしや)

朴葉焦(ほほばこ)がしの    (かんが)(すぎ)     ()(ひめ)

みことかな     みことかな    みことかな

                                「飛驒」 『山海集』


 重要なのは、この風景が、重信の詩的伝統における「多様性の確保」の場となった点である。西洋象徴主義の暗喩(心象の連鎖)と、富士谷御杖の言霊倒語論(言葉に宿る力)という、一見相容れない二つの詩的伝統が、飛騨の神話的空間において、「みことかな」の響きと共に統合された。この統合こそが、重信が長年希求してきた、西欧の概念に回収しきれない日本的なるものを、詩として定着させるための道であった。

 また、風景の獲得は、戦後の象徴主義により姿を消していた「私」(一人称)の再浮上を許容した(第六章)。


天に代りて    目醒め

死にに行く  * がちなる

わが名      わが尽忠は

橘周太かな    俳句かな          『山海集』


 規範から解放された風景は、重信の深層に沈んでいた死の体験、父母への思い(『遠耳父母』)といった私的な記憶を再び詩的言説の核として機能させ、内面の真実を語る主体を回復させたのである。一行形式の山川蟬夫作品にも、その系譜は見て取れる。


㈢  創造性のトリガーとしての風景

 高柳重信の句業を総括すれば、そこで獲得された風景は、単に自然を写し取ったものではなく、喪失を抱え、規範に抗い、遊戯によって解体され、内省によって再構築された多層的な心象の場であった。

 この風景の獲得こそが、多行形式の実験が行き詰まりを見せていた重信に対し、四行形式・総ルビという新たな形式と、言霊・地霊に満ちた新たな内容をもたらし、重信後期の創造性のトリガーとなった。

 高柳重信の全生涯は、風景をめぐる個人の精神の抵抗と創造の軌跡であった。彼は、外界の風景の深部に潜む詩的契機を逃さず掴み、それを遊戯と呪術という詩的な行為によって、創造の磁場へと転回させる実践者であった。高柳重信の残した風景は、今もなお、私たちに、失われたものこそが創造の源泉となるということを示している。


★―7:藤木清子を読む5/村山恭子

5 昭和10年 広島県 藤木水南女で出句 ③


  夫病みて十年めぐりぬ秋の蚊帳      京大俳句10月

 夫が病んで十年になりました。〈めぐりぬ〉から十年の間に起こった様々な出来事が想い起こされます。また〈秋の蚊帳〉で休んでいる夫は、長年の闘病からやつれており、その姿を見つめる眼差しは、やさしくもあり冷ややかでもあります。

   季語=秋の蚊帳(秋)


  心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり       同

 〈心の瞳〉とは普段は隠している、自身の心眼です。物事の大事な点を見通す、鋭い心の動きを表し、〈幾夜〉も砥ぎ澄ましてきました。夜の静寂の中、身ほとりについて深く考え、また内観する姿が、虫の音と呼応しています。

   季語=虫鳴く(秋)


  夫かなし野鳥鳴く音にさへ怯え      同

 〈かなし〉は「悲しい」と「愛おしい」の二つの感情を併せ持った言葉です。自分の手ではどうしようもない状態に堪えて、野鳥の鳴く音に怯える夫の姿は、みじめでもあり、守り続けたい存在でもあります。

   季語=無季


  初秋よし静脈透きて脈搏つよ       旗艦11号・11月

 秋の初めの頃は、暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配が感じられます。

 〈初秋〉はよいと言い切り、青い静脈が透いて見える白い手首をしっとりと見つめています。また〈脈博つよ〉に命の鼓動を感じます。

   季語=初秋(秋)


  初秋よしオークル色のわが肢体      同

 〈オークル〉はフランス語で「黄土」を意味し、黄みと赤みのバランスのとれた肌色です。〈オークル〉の長音が視覚と聴覚により、手足と身体の伸びやかや様子を表します。

 秋の気配を感じながら、自身の肢体を賛美しています。

   季語=初秋(秋)


  秋讃へミレーの落穂わが拾ふ       同

 秋を優れたものとして心からほめています。

 ミレーの『落穂拾い』のように農作業をしている実景とも取れますが、〈わが拾ふ〉から内面性が感じられ、貧しくとも生存していく清廉さ、美しさがあります。

   季語=秋(秋)

【連載】現代評論研究:第16回各論―テーマ:「鳥」その他――藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2011年12月09日)

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

残酷ニデスネ。エエ梟ノヨウニデス

 「層雲自由律2000年句集(注①)」所収の平成6年の作品である。梟という字は鳥と木から成り立っており、獲物を木に突き刺すその方法がちょうど磔に似ていることから晒す、猛々しい、強い意志を示す語となっている。梟師、梟首、梟猛、梟雄などの強く厳しい言葉などが多いのも頷かれる。

 さて掲句だが、その梟の残酷さを示すが如く、異常なドラマ展開の中での問答形式で表されている。しかも漢字とカタカナ表現でその切っ先の鋭さ、ゴツゴツ感から残酷さを増幅させているかの如くに。この様に句読点を含め、自由律の表現には如何様にもドラマの展開を拡げていける自由と奔放さが潜んでいる。しかしこの作品あたりが一行詩とのギリギリの境界に立つものであろうかとも。俳句というものを形式ではなく詩的内容で捉える限り許容される範囲と考えるのだが。


おんなの骨に梟なき 月日すぎました   昭和62年作

 この句の場合は、亡くなった女の記憶が月日の中で角質化してゆく過程を、梟の鳴き声をおんなの骨に潜ませることによって再認識させる構成となっている。また一字空白はその時間的な落差を示しているものと言えよう。狂言に「梟山伏」というのがあり、梟にとりつかれて奇声を発する病人を直そうと山伏が祈るが、自分が奇声を出し始めるという内容のもので、梟の鳴き声はそのように意識下で伝搬してくるようである。

 梟と言えば山頭火の「ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない」という句があったのを思い出す。やはり梟はネガテイブな雰囲気を持っているようである。

 圭之介には鴉の句も多くみられる。


木の椅子が一つ 鴉ぎようさん啼いていた       昭和23年作  注②

鴉よ かれ独りの ときのうしろ姿を おもえ(山頭火)昭和25年作  注②

二羽の黒い鳥が的確に空間              昭和28年作  注②

人間笑う以前カラスぎようさん笑う          昭和38年作  注②

生(なま)のもの口にしてカラス不敵に笑う      昭和40年作  注②

あらうみからすをとばす               昭和48年作  注②


 鴉の場合はその存在が常に人間(自己)に対峙するものとして表現されている。その数が一羽でも二羽でもぎようさんでも、その不穏な反意は裏返せば人間そのものに存するとも言えよう。つまりは人間の奥底に潜んでいる鴉をえぐり出すが如くに。それは山頭火に対しても同じような思いであったであろう。

 その他「鳥」に関する句と詩の断片を若干列記する。


鳥の渡る湖がランプもう灯していた         昭和24年作 注②

鳥ら空の道の明るさにつづく            昭和30年作 注②

気管の奥に断崖 海鵜の啼く時もある        昭和55年作 注②

鳥の貌北へ北へその日河口空瓶(くうびん)一個   昭和56年作 注②

署名をする海鳥の啼く古里の中で          昭和58年作 注②

林の部分が明るいのは其処へ一羽で行くんか     昭和59年作 注②


<パレットナイフ 2>  注③

Ⅰ この時間は黄泉のくに珈琲房

星座と呼ぶ仮面の女 そのまなざし

(ドリップがこれから香るのだ)

Ⅱ 憎悪は一本の影

太陽に位置の確かさ

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た

どこにも通り抜ける道を持たずに

――いらだちのサラダ私に青い

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河

内なる凶

沈黙と溶暗

Ⅴ 虚空(そら)が一羽の鳥を溶岩に変えて堕した

二枚の翼の重さ 鳥の半生


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

注③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 いろ恋に邪魔なふんべつ鳥雲に

 昭和39年作、『冬濤』に所収される作品である。

 鳥たちがはるか大陸へと帰っていく「鳥雲に入る」は、きくのの気に入りの季語であったと思われ、第一回の感銘句に挙げた

 歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に  『榧の実』所収

を始め、

 似合はなくなりし薄いろ鳥雲に 『榧の実』所収

 買物籠充たす玉ねぎ鳥雲に  『冬濤』所収

 拍子木にきざむ豆腐や鳥雲に  『冬濤』所収

 銭かぞふ女の指よ鳥雲に 『冬濤』所収

と、どれも軽い嘆きを伴うように詠んでいる。

 冒頭に引いた作品には「いろ恋に邪魔なふんべつ」と、勇ましい言葉を発しながら、はるか雲間に鳥の影が紛れる様子を見ることで、実際には常識に縛られながら生きていかねばならないため息が混じる。

 また、

 ふつつりと絶ちし想ひよ鳥雲に 『冬濤』所収

 昭和41年に作られたこの作品は、30年近くの時間を共にした恋人が亡くなった年である。「ふつつりと絶ちし」とはいっても、決して自ら望んだものではなく、死によって一方的に「絶たれてしまった」関係への想いである。ことにきくのの場合、同居する関わりを持てなかったこともあり、会えるの会えないのという焦燥に人一倍苦しめられてきた。待つことに慣れている身には、もう二度と会えないという実感がなかなか湧かないのではないか。やり場のない憂愁を胸に抱きつつ、空の彼方に消えてゆく鳥たちを遠く眺め、この失意をどこか遠くへ持ち去ってもらいたいという願いが込められているようだ。

 こうしてみると、元来感傷的な季語ではあるものの、きくのの「鳥雲に」にはことさら現実を逃避したいこころ、また社会のしがらみからの解放を願うこころが描く幻影に見えてくる。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 冬の雁空では死なず山の数

 昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 齋藤玄は鳥が好きだった。

 鳥好きに雀ばかりの麗かさ 昭和47年作 『狩眼』

と表白していることからもうかがえる。数量的な根拠としては、後半生(昭和46年から昭和55年)の三句集だけで110の鳥の句があり、全体の12パーセントに相当する。(三句集合計938句中、『狩眼』43句、『雁道』43句、『無畔』24句)

 前回の「桜」13句に比べると「鳥」の句は8.5倍に相当する。

 これまでにも「冬」「精神」「夏」「色」の項で、玄の鳥の句を紹介してきた。あらためてあげておくが、内容に関しては重複するので割愛する。

 玄冬の鷹鉄片のごときかな   昭和16年作 『舎木』

 骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる   昭和16年作 『舎木』

 膝立てて大露の雁をゆかせけり   昭和17年作 『飛雪』

 つぎはぎの水を台(うてな)に浮寝鴨   昭和48年作 『狩眼』

 すさまじき垂直にして鶴佇てり   昭和49年作 『狩眼』

 寒風のむすびめごとの雀かな   昭和50年作 『雁道』

 雁の道のごとくに死ぬるまで   昭和53年作 『雁道』

 雁のゐぬ空には雁の高貴かな   昭和53年作 『雁道』

 雁の道はなかりき水景色   昭和53年作 『雁道』

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作 『雁道』

 このなかでは、〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉が秀抜。大空に舞う鷹を〈鉄片のごとき〉ととらえた感性は現代的である。厳寒の大空を舞う鷹に自己を重ね合わせながら、その鬱屈感が象徴的に表現されている。この句の鑑賞と作句時期の時代背景については「色」の項で詳しく述べたので、そちらを参照されたい。

 戦前の作品では、ほかに次のようなものがある。

 枯るる園雌雄の鷹をわかち飼ふ   昭和13年作 『舎木』

 鷲鬱と青き降誕祭を抽(ぬ)く   昭和15年作 『舎木』

 〈枯るる園〉の句は、自註(*2)によると函館公園に飼われていた鷹で、雌雄が別々の檻に入れられていたようだ。大空を舞うことも、つがいで寄り添うこともままならない檻のなかの鷹の凄まじさを詠んでいる。冬枯れてゆく動物園の情景に24歳の玄は己を投影させていたに違いない。

 〈鷲鬱と〉の句では、降誕祭、つまりクリスマスの夜の鬱屈した心理を鷲に託して描いているが、言葉が具体的な心理を射抜いておらず、上滑りの感は拭えない。総じて、戦前は「鷹」「鷲」「雁」など比較的大型の鳥を詠み、青年期の作者の鬱勃とした心情と重ね合わせた作品が多いようだ。石川桂郎、石田波郷に出会う前ということもあるのか、この二句からは凝視の果てに対象の本質をえぐり出す、晩年の玄作品に特徴的な「確かな眼」はあまり感じない。

 癌の妻風の白鷺胸に飼ふ   昭和41年作 『玄』

 割腹死鶲(ひたき)撒かるる空の端   昭和45年作 『玄』

 主宰誌「壺」を休刊し俳壇から遠ざかっていた昭和28年から昭和45年までの沈黙期の作品から二句あげた。〈癌の妻〉の句は第三句集『玄』に収録された連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」のなかの一句。ベッドから起き上がった妻の後ろ姿と畦に佇む白鷺の風姿が重なり合って哀切。自注には「醜くなった妻を俳句でしか飾れない」と悲痛な文章を残している。(*2)

 〈割腹死〉の句の前詞は「三島由紀夫の死」。死と鳥の組み合わせはヤマトタケルの昔から度々現れてきた文学的モチーフではある。オレンジ色の胸を持つ鶲の群れが空を飛ぶさまを〈鶲(ひたき)撒かるる〉とした措辞が印象的。

 笹鳴のまにまに麻酔きかさるる   昭和52年作 『雁道』

 病室の空のいづちへ揚雲雀   昭和52年作 『雁道』

 患者食こんにやくつづき百千鳥   昭和52年作 『雁道』

 三句ともに「入院、腹部切開手術を受く 五句」中の句。入院生活の日常の寂しさを描きながら、どこかに明るいユーモアを感じるのは、〈笹鳴〉〈揚雲雀〉〈百千鳥〉といった季語の恩寵であろうか。鳥の鳴き声や軽やかな振る舞いが病者の心に明るく健やかなものを与えているのが読み取れる。師である石田波郷と同様に死線をさまよいながらも詠嘆に流されることなく、一種の軽みさえ感じる句をなせたのは、俳句に対する信頼と一句独立の精神が根底にみなぎっている故だろう。

 蹼(みずかき)に乗つたる鳥や雪催   昭和52年作 『雁道』

 〈蹼(みずかき)に乗つたる鳥〉も軽妙な感じを受ける句だ。それは「蹼」という難しい漢字のあとに〈乗つたる鳥〉というひねりを加えた表現の効果だろう。重苦しい印象のある〈雪催〉の前を切字の「や」で一拍置いているのも良い。言葉の重い、軽いを交互に配しながら水鳥の姿を描出しており、巧みである。

 冬の雁空では死なず山の数   昭和53年作 『雁道』

 〈空では死なず〉も読みようによっては諧謔のように見えなくもない。雁にとっての〈空〉は日常であり、そこで死ぬことはないという断定は、自己の死に引き寄せて考えているようにも読めてくる。下五を〈山の数〉と抑えたことで雁の骸を抱いている山が累々と連なっている景が見えてくる。山をすべての命の根源として捉えるならば、根源回帰への希求ともとれる。

 生きかつ死なねばならない恍惚と恐怖。玄の鳥の句を読むたびにそのことがしきりに胸にこみ上げてくる。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 首都の芝厚し栗鼠・鳩・老婆あゆみ

 『火づくり』(1962年)最終章「火の章」の句。「太陽の専制」と題された連作50句の劈頭を飾る「アメリカ 九句」より。

 見事に手入れされた厚い芝生がどこまでも広がる公園。愛くるしい栗鼠が垣根づたいにひょいと顔を出し、一瞬じっと何かを見つめてから、するすると走り去る。子どもの撒くポップコーンに鳩があつまり、ふくよかな老婦人は脚をいたわるようにゆっくりと散歩を愉しんでいる。

 1960年6月、国際棉花諮問委員会出席のため渡米した葦男は首都・ワシントンに滞在した。葦男の眼をまず捉えたのは、超大国の首都の美しさである。ナショナル・モールの緑あふれる景観はもとより、輪奐たる諸官庁の建物やオフィスビルの合間にもここかしこに分厚く敷き詰められた芝生は、金銭的尺度や軍事力だけでは測り得ないアメリカの豊かさ、底力というものを思い知らせたに違いない。祖国・日本を完膚なきまでに打ちのめした超大国の凄みを、葦男はビジネスシューズで踏む公園の芝生の厚みから感じ取っていた。

 筆者がこの作品を「鳥」の句として取り上げたのには理由がある。第一句集『火づくり』837句には鳥を詠んだ作品が31句ある。しかし、全206ページの69ページ目に位置する鳥の句No.23「つばくらの白胸(しらむね)よごる街貧しく」のあと100ページ近く鳥を詠んだ句は一つもなく、163ページ目に至ってやっと出現した鳥の句No.24が即ち「首都の芝厚し・・・」なのである。制作年代にして1952年から1960年まで足かけ9年間に及ぶブランクは何を意味するのであろうか。

 無論、葦男が9年間ものあいだ鳥の句を一切詠まなかったわけではない。例えば1954年5月に発行された「十七音詩」第3号には「君と見し夕日のごとし雁啼けり」という作品も見える。しかし、『火づくり』編纂時の葦男はこれを採らなかった。

 ところで、鳥の句の空白期は『火づくり』第三章「地の章」をまるまる含むが、実はこの「地の章」は『火づくり』刊行当時、集中のアキレス腱と見なされていた形跡がある。今、1963年5月発行の「十七音詩」第25号<火づくり特集号>の座談会「“火づくり”を手にして」を披見すると、鈴木六林男ら同時代の俳人たちは「風の章」から「水の章」への深化を高く評価する一方、「地の章」については「低迷」「足踏み」「勇み足」等の言葉で忌憚なき評定を下しているのだ。

 しかし逆にいえば、「地の章」の時代こそ葦男が全身全霊を賭けて俳句表現上の試行錯誤を繰り返した歳月だったともいえよう。僻目かもしれないが、葦男が新しい表現や思想の地平を開くため、敢えて好きな鳥の句を封印するという「鳥断ち」の挙に出たのではないかなどと筆者は想像してしまう。

 葦男が約2ヶ月の外遊を終えて羽田空港に降り立ったのは1960年7月14日であった。同じ日、アメリカの民主党大会においてジョン・フィッツジェラルド・ケネディが大統領候補に指名された。指名受諾演説で彼が高らかに掲げたスローガンが「ニュー・フロンティア」である。


For the problems are not all solved and the battles are not all won—and we stand today on the edge of a New Frontier … But the New Frontier of which I speak is not a set of promises—it is a set of challenges. It sums up not what I intend to offer the American people, but what I intend to ask of them.


 アメリカで始まろうとしていたフロンティア精神の復興運動。その息吹を目の当たりにした葦男の俳句にようやく鳥はもどって来たのだ。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 羽抜鶏の抜けつ放しで遊びをり   安川貞夫

 掲出句は第2句集『独酌』(1961年1月 青玄発行所)所収。作者は1919年(大正8)生まれ、奈良県出身。軍隊時代に伊丹三樹彦と出会ったのがきっかけで俳句への関わりが始まり(同じように俳句と出会った楠本憲吉と戦後すぐに日野草城の家を訪れている)、1949年(昭和24)に「まるめろ叢書」第4として第1句集『小盃』を刊行(「まるめろ」は草城が指導、三樹彦が編集で1946年に創刊した俳誌、ちなみに叢書第2が桂信子の『月光抄』)。「青玄」には創刊から参加。『独酌』は1949~60年までの作品220句余りを逆年順に収録、掲出句が収められた1958年(昭和33)の章の作品12句は、すべて「羽抜鶏」がモチーフとなっている。

 そこで、「羽抜鶏」という季語を手元にある歳時記で改めて見直してみると、

西日が射しこむ鶏舎の中で、羽抜した鶏の姿は、なんとも見すぼらしく、哀れである。鶏冠の色まで暗白色にかわり、しょぼしょぼと歩くさまは滑稽ですらある」(講談社版『カラー図説日本大歳時記』より、筆者は飯田龍太)、

昔は、農家の庭で放し飼いにされていた鶏が哀れな姿をさらして駆け回ったりする光景がよく見られた。滑稽味のある季語。(『今はじめる人のための俳句歳時記』角川文庫)

というように羽根がだんだんと抜け落ちてゆく姿に対する「哀れ」さと羽根を散らばらせながら駆け回る姿への「滑稽」さ、人間サイドからの目線に基づいたこのふたつの感情が受け継がれていきながら「羽抜鶏」は存在しているわけである。

 掲出句以外の作品での「羽抜鶏」たちは、「身辺を抜け羽が舞へり羽抜鶏」「抜け羽の行方へ一顧羽抜鶏」「羽抜鶏の尻うごきをり草の中」といった身近にいる鶏自身の羽根が抜け落ちてゆく動きをじっと見つめ続けたところから生まれた句があると思えば、「バスの砂塵へ片目つぶって羽抜鶏」「雲見る間も羽抜けやまず羽抜鶏」「天想うこと多くなり羽抜鶏」「羽抜鶏の尻を見しより母恋し」というような自分自身のいまの姿を鶏に投影したかのような作品も現れる。鶏の尻から母の後ろ姿を想う姿は母恋いには珍しいのではあるまいか。「羽抜鶏の雄が羞らう雌の前」「狡い雌とはなれて雄の羽抜鶏」では雌の優位に対して雄であることへの無力を訴えてやまないのは男性である自分自身、己への「哀れ」「滑稽」の投影もここに極まれりというところなのだろうか。「羽抜鶏どうしであそぶ沼に映り」「沼に映る凡夫につづく羽抜鶏」は沼という独特の不気味さを醸し出す場所との取り合わせを通じて、生命としての存在そのものの不確かさを写し取ろうとしている、その先にあるのはもちろん自分自身の不確かさなのだろう。

 そして掲出句の「羽抜鶏」である。この鶏は羽が抜け落ちてゆく真っ只中にありながら、それがどうしたと言わんばかりに周辺を堂々と走り回る。作者を含めた人間たちから向けられる「哀れ」や「滑稽」の目線などはいとも易々と跳ね返し、夏の暑さにおろおろともせずに走り回る。もしかしたら「抜けつ放し」を恐れることのないたくましさこそが本当の「羽抜鶏」なのかもしれない、と思わせてしまいかねないぐらいである。作者がこの1句を外さなかったのも、己が生命もまたこのようにたくましくありたいものだ、との感慨が鶏を見つめながらよぎっていたからだろうか。

 著者の第1句集『小盃』に日野草城は序に次の一文を送っている。

「安川貞夫罷り通る」

 その安川貞夫氏の目の前を、羽抜鶏たちははつらつと動き回っている、羽を全身からほとばしらせるかのように飛び散らせながら。まさに「羽抜鶏罷り通る」。


●―9上田五千石の句/しなだしん

 火の鳥の羽毛降りくる大焚火   五千石

 第四句集『琥珀』(*1)所収。昭和五十八年作。

 「火の鳥」の句であるから、厳密にいえば「鳥」の句とは云えないかもしれない。五千石には「渡り鳥」をはじめ、多くの鳥の句があるが、今回はこの「火の鳥」の句を紹介したいと思った。

     ◆

 火焔鳥、不死鳥、フェニックス、様々に呼ばれる火の鳥は、永遠の時を生きるという伝説上の鳥。数百年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、その火に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという。ちなみに鳳凰とフェニックス、東西の聖なる鳥の代表としてよく混同される両者だが、フェニックスのルーツはエジプトにあり、歴史書によれば、形態は猛禽類(エジプトで愛好されていた鷹)に近い。それに対して鳳凰は長い首、尾羽など孔雀に近い見た目をしており、そのルーツはインドにあるという。また鳳凰は雌雄の別があり卵も産むのに対してフェニックスは単性(雄)生殖をするとされているところに大きな違いがある、とのことだ。

     ◆

 この句は「火の鳥」を詠ったものではなく、この「火の鳥」は大焚火の比喩として使われている。

 五千石は大焚火を前にして(目の前にしたわけではなく、題詠ということも考えられるが)、舞い上がる火の粉を追い視線を上に向けたとき、炎に染まった夜空に「火の鳥」を認めたのだ。そしてその「火の鳥」が羽ばたきを見せたとき、羽毛がしずかにゆっくりと舞い落ちてくるのを見た。そんな幻想の後、現実の眼前には焚火がまた炎をあげる。それは不死鳥の数百年に一度の再生を見るがごとくである。

     ◆

 題詠という可能性に触れたが、『上田五千石全集』 (*2)の『琥珀』の補遺、「畦」昭和58年2月号には、「左義長や火の切れ宙にむすびあひ」「かんばせをどんど明りにまたまかす」「山風に焔あらがふ磯どんど」という「左義長」を詠んだ句が残っている。これらの作品のどこかに掲出句に通ずるイメージを感じるのは私だけだろうか。

 この頃の吟行時の作品には前書きがあるが、この一連の「左義長」の句にはそれがない。「左義長」の題詠だったことも大いに考えられる。そして掲句が「左義長」の一連として詠まれ、「焚火」に推敲されたとも考えられなくない。

     ◆

 掲句、「火の鳥」自体誰も見たことがないだろうから、読み手によってそのイメージは随分異なるかもしれない。ただ「焚火」に対して「火の鳥」を単に持ち出しただけでなく、その「羽毛」という細かい描写を加えたのが、五千石の技であり、詠み手の想像力を刺激するところだろう。


*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日、角川書店刊

*2『上田五千石全集』 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 私は船お前はカモメ海玄冬

 前号、鑑賞文の中で例句として取り上げたが、再度、憲吉の技法を確認するために取り上げよう。

 61年、『方壺集』より。玄冬は間違いではない、「厳冬」は寒い冬だが、「玄冬」は中国の5行説で色彩と四季を組み合わせたとき、青春、朱夏、白秋、玄(くろ)冬と呼ばれるからだ。極寒の冬を連想しなくてもよい、おごそかな冬の季節感を感じ取ればそれでよいのだ。

 憲吉には、既に述べたように他の俳句や詩、歌謡の借用が多かったが、これに通じるものとして、こうした対句の構造が多い。それも、月並みではない、しかしいかにも通俗的な使い方が目立つことだ。この句で見れば、たちまち歌謡曲の一節が思い出されるが、「私は船お前はカモメ」はありそうでない歌詞だ。しかし、私は船あなたは港、私はカモメ・・・など類した歌謡曲を探すことは苦労は要らない。

 蘭は絃、火焔樹は管、風は奏者

 曇り日の風の諜者に薔薇の私語

 ひらひらとコスモスひらひらと人の嘘

 足跡に春日洽(あまね)し潮騒遠し

 ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし

 ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し

 ”矛盾”それは花言葉ではない君言葉

 巨花か巨船か流離のごとき熱の中

 君と白鳥探すこの旅死探す旅

 ひまわり多感 中年よりも南風(はえ)よりも

 我を愛せとバラ我を殺せとまんじゅうしゃげ

 二日はや死と詩が忍び足でくる

 鴨遊ぶ池畔孤客でおしゃれで僕で

 鴨川を何か流るる心か何か

 湖は秋波で僕は秋波でホテルは何波

 とある女ととある話の虫の宿

 没日何色私はあなたの何色

 天に狙撃手地に爆撃手僕標的

 このように見てくると、くすぐったくはなるが、作詞家であれば阿久悠の感覚に似ているかもしれない。かるく、しかしどこか心が疼けばそれでよいという詠み方なのである。

 戦後俳句は、稲垣きくのや斎藤玄も必要だが、一方でこんな感性も生んでいる。戦後俳句の豊饒さを言うときにはどちらも忘れられない人々であると思うのである。兜太、重信、龍太、澄雄ばかりが戦後俳句なのではない。通俗性は、戦後俳句の特徴の一つであり、やがて「俳句って楽しい」という、とても文芸とは思えないキャッチフレーズまでが生まれ始める。確かに楠本憲吉はそうした風潮の責任を負うべき最初の作家であり、戦犯である。ただ厭うべき戦犯ではなくて、愛すべき戦犯と思ってほしい。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 鷓鴣は逝き家の中まで石河原

 シュールレアリストによる自働記述のような句である。四次元空間に入り込む気分になる。「逝」という字意に文学的匂いのする鶏・「鷓鴣」への愛着があったことを伺わせ、鷓鴣への追悼、そしてその悲しみの彼岸の風景が家の中まで入りこんでいるように読める。これを第一の読みとしてみる。

 さて、掲句は句集『鷓鴣』のタイトルになっているだけでなく、中扉に三鬼、白泉、敏雄の鷓鴣の句を錚々と鎮座させている。戦国三武将の風格である。

 鷓鴣を締むおそるる眼かたく閉づ 西東三鬼

 新興俳句の旗手として名高い三鬼。ルナアルの『にんじん』の中で岸田國士によりヤマウズラ族の雛が「鷓鴣」と訳されている。三鬼補遺にある「『にんじん』を詠む」と前書き風タイトルがついた昭和9年の作品の一句である。二羽の鶏が殺される場面に恐ろしさのあまり眼を閉じるのは三鬼である。その後の三鬼が、新興俳句弾圧に従うままでいるしかなかったようにも読める。

 塵の室暮れて再び鷓鴣を想ふ 渡邊白泉

 白泉からは、漢詩の叙情が伺え、「想ふ」に孤独感が漂う。白居易『山鷓鴣』の心情に近い。これも発表後の事になるが、新興俳句弾圧後、俳壇から距離を置いていた白泉のボヘミアン的身の上を重ねあわせると、群れから外れたその身が毎朝毎晩啼きつづけていた鷓鴣をたびたび思い出しているように読める。「塵の室」が、穢れた世ながら貧しく高貴に映る。痛々しい淋しさを伴う句である。

 そして三句目に敏雄の鷓鴣の句。先師とともに掲げた句が意味することが第二の読みである。

 「鷓鴣」を「俳句」と置き換えてみる。敏雄が想う、三鬼、白泉、敏雄のそれぞれの立ち位置が見えてくるようだ。ひとつひとつの石は敏雄が目覚めた新興俳句という新しさを求めた俳句への鎮魂。外から内に繋がり境の区別が無くなっている賽(さい)の河原の風景である。その石々を家の中で積み上げている敏雄の背中を想うのである。弔いと創造を繰り返す俳句への思いと読めてくる。そして、どこか途方に暮れている印象がある句である。

 『眞神』から『鷓鴣』の刊行まで約五年のインターバルがあるが、制作年に於いてこの二句集は同時期である。両作品とも敏雄俳句史に於ける新興俳句からの起死回生といえるだろう。『鷓鴣』での彼岸の捉え方が微妙に『眞神』と異なることに注目しながら更に読み進めて行きたい。


●―13成田千空の句/深谷義紀

 白鳥の花の身又の日はありや

 第2句集「人日」所収。

 千空作品の中で最も多い季語は「雪」である。青森、それも雪の多い津軽の五所川原を終生離れることがなかった千空だから、これは謂わば当然の結果だろう。ところが、それに次いで多いのが「白鳥」。これは、やや予想外の結果だと言える。確かに東京などと異なり、青森には冬季になれば白鳥が多数飛来するから、白鳥を見かけることがさほど珍しくないという事情はあるだろう。しかし、そうは言っても、他の作家の場合「白鳥」の作例はそう多いとは言えないし、この点はやはり千空の句業の一つの特質であろう。

 掲出句以外の「白鳥」の句を挙げる。

 波なりに冬去る白鳥の墓一基   「地霊」

 白鳥の黒豆粒の瞳を憐れむ    「人日」

 白鳥の遥かな一羽父なるか    「天門」

 白鳥千羽東にひらく海と空    「白光」

 白鳥の声かすめ去る夢の端    「忘年」

 白鳥の飢ゑのうら声風のこゑ   「十方吟」

 各句集から一句づつ引いた。

 これら「白鳥」の句を眺めているうちに気付くのは、白鳥に千空の様々な想いが込められているということである。千空は白鳥を客観視するのではなく、かけがえのない存在の人間に接するような眼差しを注いでいる。上述の句に即して言えば、或る時は“墓を遺して逝った男”を、或る時は“幼少時に死別した父”を、或る時は“凶作による飢饉に見舞われた津軽の先祖たち”を、それぞれ見ているのである。

 では、なぜ千空はこの「白鳥」という対象に惹かれ、このように己が想いを託したのだろうか。以下は、全くの独断である。

 五所川原からさほど離れていない津軽外が浜には「雁風呂」「雁供養」の伝承が残る。津軽の人達は、春になると砂浜に残る木の枝を拾いながら、北に帰ることができなかった雁の霊を弔うという。千空が白鳥を見る眼差しに、これと相通ずるものがあったような気がしてならない。

 純白の白鳥の姿は確かに美しい。だが、長い旅路の中途で力尽きるものも少なからずいるだろう。また、たとえ無事に辿り着いても飛来した地で斃れていくものも多い筈である。眼前の白鳥と来年再び相まみえる事は不可能と言ってよいだろう。掲出句では、運命の過酷さに裏打ちされた、哀しいまでの白鳥の美しさが詠われている。


●―14中村苑子の句  【『水妖詞館』―― あの世とこの世の近代女性精神詩】41.42.43.44/吉村毬子

41 鐘の音の絡みて震ふ髪を梳く 

 以前、鑑賞した4.の句の拙文の最後に以下がある。

 4.跫音や水底は鐘鳴りひびき

 苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。(中略)跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして絡まっていくのであろう。

 先日も〈5.撃たれても愛のかたちに翅ひらく〉と〈30.愛重たし死して開かぬ蝶の翅〉の両句の関連性を論じたが、今回の「鐘」もまた、4.の句との繋りを予知した訳ではなかったが、自ら、予告したような文章を書いていたことに驚きながらも、納得している次第である。

 掲句の「鐘の音」が、4.の句の「水底」から聴こえてくる音なのかは、書かれていないのであるが、「髪を梳く」行為は、髪を洗った後に必ずすることであり、水を裏付けている。私はまた、4.で〈躰の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ〉と論述したが、今回の句も自身の水底の「鐘の音」が絡んで「震ふ髪を梳く」のだとも思える。

 鈴=〈34.鈴が鳴るいつも日暮れの水の中〉や、鐘のその美しい音色は、神仏との交信とも云われ、湖には寺院が沈んでいて、ときとしてその鐘の音が聞こえる、などという日本各地に残る沈鐘伝説とともに、苑子の魅かれるものであったのだろう。苑子は、民話や伝説が好きであった。

 苑子の好んだ紀州には、僧の安珍に裏切られた清姫が蛇に変化(へんげ)、変成(へんじょう)し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという、安珍清姫伝説がある。

 そして、福井県敦賀の金ケ崎には元禄2年8月、ここを訪れた芭蕉の句碑がある。

  月いつこ鐘は沈るうみのそこ  松尾芭蕉

 『奥の細道』には記されていない句だが、宿の主から聴いた沈鐘伝説を一句にしたそうである。福井への旅を私に勧めていた苑子も訪ねた地かも知れない。また、即身仏の行者は、生きたまま木棺に入り、その中で断食をしながら鐘を鳴らしてお経を読み続けたと云われる。

 「鐘の音」が、古代の神仏の遥か悠久の時より鳴り続け、女の髪に絡みついて震える。その「震ふ髪を梳く」一刻(いっとき)、巫女のごとく、鐘とともに水底に沈んでいる者達の憑代となっているかのようである。苑子は、それらの美しく荘厳な悲哀の鐘の音を確かに聴いているのである。


42 若き蛇芦叢を往き誰か泣く

 蛇は古代より神の象徴である。眠らず脱皮して若返る(ように見える)、強い生命力は、生と死を超越した存在として崇められる。陸上のみならず、水の上や、さらに木の上までとどこまでも素早く移動できる事が、昔の人をして、あの世とこの世の往来さえ可能だと思わせていた。

 〈あの世とこの世を往き来する女流俳人〉の異名を持つ苑子も、「花」や「桃」に次ぐほど多くの「蛇」の句を残している。後日鑑賞することになるが、『水妖詞館』にも他に2句を掲載しているし、その後の句集にもいくつかの蛇を登場させている。

  草擦りの野擦りの蛇へ火を放つ      苑子『四季物語』 

  荒髪も蛇と長けるぬる水鏡         〃『吟遊』

 今回の句は、句集に収めた「蛇」の句では最初の作品である。が、『水妖詞館』は62歳刊行であり、編年体で作成した句集ではないため、何才頃の作品かは解らないのである。しかし、『四季物語』や『吟遊』からの掲出句よりもやはり若書きの感はある。

 「若き蛇」は青年であろう。「蛇」の強い生命力は性の象徴でもある。高さ2メートルにも伸びる大群落を作る「芦叢」は川辺に自生する。蛇は、川の姿に重ねられ、水神とも伝えられることから、「芦叢」は、蛇の思うがままに支配できる場所とも言えよう。生めかしい「若き蛇」が、獲物を呑み込み芦叢を往き過ぎるように、瑞々しい艶気(つやけ)を持つ青年が巷間で泣かせた「誰か」がいるという事を詠んでいるのか――。誰かの措辞は、複数とも取れる。己れの意のままに青年は世間の女達を弄ぶ。

 「誰か」のひとりが苑子自身であるのかは、定かではないが、「若き蛇」の行動や「泣く」者達を客観的にとらえ、愛憎も悲哀も描かれてはなく、静かに視つめ受け流しているようにさえ思われる。

 苑子に限らず、神々や生命の象徴と崇めれる「蛇」は、多くの俳人の佳句として、その姿をなお一層輝かせているのである。


  吹き沈む

  野分の

     谷の

  耳さとき蛇               高柳重信


  法華寺の空とぶ蛇の眇(まなこ)かな   安井浩司


  水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首       阿波野青畝


43 身を容れて夕ぐれながき合歓の歓

 「合歓」は、葉が夕方閉じるが、花は夕方に開き、夜になっても咲いている。中七下五の「夕ぐれながき合歓の歓」は、夕暮れになり花が咲き始め、その時間は、花にとっても見る者にとっても楽しい時であるという解釈が成り立つ。「合歓の歓」と同字を当てた技巧も効いている。また上五「身を容れて」は、高木である合歓の木の下で花を眺めているのか、樹形が真っ直ぐではなく倒れたようであるため、身を容れる風情も面白い。

 しかし、「合歓」は〈ごうかん〉という読み方もあり、歓楽をともにすることの他に、同衾するという意味もある。とすると、上五の「身を容れて」と「合歓の歓」が途端に艶を帯びた句に変貌してくるのである。

  象潟や雨に西施がねぶの花      松尾芭蕉

 春秋時代、呉王夫差が、その美貌に溺れて国を傾けるに至ったという美女、西施を合歓の花に譬えた『奥の細道』での有名な一句であるが、山本健吉の文章を抜粋する。

『芭蕉・その鑑賞と批評』2006年新装版)

   西施が悩ましげに、半眼閉じているさまに、薄紅の合歓の花が、雨に濡れながら眠っているというのであって、その姿を雨中の象潟の象徴と見たのである。(中略)つまりその雨景そのものが、恨むがごとく、魂を悩ますがごとく、寂しさに悲しみを加えた、女性的な情緒だったのであって、それはまた、象潟に思いを寄せてははるばるやって来た、芭蕉の心の色でもあった。

 芭蕉は、象潟の雨景に西施を重ねながら、恨むがごとく、寂しさを表現しているが、苑子の句は歓楽をともにする嬉しさを詠っている。そして、日常茶飯事では無いがために、(合歓(ねむ)の花を眺める時間も、合歓(ごうかん)の時間も)その喜びも一入のように思われる。逢引に似たイメージも想像される。

 ネムの名は、葉の睡眠運動によって閉じることから付いたそうであるが、西施が眠っている様子や同衾をも思い起こさせる「合歓の花」は、そのほのぼのとした柔かな花の姿のように、朦げな艶があるようである。漢名を夜合樹とも言うらしい。

  羅(うすもの)の中になやめりねぶの花       各務支考


44 死にそびれ絲遊はいと遊ぶかな

 句集の序において高屋窓秋氏が〈通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと〉思ったことについて、同感しつつ、全139句の三分の一近くまで書き綴ってきたのだが、掲句が、久し振りに息をつける気がするのはなぜだろうか。

 苑子の句には、たびたび「死」が頻出するが、掲句もまた、上五から「死にそびれ」という尋常でない言語で始まるのだが、「死にそびれ」てもいるためか、句全体に「死」を扱った凄絶さは感じられない。「絲遊」(陽炎(かげろう))は実体のない気であり、日射しのために熱くなった光が不規則に屈折されて起こる儚い仄かなものであると、死が喩えられているからであろう。

 また「絲遊はいと」の韻を踏む音感と、「絲遊は」「遊ぶかな」の視覚的な文字による言葉遊びも影響している。この句の前句〈39.身を容れて夕ぐれながき合歓の歓〉にも見られた。同じ手法で1頁に2句並べられている趣向である。

 「死にそびれ」とは、死のうとしたけれども機を失ってしまったことだろうが、人は、人生のいろいろな場面で〝寝そびれた〟ように、「死にそびれ」ているのではないだろうか。

 母親の胎内で父親の精子が生き残る時、羊水の中でようやく臨月を迎え、出産される時、危く交通事故に遭遇した時、自然災害にあった時、大失恋して、仕事上の大失敗をして〝もう死んでしまいたい〟と思った時、等々――。そんな時、「死にそびれ」なかった人もいるということを考えると、生あればこそ「絲遊」を感受し、その中に遊ぶ自身の姿も実感できるのである。

 しかし、人の一生など、「絲遊」のように儚いものだと、苑子が、その浮遊する光の中で微笑んでいるような気もする。その微笑に私は少しだけ、息をつけるのかも知れない。


【連載】現代評論研究:第16回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会➂ 仲寒蝉編

(筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉、コメント:堀本吟)

投稿日:2011年11月25日


3.戦後の政治と遷子について


 筑紫は〈東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった〉、〈東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない〉が〈取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない〉と述べる。

 その上でこうした政治的不満が自然へ目を向けることにつながり、〈開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだった〉と考える。

 は「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」が端的に表すように〈誠実な良識的知識人〉であったと言う。

 中西は遷子には政治の句が少なく、それらは『雪嶺』に集中していると言う。例句として次の句を挙げる。

 人の言ふ反革命や冬深む(昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判)

 誰がための権力政治黒南風す

 夏痩の身に怒り溜め怒り溜め

 会議陳情酒席いくたび二月過ぐ

 三句目は昭和35年5月19日の強行採決以後ますます激しくなった岸内閣への批判や安保反対デモの様子を連日のように伝えるマスコミの報道に基くのではないかと推測する。しかし遷子の怒りは〈あくまでも一般的な受け止め方だと思う〉と述べる。また四句目を〈遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句〉として挙げる。

 深谷は「ストーブや革命を怖れ保守を憎み」など多少の政治的言辞を含んだ作品もあるが〈ごく常識的な感覚〉であり、〈特定のイデオロギーに傾いた様子は見受けられない〉と言う。

 また〈税務署に対するやや皮肉めいた視点、あるいは核実験や「プラハの春」鎮圧に対する怒りは、やはりヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と考える。

 は政治についての句は『雪嶺』に多く〈選挙や核実験、果てはプラハの春を蹂躙したソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車まで詠んでいる〉が〈核実験を愁い、戦争が終わって欲しい(ベトナム戦争の頃)と願う気持ちは通常の市民感情の域を出るものではない〉と言う。「人類明日滅ぶか知らず蟲を詠む」には定家の「紅旗征戎わが事にあらず」に通じるものを読み取る。

 ただ東西冷戦の最も激しい時代に詠まれた「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を〈遷子にしては珍しく己の政治観を表明した句〉とし〈革命は困る、しかし保守にもまた与しない。つまりリベラル派というか良識ある一知識人として中立を守るという姿勢が読み取れる〉と言う。〈但し語調の激しさから単なる日和見ではなく積極的中立とでも言える立場〉と読む。


まとめ

 全員に共通した認識として、遷子には『雪嶺』を中心に政治的な出来事や世界史的事件に触れた句が見られるものの特定のイデオロギーに傾いたものではなく知識人としての良識、一般市民の感覚の範囲を出るものではなかった。また複数の人が「ストーヴや革命を怖れ保守を憎み」を彼の中立的な立場の証左として挙げる。

 ただ筑紫はこのような〈開業医としての社会的意識とリリシズム〉が大切であったと述べ、深谷は〈ヒューマニズム的な観点から理解すべきもの〉と判断する。


コメント

堀本 吟:『相馬遷子 佐久の星』は、相馬遷子に関する殆ど初めての集中的な読書会記録(らしい)。らしいというのは、私は「馬酔木」圏内のこれまでの動きについては、殆ど知ることがなく、多少関心は持ってもその知識は教養以上のものではなかったからである。で、さきごろのウェブ「俳句空間—豈—weekly」でほとんどはじめて目にとめたのである。その全体的感想を先ず記しておく。

 ただし、水原秋桜子と「馬酔木」への私の関心が高まったのは、すでに数年前に遡る。角川選書385『12の現代俳人論(下)』(平成19年・角川学芸出版)の筑紫磐井の《水原秋桜子論》がくわわっている。これはさらにさかのぼる雑誌「俳句」誌上にシリーズ連載され、それが集成され同社の刊行で単行本に作り替えられたのだが、筑紫のこの評論は、山口誓子、西東三鬼、篠原鳳作、または高柳重信らに代表される「新興俳句」という運動のもうひとつの読み方を示唆した視点として、私の今回の関わり方にもかなりの影響をあたえている。(といっても全面賛成と言うことでもないが)。

     *

 しかし、この過程では、筑紫磐井の評文には、まだ、相馬遷子の名もその例句もピックアップされていない。この角川選書の評文は全体としてわたしにいわせると、論者の論の締め方に緩いところがある。大阪で読書会をしていてもそつなくできてはいるがけっきょくは飽きてしまったのであった。が、「水原秋桜子論」は、その中でも読んでいて多少は新たな場所にわれわれの思考を導いてくれるようだった。秋桜子と馬酔木は、ホトトギス独裁からの離脱と言う役割を果たした後は、新興俳句から落ちこぼれていったとされる。だが、そこからはみ出した異端が、例えば山口誓子、高屋窓秋、石田波郷、加藤楸邨、金子兜太たちが作り上げた支流、それが勢いよく俳句活性化をもたらしたのである。筑紫の論調は、その支流の系譜化のような役割があったのではないだろうか?それは、誰かがやるべきことであるが、まだ集大成はなされていないのである。いわば、現代俳壇の土壌たる「結社史論」の整理であった。そのなかで、今回新たに相馬遷子をその支流のひとつであることが、提唱されている。当時の筑紫磐井は位置づけてはいなかったのである。

 筑紫は「社会性俳句」という概念に入らず切り捨てられ無視された俳句を「社会的意識俳句」と呼び、それら埋もれてしまった俳句を再発見する必要があると言う。「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度を持った「社会性俳句」があり、その外側にそれとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したことを忘れてはいけないと強調する。「社会性俳句」が廃れた後も、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句であるがゆえに「社会的意識俳句」は生き残っていた、と言う。

 この「社会的意識俳句」の代表的な作家として相馬遷子を位置付け、その他多数の社会的意識を持った俳句作家を「別の遷子たち」と呼ぶことを提唱する。【2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?】(筑紫磐井の発言(下線堀本)

とまで言いうるようになったのか、もうすこし強力な立論の過程と根拠がききたかった。

 相馬遷子が魅力的な作家であることは私にも解った。それはこの読書会が誇るべき発見である。しかし。「馬酔木」の美意識を脱したことは、秋桜子の美学に呪縛されてきた馬酔木イズムの雰囲気の中では個人としては重要だが、「きりすてられた社会意識の代表」というように、わざわざここまで持ち上げていいものかどうかは私には疑問だ。こういうカリスマ化が、結社制度の反近代性を等閑視することにもなろう。

     *

 それから、彼のイデオロギーではない社会意識についてであるが、すでに戦前にこういう例がある。

 私は現在、関西で【京大俳句を読む会】というあつまりにいれてもらって、昭和9年や10年ごろのバックナンバーを逐次読んでいっている。ここでは、山口誓子が、新しい時代の事象を積極的に俳句に読み込む、という提唱が盛んに実践されていて、また誓子が言わなくとも、都市化してゆく現実はおのずから投句の中に現れている。私がレポートを担当した昭和10年8月号では、例えば、こういうのがある  。

 野に遊び子供の肢体汽車となる 山口誓子《青郊思慕》5句・(連作)

 闇そこの白蛾のひゞき壁にせり 清水昇子 《留置場》6句(無季・連作)

 禁断の書(ふみ)よセードの綠光に 岸風三楼《學の感傷—M博士に与ふ》(5句)

(註・「禁断の書」とは、それまで法学上の必読書であった美濃部達吉「天皇機関説」の排撃がおこり、貴族院議員辞職。政府が「国体明徴声明を出した。一連の事件。(昭和10年〜11年)を指していると思われる。「M氏」は、美濃部のことだろう。

 一瞬の孤独地獄の汗つめたし    西東三鬼

 黄に燃ゆる孤独地獄に耳きこえず   同

 西東三鬼は、《株式取引所》《武蔵野》各4句(年風俗と田園にともに「孤独地獄」という内面世界を取り合わせている。全8句の連作)

 古りし靴に風青くどこぞピアノの弾奏 三谷昭《すてられた古靴》(4句自由律)

 疫痢児のうはごとなるを母は知らず 藤後左右 5句

 森に佇つ風癲守に月墜ちよ 平畑靜塔5句   (以上、「京大俳句」第三巻、昭和10年8月号)

 新興俳句の牙城となった京大俳句の同人達のこれらは、いずれも、近代社歌会の現実に直面した題材を真っ向から取り入れている、しかし、これらはだんじて社会イデオロギーではない。かれらはむしろ戦後はイデオロギーをさけている。藤後左右や平畑靜塔は医師として究めて職業的に感性的に俳句的に特異な題材を生活詠として自然に詠んでいる。俳句に於けるイデオロギーと単純な社会意識の分岐点はまだはっきり分析されていない。筑紫の提案はそう言う意味でも過渡的な説として意義がある。

 俳句を始めた頃の相馬遷子がこの「京大俳句」の購読者であったかどうかは私には解らないが、生活が都市化されるし専門職が増えてくるにつれ、このような生活意識が日本人の感性に入り込んできた、山村のエリートであった遷子にもそれを受け入れる感性が芽吹いていたといえるのではないだろうか?

     *

 が、そのことは、筑紫磐井の相馬遷子発見、と本書の共同研究のありようをを過小評価する理由にはならないのである。

 昭和十年遷子が秋桜子の門下として出発したころは、新興俳句が台頭し俳句弾圧事件でリベラリスト達が弾圧された。また石橋辰之助は。昭和10年に句集『山行』を刊行し、単なる登山俳句ではない、と平畑靜塔の共感ふかい評をもらっている。(「京大俳句」同年8月号)。石橋は都会人であるが、馬酔木同人が「自然の真と藝術の真」と追究してゆくはてには、人間存在の真に行き当たる機会が必ず誰かのうえに生じてくる。そういう秋桜子の俳句思想具体化の過程とも考えてみると、私達の現代俳句にとっても一層意義深いところがあると思う。(この稿了)