2026年1月30日金曜日

【新連載】俳壇観測277 ユネスコ登録の進め方2ーーユネスコ登録への3つの態度  筑紫磐井

  前回述べた理論闘争するためには、それぞれの論者の立場をはっきりさせておくことが必要である。現在までのところ、ユネスコ登録に対する俳壇における態度は3つに分けられる。


➀ユネスコ登録賛成論(ユネスコ登録を進めたい)

 ここには無季自由律容認派(現代俳句協会)と有季定型限定派(少し前の俳人協会の本音)が混在して、各々勝手なことを言っているのでその理由が分かりにくい。

➁ユネスコ登録反対論(ユネスコ登録を進めたくない)

 これには当面、「鬣」のような脱退派(協議会から脱退することが目的)と坪内稔典のような反登録派(日本政府が登録すること自身に反対する)がいる。

この2つの立場から、主要な俳句雑誌におけるユネスコ登録論が掲載されて来た【注】。


 しかし令和7年夏から新しい立場が提案された。


➂ユネスコ登録戦略論(ユネスコ登録自身に関心がなく、無季自由律容認が目的であり、この目的のためだけに当面ユネスコ登録の議論に参加する必要があると考えている)

     *

 第3の立場である➂ユネスコ登録戦略論は以前からあるものではなく、令和7年に突然登場した主張である。なぜならユネスコ登録の発端は国際俳句交流協会会長である有馬朗人の提案であり、その理由も有馬氏が発起人会で発言した言葉が唯一の根拠となっている。ところが有馬氏がユネスコ登録しようとした動機は文書化されてはおらず、登録という総会の決議だけが独り歩きすることとなった。それでも有馬氏の生前には問題が少なかった(有馬氏はユネスコ登録協議会の初代会長に就任した)が、有馬氏がなくなり、後任が就任するとともに「俳句は有季定型である」という合意で協議会は発足したという発言が相次いだ。協議会のHPにもそうした記事がしばしば掲載されたと聞いている。無季自由律容認派を擁する現代俳句協会は毎年総会で会員からこのような協議会に参加した責任をとれという抗議を受け、担当者はかなり難渋していたようである(私は未だ現代俳句協会に入会していなかったのでよく知らなかったが)。

 あまりにも不毛な論争が続いているようなので、私は令和7年になってから平成27年の俳句ユネスコ協議会の公開記者会見の記録を確認してみると、有馬氏は俳句に無季・自由律が含まれることを明言しており、これに他の3協会の会長である稲畑汀子、鷹羽狩行、宮坂静生氏も異論を唱えなかった。現代俳句協会が協議会に参加したことは問題なかった。しかしこれだけではこの合意が現在も有効であるかは確信できなかったので、令和7年8月に協議会及び3協会の現会長である、能村研三、片山由美子、星野高士、高野ムツオの4氏に有馬発言の有効性を確認したところ、この通りであると確認された。この趣旨は、現代俳句協会の機関誌「現代俳句」10月号、国際俳句協会(ユネスコ登録の実質的事務局。保持団体と想定されている)の機関誌「HI」11月号に掲載されており初めて文書化されることとなった。

 したがって令和7年をもって俳句の定義問題は解決することとなった。これに伴いユネスコ登録問題は新しいステージに入ることとなったのである。ユネスコ登録戦略論はこうした中で登場したものであり、「豈」68号の特集が「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」となったのはこのような理由である。その意味で本論は、ユネスコ登録戦略論の立場で書かれていることをご承知戴きたい。

 こうした立場からすると、➂のユネスコ登録戦略論は特別な意味を持つことになる。➀と➁はユネスコ登録が登録の是か非かを主張しているものだが、➂はユネスコ登録を契機として俳句は有季定型だけではなく無季・自由律であることが明らかなって以降の俳句の新展開を進めようという行動だからである。

 実は戦後俳句とは俳句が有季定型か無季容認かをめぐる血みどろの戦いであった。マーチン氏の卓抜な論を読ませていただきながらも、日本における一種の文化的弾圧にあたる無季俳句排除の切実さはなかなか分かっていただけないのではないかと危惧した。それは戦前の新興俳句弾圧に匹敵する作者生命にかかわる問題である。繰り返しになるが、昭和36年に俳人協会分裂以後、俳人協会は無季自由律を排除する諸活動を行って来た。当時俳人協会の立場に立つ角川書店は昭和俳句の集成として『現代俳句大系』を刊行するに当たって無季俳句集を削除した(当初俳人協会事務局は角川書店内に設置されていた)。さらにその後平成11年に俳人協会は「教科書に掲載する俳句は有季定型を厳守せよ」という「教科書出版会社への要請」を会長名で送付している。平成22年に岡田日郎副会長が俳人協会において「学校教育においては「俳句」(有季・定型・文語)と「俳句に似たもの」(無季・自由律俳句など)と区別する必要がある」と講演していることなどからも基本的イデオロギーは変わらないと考えられる。

 有季定型を主義とする俳人協会と無季を容認する現代俳句協会の規模比較すると15,000対4,000、すべての協会が会員減少に悩んでいるのだが、協会の存亡はしばらく措く、問題なのは無季俳句・自由律俳句を詠み、是認する俳人の割合が落ちていることだ。こうした中で、現代俳句協会における最大かつ緊急の問題は、有季定型を死守する勢力に対して無季・自由律を認知させることである。有馬氏が、ユネスコ登録に当たり有季定型だけでなく無季・自由律を容認したことは戦後俳句史において千載一遇の好機である(逆にこれを受け入れたことは俳人協会にとって致命的失敗であった)。これを逃してはならない。これを逃すことは、俳句有季定型論に塩を送ることになる。その意味では、無季・自由律が容認されればユネスコ登録などどうでもよいことなのである。

 ただ令和7年にユネスコ登録の中で無季自由律は文書化されたものの、見えないかたちで無季自由律を排除しようとする底流が常に流れている。これを少しでも顕在化させる必要がある。ユネスコ登録を使って、俳句は無季自由律が含まれるのだという認識を進めることが大事だ。これが➂ユネスコ登録戦略論の趣旨なのである。


【注目!】「豈」68号の特集についてYOUTUBEで反応が寄せられています。

秘密の俳句ちゃんねる(田島健一)

https://www.youtube.com/watch?v=A2kgNFImj2A


【注】主要な俳句雑誌におけるユネスコ登録論(2025年11月まで)

●「鬣」64号・2017年8月

特集「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進を巡って」11編 林桂、川名大、岸本尚毅、木村聡雄、坪内稔典、野村喜和夫、平敷武蕉、外山一機、中里夏彦、西躰かずよし、堀込学

●「俳壇」2024年「俳壇時評」

大井恒行「建前に雪崩れる4協会」(5月)、

大井恒行「現代俳句協会は、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会から離脱せよ」(11月)

●「鬣」93号(2024年11月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進」の現在」3編 林桂、大井恒行、堀田季何

●「俳句四季」2025年1月号「俳壇観測264」

筑紫磐井「ユネスコ無形文化遺産登録問題――大井恒行対現代俳句協会か?」

●「現代俳句」2025年1月号

後藤章専務理事「俳句のユネスコ登録の現状と現代俳句協会の立場」

●「俳句四季」2025年2月号「俳壇観測265」

筑紫磐井「有馬朗人氏の遺志――国際俳句の創始」

●「鬣」94号(2025年2月)

林「提言しなおします」

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進の現在」を読んで」2編 福田若之、堀込学

●「現代俳句」2025年3月号

筑紫磐井「有馬朗人氏の言いたかったこと」

●「毎日新聞」2025年4月30日

オピニオン論点「俳句の「文化遺産」登録」(能村研三vs大井恒行)

●「鬣」95号(2025年5月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録」推進の現在を読んで」2編 九里順子、外山一機

●「俳句四季」2025年6月号「俳壇観測269」

筑紫磐井「俳句4協会の近況――特に、ユネスコ登録の大論争始まる」

●「俳句四季」2025年7月号「俳壇観測270」(6月刊行予定)

筑紫磐井「毎日新聞のユネスコ登録論争――ユネスコ登録と無季俳句の問題」

●「鬣」96号(2025年8月)

特集「「俳句ユネスコ無形文化遺産登録」推進の現在を読んで」2編 西躰かずよし、林桂

●「俳壇」2025年「俳壇時評」

鴇田智哉「ユネスコ登録のこと」(9月)

● 「豈」68号(2025年11月)

特集「ユネスコ登録戦略の最前線」6編 筑紫磐井、堺谷真人、大井恒行、トマス・マーティン、中島進、干場達矢


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(66)  ふけとしこ

  水仙

水仙や雨の汚れの残る壁

水仙や門前町を外れ来て

雪が打つ安藤忠雄の壁を打つ

マカロンの五色並べてみても冬

崖氷柱覗けば大き土蜂の巣

・・・

 糸というもの、どうしても残る。

 白や黒といった出番の多い縫糸はともかく、穴かがり糸などは必ず残る。生地や釦に合わせるから色糸が要ることになるが、太いから普段の縫物に使うことは先ずない。綴じ糸に使ってみたりもするが、結局一巻を使い切ることはない。 

 針箱には覚えのない糸まで入ったままだったりする。

 刺繍糸も沢山ある。自分の使い残しがあることに加えて「もう止めたから、何かに使って」という知り合いからのプレゼント(!)まであるのだ。私も今では刺繍針を動かす根気を無くしてしまっているというのに。

 そこで、何か用途は~と考えて、目下のところ、刺繍糸は栞の紐用として使っている。単色のこともあれば、配色を考えて数本を纏めて紐状にしたりもする。これを気に入りの紙片に穴を開けて通したり、或いは貼り付けたりして一人で悦に入っている。

 菓子や茶に入っている和紙の由緒書きなどは、綺麗な物が多いし、美術展のチラシなども面白いものが多くて何かと使えるのである。

 とはいえ、これがまた溜まってしまうのである。 

 栞に仕立てて人に差し上げると喜んで貰えた頃もあったけれど、今はそうでもない。ポストイットを使う人の方が断然多いのである。貼って剥がしという作業が自在だし、挟んでおいたのに滑り落ちてしまったということが無くて本当に便利な物であるから、この付箋は私も愛用している。

 でも、ちょこっと布を触ったり、紙細工を作ったりするのが好きなものだから、空き箱にしまっている紙を取り出して適当に折ったり切ったり、絵や字を描いてみたり穴を開けたり、こういうことがとても楽しい。勿論、下手の横好きではある。

 困ったことに、何故か、締め切り前になるとこういうことをやりたくなる。

 昔々、さあ、勉強しましょ! と気合を入れて机に座り、その途端に抽斗の中が気になって片付けてみたりしていた、あの頃と何ら変っていないのであるから、つくづく自分に呆れるしかない。

 今も使い古しのタオルを切って用途の無さそうな色糸で縁をかがっている。雑巾にするつもりではあるが、ちっとも急ぐことではないのに……。チクチクと針を進めるのは無心になれて、私にとってはとてもいい時間なのである。

 明日は句会がある。兼題は壁。糸や雑巾のことはさておき、壁を考えることの方が大事なのに……。

(2026・1)


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり43『蜂の巣マシンガン』竹岡一郎第一句集(2011年刊、ふらんす堂)を再読する。 豊里友行

  この-BLOG俳句新空間-で刺激を受けていた俳人のひとりだった。

 鬼籍に入られて長らく歳月が過ぎても俳句の感動は、鮮やかに蘇ってくる。

 「-BLOG俳句新空間-」や「びーぐる32号」の俳句時評(竹岡一郎)で私の第2句集『地球の音符』の評論「赤ン坊(アカングワ)のために」には、今もって指針になる。今、私の第7句集は、竹岡さんこの「赤ん坊のために」を軸に命を守り育てるテーマで句集編集に取り組んでいる。

 竹岡一郎さんの俳句は、観察眼と詩的把握、大胆な詩的題材をおおらかに詠いあげている。

 観察眼に裏打ちされた感性が光る句。

絨毯を深々と刺すハイヒール

凍鶴の灯れるごとくゆらめけり

原爆忌水面に鯉の口あまた

雪仰ぐ飼育係も雌の鰐も

老い枯れし手が白桃を剥いでゐる


 独特な把握が魅了で詩的把握力が光る句。

松虫の籠かかげ見る貴船かな

遊星の一塵として着ぶくれぬ

野の果は荒るる海なり鬼やらひ

風船のたましいひ入りて上がりけり

虹の根に死者の家ある遠野かな

浜木綿や風吹かば死者還り来む

手毬唄とも南朝の嘆きとも

蟇言霊呑んで太りけり

揚雲雀太陽に裁かれんとす

蛆も輝け神の創れる生なれば

あの雲は龍のぬけがら草ひばり

もろこしを剥げば即ち光の束


 私は、俳人それぞれの俳句哲学があるべきだと想う。

 竹岡一郎氏の俳句には、俳句哲学や生き様の美学がある。

 小川軽舟氏をして「よろしい、それがあなたの美しい人生だ。」と言わしめる。

 現代社会のサバイバルを生き抜く俳人の生きた証に魅了された。


 他の共鳴句もいただきます。ありがとうございました。合掌。


 今生は道頓堀に虫売りぬ

 地獄より来て灼くる血をもてあます

 トランクはヴィトン家出は雁の頃

 抱き合ふ我ら即ち鬼火とも

 バンジーが好き同棲の昔より

 靖国は悔し尊しちちろ止まず

 蜂の巣の俺人生はマシンガン

 愛だの恋だの蛇口十(とを)ほど休暇明

 稲妻となつてお前を喜ばさう


【関連リンク】

-BLOG俳句新空間- : 【読みきり】「たとえ僕らの骨が諸刃の刃だとしても ~竹岡一郎句集「けものの苗」を読んで~」豊里友行(2018年12月28日金曜日)

-BLOG俳句新空間-  びーぐる32号俳句時評(竹岡一郎) 

「赤ン坊(アカングワ)のために」(2016年11月11日金曜日)

http://sengohaiku.blogspot.jp/2016/11/ichiro.html


*「俳句新空間」告知*

 ●令和8年を迎えて早々、俳句新空間同人の中島進氏(1月16日)と関根かな氏(1月1日)が亡くなられました。

 関根氏は昭和44年生れ、57歳で突然の訃報でした(「豈」最後の作品は68号(2025年11月30日刊))「秋星となり発光す逝きし友」)。

 中島進氏は昨年秋から入院加療中で、その直前は11月の忘年句会への参加も予定されていました(欠席投句:さみしくないか 道真っ直ぐに立つ穂麦)。1月8日は筑紫への電話もあり、不調を訴えられていましたがまだ声は元気でしたので信じられない思いです。同県の同人各務麗史氏が『中島進遺稿句抄』として「豈」「俳句新空間」に発表された句を取りまとめて刊行されています(令和8年2月20日詭激地代社刊・限定非買版。ご希望の方は各務氏へご連絡ください)。

謹んでお二人のお悔やみを申し上げます。


●元俳句新空間同人の竹岡一郎氏(2024年6月21日逝去)の遺句集の準備が生前親しかった加藤知子氏により進められています。

句集名(未定)

全句600句

跋文:関悦史

装幀:高岡修

編集:加藤知子

発行日:2026年6月21日

定価2500円+税、送料込で3000円

予約・問い合わせは

haiku_tanka_we@yahoo.co.jp

加藤まで。


【新連載】新現代評論研究(第18回)各論:後藤よしみ 

 ●ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第五章 象徴主義との交錯と詩的昇華

 高柳重信の思想的変容において、フランス象徴主義との出会いは決定的な転機となった。重信は「少年期から青年期にかけての私に、いちばん大きな影響を与えたものは、たぶん、辰野隆、鈴木信太郎、渡辺一夫などを中心とする主としてフランス文学の古典に関する本であった」と回想している¹。戦前期、日本では西洋文学の翻訳書が広く流通しており、重信もその洗礼を受けた一人であった。

 象徴主義は、言葉の象徴性を重視し、詩的宇宙を構築する思想である。重信は、リラダンの詩精神に深く共鳴し、言葉によって内面を見つめ、外界に対峙する姿勢を育んでいく。これは、皇国史観における英雄的死や忠義の美学とは異なる、個人の内面に根ざした詩的感受性であった。

 敗戦後、重信は病床に伏しながら、深層の詩的想像力を育てていく。療養生活は、彼にとって思索的で観念的な時間となり、象徴主義的な詩意識が深化する契機となった。この時期、彼は「死神を見つめる時間」を作家的準備期間と捉え、敗戦後の創作活動のアドバンテージとして位置づけている²

 一方で、皇国史観の影響はなお彼の内面に残り続けていた。肺結核の発症によって徴兵検査に不合格となった重信は、戦場に立てない若者として「非国民」とされ、劣等感と孤独に苛まれる。弁護士になる夢も断念せざるを得ず、社会から遮断された存在として「銃後の冬蝿」と自嘲する³。そのような状況下で、彼の拠り所となったのは楠木正成や後南朝の精神であり、同時にリラダンの詩的世界でもあった。

 このように、重信の内面には皇国精神と象徴主義という二つの思想が併存していた。肉体化する皇国精神に対して、象徴主義は精神の自由を与え、詩的昇華の道を開いた。重信は、詩歌に耽溺することで正気を保ち、病床から佳句を世に送り出す。これは、思想的重層性を抱えながらも、詩によって自己を再構築しようとする試みであった。

 同時代の詩人・鮎川信夫もまた、西洋詩の洗礼を受けながら、戦時下の皇国史観に反発しつつも、その呪縛から完全には逃れられなかったと告白している。重信もまた、象徴主義によって皇国精神を相対化しながらも、その精算には至らず、深層に残し続けた。

 この章で見られるように、重信の思想的変容は、単なる転換ではなく、異質な思想の交錯と融合による詩的昇華であった。象徴主義は、彼にとって思想の再構築のための跳躍板であり、敗戦後の創作活動の根幹を形成する重要な要素となった。


脚注

¹ 高柳重信「模糊たる来し方」『高柳重信全集Ⅱ』立風書房、1985年

² 高柳重信「『蕗子』の周辺」『全集Ⅲ』1985年

³ 色川大吉『ある昭和史』中公文庫、1975年

⁴ 鮎川信夫『戦中手記』思想社、1965年


[新春論考]1954年の寺山修司(後編) 佐藤りえ

  「牧羊神」での寺山の活動ぶりに関しては松井牧歌著『寺山修司の「牧羊神」時代』に多くを参照した。松井は『群蜂』で榎本冬一郎に学んだ「牧羊神」創刊メンバーであり、「牧羊神」後は『群蜂』同人となり、のちに『水路』を創刊主宰した。同著には「牧羊神」の詳細とともに同時期の寺山からの書簡、寺山との交歓について実に詳しく振り返られている。

 松井は上京したばかりの寺山を川口に訪ねている。寺山に連れられ、「寒雷」の句会、「形成」の歌会に飛び入りで参加したこともあったという。松井の手紙は寺山の元に渡っているため、寺山からの手紙しかないわけだが、それらにはしきりに面会、返事を乞う文言が見える。せっかちな寺山は日に二度もはがきを書いてよこすこともあった。返信が間遠になったのか、「どうしたのですか」などと綴られているところもある。首都圏の同人で句会を開き、「牧羊神」全国大会を企画、大学で得た交流から詩誌を立ち上げようとするなど、なにかに対しての復讐のように、寺山は激しく動き回っていた。


 近年の刊行物では訂正されているようだが、「牧羊神」創刊が1952年ないしは1953年とされる年譜がかつて多く存在したのは、「牧羊神」実物がなかなか参照できないことと、全国学生俳句コンクールが開催された年=「牧羊神」の年、と混同されているからではないか、と想像する。

 全国学生俳句コンクールは昭和28(1953)年、寺山の高校2年時に、青高文化祭の催事の一部としてひらかれた。その結果は「牧羊神」2号(1954年3月)で発表されている。詳しい経緯は不明ながら、コンクール結果はこの時はじめて公にされたようだ。第一位は京武久美「夜明けの色」。寺山は二位であった。作品掲載は第一位のみのため、二位以下の作品及びタイトルは不明である。参加者は「約百数十名(表記ママ)」参加校は「約三十数校」。選者は秋元不死男、橋本多佳子、中島斌雄、香西照雄、細谷源二、成田千空、細見綾子、沢木欣一、平畑静塔、三橋鷹女、橋本風車、伊沢子光、原子公平、榎本冬一郎、殿村菟絲子、加藤かけい、桂信子、富澤赤黄男、野澤節子の19名、天狼や馬酔木傍系、また新興俳句系、人間探求派にはっきり偏った顔ぶれが揃っている。どのように作品募集を行ったかは不明ながら、南は長崎南高校から応募があったという。この百数十名の参加者の内に寺山は「牧羊神」同人を見出した。

 翌昭和29(1954)年、寺山は「全国学生俳句祭」を画策する。今度は俳句研究社の後援を得て、対象者を大学生、「卒業後一ヶ年に満たざる者」まで広げる(これは進学をしなかった京武久美を含めるためでもあったものと思われる)。前述の『寺山修司の「牧羊神」時代』解説に齋藤愼爾が「しかし大会は実現したのであろうか。本書には募集要項まで掲載していながら、その後の経緯がいっさい記されていない。」と書いた通り、松井の著書には募集以降のことが書かれておらず、「牧羊神」本誌も「全国学生俳句祭」についてほとんど触れていない。松井の著書に掲載された「全国学生俳句祭募集要項」は、松井のもとに別途届いたものであった(※)

 「全国学生俳句祭」入選発表は「俳句研究」昭和30(1955)年8月号、第一位は寺山修司「少年の日」である。第二位は小林弘尚「オリオン座」、第三位は平田幸を「屋根裏で」。参加者は百四十七名、発表号には点配分表が掲載されているが、寺山は90点を集め圧倒的勝利に終わっている。前年(1954年)の短歌研究50首詠第一位に続き俳句の賞も獲得したことになるが、この賞の存在は寺山の年譜上ではまるでなかったことになっている。


 少年の日  寺山修司

ラグビーの頬傷ほてる海見ては
便所より青空見えて啄木忌
わが夏帽どこまで転べども故郷
同人誌はあした配らぬ銀河の冷え
二階ひゞきやすし桃咲く誕生日
花売車どこへ押せども母貧し
母は息もて竈火創るチェホフ忌
桃うかべし暗き桶水父は亡し
沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
夏の蝶木の根にはずむ母を訪はむ
いまは床屋となりたる友の落葉の詩
大揚羽教師ひとりのときは優し
口あけて虹見る煙突工の友よ
麦の芽に日あたるごとき父が欲し
黒人悲歌桶にぽつかり籾殻浮き
この家も誰かが道化揚羽高し
桃ふとる夜は怒りを詩にこめて
桶のまま舟虫乾けり母恋し
山拓かむ薄雪つらぬく一土筆


 まず、いくつかの懸念点を挙げる。「俳句研究」誌の結果発表によると選考は「俳句研究社編集部で予選を行って二十五名を選出し、別に牧羊神編集会で予選を行ったものと併せて都合三十七名をもって被選資格者とした」とされている。俳句研究社の選出以外に12名を「牧羊神」が選んだつごうになるが、この時―俳句祭の〆切時、昭和29年後半―の「牧羊神」は事実上寺山が一人で制作しており、編集会議というものがあったのかは不明である。結果発表を見ると、一位から十位までに「牧羊神」メンバーが7名も入賞している。応募作品の宛先じたいが寺山の寄宿先である。主催があまりにも当事者であった、と見えてもいたしかたない。

 俳句研究社の対応にもかなりの疑問符がつく。「俳句研究」誌上での「全国学生俳句祭」募集記事はたったの一回、〆切の直前である11月号に小さく載ったきりである(以下画像)


「俳句研究」昭和29年11月号より。1/3ページの大きさ(住所の一部を加工した)


 その内容は『寺山修司の「牧羊神」時代』に松井牧歌が載せた、寺山から直接届いたという募集案内とのあいだに齟齬がある。なぜこうした齟齬が起きたのだろうか。


*〆切 俳句研究   11月10日

    郵便での案内 10月20日


*作品 俳句研究   20句(昭和28年10月以降作品)

    郵便での案内 25句(昭和28年10月以降作品で発表作品を含む)


*応募資格 俳句研究   大学生、高校生及び卒業後一ヶ年に満たざる者

      郵便での案内 大学生 高校生 卒業後一ヶ年に満たざる者 十代の勤労者


 『寺山修司 ぼくの青森ノオト』(久慈きみ代)によると、「牧羊神」同人の山形健次郎に宛てた手紙のなかに「ひとりで俳句祭の事務に追われている」、「作品の集まりがわるく、〆切を延長してもらった(俳句研究社にかけあったのだろう)」旨の記述などが見られる。松井牧歌宛の手紙でも、応募を熱烈に呼びかけている。綿密な計画により同人の協力を結集したというより、ほとんど寺山ひとりの勢いで決めて実施されてしまったような性急さが伺える。

 募集案内にあった「各結社賞」というものは与えられなかった。結果発表の選評部分は個別の記事なく、講評は沢木欣一の「今の俳壇に欠けている若さを見つけだそうとの期待で読んだがいさゝか裏切られたような感じがする」「みな巧みで表現は身につけているが強烈な個性はまだ出ていないようだ」、原子公平の「個性的感覚と信じていたのが実は十代共通のセンチメンタルなレトリックだった」、高柳重信の「みな語彙が貧弱で同じような言いまわし、同じような構図、同じような言葉が氾濫している。もっと勇敢に危険な株を買う気概が望ましい。これは丁度今の俳壇のひきうつしのようで正直のところ失望した。」、森澄雄の「二十代、十代の呼声に三十代にない全然新しいものの萌芽を期待して読んだのであるが期待は全く裏切れて多少いまいましい気持だ。大半が無性格で共通の思潮も若々しい冒険も見あたらぬ」といった談話調のものだった。

 また、寺山の入賞作品のうち半数ほどが各結社誌や新聞での入選句、前年「俳句研究」誌に発表した句だったため、見たことがある句が並んでいる、匿名の選であっても誰のものかわかる、と一部選者から不評を買った。

 作品、応募構成を伝える部分を除く総評記事はわずか1ページ半、その三段組の一段がアフォリズムを示しつつ十代・二十代の本質を述べる文章に費やされている。記事の署名は「牧羊神」。すなわち、結果発表までもが寺山自身の手で為されていたものと見える。

 寺山については、前年「短歌研究」の受賞作品において草田男、三鬼らの作品を援用していることがすでに明るみになっており、楠本憲吉の批判(「或る「十代」--短歌俳句に於ける純粋性の問題 」)が「俳句研究」昭和30年2月号に掲載された。仮に寺山に対してよく思わない、批判的な面があったとしても、「学生俳句祭」における「俳句研究」の対応ははっきり言って大人気ない、責任感のないものだったと言わざるを得ない。賞にかかわるのは寺山ひとりばかりでなく、応募した百余名の若者達がいるのだ。後援だから、などと立場を引いたのか、受賞者自身に発表文など書かせるべきではないし、選者達の対応も、「裏切られた」などという談話ばかりでなく、よいところを探そうという機運が見られないものか。甘く扱えというのでなく、弱点をあげつらうぐらいの役に立つ意見が欲しい。重信の意見がいちばんまともに見える。

 同号の編集後記に「学生俳句祭」についての記述は見当たらず、「学生俳句祭」も、寺山たち受賞者も、事実上「俳句研究」からほぼ無視された。俳句総合誌での募集、選者に飯田龍太、金子兜太、森澄雄などが加わっている(募集広告で名前が挙がっている加藤秋邨、中村草田男、古沢太穂らの名は選考結果にない。断られたものと思われる)にも関わらず、応募者数は前年の「全国学生俳句コンクール」から横這い、選者らの反応も冷たく、「学生俳句祭」は盛り上がることなく終焉を迎えた。


 昭和30(1955)年は角川書店「俳句」が角川俳句賞を設立した年でもあった。第一回角川俳句賞の発表号、「俳句」昭和30年10月号の田川飛旅子「俳誌巡禮(一)」がほぼ1ページを使って「全国学生俳句祭」に触れている。

寺山氏の作品はイメージの構成の緻密さの點でたしかに一日の長を認めなければならない。十八歳の寺山氏の句に三十代以上の俳句に全くなかつた新らしいものを見出すことは、私も選者の諸氏と同じに困難を感じた。然し、次の二つの點、即ち、俳句を作らせている人間としての感動の實體―詩因といつたもの―が氏一流の形で確かに一句一句に貫かれている點、どことなくふつくらとしたリズム――これが短歌的でも俳句的でもない一つの新らしいリズムに迄発展してゆき相な期待、此處に将来の成果を楽しみたいと思う。

 田川飛旅子は当時「寒雷」同人、40歳だった。かつて「アララギ」に依り短歌を書いたこともあったという氏ならではの視点から出た、至極フェアな意見ではないだろうか。なお同じ号の直前のページまで「俳句に現れた青春像」という座談会が掲載され、その中で寺山は件の楠本憲吉、飯田龍太らにけちょんけちょんに言われている。この座談会に対して、寺山は「俳句研究」昭和31(1956)年1月号に「雉子ノオト」と題した反論を寄せている。

俳句は告白性を持つた文学の一つであり、さうして最も告白性を持ちにくい文学である。つまり真の告白といふのは告白としては口を出た時にすでに堕落の兆を見せるものだが、五・七・五と言ふ定型に押し込める時には堕落も頂点に達すると思ふのである。(「雉子ノオト」「俳句研究」昭和31年1月号)

 この文章を読むと、当時の寺山が江戸俳諧をアナクロニズムと捉え、近代以前の俳句や俳句の成り立ちにはあまり興味関心がなかったことが伺える。定型に押し込める時に告白が堕落する、という見方は、定型ありきの書法では告白の真性がゆがめられる、ということだろう。当時までの寺山の俳句には特に自由律、極端な破調の作品がほとんどないが、定型に対する忠実ともいえる疑いのなさは、新興俳句以降に興味を持ち、「伝統」と彼らが呼ぶものに対する拒絶と対を為している気がする。

 俳句が告白性を持った文学である――という考えを文字通りに受け取ってしまうと、寺山の実作との間に相当のギャップがある。「作品の中に誇張されながら生活してゐる一人を捕へ出す愉しみがまた俳句を読む愉しみとなり、俳句に於けるドラマツルギイ(劇的効果)が取沙汰されるのも結構なことではないか」(「雉子ノオト」)とも記していることから、寺山が言う「告白」は事実性より一人の人が生き生きと息づいて「見える」ことを指すものと考えられる。短歌一首ずつ、俳句一句ずつをそれぞれひとつの短い詩劇の一場面として見よう、とでもいうような。


 俳句に対する新しい「見方」を主張しつつ、寺山の表現はある面でまったく素直に周囲の影響を受けていた。中学時代、白秋や啄木を愛読した。浪漫的な素養の元となったのではないか。語彙や直叙的なところは三鬼から、哲学的な思考、文章の様式は草田男から(もっとも寺山の文には引用が次第に増加してうるさすぎるほどになった)、導入される詩情は翻訳詩や翻訳文学――ドイツやフランスの詩、小説を好んで読み、エピグラフを多用した。「vou」に掲載された詩はのちに「われに五月を」に収録された際若干推敲されているが、翻訳詩ふうの情緒と、社会・生活から断絶した表現を指向した北園克衛の影響は、基調を成すものとして大きかったのではないか。

「牧羊神」は全国学生俳句祭のまさに祭りのあと、昭和30(1955)年9月に福島ゆたかの手によって第十号が発行された。寺山が参加した「牧羊神」はこの号が事実上最後となる(八号、九号は欠番で発行されなかった)。翌昭和31(1956)年、寺山は同人誌「青年俳句」に詩文「カルネ」と「新しき血」146句を発表、俳句に別れを告げた。

 「常軌を逸した」十代の寺山の表現活動のうち、俳句の季節はかくのごとく過ぎ去った。この間ほかに「短歌研究」誌への作品掲載、「vou」「早稲田詩人」に詩や文章を寄せている。学生俳句祭の結果発表の頃、寺山はすでにネフローゼにより入院中で、「雉子ノオト」は病床で書かれた。広範囲にわたる活動の全貌を把握しているのは、本人ひとりきりだったに違いない。

 あらゆるものを書き散らしながら、寺山本人にジャンルを越境する、という意識は低かったのではないか、と考える。目についたものを四方八方に作り上げていく。それはさながら、未だ見ぬ「自分」を探しているようでもある。

 十代とは、日常の中で毎日同じような暮らしを重ね、ごく近しい人々と、名もなき会話や些末な行動を共にし、記憶の確認、上書きを反復しながら、自己の輪郭を確かめていくものではないだろうか。「自分」というものが何なのか、どういうものなのか、親姉弟という「近すぎる他者」との軋轢によってはじめて知り得ていくものではないか。寺山を継続的に反照するはずだった父は亡く、母は遠い。寺山に圧倒的になかったものは、自己をみずから構築するための家庭生活と、その伴走者としての家族の存在、だろう。

 出征した父は帰らず、母との借り暮らしは別居へ変わり、叔父夫婦の映画館への寄宿がはじまる。戦後間もない時期、家族や家を失った少年少女は日本中に存在した。詩友である京武、松井牧歌も父を亡くしていた。彼らと寺山の違いは、同居する親がおらず、兄弟姉妹もなかったことだった。その孤立状態が即寺山に詩を書かせた、とは言わない。ただ、俳句や短歌という私性の提出が織り込まれた詩型、その作品に加えられた脚色には、「ないもの」を作る、空白を埋める愉悦と哀傷が内臓されていたということは、ないと言い切れるだろうか。

  後年、寺山は自己同一性を真っ向から疑うともえいる、TVドキュメンタリー番組「あなたは……」に関わった。素人にマイクを握らせ、道行く人に17の質問を投げかける。最後の質問は「あなたはいったい誰ですか」。寺山自身が聞かれたら、なんと答えたのだろう。型を欲し、ちりぢりだった「自分」を短詩型に押し込めることを断念しつつ、安息を覚えることはついになかったのではないか——彼がしきりに「故郷」を取り上げたのは、言わねばその結びつきが消えてしまいそうだったからではないか——これは、まだ思いつきのアイデアである。

この亡びゆく詩形式に、私はひどく魅かれていた。俳句そのものにも、反近代的で悪霊的な魅力はあったが、それにもまして俳句結社のもつ、フリーメースン的な雰囲気が私をとらえたのだった。(中略)覆面の結社の魅力。しかも、その秘密じみた文芸の腕くらべ。それは、まさしく私のすごしてきた少年時代の地下道のように、「もう一つの時」の回路にさしこんだ、悪霊からの音信のようにさえ思われるのであった。(「十七音」『誰か故郷を思はざる』)

 『誰か故郷を思はざる』は寺山が三十代に入って「自叙伝らしくなく」書いたものであるから、この回想を少年期のものとしてそのまま100%受け取ることはできない。が、腕くらべなどという江戸川乱歩的な言い方も見えることでもあるし、俳句結社をこのようなマジカルなものと期待していたフシは、本当にあったのかもしれない。そんな寺山の期待、希望は、次第に打ち砕かれていったのではないだろうか。俳句結社も現実社会の延長であり、一部である。少年寺山が思い描いたような詩空間、「もう一つ」の時間が流れる場所ではなかっただろう。

 「牧羊神」自体のシステムがいわゆる結社・同人誌をそのままなぞる形だったことは、寺山たちにとって盲点だったのではないか。同人がいて、会員が選句欄に投句できる。選者は高名な俳人を召喚する。同人作品、座談会をひらき、有力俳人からの寄稿を載せる。結社誌と同人誌をまぜこぜにした奇妙な形態も、同人達を惑わせたのではないか。「牧羊神」に必要だったのは、旧来のシステムを気にしない、独自の「本当にやりたいこと」をすること、「本当にやりたいことは何か」を探すこと、だったのかもしれない。

 俳句での挫折と並行して、1954年の寺山が中井英夫に出会ったことは、この上ない僥倖だったのではないかと改めて考える。昭和32(1957)年、絶対安静の寺山がこのまま世を去ってしまうかもしれない、と危惧した中井の尽力で作品集『われに五月を』は生まれた。栄光の受賞作「チエホフ祭」を改題のうえ構成も変え、自らが手を入れた姿でなくしたことも、中井は許した。短歌、俳句、散文詩を網羅したこの本が、ちりぢりになっていたカケラの寺山を統合し、ひとつにした。あれもこれもと手を伸ばしてはいけない、とは、中井は言わなかった。あれもこれも自分であると、この時寺山ははじめてはっきりと思えたのではないか。

 もし中井に出会わなければ、寺山はまだ見ぬ自分の破片を求め、その後も投稿する青春を続け、自身を雲散霧消させていたのかもしれない。

 寺山が俳句に抱いた理想は、この後『花粉航海』で「真の花」を咲かせる。演劇の世界を通して、異形とロマンチシズムの交錯した文体に、寺山の体はやっと着慣れていったのだった。1954年の寺山修司の俳句は、自らの理想まで、まだ何マイルかの道程を残していた。しかしそこにも、たしかに「時分の花」が花開いていた。

 林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
 詩を読まむ籠の小鳥は恩知らず


※『寺山修司の「牧羊神」時代』は俳誌『一滴』に連載されたものを書籍化する予定でいた折、著者の松井が急逝、『一滴』代表の岡井耀毅によってまとめられた。触れられていない話題を加筆する可能性があったかもしれない、と岡井が「あとがき」に記している。


【参考文献】

「寺山修司俳句全集 増補改訂版」(あんず堂)
「われに五月を」(作品社)
「寺山修司の「牧羊神」時代 青春俳句の日々」松井牧歌(朝日新聞出版)
「寺山修司 ぼくの青森ノオト」久慈きみ代(論創社)
「自叙伝らしくなく 誰か故郷を想はざる」(芳賀書店)
新潮日本文学アルバム56 寺山修司(新潮社)
別冊太陽「寺山修司 天才か怪物か」(平凡社)
新文芸読本「寺山修司」(河出書房新社 )
寺山修司研究第2号・第5号(国際寺山修司学会)

安井墨書展ー安井浩司参加初期同人誌を読む『牧羊神』その一〜その五(文学金魚)
https://gold-fish-press.com/archives/7492


【連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第7回:「実作者の言葉」…「頭燈」について 米田恵子

 『天狼』昭和23年6月号の誓子の「実作者の言葉」に「頭燈」が出て来る。『天狼』2月号の「寒き夜や汽車の頭燈罅走る」という句の「頭燈」に首をかしげる人がいる、つまり「頭燈」という言葉に前例がないのではないかということである。ここで、誓子の例の探索が始まる。誓子は、head lightの直訳として「頭燈」と用いたという。これは、すでに志賀直哉の小説「灰色の月」に「頭燈」が出ていると述べる。しかし、使い慣れている英和辞典にはhead lightで「前燈」という訳語が載っているため、「前燈」を使った「暖房車闇に前燈ぎらつかす」という句も作っているが、「寒き夜や」の句も「頭燈」よりも「前燈」の方が適切かもしれないが、実際に四日市市富田の駅の踏切で、まじかに見たD51型の機関車のhead lightを仰ぐようにして見たため、「頭燈」のほうがいいと思ったのである。

 誓子は、句ができた実景から「頭燈」という言葉を思いついたようであるが、中野重治の『汽車の罐焚き』(誓子文庫所蔵)という小説になら機関車用語が出ているだろうと丹念に読み返してみたが、これには残念ながらなかった。そこで、『機関車名称図解』(誓子文庫所蔵)を調べてみると「前照灯」と出ていたそうだ。これが正式名称であろう。しかし、誓子は書物の上の知識では満足できず、鉄道医官のM氏(このM氏の名は特定できなかった)に聞いてみた。M氏の結論としては「前燈」は「前照燈」が正しいということだそうだ。M氏の手紙には最後に誓子の問題になった「寒き夜や汽車の頭燈罅走る」の「頭燈」が浜松工機部でも問題になったそうだが、M氏は気に留めなかったということである。他にも用語の使い方に疑問を持った人たちがいたのである。しかし、言語芸術としての俳句の中で使われる言葉は詩語であり、作者の俳句を作ったその様子や感情が言葉となって表されるものである。だから、専門家から見たら言葉の使い方がおかしいかもしれないが、俳句としては立派に成り立っているのだから、それでいいではないかと思うが、誓子の探索好きというか考証好き終わらない。

 同じ号に続けて「頭燈 ふたたび」により、誓子は「気罐車」と「機関車」の書き分けについて述べる。誓子は、「機関車」は事務的で冷酷で素っ気ない述べ、せめて俳句では「汽罐車」を使いたいと「機関車の話」(毎日新聞昭和9年5月19日付)で述べた。「大阪駅構内」「寒夜駅頭」では「汽罐車」を使用し、「ワゴン・リイ」では「機関車」とした。「ワゴン・リイ」はアガサ・クリスティの小説に出て来るあのオリエント急行の客車である。誓子の区別は「汽罐車」の「汽罐(かま)」という字には古風な小柄な感じがあって、「ワゴン・リイ」を牽引するような、新しい形の黒くたくましいのは「機関車」という漢字が当てはまるということだ。

 「頭燈」は『天狼』(昭和23年10月号)に「頭燈 みたび」には、M氏は正式には「運輸技官」だそうであり、「前照燈」は列車の夜間における「前部標識」であり「尾燈」は夜間における「後部標識」が正式名称らしいということが書かれている。

 変にこだわるから、誓子はだんだん引くに引けなくなってしまっている。専門的には使用しない言葉でも、実際の感動を言葉にする俳句も言語芸術なのだから、そこで浮かんできた言葉は詩語なんだと突っぱねてもいいのではないかと私などは思ってしまう。容赦なく否定しないところが誓子の『天狼』に向き合う真面目な態度かもしれない。前例があるのかどうかを丁寧に調べ、文献では頼りないから実際に携わっている人に聞いてみる。

 誓子には鋭い読者が大勢いるため、その読者からの指摘もないがしろにしない。まだまだ、誓子の探索好きや考証好きは続いてゆく。


【連載】現代評論研究:第22回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

 (2012年01月06日)

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について

 筑紫は特に開業医俳句について誰も遷子の先人となる人はおらず〈遷子は自らの良心に基づいて開業医俳句を開拓した〉と述べる。一方で〈遷子の句業を引き継いだ人もいなかったのではないか。35年後の今、わずかに5人の作家たちだけが自らの良心に基づいて遷子を発見したのかもしれない〉と言う。


 原、中西は無回答。


 深谷は晩年の角川源義とのやり取りからも分るように〈どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも留めず、俳壇とは距離を置いていた〉と述べる。逆に〈俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかった〉と言う。


 は影響を受けた作家として水原秋桜子と石田波郷を挙げる。波郷については年下ながら尊敬の対象だったようだが俳句の上での影響は強くないと言いつつ〈境涯俳句を詠むという行き方は波郷から学んだのかもしれない〉と述べる。また〈『惜命』と遷子の闘病俳句との関係については今後の比較研究が必要だ〉と考える。

 飯田龍太について〈遷子に対する評価が意外に低いのには驚いた、同じように中央俳壇を遠く離れて自然の中の暮らしを詠む者同士もっと共感するところがあってもよいのではないかと思った、遷子の方は龍太に親しみを感じていた〉とコメントする。

 最後に遷子の俳句は同時代の人々に評価されなかったと締め括る。


9のまとめ

 回答者に共通していたのは遷子の前に遷子なく、遷子の後に遷子なしということ。理解者と言う意味でも同時代の、馬酔木の人達にすらあまり理解されていなかった。筑紫の言うように当時見過ごしてきたものが現代だからこそ見えてくるようになったのかもしれない。


(2012年01月13日)

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

 筑紫は次の2点を挙げる。

①戦後俳句史をどのように構築したら良いのかということ。既存の戦後俳句史に対する新しい戦後俳句史観、すなわち「社会的意識俳句」時代のあとに伝統俳句の時代が新生したという流れ。――ここで詳細を述べるのは適当ではないが、はしょっていえば〈角川源義などの前衛俳句・現代俳句協会と対立した政治的な「伝統派」の主張者に対し、この時期そうした政治的な動きから疎外されていた草間時彦・能村登四郎・飯田龍太などが実践していった伝統俳句の新しい運動(「新・伝統俳句」といえようか)〉が起こったと考えられるが、それは〈「社会的意識俳句」のそれを精神的・内面的に深化させたものであったといえるかも知れない〉と言う。

②我々が死ぬときは残るものは何か。視覚も薄れ、論理さえおぼつかなくなっても意味など失った「ことば」だけが残る。〈だから俳人は死ぬ最後まで言葉にこだわる、亡くなる人で最後まで活動できるのは俳人ばかりだ〉と述べ子規と遷子の最期に触れる。

 さらに〈こう言っておきながらも不思議なのは、風景俳句、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句を離れて遷子の作品は不思議な魅力をたたえている〉と述べる。

例として


雛の眼のいづこを見つつ流さるる


を挙げる。ユニークな画家である智内兄助(ちないきょうすけ)氏はこの句に触発され、作品「雛の眼のいづこをみつつ流さるる」を発表した(少し仮名遣いが違うが)。

 そこに描かれたおどろおどろしい少女の姿は、遷子の心の深淵をのぞきこむような不気味さをたたえている。さらにこの絵が坂東眞砂子のホラーノベルの傑作『死国』(四国高知のある村で起こる死者の怨念とよみがえりの物語)の表紙絵となっているのはさらに驚きだ。端正な遷子の像からは思い及ばない結末である。


 は〈いまだに捉えきれずに〉いると言う。


 中西は〈死の直前まで俳句を続ける精神力〉、〈自己の生き方の思想的部分を扱っていること、特に無宗教の身の処し方を描いているところ〉に感心し、真似はできないと述べる。


 深谷は遷子研究を始めて〈自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなった〉ことから〈自分の俳句の作り方が変わった〉と述べる。


 は遷子の冷徹な目が〈科学者と文学者という一見正反対の立場を結び付け〉、焦点がぶれることのない一貫性を以て医業と俳句の両方に接したと言う。その〈真摯に、ほとんど求道と言ってよいストイックさで対象に向かう姿勢は羨ましい程〉と述べる。〈学んだもの、自分も身につけたいものとしてこの「冷徹な目」を挙げたい〉と言う。


10のまとめ

 筑紫は戦後俳句史の構築に関する示唆、俳人として死んだ後に何を残すかということを学んだと言い作者の思いもよらぬ所で後世の人間がその作品からインスピレーションを得るという幸福もあると画家智内兄助の事例を紹介する。


 は遷子をまだ捉えきれない存在と感じている。


 中西は俳句を死に至るまで続ける精神力、無宗教の身の処し方に注目する。


 深谷は作者の思いを俳句に表現するという作句態度に共感する。


 は医療にも俳句にも同じ「冷徹な目」を持って臨んだ生き方を学びたいと述べる。


おわりに

 所属する俳句グループも住居や職場などの環境も全く異なる5人が遷子という一俳人を研究し、その作品と生き様に感動し、『相馬遷子―佐久の星』が生まれた。今回その5人が再び集い、「遷子を通して戦後俳句史を読む」という試みを行った。

 遷子を読み込んだ人達ばかりなので遷子俳句の特徴や魅力については各人の主張を持ちながら、全員が殊に医師としての生活を詠んだ句(医師俳句)と晩年の療養俳句についてもっと高く評価されてしかるべきと考えていた。

 戦後俳句史を読むというテーマに即して言えば、遷子は孤高の作家でありその俳句世界は独特であるとの認識が大勢を占めたが、一方で「社会性俳句」の潮流とは別の実生活に根を下ろした「社会的意識俳句」とでも呼ぶべき傾向の句(医師俳句も含まれる)を遷子が多く残したことは同時代、またその後の同傾向の俳句を見直すことにつながるとの見方もあった。

 この座談会が従来の戦後俳句史からほとんど抜け落ちていた相馬遷子という清澄な星を星図の中に位置付けるのに多少なりとも貢献できていればと思うばかりである。

(終了)

【連載】現代評論研究:第22回各論―テーマ:「幼」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 

(投稿日:2012年03月23日)

●―1:藤田踏青【近木圭之介】

 ひかり再び閉じ 少年よぎる   平成10年作

 今回のテーマ「幼」の「幺」とは糸の上半分の形であり、糸は絲の半分、幺は糸の更に半分で、細く小さい意であり、それに添えられた「力」は弱く小さい意を示している。それ故、満ち足りない意を含む「少年」もその範疇に入ると考えた。

 この句の「ひかり」とはいったい何を指しているのであろうか。単なる光であるのか、又は希望や光明であるのか。「少年」とは対象であるのか、または作者の内なる存在であるのか。それは作者の視点、立ち位置に関わるのであるが、「再び閉じ」とあるので希望と内なる存在としての少年と考えると、この句の時間の幅が拡がってくると思われる。特にこの句の前後には次の句が置かれている事もその理由となる。

 列島悪の構図 体の穴みな怒り噴く   平成10年作

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し    々

 社会悪、それへの憤り、自己への不満の残滓、そして失われた希望。それらを全てひっくるめた総称として、かつての「少年」が一瞬心の中をよぎったのではないであろうか。またその「ひかり」には少年が内に秘めたナイフの凶のようなものも含んでいるようだ。それを想起させるのが次の句と詩である。

 銃持った少年青い夏へ引き金を引く   昭和16年作  注①


パレットナイフ 2 抜    注②

Ⅲ 少年は性の倒錯を宿し数年経た 

  どこにも通り抜ける道を持たずに 

  ――いらだちのサラダ私に青い 

Ⅳ 刃のごとく窓に映る河 

  内なる凶 

  沈黙と溶暗


 これらの詩、句を読んでいたらいつしか稲垣足穂の「少年愛の美学」を思い浮べていた。足穂はA感覚(アヌス)の主導性とV感覚(ヴァギナ)、P感覚(ペニス)の補助的存在を指摘する事によって、性の倒錯を包含した少年への感覚を謳いあげていた。

 「V」とは水増ししたAであって、女性とは「万人向きの少年」を云い、V感覚とは「実用化されたA感覚」に他ならない。   (稲垣足穂)

 ここには同性愛とはまた違った「少年」という両性具有的な存在を見ろ事が出来るのだが。掲句の少年もそういった作者の奥底に秘められたデジャビュの様な存在ではなかったのではなかろうか。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社     昭和61年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊


●―2:土肥あき子【稲垣きくの】、【テーマ:流転】赤坂時代(戦中編) 

 新しき婢が気に入らず春の風邪

 昭和16年(1941)の俳句手帳より2月24日、女主人もすっかり堂に入った暮らしぶりがうかがえる句である。きくのは「春蘭」昭和13年3月号のエッセイでも女中難を嘆いている。戦前の家庭では、家族が多いこともあり、住み込みの女中がいるのは特別ではないとはいえ、その多くは10代の地方から出てきた少女であることを思うと、茶の湯に通じ、都会暮らしの煤煙で足の裏がざらつくことをなにより嫌う潔癖なきくのを満足させるのは至難であったかと思われる。

 句会に吟行にと熱心に続けていた「春蘭」は、昭和15年(1940)戦争のため6月号で廃刊し、10月には東京在住の岡田八千代などとともに、大場白水郎を選者に「縷紅」を創刊する。

 「ホトトギス」虚子選を叶え、「縷紅」にも投句を続け、きくの調を勢力的に模索するなか、昭和16年(1941)1月から昭和17年(1942)4月までが記された俳句手帳には6月1日、大連へと旅立つとある。旅吟は機上から始まり、大連、特急アジア、奉天、北陵、ハルピンと、異国を詠みつくす勢いで手帳に書き記している。この旅行を終え、俳句手帳のきくの作品は数も質も高まりを見せる。

 昭和17年(1942)には生涯のライバルとなる鈴木真砂女と初対面し、翌年には「縷紅」幹事として名を連ね、投句先には赤坂福吉町の住所が記された。

 夏蝶のあるひは低く草の中 「縷紅」昭和17年8月号

 羅やまたその癖の腕まくり   〃

 額の花の上にも道のあるらしく 「縷紅」昭和18年8月号

 俳句への情熱が年ごとに高まるきくのであるが、昭和19年(1944)、用紙の入手困難となり「縷紅」は休刊となる。

 東京では昭和19年(1944)に学童疎開が始まり、日本の敗色も深まりつつあったが、福吉町の屋敷のなかできくのは割合のんきに構え、疎開についても鷹揚だった。しかし、昭和20年(1945)3月10日以降のある事件によって、疎開の覚悟を決めた。それは、隣の黒田邸の森から早朝夥しい数の鴉の群れが一斉に下町方面へと飛び立ち、夕方また一斉に戻ってくる光景を不思議に思っていたところ、大空襲に襲われた下町へ餌をあさりにいくと知り、その餌となっているもののおぞましさに居ても立ってもいられなくなったのだ。

 4月にきくのは信州の小諸から6キロほど入った平原という浅間山麓の農村へ疎開する。農家の一隅にある離れを借りていたということだが、この間の俳句はどこを探しても出てこない。随筆集『古日傘』で一編だけ疎開時代の思い出を書いた文章があり、所用で隣村への一里あまりの道すがら、雑木紅葉が見事であったとあるから、いたって気楽な生活を送っていたかと思われる。

 赤坂福吉町の家は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲であっけなく焼失した。


●―4:飯田冬眞【齋藤玄】

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 昭和50年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」の項でも少し触れたのだが、昭和25年を境に斎藤玄は子供の句を作らなくなった。そして、昭和28年には、主宰誌である「壺」の結社活動から離れ、俳句を作ること自体を中断してしまうのである。その原因として玄本人は結社の同人たちが作句精進を怠り、互いに足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげている(*2)が、それは建前に過ぎないだろう。もちろん、昭和20年の終戦直後に「壺」誌を復刊、文字通り家財をなげうって俳句の革新に精魂をこめ、結社制度の改革にも心血を注いできた玄にとってみれば、新しい俳句を作ることもよりも結社内の地位と権力を得ることに明け暮れる弟子たちに幻滅したのは事実だろう。しかし、昭和26年に北海道銀行に入行し、主宰誌の発行所であった函館の自宅を引き払ったのは、すくなからず、経済的な理由もあったに違いない。その遠因と思われるのが、小児麻痺となった長男の治療費を稼ぎ、家計を支える父親の役割を果すためではなかったかと仮説を述べた。

 齋藤玄の長男は昭和21年に生まれたらしい。語尾を濁すのは、玄は最初の妻節子との間に二女一男を儲けており、長女や次女誕生の際にはそれぞれ前書付きでその喜びの句を連作として残しているのだが、長男誕生の際にはそれらしい前書は見当たらないからだ。句の内容から推察できるのは次の一句だけである。

 俳諧に霰飛び散り長子得し 昭和21年作 『玄』

 作句時の昭和21年は俳句史に残る大事件が起こった年である。上五中七の〈俳諧に霰飛び散り〉は、おそらく桑原武夫が昭和21年に雑誌『世界』の9月号に発表した「第二芸術」論を受けて、俳壇が受けた衝撃を象徴的に把握した表現だと思われる。そこに下五〈長子得し〉をつけたのは、齋藤玄一流のエスプリに思われてならない。この〈長子得し〉は字義通りに長男が生まれたという意味だろうが、桑原の論に激烈に反論した中村草田男の代表句〈蟾蜍長子家去る由もなし〉の「長子」を俳味として響かせているようにも思う。俳人たちが大騒ぎしている一方で、自身は長男を得たということを俳風仕立てにしただけのもので、感情は抑制されている。長男を得た喜びを読み取ることはできない。

 落雲雀子は雑草にもつれを    昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる   昭和25年作 『玄』

 梅天や麻痺の子持ちしわが惨事  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子を眠りに落す木下闇  昭和25年作 『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し  昭和25年作 『玄』

 一句目は昭和25年に発表された「麻痺童子 わが長男左膊小児麻痺にて不随 十三句」の冒頭の句。〈落雲雀〉が空から垂直に降下するさまと雑草に足をとられて転ぶ幼子の姿をうまく重ね合わせており、長男を取り巻く家族の人生が急降下してゆくことまでも暗示させている。

 二句目は自註の記述から見て行くことにする。 

四歳の長男が小児麻痺で左膊を不随にした。不治と聞き悲しみは深く、男の節句が来ても僕は悶々とした。夜の矢車の音にいっそう悲しみは深い。(*2)

 この自註の記述によって、ようやく昭和25年当時の長男の年齢が判明し、生年が昭和21年であることがわかる。全句集の年譜にも長男のことはいっさい記述がない。〈矢車〉は鯉のぼりの竿の先端に取り付けられた矢の形をした輻(や)を放射状に取り付けたもの。端午の節句を迎えても不治の病に取りつかれた長男の将来のことを思うと悶々として喜べなかったという玄の深い悲しみが〈矢車夜半を鳴り出づる〉ににじみ出ている。矢車のカラカラという音が長男の宿命の重さを感じさせて切ない。深い哀感が伝わってくる。

 三句目は、玄にしては珍しく自己の内面を吐露した句。しかも〈わが惨事〉などという自己憐憫にまみれた言辞は抑制もなく、子を慈しむ気持ちの片鱗すら見えず、詩として成立していない。

 四句目は障害を持った子を介護する苦労がしのばれる句。〈木下闇〉の涼しさで〈麻痺の子〉のあどけない寝顔が見えてきて救われる。

 五句目は〈あはれ〉に父親になりきれていない作者の独善性が露骨に表われており不快である。幼子が不如意なからだで行水にはしゃいでいるならば、なぜ一緒に裸になって幼子を抱きしめて水まみれになれないのか。

 みどりごをつつみに来るよかげろふは

 そして25年間詠むことのなかった子供の句である掲句を見てゆくことにする。

 飯田龍太はこの句について次のように誤読する。 

眺める側のよろこびが不安を上廻つて微笑にかわり、そのこころをかげろう包む。それなら対象に自他の区別をつける必要はあるまい。(*4)

 みどりごを眺めていた玄の心中に龍太が言うような「不安を上廻」る「よろこび」など、ほんとうに湧き上がっていたのだろうか。〈かげろふ〉に包まれる〈みどりご〉に麻痺童子の長男の姿を幻視したからこそ、「かげろうが魔女の手のように思えて、しきりに不安だった」(*5)と記したのではないか。幸せは一瞬に過ぎず、苦痛は永続する。玄は長男の人生を通して、その苦さを知り尽くしていたはずだ。

 幸せなものを見ても過去の経験に引きずられて不安に取り込まれてしまう人間の愚かさを描いた句であると私は思う。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2  齋藤玄年譜 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*3、5  自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*4  飯田龍太 『雁道』の秀句 『俳句』昭和55年6月号所収 角川書店刊


●―5:堺谷真人【堀葦男】

 鉄のけものら橋ゆすり過ぎ酢を抱く子

 『機械』(1980年)所収の句。

 『機械』は第一句集『火づくり』に続く第二句集。1962年夏から1967年秋に至る約5年間の作品から444句を収録している。「機械」「太陽」「渦潮」「蝶宇宙」「母」「赤道草原」「修羅」「水辺」という8章構成の劈頭に置かれた「機械」のこの句およびその前後の作品には、「海程」草創期の葦男俳句の特徴がよく出ている。すなわち大阪から神戸にかけての工場、倉庫、港湾、建設現場などに取材したとおぼしき、産業俳句ともいうべき作品群がそれである。当時の葦男作品は重量感に富むメタリックな形象に満ち、行間には高度経済成長を牽引した様々な機械たちの稼動音や軋みが通奏低音のように鳴り響いているのだ。

 燃える冬霧機械ぞくぞく被覆脱ぎ

 機械焦げるにおい夕空薔薇を溶かし

 ルビーにまさる夜の起重機の灯を動かす

 重い上げ潮 動くものみな装甲され

 さて、本稿冒頭の句である。

 積荷を満載したトラックや建設用重機が陸続として渡る橋。可載重量ぎりぎりの荷重を受けて揺れる橋梁。ふと視線を移すと、騒音と土埃が立ちこめる橋のたもとには、お遣いの帰りなのであろう、酢の壜を抱いて立つ子どもの姿があった。

 荒々しい車列の傍らにぽつんと点描された子どもは一見、寄るべなく痛々しい。しかし、彼もしくは彼女は単に無力な、庇護すべき弱者なのであろうか。否、そうではあるまい。酢の入った壜を両の手にしかと抱く子どもは、れっきとした家事労働の一翼の担い手なのであり、「酢を抱く」という構えはその子の責任感の表れに他ならないからである。

 そういえば、赤塚不二夫の代表作「天才バカボン」にこんなギャグがあった。ママから豆腐を買って来るよう頼まれたパパが用件を忘れないよう「トーフー、トーフー、トーフー・・・」と口ずさみながら道を急ぐ。が、いつしか逆転して「フートー、フートー、・・・」となり、最後は文具店に飛び込んで「封筒ください!」と叫ぶのである。

 恐らくこのギャグの背景にあるのは「お遣いという役割を通じて社会化してゆく子ども」という一種の成長モデルである。幼児は大人や年長者の庇護を片務的に必要とする存在であり、原則的にお遣いを任されることはない。一方、幼児期を脱した子どもはお遣いを頼まれるようになる。いや、初めてお遣いを頼まれたときに人は幼児期を卒業するのだともいえよう。年齢や体格、IQ検査で測られる精神年齢などはなるほど子どもの成長のメルクマールとして重要であるが、親や年長者の側が子どもに何を任せるかという観点も実は同じくらい重要なのである。

 橋のたもとの「酢を抱く子」は無事に家に帰り着いたであろうか。


●―8:岡村知昭【青玄系の作家】(欠稿)


●―9:しなだしん【上田五千石】

 涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲   五千石

 第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

 五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。

     ◆

 この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。

 掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。

     ◆

 ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。

 だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。

 そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。

     ◆

 娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。


●―10:筑紫磐井【楠本憲吉】、【テーマ:妻と女の間】 

 鳴らすコップが妻の弔鐘虹這う窓

 逆さに伏せたコップと鐘---コップに触れる響きと鐘の音、特に弔鐘という限り悲しい音色であるはずだが、むしろその配合を楽しんでいる節がある。「弔鐘」は憲吉自得のことばであろう。

 くりやごと(台所の仕事)が家庭の平安の象徴であるとすれば、楠本家におけるそれは、夫婦の間の修羅により地獄と化している日常の一齣である。妻にとっては日々の浮気の絶えない夫を持って、黒いベールを纏った未亡人の心境であったろう。虹すら、蜈蚣のように窓硝子に貼り付いている(昔、虹は貝の一種の吐く気だと思われていたからさほど間違っているわけではないが)。

 けしからぬのは、ことの責任はすべて夫にあるのにもかかわらず、苦々しく思いながら楽しんでいる点である。明るいリズムでこんなに詠まれたらたまったものではない。

 そこで無言の妻に戴冠カンツォーネ

 これもかなり妻を侮った句。妻が無言となるには理由があるのだが、---そしてそれは夫の行為に帰責するのだが、そうした反省はない。「戴冠」とは「乾杯」に通じる趣がある。だから「お前さんは女王様だよ」と言わんばかり。カンツォーネはイタリアの歌曲であるが、そうした小芝居の背景に朗々と歌われるのにふさわしい俗曲だ。

 このような倫理的欠陥があるにも関わらず、リズミカルな詠みぶりは魅力的である。どんな困難があろうと、積極的、肯定的な態度で望めるところが憲吉の持ち味であろう。必ずしも575にこだわらず、特に上5に字余りを盛んに用い、日常のディテールをゴタゴタと盛りこむ。にもかかわらず独自のリズム感があるから不快ではない。「そこで」などという詩歌の冒頭にはあり得ない言葉を盛りこんで憲吉の世界に導入する。お前は何ものだ、と言いたいが、きっと俺は本物だ、と答えるにちがいない。

 憲吉の句を読むには憲吉になりきらないといけない。共感しないといけない。そして憲吉になりきると---心地よい。ちょっとしたピカレスクロマンであり、誉められたことではない。誉められないが止められない。これが憲吉の秘密である。


●―12:北川美美【三橋敏雄】【テーマ:『眞神』を誤読する】⑱―㉕

⑱顔古き夏ゆふぐれの人さらひ

 「人攫い(ヒトサライ)」という言葉を聞かなくなって久しい。「ヒトサライが来る」と言われていた頃、それは本当のモノノケであると信じていた。それは誘拐犯でもあり、鬼のような形相で私を抱え、別の世界(恐らく黄泉)へ連れて行くのだと思っていた。そうでなくても暗闇と夜のトイレ(御手水、御不浄という方がふさわしい)が怖くて仕方がなかった。その怖さが最高潮になるのは、自宅までの商店街から路地50メートルほどの夜道だ。外灯付の電柱が3本あるが、いまだに心細い灯りである。路地の入口に御稲荷様と庚申塔を備えた機織工場がある。夕方になると小柄で健脚な男性が袈裟と頭巾を着装し太鼓を鳴らながら足早にやってくる。今から思うとそれは日蓮宗(あるいは新宗教)の唱題行脚修行だったようだが、それは別世界の入口でもあった。ソロバン塾の帰りにその闇を通らねばならない。目を固く閉じたまま、ひた走る、ただただ怖くて走る。ヒトサライという神隠し、モノノケが本当に出ると信じていた。

 最近になり、シャッター街となった通りから同じ路地を日没後に歩いた。庚申塔は今もあるが、機屋の工場からは何の音も聞こえず、道沿いの子沢山だった牛乳屋さんも顔なじみだったファスナー職人のおじさんも亡くなり、空地になっている土地もある。向こうから外套着の男性らしき人が歩いてくる。街燈の下ですれ違っているのに顔だけが見えない。姿は見えるが、本当に顔だけが何も見えないのだ。暗がりでは人の顔が見えない。都心では考えられない光景だった。この道にはやはりモノノケが潜んでいると改めて確信した。

 「ヒトサライ」について調べてみると、人が忽然と消えるような事象を「神隠し」と片付けていたが、戦後、身代金請求や誘拐報道が生々しくテレビ放送されるようになり、具体的に「ヒトサライ」という表現が定着していったという説があるようだ。過疎地域の子供、若者は船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦などに実際に身売りされたという事実もあり、いわゆる人柱といわれた社会問題があった。平成になり一気に表面化した深刻な「ヒトサライ」は、1970年頃から80年頃にかけての北朝鮮による日本人拉致多発だろう。今も未解決問題であることが報道されている。実際に「新潟の海に行くと、ヒトサライに逢う。」と本当に言われていた。モノノケは本当に私たちの生活の中に実在し、『眞神』が生まれた時代には恐ろしい事件が多発していた。そして現代にもある「ヒトサライ」は、社会の暗闇のような恐ろしい事件であることが多い。

 人が忽然と姿を消すことは、敏雄の中にある、自分自身のリセット願望とともに敏雄自身の何かの消失からきている言葉なのかもしれない。

 ここでキーワードとなるのは「顔古き」という措辞である。顔が古いというのは「年老いている」という意味合いと「顔なじみである」という解釈があるかと思う。幼少経験から解釈すると、「顔古き」は「顔なじみ、知っている人」ということかと解釈できるのだが。「顔新しき」としてみると、「ヒトサライのくせに新顔じゃないか」と攫われる側が想うということになる。

 掲句を見ていると、彼の世にいる牛乳屋のおじさん、ファフナー作りのおじさん、そして日蓮修行僧が蘇る。今も暗い路地を通ると、そういうおじさんたちが、今、どこか別の異界へ連れていこうとする姿をふと想像する。怖さの中にどこかファンタジーがある。

 『眞神』には当時の事実に裏付けされた事象がありながら、時代に読みづがれてきた神話、童話の世界がある。逆に神話、童話は、歴史の事実を元に語り継がれてきたことであることにも気が付くのである。


⑲鬼やんま長途のはじめ日当れり

 前句の「ゆふぐれ」から「鬼やんま」へと句が移る。トンボである。

 大方の読者が「負われて(背負われて)見たのはいつの日か」と想像するのが容易いだろう。ヤンマは、大形のトンボの総称で、羽の美しい意で「笑羽(エバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤエバ)」が転じた説などの諸説がある。「鬼」がついて「鬼やんま」。巨大トンボの別称だが、鬼のような厳めしい顔つきが特徴であり、黒と黄色の段だら模様を、鬼が履いているトラのパンツに見立てたことに由来している。

 三句切れとなっているが、中七の措辞「長途のはじめ」とはなんだろうか。「長途」とは長旅、遠路のことであるが、明治時代にはじまった修学旅行は、「長途遠足」なんていっていたらしい。「鬼やんま」の生体を調べてみると、成虫になるまでの期間が約5年。まさに長旅である。旅のはじまりが、めでたいような、祝福されているような感じだろうか。鬼やんまは、共食いまでもするような肉食(ガ、ハエ、アブ、ハチなどを空中で捕食)であることも、練習船の事務局長として数えきれない長旅を経験した敏雄の船内の経験をふと想像してしまう。

 さてここからが本筋の深読みの世界だ。「途」から「冥途の世界」という連想もあるだろう。三途の川の入口に「鬼やんま」が出迎えているのである。冥途には流れの速度が異なる三つの瀬があり、生前の業(ごう)によって「善人は橋」「軽罪の者は浅瀬」「重罪の者は流れの速い深み」を渡ると考えられており、「三瀬川」と呼ばれている。そこに肉食の鬼やんまが日に当たる石にしがみついている光景は、ありえる世界だ。

 だいたいタイトルが『眞神』というのが、『里見八犬伝』のような大スペクタクル伝奇をも思わせる。けれど、敏雄はそれを俳句という最短の文芸に収め、総句数130句でまとめている。加えてこれは小説でも連載でもなく、句集というのが畏れ入るのである。

 「空想の世界を詠む」ことは俳句の禁じ手であるといわれている。『眞神』は、事実に基づいた景を見せながら人の心にある異世界を引き出すという手法が見える。


⑳蒼白き蝉の子を掘りあてにける

 「鬼やんま」の虎の子パンツ柄から一気に「蒼白き蝉の子」へと生のあわいを感じさせる。

 蝉の穴の句(7句目)から実際に、蝉穴の幼虫そのものを掘り当てたのである。

 数年を地中で過ごした蝉の幼虫はこの世の風景をまだ知らない、蒼白い、無垢な命である。まるで、男子が赤子をはじめて抱き、生命の尊さ驚いたかのようだ。下五の措辞「掘り当てにける」から、井戸を掘り当てたように、幸運な出来事だったのである。

 この句以降(21句目~24句目)の言葉に「動き」「運動」がある句が配列される。

 蒼白き蝉の子を掘りあてにける (掘る)

 草刈に杉苗刈られ薫るなり (刈る)

 蛇捕の脇みちに入る頭かな (入る)

 蒼然と晩夏のひばりあがりけり (あがる)

参考までに、蝉の子(幼虫)が Youtube で見られる。


㉑  草刈に杉苗刈られ薫るなり

 すがすがしい句。

 「刈る」のリフレインと「ka」音(「草刈」「刈られ」「薫る」)が韻を踏んでいる。古い句にみえながら、「刈る」という行為、字面が殺伐とした荒涼感をもたらしている気がする。

 「刈られ」ているのだから作者が刈ったのではなく、草刈作業で誰かが刈った草が山になり、その草山を通り過ぎた光景を思い浮かべる。杉苗と言っているので街中ではなく、多少なりとも山が控えている地域だろう。アレルゲンの要素が沢山ともいえる草山だけれど、掲句をみているだけでマイナスイオンの山の香りとともにストレスから解放された気持ちになる。春から夏にかけての漂う山の香りというのは、杉の香りなのかもしれない。山に囲まれた八王子に暮らした敏雄ならではの郷愁をも感じられる。

 『眞神』の中にはリフレイン、言葉の重なりがある句が多い。以下『眞神』のリフレインの句を挙げてみる。

 鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中

 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 針を灼く裸火久し久しの夏

 帆をあげて優しく使ふ帆縫針

 行雁や港港に天地ありき

 油屋にむかしの油買ひにゆく

 山ちかく山の雹降る石の音

 海ながれ流れて海のあめんぼう

 水の江に催す水子逆映り

 思ひ負けの秋や秋やと石の川

 130句中で10句。リフレイン(重畳法)の句は詩情を高め、リズムを強める効果があるが、理屈っぽさ、滑稽さ、しつこさに陥り、俳句という短詩型の中でのリスクも大きい。『眞神』ではリスクのある手法が多く収録されているのも確かだ。

 以下はリフレイン句として引用される歴代の代表句。

 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな   蕪村

 梅の花あかいは赤いあかいはの   惟然

 露の世は露の世ながらさりながら   一茶

 下々も下々下々の下国の涼しさよ   一茶

 山又山山桜又山桜     波野青畝

 ちるさくら海あおければ海へちる   高屋窓秋

 いなびかり北よりすれば北を見る   橋本多佳子

 一月の川一月の谷の中   飯田龍太

 西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄

 飯田龍太の「一月の」の句は1969年制作となっていたので、『眞神』よりも数年早いことになる。

 『眞神』の中のリフレイン句は、使用する動詞、形容詞に意外性があり型に則しながら無駄がない。また、『眞神』の収録句は、三鬼没後の制作句が多く含まれると思えるが、そこには、新興俳句にみられるコスモポリタン的な詩情とは異なる、俳句形式の中での詩性の型を追及しようとする姿勢も、リフレイン句が多く含まれる要因であったのではないだろうか。俳句の型を超えた交流(吉岡実、高橋睦郎など)が始まるのは『眞神』発表以降頻繁になる。他詩型が敏雄に気づき始めたのである。

 掲句は、リフレインの中で、さりげない日常を詠っている。なんでもないこと、当たり前の日常であることが、とても高貴で豊かなことであることに気付かせてくれる句である。


㉒  蛇捕の脇みちに入る頭かな

 伝統俳句的である。確実に「俳句」形式だが、句意がいまひとつわからない。何故「蛇捕」が出て来るのか、なぜ脇道に「頭」が入ってしまうのか。俳句の致命的な短さから、想像の世界へ引きずり込まれる。畦道で車が脱輪し、さらに車体の頭を畑に入れてしまったような思いがする。

 ことわざの「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」の由来は、「蛇の通る道は小蛇がよく知っている」という説と、「蛇の通る道は他の蛇もよくわかる」という説がある。いずれも同類のすることは同類の者が一番よく知っているということ。蛇捕は蛇の通る道ならばわかるが蛇が通らない道、人の道はわからない。だから道に頭を突っ込んでわけがわからなくなってしまう。というような人生訓のようにも思えてしまうのだが・・・。

 飛んで脳の話。人間の脳の一番根っこには、ヘビの脳(脳幹)といわれる動物の機能中枢がある。爬虫類、鳥類と同じ機能と考えられ、食べる、呼吸をする、排泄をするなど、生きていく上で大切なことを指示する脳。その上に、ネコの脳(大脳辺縁系)と呼ばれる部分があり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりといった感情を出す。さらに上に、ヒトの脳(大脳新皮質)が覆うようにある。ヒトの脳(大脳新皮質)は、覚えたり、考えたり、話したりする部分で不完全な部分。生後どのような情報をインプットするかによって、その精度が決められるとされている。ヘビの脳(脳幹)は、動物が生存を続けるのに不可欠な脳であり、自己防衛本能や快感・美意識などの司令塔。すなわち人間は蛇の行動と同じ能力をも備わっているということだ。

 蛇脳を持つ人間である蛇捕が、蛇の通らない脇道(蛇以外は通る)に入ったとき、熊とか、鴨とか、ペンギンに遭遇したとして蛇脳ではなく、ヒトの脳で考えてしまい、熊、鴨、ペンギンの立ち話に頭を突っ込んでしまい、熊は熊の、鴨は鴨の、ペンギンはペンギンの苦しみを知る。しかし、話を聞いてばかりでは、蛇はおろか、何の獲物も得られなかった・・・。蛇捕のプライドが最短で蛇を捕獲することならば滑稽なことである。しかし、そういう「脇みち」も 悪くない一日だ。

 別訳で、精神分析の始祖であるフロイトは夢分析において、ヘビを男根の象徴であるとした。これに対してユングは、男性の夢に登場するヘビは女性であると説いた。蛇捕が蛇を捕獲しにいって、脇道で性的対象を物色して男根を突っ込んでいる姿とも思える。敏雄句は色事的解釈がされることが多い。それは、俳句が大人の遊びであり、面白いと思えるところでもある。

 蛇といえば、タロットカードである。『三橋敏雄俳句かるた』(ナムーラミチヨ画/書肆まひまひ)をようやく購入した(在庫わずか)。あいにく、掲句の蛇捕の句は絵札、読み札に入っていないが、次は蛇捕の句を入れて『眞神タロットカード』をナムーラさんと構想してみたい。その日を占う眞神カード。 脇みちに頭を突っ込むのも悪くないのだ。

 素頭のわれは秀才夏霞   敏雄『靑の中』

 素頭の句から約30年を経て敏雄は脇みちに頭を突っ込んだのだろうか。大人はあえて脇道に頭を入れる時があるのだ。


㉓  蒼然と晩夏のひばりあがりけり

 「ひばり」は、留鳥で、春の繁殖期に空高く鳴く。「ひばり」は繁殖期以外は地上に生活する習性がある。掲句の季節は晩夏。草むらに溶け込み、隠れて地上生活をする「ひばり」が「蒼然と」あがる。荒涼感がただよい、万葉の春の歌とは別のもの悲しさを想う句である。

 ポイントとなる措辞、「蒼然と」というのは、色として蒼いという意味。そして暮れ方を表現する場合に使用される例がある。「蒼然として死人に等しき我面色/舞姫(鴎外)」「蒼然として暮れ行く街の方/あめりか物語(荷風)」などの文学的使用例がある。夏の終りの疲れとともに、青みがかった空にあがる「ひばり」の姿は、命の小さな点を示唆しているように感じる。

 21句目~24句目の言葉に「動き」「運動」がある句の配列について触れたが、それらの句にはどれも「命」が宿る。点のような命が言葉をもって動き出す。

 『眞神』収録順にその動きを記号で示してみたい。

鬼やんま長途のはじめ日当れり 

――― 冥途かもしれない長途という長い道の端に停まる「鬼やんま」という棒状の命。(→)


蒼白き蝉の子を掘りあてにける 

――― 土に開いた蝉の穴を垂直方向に下に指を伸ばし蒼い命がそこにある。(↓)


草刈に杉苗刈られ薫るなり

――― 垂直に伸びる草という生命を水平に刈る。(↑→)


蛇捕の脇みちに入る頭かな 

――― 脇みちは、正道よりも曲がりくねり距離があるように思える。蛇行する命を追いかける蛇捕。(~~~)


蒼然と晩夏のひばりあがりけり

――― 地上からひばりという迷彩のようにして生きる命が上へあがる(↑)


 敏雄の句は俳句であることは間違いなく、さらに、あらゆる角度から検証にも成り立つ確固たる「純粋俳句」であることを実感する。

 西東三鬼門として敏雄と同門である白石哲氏が去る二月二十七日鬼籍に入られた(享年87歳)。カルチャーセンターという当時新しい分野(産経学園と聞いている)に高柳重信、三橋敏雄を講師として招き、美作時代の阿部青鞋との交流、津山出身の三鬼の墓守、「西東三鬼賞」の創設、三鬼の顕彰にご尽力された。敏雄も三鬼賞の選者として参加していた。白石氏はおそらく三鬼門を名乗る最後の方かと思う。幾度となくやりとりをしたが、「三橋敏雄を超える俳人は今後も出てこないだろう」と敏雄の名前が真っ先に出ていた。敏雄が三鬼門であるならば、弟子は師の教えを受け継ぎ発展させることが使命とされるが、敏雄は、純粋に俳句を追い求めることに翻弄した。上記の句をみてあらためて痛感するばかりだ。

 三鬼門として敏雄と親交のあった白石哲氏のご冥福を心からお祈り申し上げる。


㉔   霧しづく体内暗く赤くして

 確かに内視鏡で見たことのある体の中は赤くて暗い。けれども、ここではあえて、「して」という表現である。「暗く」「赤く」しているのだ。

 前句「蒼然と晩夏のひばりあがりけり」からの繋がりをみてみると、蒼然という「ぼんやり」と暗くなっていくような夕暮が想像できるが、それが掲句により「どっぷり」と暗く、そして夕焼の赤がもっともっと「赤々」としてくる。グラデーションが濃くなっていくイメージだ。

 戦後の敏雄句のイメージには「赤」がつきまとう。

 敏雄句の「赤」について、戦後俳句を読む(第6回の1)テーマ:「色」参照。

 少年ありピカソの靑の中に病む 『靑の中』

を詠んだ敏雄が、戦後とともに赤にこだわっていく。

 掲句で気になるのは、「胎内」とは書いていなく「体内」である。この句では、霧のような小さな命の粒となった我の胎内巡りのように見える。しかし「体内」となれば、その読みは、いくつかの別の見方がでてくる。

 暗く赤くなる。もしそれが作者敏雄自身のことであれば、体の中が充血する、ということでもある。『眞神』冒頭では鬼が赤くなった。暗く赤くなったのは怒っているあるいは興奮しているからだろうか。そして体内が赤く充血したために霧がしづいた、という読みであれば、精子を放出したとも読めてくる。

 敏雄の表現として、「赤い」のではなく「赤く」なるのが特徴である。

 鬼赤く戦争はまだつづくなり   『眞神』

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 またの夜を東京赤く赤くなる   『鷓鴣』

 父、母がいて自分という命をもらう。生まれたことも死ぬことも選ぶことはできない。自分はただ霧がしづくような小さな命であり、体内を暗く赤くしながら生きる物体なのである、というようにも思える。

 グラデーションが濃くなっていくように戦後の昭和がどす黒い赤になっていき、霧というものが油のように思えてくるのである。


㉕   生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母から生れた命が成長し「母を揉む」という「長あそび」をしている長夜である。

 あえて「生みの母」としている。乳母、あるいは継母ではない、直系の母である。「長あそび」をするのであれば、やわらかいからこそ揉むのだろうか。「生みの母」はやわらかい、乳母、継母ではなく、「生みの母」だからこそできる「長あそび」。何もかも許してもらえる夜長なのだ。女ではややこしくなり「長あそび」ができない、いや、「生みの母」としながら、あえて女のことなのかもしれない。敏雄句にとっての女性はすべて母なる体をもつ聖母のような存在であったのかもしれない。

 『眞神』の中の母とは何であろうか。

 母ぐるみ胎児多しや擬砲音

 生みの母を揉む長あそび長夜かな

 母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき

 産みどめの母より赤く流れ出む

 秋色や母のみならず前を解く

 ははそはの母に歯はなく桃の花

 大正の母者は傾ぐ片手桶

 夏百夜はだけて白き母の恩

 母を女性としてとらえた句、正しくは、女性を母として捉えているという方が的確かもしれない。母の句に対しての考察はまだ時間がかかりそうだ。

 ようやく『眞神』村に春が来た。敏雄句と真剣に向き合って1年になる。振りだし戻っているような気がしないでもない。狼信仰のある『眞神』山(仮称)。登山道の入口にある神社の宮司は水没した村の学校に住んだ校長家族の長男にあたる。烏天狗を参拝し改めて『眞神』考を続けよう。


●―13: 深谷義紀 【成田千空】

 をのこ子の小さきあぐら年新た

 句集「地霊」所収。

 この句について、千空は自ら次のように語っている。

 「当時の田舎の正月は旧正月で、新暦では二月に入ってからですから、立春も近く、新しい年は即ち春、という気分がありました。戦後の乏しい食生活でも、正月だけは膳にあふれるほどの食べものがつくられて、祝いました。濁り酒も豊かで、有難く楽しい一日でした。(中略)戦後のすこやかな情景です。親類の男の幼な子が囲炉裏の横座にすわって、あぐらをかいていました。いかにもたのしくめでたく、新しい年を迎える焦点となりました。」(「俳句は歓びの文学」(角川学芸出版)より)

 終戦後間もない時期の、津軽の旧正月の光景が、余すところなく描かれている。雪深い青森の農村生活はただでさえ厳しく、加えて戦後の混乱がまだ収まりきらない時分である。日常はギリギリの暮らしを余儀なくされていた筈だ。しかし(旧)正月は特別である。文字通りハレの祭事を寿ぐ気分が横溢している。集った親類縁者たちの明るい笑い声が聞こえてくるようである。余談になるが、「濁り酒も豊か」と書いたところは、いかにも酒を好んだ千空らしいと思い、微笑を禁じえなかった(ちなみに青森では自家用に濁り酒、即ちどぶろくを作ることが盛んに行われた)。

 話が脇道に逸れた。掲出句に戻ろう。句の対象は親類の幼児である。その子のあどけなさと大人びた仕草の胡坐座りというギャップが千空の目を引いたのである。上記において千空はそこに旧正月の一層のめでたさを感得したと述べているが、それだけではなく、その子が生き抜いていくであろう未来、或いは少しずつ確かなものになりつつあった戦後復興への期待もその背景にあるように思えてならない。だからこそ、正月のめでたさもひとしおなのである。


2026年1月16日金曜日

第260号

 次回更新 1/30


【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

■新現代評論研究

[新春論考]1954年の寺山修司(前編) 佐藤りえ 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第6回:「実作者の言葉」…「遠星」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第17回)各論:村山恭子・後藤よしみ・佐藤りえ 》読む

現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第六(12/26)神谷波・川崎果連・加藤知子・曾根毅・松下カロ
第七(1/9)渡邉美保・小林かんな・田中葉月
第八(1/16)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子
第四(12/26)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第五(1/9)神谷波・川崎果連・曾根毅
第六(1/16)渡邉美保・小林かんな・田中葉月・小野裕三

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

 俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【新連載】俳壇観測276 ユネスコ登録の進め方1――我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか  筑紫磐井 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『伊丹三樹彦の百句 解説と鑑賞』(伊丹啓子&青群同人) 豊里友行 》読む

英国Haiku便り[in Japan](58) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり42 栗林浩『うさぎの話』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・6 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(65) ふけとしこ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

1月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】俳壇観測276 ユネスコ登録の進め方1――我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか  筑紫磐井

  「俳句四季」で連載していた俳壇観測が終了したのでその続編を執筆することとしたい。BLOGなので余り文章の長さを気にすることなく自由に書いてみたい。

 第1回は、「豈」68号で特集した「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」について述べてみる。当面の俳壇でユネスコ登録は極めて重要な課題となると思うからだ。この特集で私の書いた「真面目な顔をした俳句ユネスコ登録論」はこの種の論争で当時一番論点整理されたと考える林桂氏の「鬣」の論文を踏まえて書いてみたものだが、「豈」68号ではより進んだ論点が提出されていると感じた。特に、トマス・マーティン氏の「ドイツから見たユネスコ登録問題」は論争を展開する材料を漏れなく整理して頂いた力作でありこれを踏まえてこれについて私の考え方を述べてみたい。

 何回かに分けて考察したいと考えるのだが、第1回はマーティン氏の論点ではなく、論争の予備知識として現代俳句協会が置かれている現在の状況を客観的に述べてみることとしたい。これは論争することまでもない客観的な事実であるが、論争するに当たっては念頭に置いておく必要なことである。特に調べればわかる客観的事実であるが、今までの論争参加者のほとんど調べることをしなかった事実だ。この事実を知らないままの論争は砂上の楼閣に近くなるだろう。

1.大前提

 ユネスコ登録の発端は、4協会が合意して登録を進めることを文部科学省に要請したことにある。従ってユネスコ登録とは文部科学省と協会の問題であり、俳人一般・俳句一般の問題(俳人の権利義務の問題)ではないことに注意すべきである。文部科学省がユネスコ登録をするかどうか国としての独自の判断もあるが、基本的には日本の俳句活動を代表するとされる4協会の要望があったから開始されたのである。

 ユネスコ登録に関心のある人は大半がいずれかの協会に参加しているようだから、協会を通じて発言する機会はある。しかし、一般人や俳句愛好者が評論家的な意見を言うことは可能であるが、だからと言って直接文部科学省に働きかけ、登録を進め、あるいは登録を断念させることは出来ない(例外はあるが、これは複雑な条件が重なるので追って説明したい)。

 だから、ユネスコ登録をしないという意見は協会員が協会(多分現代俳句協会)を説得して実現しなければならない。今のところ、現代俳句協会はユネスコ登録をしないという意見に納得していない(これは毎年総会で会員から意見が出されているが、協会として納得していないことは明らかである)。従って理論闘争により実現しなければならない。ここではそうした理論闘争をどう進めるかを考察してみたい。


2.協議会参加の適法性

 先ず様々な準備の末、平成29年1月26日に日本記者クラブにて、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会発起人会(第2回)が開催され、4月24日に協議会設立総会を開催することを決定し記者会見を開いた(この時俳句に無季・自由律が含まれることを言明)。参加者は有馬朗人国際俳句交流協会会長、稲畑汀子日本伝統俳句協会会長、鷹羽狩行俳人協会会長、宮坂静生現代俳句協会会長及び伊賀市長であった。

 これを受けて、現代俳句協会では、平成29年3月25日協会の総会で、「平成29年度事業計画」を提案し、現代俳句協会総会で委任状の提出を含めた過半数の会員の同意を得て了承を受けた。その内容(29年度新事業)は次のようなものであった。


【平成29年度事業計画(抜粋)】

19.外郭団体の後援

➀俳句のユネスコ無形文化遺産登録を目指す活動

 俳句4協会及び関係自治体による協議会の設立総会・記念講演会(4月24日・東京都荒川区)


 他協会においてもほぼ同趣旨の手続きを踏んでいる。その結果、29年4月24日俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会設立総会が開かれ協議会の設置が了承された(上記協会の各会長及び伊賀市・松山市・荒川区・大垣市が参加)。

 以上の経緯から、協会はそれぞれの内部手続きを完了し、4協会合意が成立したと考える。


3.協議会参加決定の拘束力

 現在、一部会員から現代俳句協会の全社員の意向投票を望んでいる。万が一採択された場合は、現代俳句協会は協議会から脱退することとなる。しかし公的な責任を負う団体としての4協会合意がある以上現代俳句協会の一方的な脱退はできず、4協会と協議会の全会一致の了解を得なければ脱退出来ないはずである。一部でも反対があれば脱退できないということを認識しなければならない。

 さて協議会発足の経緯から見ても、協議会から現代俳句協議会が脱退することはユネスコ登録を極めて困難にするので、協議会のみならず今まで尽力してきた、国際俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会のみならず、協議会に参加する参加自治体に対し、いったん参加に同意したにも関わらず脱退という変節をした合理的な理由を説明し、陳謝し、相応の条件をのまざるを得ないと考える。そして合意をする場合の提示される具体的な条件として想定できるのは、次のようなものであると考えられる。


【現代俳句協会の協議会脱退の条件案】

➀現代俳句協会が協議会から脱退した後は、協議会が従来の経緯に拘束されず俳句の定義を定めて(例えば有季定型)ユネスコ登録に望む場合に、現代俳句協会はこれに異議を申し立てたり、その活動を妨げないことを確約すること。

➁ユネスコ登録により関係機関が受けるべき不利益の損害を補填すること。


 ➀については、俳人協会の保守派の人々は基本的に、無季・自由律俳句を含めることを主張している現代俳句協会が退会することは歓迎であると考えるが(協議会発足に当たって有馬会長の主導によって行われた俳句に無季・自由律が含まれるとの言明は俳人協会にとって大きなミスであったと考えられる)、現代俳句協会の協議会脱退にあたり問題を矛盾なく清算させることは必要不可欠だと考えられる。

 それは昭和36年に俳人協会分裂に当たって無季自由律を排除する諸活動を行って来たことからも明らかであり、さらにその後平成11年に俳人協会が「教科書に掲載する俳句は有季定型を厳守せよ」という「教科書出版会社への要請」を会長名で送付していること、平成22年に岡田日郎副会長が俳人協会において「学校教育においては「俳句」(有季・定型・文語)と「俳句に似たもの」(無季・自由律俳句など)と区別する必要がある」と講演していることなどからも基本的イデオロギーは変わらないと考えられる。

 ➁については、3協会というよりは会員となっている40余の自治体が登録によって得べかりし地域振興の利益を喪失するからであり、これがどの程度のものか想像するのも難しい。


 いずれにしろ、現代俳句協会は、こうした利害を勘案し、脱退するか、さらには投票を実施するかを決めるべきだろう。私個人としては➀の条件を受け入れるなど現代俳句協会の存在意味を失うくらい致命的な条件である。つまり現代俳句協会は協議会から脱退できないことになると思うのだが。


4.「パブリックコメント」「国民からの意見」

 ところで、ユネスコ登録に関し会員の意向を確認する方法は別にないわけではない(1.で述べた留保条件について述べる)。ユネスコ登録はユネスコ条約と文化財保護法により手続きが進められているように協議会関係者は説明しているが、実は文部科学省のこれらの活動は、その上位規定として文化芸術基本法とそれに基づく文化芸術推進基本計画(5年計画であり、現在第2期)に基づき行われている。ユネスコ登録が検討される以前から、小説、戯曲、現代詩、短歌と並んで国策として文化芸術基本法によりその振興がうたわれ、基本計画に基づき具体的な施策が行われている。この枠組みの中でユネスコ条約登録と文化財保護法の指定が位置付けられるのである。そして実は文部科学省はユネスコ登録を含めた政府の基本計画について5年ごとに「パブリックコメント」「国民からの意見」を広く求めているのである。次のそのタイミングが令和9年となっている。

 ユネスコ条約登録と文化財保護法の指定は1.で述べたように文部科学省と4協会の話し合いにより進められているということだが、この「パブリックコメント」「国民からの意見」については、(4協会の合意に縛られることなく)各協会それぞれが独自の意見を述べる機会があり、のみならず協会員であっても協会の意向に反した意見を会員として述べることも出来、さらにはどこの協会にも属していない俳人や一般国民も意見を述べることができる。前回は高校生・大学生の意見を求めていたが、文化の継承問題から考えれば文化を担う次世代の意見は重要であるからだろう。多分外国の方も意見を述べることができると思う。

 色々難問が山積している現代俳句協会の投票を検討するのもよいが、先ずは現実的な「パブリックコメント」「国民からの意見」を出してはどうか。従来基本計画に寄せられた「パブリックコメント」「国民からの意見」を見ても(前回はあらゆる芸術分野から309件の意見が寄せられた)、俳句のユネスコ登録については一つも意見が寄せられたことがなかったようである。これは俳人としても、俳句愛好者としても怠慢であったと言わざるを得ない。俳句を愛するならば是非意見を出すべきだ。こうした行動をとらず、評論や論文だけを書いていることは自己満足にしかすぎないように思われる。

 もし俳句をユネスコ登録にすべきでないという意見が「パブリックコメント」「国民からの意見」に大量に提案されれば、文部科学省はその意見を無視できないはずである(この「パブリックコメント」「国民からの意見」はユネスコ登録を最終的に決定する文化審議会に提出され審議される予定である)。私としては公平な立場から、ユネスコ登録を推進する協会や自治体も意見を出してほしいと思っている。それこそが多少なりとも国民の総意に近づく結論となると思う。もちろんその結果がどのように出るかは予断を許さないが、少なくとも現在のような、意見があるが何も進まないというフラストレーションの溜まる状況からは解放されるはずである。

  *

 ただひとつ言っておきたいのは「パブリックコメント」「国民からの意見」は行政技術的な条件がありそれを勉強して行わないと効果があまりない可能性があるということである。少なくとも現在各所で提案されているユネスコ登録反対の論文そのものは「パブリックコメント」「国民からの意見」としては受け取られないと思う。これらの長大な論文を文部科学省の担当者が読みこんで意見としてまとめてくれるほど親切ではないし行政も暇ではない。意見提出者が、「パブリックコメント」「国民からの意見」の趣旨をよく学び、どのような形式で提出するか、文部科学省がどのようにそれを処理するかを十分学んで、それに適合するような意見の提出の仕方をする必要がある。意見提出者の方に責任があるのだ。少なくとも長大な論文ではなく、簡潔明瞭に白黒をはっきりさせた短い意見で出すことが望ましい。このためには、意見を出そうとする者が勉強会を開いておくことが望ましいだろう。現代俳句協会などがそうした場を用意することは有意義である。


(以下続く)

2:ユネスコ登録への3つの態度(俳壇の動向)

3:ユネスコ登録の根拠の吟味(マーチンさんに答える)


【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井

 本BLOGでは金光舞氏の「口語俳句の可能性」の連載が続いているが、ここでこれに関連した話題を少し紹介してみたい。

 2025年11月24日(月・祝)、ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」にて開催された第50回現代俳句講座 「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」では、柳生正名、神野紗希、筑紫磐井によるシンポジウムが行われ、その中で口語俳句に関するディスカッションが集中的に行われた。多くのデータを踏まえた分析であるので口語俳句研究の今後の参考になるのではないかと思うので、紹介したい。


●柳生正名

 「現代俳句」が1年間かけて行っている昭和100年・戦後80年を回顧しての現代俳句協会役員・評議員アンケートの発表が行われたが、この中でトップを占める俳句作品に口語俳句が多かったことが指摘された。


 池田澄子 じゃんけんで負けて蛍に生れたの(同率1位11点)

 渡辺白泉 戦争が廊下の奥に立つてゐた(同率1位11点)

 金子兜太 おおかみに螢が一つ付いてゐた(同率3位8点)

 金子兜太 梅咲いて庭中に青鮫が来ている(同率3位8点)


 現代俳句においては口語化が進んでいるのではないかという観点から議論が進められた。


●神野紗希

 神野氏はまず今回のアンケート結果を踏まえ、口語俳句の抽出を行った。力作である。


➀新興俳句の口語(※言い切りの語尾)

頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋

山鳩よみればまはりに雪がふる  同

夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子

水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

              

➁戦時の口語(※肉声としての口語)

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡邊白泉

憲兵の前で滑つて転んぢやつた  同

灯をともし潤子のやうな小さいランプ 富澤赤黄男

やがてランプに戦場の深い闇がくるぞ  同

           

➂戦後俳句の口語(※韻律と主題)

人体冷えて東北白い花盛り      金子兜太

彎曲し火傷し爆心地のマラソン    同

銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく  同

あやまちはくりかへします秋の暮    三橋敏雄

八月の赤子はいまも宙を蹴る    宇多喜代子


④自由としての口語(※異質性のエッセンス)

おおかみに螢が一つ付いていた    金子兜太

梅咲いて庭中に青鮫が来ている    同

少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市

ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん  同

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典

三月の甘納豆のうふふふふ       同

              

 これに加えて平成以降の作品、特に若い世代の作品を含めて新しい口語俳句の摘出を行った。


⑤現代×日常の口語

起立礼着席青葉風過ぎた       神野紗希

ゆず湯の柚子つついて恋を今している 越智友亮

寒いなあコロッケパンのキャベツの力   小川楓子

寝静まるあなたが丘ならば涼しい     大塚凱

初夢の代はりにYouTube見てる     葉ざくら


⑥現代×主題の口語

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る  福田若之

蝶よ川の向こうの蝶は邪魔ですか  池田澄子

Rest in Peace 向日葵は泣かない 光峯霏々

ねむる天牛だめなことをだめって言うちから 林田理世


●筑紫磐井

 これに対し、筑紫は、口語俳句はすでにホトトギスの俳句の中にも多くみられたことを指摘した。


街の雨鶯餅のもう出たか 富安風生(ホトトギス12年)

月見草開くところを見なかつた 島田摩耶子(ホトトギス昭和28年)


 これらの句は虚子の参加した句会で取り上げられという。口語俳句はホトトギスの花鳥諷詠の中で十分鑑賞に堪え、盛況を見たのであった。

 特にこの他の作家としては星野立子に着目したい。戦前から口語趣味的な俳句が詠まれていた。


娘らのうかうか遊びソーダ水  8年

吾子と姪同じにかはい藤は実に  15年

皆が見る私の和服巴里薄暑   31年

火を入れしばかりの火鉢縁つめた 36年

幸福が見つかりそうに朝焚火 40年


 口語俳句が見られると言っても数はまだそれほど多くはなく、圧倒的に文語の俳句が多かった。しかしここで転換期を迎える。立子は45年に脳梗塞で倒れ、10年以上にわたる闘病生活とリハビリ生活を送ったが、不死鳥のようによみがえった。その際、従来のような文語の居住まいの正しい俳句から多くの口語俳句を詠むようになった。


白芙蓉隣の家は留守らしく(56年11月)

風花を呼ぶこの雲がこの風が(57年5月)

老鶯のだんだん遠くそれっきり(58年8月)

計画は生まれて消えて秋の空(58年11月)

春寒し赤鉛筆は六角形(59年4月絶筆)


 立子の口語俳句への意図的な転換は、ことによると脳梗塞という病気の影響もあったかもしれない。これは今後考えてみたい課題である。

 いずれにしろホトトギス俳句から生まれた口語俳句は、新興俳句や戦後俳句(神野のあげた➀―➂)と明らかに異なる色調を帯びていた。どちらかと言えば、若い世代の俳句(神野のあげた⑤-⑥)は、ホトトギスの口語俳句と調和しているように思われる。


【筑紫・補足】

 「街の雨鶯餅のもう出たか」は、「ホトトギス」の昭和12年6月号に載っている。この句自身についてはあまり議論が出ていないがおもしろいことが分かる。実は7月号の「まさおなる空よりしだれ桜かな」という富安風生一代の名句、文語の格調高い句ができているのだ。口語俳句をべたに作ってる人ではなくてたまたま作る人というのがいて、その人は文語俳句で精一杯つくるとそれと併行して口語俳句の傑作も生まれる、そういうところがあるという気がした。文語と口語、そういう対比的に面白いところから、特に花鳥諷詠系の口語俳句というのは出てくるのではないかと思える。

 「月見草開くところを見なかつた」は「街の雨」と違って侃侃諤諤議論があった。実は似た句があるではないかと言われた。どういう句かというと、成瀬正俊の「炎天下吸いしタバコが苦かった」という句である。これと同巧ではないか弟子たちが議論しているのだが、虚子がいうには、とにかくこの句は面白い、かつ自然にできていると、そういう言い方でほめている。考えると、昭和28年というのは社会性俳句が出た最初の時期で、例えば兜太の「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」のような重苦しい句が出てくる時代に、「月見草」の軽みや面白みというのが受け取られるようになったのではないか。神野さんが作った新興俳句系の口語俳句の表のとなりに花鳥諷詠口語俳句の一覧表を作ってみると、口語俳句の本質というのがもう少しわかってくるように思える。

 神野さんの「起立礼」の句も、これは風生や島田摩耶子の隣に並べた方がよくわかる。花鳥諷詠の真骨頂というか、他の新興俳句や戦争中の口語俳句等と並べると違和感を覚える。この句は花鳥諷詠の中でとらえるとものすごく引き立つのでないか。

 今回のシンポジウムのために柳生さんと何度かメールをやりとりしてそのときに言われたのが、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」は明治の口語俳句ではないかと言われて、確かに気づいたのだが、それは今の私がやっと気づいたのであって、当時の人たちは気づいてたのかどうか。調べてみたところ、明治の新派俳句を代表する「赤い椿」の句だが、これが俳壇で脚光をあびたのは、正岡子規が「明治29年の俳句界」という有名な論文で取り上げているからである。しかしそれをいくら見ても子規は口語俳句と言っていない、注目しているのは、この句は印象鮮明である、碧梧桐はこれに邁進すべきだっていってるけれど、口語俳句とは一言も言ってない。正岡子規はこれ口語だって気が付かなかったのではないかと気づいた。実はその後高浜虚子の有名な「進むべき俳句の道」という本がありその冒頭に碧梧桐の句について書いてるけれど、「赤い椿」の句は印象鮮明な句だと言っているけれどやはりこれが口語俳句だと言ってない。子規も虚子ですらもこれが口語俳句とは気づいていなかった。言われて初めて気づく口語俳句というのは結構たくさんあるような気がする。

 そういう意味では口語的な言葉遣いだけに固執するより、口語的な精神、そちらの方が大事なのではないかという気がしている。


英国Haiku便り[in Japan](58)  小野裕三

ワードレス・ポエム

 これまでの連載でも幾度か触れたが、昨年末にhaikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加した。その展覧会にアート作品を出展した現代アート作家たちに、haikuについての考えを質問して僕がエッセイを書く、という企画を国際俳句協会のウェブサイトで行った(「現代アート作家たちが見たhaiku」)。詳細はそちらに譲るが、驚いたのは、英国在住の現代アート作家というもっとも俳句的環境から遠そうな人たちが、的確に俳句の本質を捉えていたことだった。

 例えば、今回出展したリサ・ミルロイさんは俳句の特質として次の点を列挙する。「感情と概念的な複雑さに結びつく美しい形の経済性 、強力な視覚的イメージ 、対立する力のコントラスト、驚きの要素を備えた遊び心の質、物質的なものと非物質的なものとの相互作用 、タッチや熟練の軽さ、物質世界・自然・日常的な物への集中した観察、スペース・タイミング・リズム・流れ 、言われていないことを通して言われたこと」。果たして日本の俳人がここまで挙げうるかとすら思うくらい、どれも本質的な指摘だ。

 haikuへの彼女らの理解を後押しした背景として、英語を介することで日本語や日本文化のしがらみなしに俳句を見られる、外観の表層的シンプルさという意味で現代アートと俳句は似ている、などの点が思いつく。だが、彼女らが言語芸術ではなく視覚芸術を専門にするという、まさにその点に彼女らが俳句を正確に理解できる鍵があるとしたらどうか。

 例えば、英語の世界ではhaikuを「ワードレス・ポエム(wordless poem)」つまり「言葉のない詩」と呼ぶことがある。語義矛盾のような言い方だが、実はこの矛盾こそが俳句そのものだとも思う。言語で表せない何かを表そうとすることが芸術や詩の根本だとするなら(そして視覚芸術を専門とする現代アート作家は、この課題に日々向き合っているはずだ)、俳句はその矛盾をその短さにおいて明確に引き受けた。つまり、ワードレス・ポエムとも呼ばれうる、ギリギリの矛盾した輝きこそが俳句だとしたら。

 例えば、出展者の一人、オリビア・バックスさんは「編集は最も難しい仕事のひとつなので、俳句での制約はむしろそれから自由にしてくれます」と回答した。俳句の短さは、編集作業という執筆全般にまつわる煩雑な行為を回避する(もちろん推敲は別だ)。結果として、言葉をナマの質感のままぽんと提示するような感覚をもたらし、それは絵画や彫刻という視覚芸術のふるまいとも似通う。

 そんなことを思えば、俳句は言語芸術よりもどこか視覚芸術に近い側面を持つのかも知れない。少なくとも、現代アートとhaikuという、一見縁遠そうな関係から俳人たちが学べることは多そうだ。

※写真はKate Paulさん提供

 (『海原』2024年10月号より転載)

[新春論考]1954年の寺山修司(前編)  佐藤りえ

 必要があって俳誌「氷海」を創刊号から読み進めていたところ、主宰選の選句欄「氷海集」に寺山修司の名前を見つけた。


 わが声もまじりて卒業歌は高し  寺山修司

 もしジャズが止めば凩ばかりの夜

 冬浪がつくりし岩の貌を踏む

 老木を打ちしひゞきを杖に受く

 雪嶺の主峰が見えずむつみあふ (「氷海」17号/昭和27年5月)


 秋元不死男主宰の「氷海」は「天狼」東京支部報から出発した「天狼」の僚誌であり、この時創刊4年目、経済的な事情などから前年なかばより誌面はガリ版刷りとなっていた。

 二句目、「もしジャズが止めば」など、そうと知らされなければ昭和20年代の少年の句とは思いがたい、モダンな趣がある。「冬浪がつくりし」についても〈岩の貌〉を〈踏む〉と収めるのは、少年の力量としては並外れているのではないか。当時の「氷海」は山口誓子提唱の「根源俳句」について手探りの段階にあり、作品内容は時代背景を反映した貧困、戦後の困難にあえぐ内容、また社会性俳句の一歩手前、工業化、機械文明への批判的なものなど、誤解を恐れずいえば「大人の地声」がひびきあうような場所だった。寺山と並んで友人の京武久美の名前もある。選評で不死男は彼らについて「俳句のうまさは、まさに驚くばかり」「末おそろしき若者というべきである」と述べている。ときに寺山修司、京武久美ともに16歳。

 青森高校の同級生同士は「山彦俳句会」を立ち上げ、機関誌「青い森」を発行、地元の俳句会「暖鳥」句会に出席、俳誌「寂光」に投句、競って読売新聞の「よみうり文芸欄」(秋元不死男が選者をつとめた)に投稿…と俳句漬けの日々を送っていた。のちの述懐によると、京武が「暖鳥」誌に掲載されたのを見て鼓舞された寺山が俳句に熱中し、できた句を夜も昼もわかず見せに来たという。


「氷海集」は不死男の単独選句欄で、最大5,6句から1句まで掲載される。巻頭はもちろん栄誉である。寺山は次の掲載回、「氷海」18号(昭和27年6月)でいきなり巻頭を取る。


 夜間飛行回廊の果てに女立つ

 ジャズさむく捨てし吸殻地で湿る

 花電車人と触れいて和し易し

 野火うつる鏡のなかに抱きおこす

 校舎ふり向く松蟬の松匂ふなか

 母と別れしあとも祭の笛通る

 籐椅子や女体が海の絵をふさぐ

 べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし(「氷海」18号/昭和27年6月)


「氷海集」はこの当時まだ投句者がわりあい少ない(そもそもガリ版刷り時代の「氷海」はページが少なく遅刊も続き、昭和27年に刊行されたのは8冊のみだった)。後年人数増に従い、より初心者向けの投句欄が新設されるなどした。この時の寺山の掲載句8句は巻頭のなかでも最大規模のものだったのではないだろうか。選後雑感で不死男は特に「母と別れしあとも祭の笛通る」「べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし」を「青年らしい純情と哀愁があって好もしい」と評した。「ジャズさむく」「籐椅子や」は大人の世界の話を無理にしている感もある。「夜間飛行」「野火うつる」はイメージ先行で句意が曖昧である。しかし言葉の耀き、一句を整える手腕は見事である。

 この頃寺山は前述した地元の俳誌、新聞のほかに受験雑誌「学燈」「蛍雪時代」、俳誌「七曜」「天狼」「寒雷」「萬緑」に投句していた。創刊されたばかりの西東三鬼「断崖」にも投句している。受験雑誌はともかく、俳誌の投句欄で巻頭を取ったのはこれが初めてではないだろうか(「七曜」「断崖」は未見、後日確認したい)。これについて寺山はどう思ったか。


 浴衣着てゆえなく母に信ぜられ

 虹に向く砲を砲口より覗く

 木の実ふるわが名谺に呼ばすとき

 赤とんぼ孤児は破船に寝てしまふ

 木の実おとせし粗きひゞきの杖つかむ(「氷海」20号/昭和27年11月)


 19号には掲載なく、20号で寺山はふたたび「氷海集」巻頭掲載となった。続けて巻頭を取る者は他にもいる、初めてのことではない。しかし掲載開始から三度目で二度の巻頭、はどうだろうか。きわめて稀なことではないか。この号の選後雑感で不死男は個個の作品評を書かず、「感想」を記した。

じぶんを生したいといふことは、じぶんの個性を発揮したいといふことになる。個性といへばそれは生きてゐる一個の人間の、いろいろな精神的機能であるが、これを文学的な表現でいへば、人間の息づかいのことだ。(中略)現在は永遠にとび去る。この「永遠の今」といふ感じを知ることが、俳句をつくることである。(中略)じぶんとのめぐりあひ、それを尊しとおもふ、そのじぶんを大切に、いとほしく感じたい、さういふおもひがわたしに俳句をつくらせるのである。だから、わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である。といふ風におもつてゐるのである(後略)。(「氷海」20号・氷海集「選後雑感」)

「氷海集」の投句者たちは学生とは限らないが、同人よりは作句経験の少ない人々であることは違いないだろう。不死男はそうした人々に向かって、嚙み砕いた書き方ながら「善く生きよ」「生活実感を大事にせよ」と言った。今回の寺山の作品も、完成度という意味では他の投稿の追随を許さないと思う。しかしここに何かがないことを不死男は感じ取ったのだろう。

 不死男が選後雑感で個個の作品評を書かないことは時折あるが、往々にしてそれは作品が低調だった場合に多い。好調な作品(でなければ、5句も選ばれはしないはずだ)を迎えつつ、その「よさ」ではなく、精神を説くことを、不死男は選んだ。

 この後寺山が「氷海集」で巻頭を取ることは二度となかった。以後、投句自体は昭和29年まで続いた。昭和28年は発行された9冊(合併号があるなどしたためこれが年間に発行された全冊だった)すべての「氷海集」に掲載され、最高位は11月号の二位、1月号と4月号で二度、三位に入っている。昭和29年の10月号には成績優秀者として「新人集」に迎えられ、「小飛行」15句が掲載された。この「新人集」を最後に、寺山は「氷海」から姿を消した。翌月、寺山は「短歌研究」第二回五十首応募作品「チェホフ祭」で特選を受賞する。


 麦の芽に日あたるごとき父が欲し

 花売車どこへ押せども母貧し

 母は息もて竈火創るチエホフ忌

 いまは床屋となりたる友の落葉の詩(「小飛行」「氷海」昭和29年10月号)


 そもそも、寺山はなぜここまで手広く投句を繰り広げたのだろうか。投句先の傾向はどう見ても一傾向とは思えない。数打ちゃ当たる方式のつもりだったのだろうか。現在はどうなっているのかわからないが、当時は特に、そんなめっぽう打ちでどこかにひっかかる、というやり方が通用するとは思えない。

 さらに言えば、なぜ「氷海」に投稿したのだろうか。むろん、新聞選者であり、著名な「天狼」創刊同人である秋元不死男めがけて――ということはあるかもしれない。「牧羊神」創刊号には「「青高俳句会」が不死男先生を囲んで若い情熱をあたゝめ」という記述がある(「牧羊神」創刊号編集後記)。「青高俳句会」の機関誌「青い森」の顧問に不死男を招いたことから、直接の会合を持ったのかもしれない。新興俳句にも興味があったというから、不死男の「街」「瘤」を読んで惹かれたのかもしれない。不死男にも理知的な句、イメージの強い句、乱調な句もある。あることにはあるが、前述した不死男の精神論的な観点から、寺山の感覚的な俳句を高く買うのぞみは少ないように思う。第一、不死男の師・誓子の「天狼」にも投句しているのだ。結社なり主宰なりが、自作と合うー合わないという基軸が見えない。それ自体は、特に作句をはじめて間もない頃なら、そういうものかもしれない、とも思う。自分の傾向というものが見えるには多少の時間がかかる。いや、そもそも、「自分の句を誰ならより評価してくれるか」という考え方を、寺山は持っていなかったのかもしれない。

 そもそも(何回目だろう。しかし、知れば知るほどそう言いたくなる)、寺山の俳句観とはどのようなものだったのか。「氷海」等結社への投句をしながら、並行して昭和29年(1954年)、俳誌「牧羊神」を創刊する。参加者たちは畏友・京武のほか、全国の、寺山が目を付けた各誌への若い投稿者たちだ。住所のわかるものへは直接、わからないものへは学校宛てに手紙を送り、参加を促した。寺山が打ち立てたメルクマールは若さを武器とした「俳句の革新」である。「牧羊神」には作品のほか、毎号のように寺山の筆によるアジテート的な文章が載った。

僕らの俳句革命運動は、本誌三号あたりからPAN宣言として、僕や京武君などが交代で毎号の巻頭にその理論を体系づけてゆくつもりであるが、古い言い方を借りれば「論より実行」。諸君の実作がペンの余滴の何行にも勝るようになることを信じて疑はない。(「牧羊神」創刊号編集後記)

僕たちも考えよう。こゝに創刊したPANは現代俳句を革新的な文学とするため、そして僕たちの「生存のしるし」を歴史に記し、多くの人々に「幸」の本体を教えるための「笛」である。(中略)僕たちはこのPANの方向を仮に憧憬主義と名づけたい。(「牧羊神」第二号「PAN宣言」)

僕等最後の旗手、僕らは僕らだけに許された俳句の可能性を凡ゆる角度から追求せねばならない。ロマン・ロランは「今有難いのは明日がある事だ」と言ったが、僕らにとっても是程はっきりとした「明日」という日は又とあるまい。(「牧羊神」第五号「PAN宣言――最後の旗手」)

 表現は微妙に変化しつつ、革命を呼びかける声高な宣言文が並ぶが、主要な内容にはあまり変化が見られない。具体的な指針、柱となる理念、作品といったものは見えてこない。第六号において、かろうじてその観念のフックとなるべきものが示される。

 ところで見たことを書く俳句は決して私小説ではないし、石田波郷氏によって固定づけられた俳句の「私性」的な宿命に追いつめられたものでもない――と小さな断定を私が胸の中へ火のように育みはじめたのはつい最近のことである。見たことは在ったことと決して同じではない、ということは考えてみるとひどく私らの力となりそうな気がしたからである。

「俳句的人生」という一見ひどく前時代風のことを私が新世代の俳句をする青年たちへ呼びかけようとするのは、つまり人生を俳句に接近させることにほかならないのだがその場合、俳句は無論既成の俳句ではなくて私ら新世代によって革命化された新理想詩を指しているのである。(中略)私らは在ったことではなく、見たことを俳句とし、つねにそれを私ら人生の「前」avantに置こうとたくらんだ訳である。つまり私小説は実生活のあとにあるが、私らの俳句は実生活の前にあろうという訳で、私らが美しい日々を送るために俳句は美しかるべきであろうし、尚思索的でもあるべきだろう。

 見る――なるほどこれは在ったものに触れる以上に精神の純粋さを強要し、私らの「生きる」ことへの方法論を提示してくるにちがいない。したがって私らは西東三鬼氏――左様あれほど尊敬していた――を蹴とばさねばならなくなった。なぜなら三鬼氏が内臓しているハイデッガーの、そしてあるいはヤスパースの実存主義には「生」をすでに有限とみなしたニヒリズムと絶望が厳然として存在しているからでもあるし、「生」へあまりにも中年的な興味をもちすぎているからである。(「牧羊神」第六号「光への意志」)

見たことは在ったことと決して同じではない」「在ったことではなく見たことを俳句とする」「私らの俳句は実生活の前にあろう」。ここで寺山は、さきに引いた秋元不死男の「わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である」という言葉に相対する考えを述べている。波郷の説「俳句一句は不完全であるがゆえに、その作者そのもの、また他の作品を知ることにより一句を理解していく」にも異を唱えている。依然、最大の武器は「若さ」である。若さによって、経験ではなく、記録でもなく、「見たことを俳句にする」。虚構と呼ばれる脚色、いわゆる「取り合わせ」ともまた別の手段としてのコラージュ、寺山としてはオマージュのつもりなのかもしれないが、なかなかそのようには写りづらい引用。寺山自身の実作をものがたる文章とてしては理解できるものである。


「牧羊神」同人たちにとっては、これらの文章はどのように映ったのであろうか。寺山は俳句革新を、と呼びかけ扇動するが、その方向性、共有すべき目標には具体性がない。最も実現可能と考えられる目標は「牧羊神」を育て、俳壇に無視できぬ存在として在り続けることであろうが、彼らは勇み足に過ぎた。ここまでの「牧羊神」からの引用文は、わずか半年間に書かれたものである。昭和29年2月の創刊号をかわきりに、第三号までは毎月発行、遅れた第四号と第五号は7月から8月に相次いで発行された。この間寺山は大学に進学、他の同人も進学や就職で郷里を離れるものもあった。俳句革新運動のため、夢中で俳句を作るのは欠かせぬ活動であろうけれど、手がけた雑誌を月刊とするのは並大抵のことではない。創刊からほどなく会費の値上げ、同人と会員の別を作るが、同人に留まって欲しいという連絡、新聞の公募に応募して賞金を活動費として充てられたい―などというお願い、さまざまな呼びかけが「牧羊神」内で行き交う。

 同人達の中にはそれぞれ「七曜」「群蜂」など結社に所属するものもあり、既成の俳句を打倒するという目的に、どのように折り合いをつけるか、といった内心の問題も発生するのではないだろうか。「既成の俳句」にはそれぞれが所属する結社の長の作も含まれるのである。


 駄目押しで追加すると、寺山はこの時期さらに詩誌「魚類の薔薇」創刊に参加している。「十代のモダニストを糾合せんとする意図」の下に発足した「魚類の薔薇」詩人会には京武久美、近藤昭一、金子黎子などのちの「牧羊神」メンバーも参加していた。

 詩と俳句というジャンルは違えど、全国から同志を募り雑誌を立ち上げるというアイデアは「魚類の薔薇」に始まり、「牧羊神」に発展した。

「魚類の薔薇」は情報が乏しく詳細に不明点が多いが、昭和28年から29年にかけての4号まで参加、詩作品を寄せ、鼎談にも参加している(*『寺山修司 ぼくの青春ノオト』久慈きみ代/論創社)。29年には北園克衛のVOUに参加、「vou」42号に「航海日誌」「menu・幸福の」「航海」詩三篇が掲載されている(「vou」の詩誌批評欄に「魚類の薔薇」への言及もある)。同年Vouクラブに属する安藤一男の詩誌「ガラスの手袋」に参加、詩を寄せている(現物未確認)。30年の「文章倶楽部」詩欄(鮎川信夫・谷川俊太郎選)では「誕生」が入選作として掲載された。

 短歌だって書いていた。中学時代の寺山はどちらかといえば短歌、詩、童話を主に書いていた。昭和27年(1952年)の歌誌「日本短歌」5月号には読者作品欄の推薦作品として以下二首が掲載されている。

 寒卵を卓にこつこつ打つときに透明の器に冬日たまれる
 古びたる碗と枯れたる花ありて父の墓標はわが高さなる

話がこんがらがってくるので、年表にまとめてみる。


 詩の活動を青字、短歌の活動を赤字で示した。

 まさに全面展開、絨毯爆撃といおうか、昭和27年から30年ごろにかけての寺山は「常軌を逸した文芸活動」(『寺山修司 ぼくの青春ノオト』帯文)を繰り広げていた。

 ものの文章に目を通すと、寺山は「牧羊神」を足がかりに俳壇に打って出ようとしたのだ、というが、それは本当にそうなのだろうか。矢継ぎ早に巻を重ねた「牧羊神」は寺山の情熱とは裏腹に、作品の革新が目立って進んでいるようには見えない。

 野心のためというには、「牧羊神」は結果的に素朴な集まりであった。一年を持ちこたえることなく刊行は滞り、さまざまな企画がたてられつつ、躓き、頓挫した。そのかたわらで、寺山は幾人かの同人に中城ふみ子の「乳房喪失」を見せて感想をたずねるなどしている。同時期に詩や短歌もさかんに作っていた。

 いったい寺山はどこへ行こうとしていたのか。あるいは、どこへ行こうというのでなく、何ができるかを模索していたのか。(つづく)



【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター 2『伊丹三樹彦の百句 解説と鑑賞』(伊丹啓子&青群同人、2021年刊、ビレッジプレス)を再読する。 豊里友行

 元祖・写俳の伊丹三樹彦俳句と伊丹啓子&青群同人の解説と鑑賞を秋の夜長に堪能する。

 せっかくなので私も俳句鑑賞にて俳句をいくつかピックアップした。

 伊丹啓子&青群同人の解説と鑑賞は、伊丹三樹彦俳句をより深めてくれている。

 カバー写真の故・岩崎勇氏も伊丹三樹彦俳句とマッチしていて素晴らしい。

 独自の分かち書きも俳句界で異彩を放つ。


  あとがきによると「俳人であり、私の父である伊丹三樹彦は二〇十九(令和元)年九月二十一日に永眠した。満九十九歳七ヶ月の大往生だった」(伊丹啓子)とある。

俳句や写真をささえにされていたのを私の句集・写真集献本の返礼の葉書を読んで溢れるほど感じとれた。

 俳句の眼と写真の眼は、釈迦の開眼のごとくの感さえ覚えていた。


なお生きて 生き抜く朝の 蟬声浴

生き残り生き残りして 絵双六

死ぬまでの句作 尺取虫歩む

句作以て しぶとく生きねば 紙風船

命果つまでの日々詠む 白木槿

朝日 夕日 浴びて この世にまだ生きて

 生きる力は、意思の強靭さ。

 生きることと死ぬことの表裏のどれも俳句に支えられていたようだ。

 どの俳句にもそのしなやかで逞しい意志が溢れている。


椰子割って 汁吸う 実剥ぐ 喝采浴ぶ

 海外詠ならではの鮮やかな映像を俳句から喚起させる。

 Lee凪子解説によると写俳集『隣人 ASIAN』所収。シンガポール詠。「現代俳句に一生を捧げた亡き父にエールを送りたい。」


抱けば子が首に手を纏く枯野中

 矢野夏子解説によると「昭和二十八年作、『人中』所収。掲句のモデルは三歳の頃の私である。」とある。首に手を纏く。その素晴らしい描写力で植物の命が枯れた野原のなかに子の生命力を鮮やかに感受させている。


秒針のふるえまざまざ 妻 往生

 鈴木啓船解説によると「青群」第三十五号「慟哭哀句」より。「私のような末端の弟子に対してさえ、結婚の折や妻や母との死別の際には、心に染み入る俳句作品を贈って下さったのだから、生涯に書いたこの種の作品の数は推して知るべしである。」

いただきに立つ俳人たちの惜別の句の多さにも注目すべきだと感じた。


白足袋の裏も無垢にて 花見の歩

 兼田京子解説によると「三樹彦先生が私をモデルに詠んで下さった思い出の一句です。その時先生は吟行する着物姿の私の後姿も撮影されていて、その写真と小色紙に記した掲句を写俳作品にしてプレゼントして下さったのでした。」とある。

 白足袋の裏まで詠める俳人の心遣いに感服した。

 生涯、俳人であること。私は、この俳人の、その覚悟にたじろがされる。

 これら伊丹三樹彦の百句に添えられた思いは、大切な出会いの財産でもある。

 いろんな思い出を添えて下さる俳句仲間や御遺族の方々にとってかけがえのない財産。

 天まで届いているんでしょうね。


共鳴句をいただきます。


長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

樹懶ぶらりとひとりものの前

ピカソの胸毛消えて梅雨蒸す地下シネマ

古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

好日の 虻溺れきる 枇杷の花

風が沁むから抱き合う 波止場の突端で

折からチャイム はらら はららと 麦蒔く指

筆圧を強める 文通の友への今

一碧の天を戴き 彼岸花

杭打って 一存在の谺 呼ぶ


【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士

 少年兵は地球パズルの繋ぎ目

 少年兵たちのひたむきな姿勢とそれに伴う深い憂い、そして平和への切なる祈りが、「地球パズルの繋ぎ目」――地球という星を司り形成していくという。いたく奇抜な詩想ではあるが、作者の戦争、地球との対峙――その視座がくっきりと伝わってきた。


レノンの眼鏡の平和って しゃぼん玉

万華鏡みたいな遺品の眼鏡

 十二月八日は太平洋戦争の開戦日であり、平和を歌ったジョン・レノンの命日でもある。レノンのシンボルでもある眼鏡の万華鏡のような美しさ、そしてしゃぼん玉の輝きと儚さにも似た「平和」のありようを作者は強く訴えている。


原爆ドームは人類の眼球だ

 原爆ドームの形状を眼球に喩えた一句。私はこの眼球を全人類にたった一つの眼球と解釈。その眼球は世界中の戦禍、また核の闇をぐいいっと睨みつけているようだ。


警鐘の眼となる死者の花梯梧

戦争を止める目力木の葉蝶

空蟬の眼は人類の核シェルター

なども「眼」をモチーフとした作品群、各々の「目力」に地球に住む一個人としてあらためて背筋を正される思いがする。


僕らの白シャツのどれも核ボタン

 今着ているシャツのボタンが核のスイッチだったら……。昭和五十一年生まれの作者の平和な健やかな日々に潜む核の恐怖。一歩間違えれば、の地球上にいる確かな実感。


闘争は嫌っでで虫の角がいい

虹の楽譜を独奏かたつむり

渋滞の中の快速かたつむり

こつこつと生きる蝸牛の流星

 句集『地球のリレー』には蝸牛を詠んだ句が多数収載されている。殺伐とした血生臭い闘争より「でで虫の角がいい!」と明るい笑顔の作者、虹の橋を渡る蝸牛に雨上がりの爽やかな旋律を捉える作者、その緩慢なスピードも長い渋滞の中では「快速」に変わり、こつこつと生きる(前進する)健気さに流星の煌めきを汲み取る。


蛙鳴く銀河系の膨張音

蛙鳴くたび星屑のポンプ漕ぐ

惑星の軌道が弾む蛙鳴く

蛙とぶ地球の弦の虹はずむ

蛙の目だけ浮く月面到着

宇宙史のX光年の蛙とぶ

 そして表紙や本文中のパラパラ漫画に頻繁に登場する蛙を詠んだ作品群。蛙と大宇宙との朗らかな交信、何とも快く麗しい。


蒲公英の絮は弾む地球のリレー

ごろんごろん地球のリレーの野菜籠

万物の命が弾む地球のリレー

 句集タイトルでもある「地球のリレー」というフレーズ。蒲公英の絮も瑞々しい野菜たちも「希望」という名のバトンを後世へと繋げているようだ。長きに渡る歴史の変動の中にあって、一つ一つの命の輝きが嬉しい作品群――。そしてこの一冊の句集だった。


【連載】現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(2011年12月30日)

8.病気・死と遷子について。

 筑紫は〈これこそみなさんに聞いてみたい〉と言い、遷子の死についての反応を〈①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応〉、の2点に分けて考える。

①このような死の危険は普遍的ではないとしつつ、死に対して臆病な遷子の言動を紹介する。「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」(堀口星眠聞き書き)「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」(遷子の回想)。

②〈無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である〉から〈この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るか〉が遷子だけでなく我々にとっても問題と言う。その意味で〈我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい〉と述べる。


 は突然に来る戦地での死と異なり、病気の場合は一歩一歩死に近づくので〈自分だけの孤独な心の揺れがあ〉ると述べる。〈病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分か〉らないと言う。原句「何も残さず」から「微塵となりて」への推敲については〈言葉によって心身の昇華を願った結果〉かと考える。


 中西は自身の病気(生来の胃弱、戦中戦後の肋膜炎、死に到った癌)という意味でも医師として毎日病気の人を治療していたという意味でも〈遷子にとっては病気は常に身の回りにあった〉と述べる。

 だからと言って病気と死に慣れるものではないが〈自身の死期は他人には言わなくても、分かっていた〉、だからこそ「冬麗の微塵となりて去らんとす」という辞世を用意できたと言う。

 〈死によってすべてなくなるという発想は、再生も輪廻もない、無宗教のものである。死を学ぶことを医師として良かれ悪しかれ患者を通して体験的にしていた〉と述べる。


 深谷は患者の病気や死を対象とした作品は医師俳句として結実し、自身の病気については晩年の闘病俳句となった、と言う。「冬麗の微塵となりて去らんとす」については〈文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹した〉と述べる。


 は『山河』の闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然で、〈冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える〉と言う。ただ遷子は揺れ動く自分を冷静に見て「写生」しており〈患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない〉という意味で〈極めて科学者的な目を持った人であった〉と述べる。

 自分を「無宗教者」と決めつけ、信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた遷子は死後故郷の自然と一体化すると思っていたのではないかと推測する。


8のまとめ

 遷子は生涯に少なくとも2度死に直面している。

 最初は応召されて戦地へ向かった時であるがこれに触れたのは筑紫と原のみであった。これに関しては誰もが経験するものとは少し異なり、ことに現在のような平和な日本ではあまりピンとこないものであろうが忘れてはなるまい。筑紫の紹介する死に対して臆病な遷子の言動は決して誰も笑えないものである。

 一方、癌を患ってから死に至るまで遷子が思い悩み、考えたことはほぼそのまま俳句として結実しており、それこそが我々の心を打った。この死を前にした時の揺れ動く気持ちは誠に人間的で原、仲がこの正直さに注目している。また病気自体は医師遷子の周りに常にあったものだが、中西はだからこそ自身の死を覚悟で来たと述べ、仲は患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがなかったと強調する。

 死に対して無宗教者、無神論者であった遷子の虚無的な死生観についてはほぼ全員が触れている。筑紫はそこから我々のうちやはり無神論者である者が学ぶものが多くあると考える。

 また辞世と言われる「冬麗の微塵となりて去らんとす」を全員が挙げており、筑紫は美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理に注目、原は推敲の過程から言葉によって心身の昇華を願った思いを忖度、中西は患者から死のあり方を学んだ末の覚悟と言い、深谷は文字通りの絶唱で古武士の最期を見る感があると述べ、仲は故郷の自然と一体化する思想を読み取っている。


【連載】現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭(今回欠稿)、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年3月2日・9日)

●―1:近木圭之介の句―「老」を読むー/藤田踏青

失イツクシ。蝶残ル

 平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。

 日付けのない暦背負って逃亡しようか   平成1年作   注③

 月炎える 私未来図どうあろうと     平成3年作   注③

 ひとり神の方を見ていたが 暗くなった  平成14年作

 過去の破片に 居場所はなかった     平成16年作

 取除くことは ここ数日の一行      平成17年作

 そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。

 生の裏に球体の小さな翳り   平成13年作

 宙(そら) 一滴        平成16年作

 ひとつ椅子に残る 存在    平成16年作

 これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。


「三秒あれば」抜       昭和27年作  注④

三秒あれば

コップの水を土に捨て

中に宇宙を入れることも

出来る


 この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。

 最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。

 指先 一つの生 美もありそう      (94歳)  平成18年作

 己れの記憶の中で笑った         (94歳)  平成18年作

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ  (95歳)  平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ   (95歳)  平成19年作

 ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。


注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会  平成12年刊

注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー  岩波文庫、ちくま学芸文庫

注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注④「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2:稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子

 引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号

 掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。

 福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。

 南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。

 一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。

 「春蘭」同号には

 開け違へはたと屏風につき當る

 これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる

 お隣の雪吊が化粧部屋の外

なども並ぶ。


 当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。

 掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。


●―4:齋藤玄の句– 「老」を読む -/飯田冬眞

 冬の日と余生の息とさしちがふ

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 個人差はあるのだろうが、男性にとって「老い」を実感するのは、容姿というよりも肉体の機能の衰えによるものが大きいのかもしれない。たとえば、それまで難なく上っていた駅の階段が途中で息を継がなければ上れなくなったり、それまで軽々と持ち上げていた鞄が急に重く感じたりすることが、男に「老い」を自覚させる契機になるようだ。そうした機能面の衰えを自覚した後に鏡などで筋肉の落ちた自身の肉体を視覚的に突きつけられたとき、ようやく「老い」は内面にまで浸透してゆく。

 流氷を待ち風邪人となりゆけり  昭和47年作

 老体を氷湖の道がつきぬける   昭和47年作

 しんしんと肉の老いゆく稲光   昭和47年作

 この年、齋藤玄は58歳。一、二句目は、石川桂郎とともに厳寒の網走を旅した折のもの。氷点下の白銀世界の中で〈風邪人〉となりながら流氷を待った男たちは、ようやく自身の肉体に「老い」が近づいていることを悟ったに違いない。だが、氷の上を走り来る風の冷たさを受け止めている〈老体〉はまだ感覚的なもので、視覚化されてはいない。

 三句目は同年の秋の句。処女作以降六千句の句業を千六百句余りにまとめた第三句集『玄』を刊行した後の作。稲光の閃光に映し出された自身の肉体を目の当たりにしたとき、静かに進行している肉体の衰えを自覚したようだ。

 枯るる森重ね重なりものわすれ   昭和48年作

 若いうちから物忘れの多い人はいるだろうが、玄の場合は若年期より和洋の詩文を諳んじていたというから記憶力にかけてはかなり自信があったようだ。さりげない句ではあるのだが、〈枯るる森〉と〈ものわすれ〉の取り合わせに、そこはかとない「老い」の自覚を嗅ぎ取ることができる。

 八ツ手散るままに晩年なしくづし   昭和49年作

 残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉   昭和49年作

 「老い」の意識が内面に浸透し尽すと次には「晩年」意識が首をもたげてくるようだ。八ツ手の花の散りざまから自身の晩年が〈なしくづし〉に進攻している哀しみが表れている。この年、胆のう炎を患い初めて入院生活を経験し、「晩年」および「残生」の意識が心中に深く刻み込まれてゆく。この年、60歳。

 残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲    昭和50年作

 晩年の不意に親しや秋の暮   昭和50年作

 晩年へ来ては出でゆく秋の暮   昭和50年作

 病床の石川桂郎を見舞う直前の作。「晩年」および「残生」の意識は、清澄な精神性とともにある種の「余裕」を玄にもたらしたことがわかる。それは自身の残生が〈おほよそ見ゆる〉ことができたためかもしれない。開き直りといっては悪いが、天の配剤なのだという自覚が芽生えてきたからこそ、老いの時間が〈不意に親し〉くなるのだろう。そうした〈晩年〉に対する余裕とは、自意識の放下によってもたらされたものかもしれない。それは〈鰯雲〉や〈秋の暮〉といった自身の力の及ばない時候や天文の季語に身を寄り添わせているところからも推察できる。

 齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり   昭和50年作

 晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな   昭和50年作

 いまのいま余生に加ふ焚火跡    昭和51年作

 昭和50年11月に30年余の刎頚の友であった石川桂郎に、51年1月に相馬遷子の長逝に相次いで遭い、「晩年」意識は「軽み」の姿を帯びてゆく。〈齢抱くごと〉の比喩が〈熟柿をすする〉作者のありようを内面とともに的確に描いており、微笑を誘う。少しでも力の加減を誤れば、〈熟柿〉は見る影もなく崩れ、甘い臭気とともに無残な果肉を周辺に撒き散らす。「老い」とはまさにそのようなものなのだろう。

 冬の日と余生の息とさしちがふ   昭和52年作

 「晩年」意識は畏友たちとの長逝という訣別を経て、「余生」へと変化してゆく。掲句は前立腺手術の入院生活から解放されて、しばしの安息を味わっていた頃の句。冬のある日、自らが吐いた白い息が自分の顔を包んだのだろう。玄の住む北国でなくとも冬の日常風景としてはごく当たり前のことである。それを〈余生の息とさしちがふ〉としたところが、非凡である。〈さしちがふ〉の措辞に齋藤玄という俳人のもつ「あらがう生」をかいま見た思いがした。

 「老い」の意識とは、精神から肉体の変化を経て、ふたたび精神へと戻ってゆくものであることが、玄の「老い」を詠んだ俳句の語彙の変遷をたどることで理解することができるだろう。「晩年」「残生」「余生」とは決して受身のことばではなく、〈さしちがふ〉ほどの覚悟が心の底に潜んでいることを忘れてはならない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5:堀葦男の句– 「老」を読む -/堺谷真人

 夏樹揺れ少女に老いの日の翳り

 『機械』(1980年)所収の句。

 鬱蒼と茂る夏の樹々。風に揺れ、葉ずれの音を散じている。緑蔭にたたずむ一人の少女は、降り注ぐ木洩れ日の中で溢れんばかりの若さに輝いている。が、ふとした瞬間、何気ない表情の中に作者は数十年後の彼女の衰老を先取りして見てしまったのだ。錯覚か、妄想か。見てはならぬものを窃視したかのように擬議する作者。しかし、数瞬の後、眼前で屈託なく笑う彼女はもう元の少女にもどっている。

 不思議な俳句である。作者は現存する少女を詠みながら、少女の可能態としての老女を詠んでいる。若さと生命力の絶頂を顕示する存在を前にして、却ってその対極にある老年に思いを馳せている。赤い三角形を見てから視線を白紙上に転ずると、残像として淡い緑の三角形が浮かび上がる。ちょうど赤がその補色である緑を吸い寄せるように、若さが老いを想起させるのである。

 ところで、葦男が自らの老いを意識したのはいつの頃からであったろう。金子兜太はある文章(*1)の中で「葦男には老成観がなかった」と至極簡単に総括しているが、これはあくまでも作句態度における話である。一方、作品に即して老いの徴候をみてゆくとき、我々は葦男が自身の加齢現象に向けた率直なリアリズムの視線に気づくであろう。

 父もかく老う浴槽の波顎に受け   『機械』

 花辛夷わが歯いくつか亡びつつ   『山姿水情』

 霞む山に浮かぶ黒点わが眼の斑(ふ)   同

 皺っ腹さむざむしょせん風羅坊   『過客』

 これやこの痩脛皺腹初風呂に   同

 還暦前後から70代半ばにかけての作品である。特に、一句目、四句目、五句目がいずれも入浴シーンであることは注目してよい。葦男は見ることを重んじた作家であり、一糸まとわぬ自己の肉体の老化からも目をそらさなかったのだ。

 それでは、自身の肉体的老化には十分に自覚的であった葦男は、精神的な老いについてはどのように感じていたのでろうか。残念ながら、筆者はこの疑問を解く鍵をまだ手にしていない。ただ、年譜(*2)に見える次のような項目から、おぼろげに見えてくる情景というものがある。


   1986年11月  神戸一中三十五回生、古稀祝賀会

   1987年 8月  東大経十六年会

   1988年 6月  東大経十六年会

   1991年 4月  神戸一中三十五回生総会の旅・弁天島

   1993年 2月  六高会


 古稀の賀を境にして、葦男は学生時代の級友との交流が次第に密になってゆく。それぞれの職業人としての責務から解放された旧友同士で酌み交わす酒の味は格別であったに違いない。ともに青春を謳歌した者は、数十年の時空を一瞬に超越して語りあうことができる。

 外見はたとえ白頭翁、禿頭翁となっていても、彼らは互いの中に今もなお白皙の書生や日焼けしたアスリートが歴々として存するのを見ているのだ。

 樫の芽や書生という語いまも好き   『過客』

 かつて少女に「老いの日の翳り」を幻視した葦男が、ここでは逆に老年の中の青春を余すところなく享受している。肉体の老化を通過して再び炙り出されてきた青春性こそ葦男にとっての真実であった。彼に精神の老いを感じている暇などなかったのである。

 1993年2月8日、旧制六高の同期会で俳句の話をして帰宅した葦男は、翌2月9日の朝、入浴中に腰背部に激痛を訴えて入院、2ヵ月半後に不帰の客となった。入院直後の句は重病人である自己の状況を端的に詠んでいる。が、そこに悲嘆や不安といった要素は希薄である。新しい体験をむしろ好奇のまなざしでとらえ、表現する精神の快活さと柔軟さを葦男は最後まで失わなかった。

 浅春ベッド管と数字に取りまかれ   『過客』

 漂客に点滴隣の寺に春の句座   同


(*1)「一粒」第29号「樫の年輪」2004年3月

(*2)『朝空』「堀葦男年譜」1984年/「一粒」第1号「堀葦男年譜」1997年3月


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭【21,22は休み】


●―9:上田五千石の句―「老」を読む― /しなだしん

 冬銀河青春容赦なく流れ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十五年作。

 「老」とはいつから始まるものだろうか。

 この句の制作年で、五千石は二十七歳。普通に考えて老いを感じるにはまだまだ早い。しかし私がはじめて老いまたは老けを感じたのは、二十七のころだったような覚えがある。それを老いというのは少し大げさだろうか。体力の衰えや体調の変化を、察知したとき、それを老いの兆しとして感じたのかもしれない。それはまさしく「青春」の終焉を感じ取った瞬間ともいえる。そんな理由から私の中で「青春の終り」と「老いのはじまり」は近しい感覚がある。

 五千石もこの頃、そんな感慨をいただいていたのだろうか。

     ◆

 掲出句と同じ「青春」を詠んだ句に、昭和四十年作の「青春のいつかな過ぎて氷水」があり、この句の自註(*1)には〈二児の父となっては、青春をとどめようもない〉とある。また昭和三十七年にも「冬夕焼わが青春の余白尽く」を作っており、「青春」への追憶が濃く滲んでいる。なおこの「冬夕焼」の句は『田園』には収録されておらず、補遺として『上田五千石全句集』に収められている。

     ◆

 掲出句。「渋民村」と表題の付いた四句のうちの三句目。

 自註には〈私は「銀河ステーション」から夜の軽便鉄道に乗った。これが「銀河鉄道」とは知らなかった。「青春」という駅を、いま通過する〉と記している。

 渋民村は「しぶたみむら」と読み、岩手県岩手郡にある村で、現在は盛岡市に属している。石川啄木のふるさととしても知られる。

 また自註にある「軽便鉄道」は岩手軽便鉄道、現在の釜石線のこと。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われており、自註はそこのこと指している。

 時は冬。寒々しい夜、銀河鉄道に揺られて車窓から雪景色を見るとき、過ぎゆく青春を実感したのだろうか。それは銀河鉄道というシチュエーション、そのセンチメンタリズムが少ながらず影響しているのかもしれない。

 ちなみに同時作は以下の三句。

 雪の渋民いまも詩人を白眼視

 星夜出て反骨教師雪つかむ

 寒昴死後に詩名を顕すも


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

 墓地抜ける生色少女のふくらはぎ

 昭和38年『孤客』、と自句自解にはあるが、全集本の『孤客』にはない。いつの段階で最終句集原稿から消えたものやら。もとより無季俳句。

 何となく楠本憲吉のからみつくような嫌らしい視線を感じるが、まさにその通りである。憲吉が慶応義塾大学の講師を務めていたとき、慶大俳句会のメンバーを連れて鎌倉近代美術館へ吟行に行った。その時長谷寺を抜けて行く教え子の女子大生の若々しいふくらはぎが目にとまってこの句が出来たという。

 自句自解には、この1年、池田弥三郎の推挽で慶応義塾大学の講師となったと言うが、年譜では講師を務めたのは昭和40年とある。何が本当なのか憲吉についてはさっぱり分からない。本当は調べて書くべきなのだが、そんな調査をする価値があるとも思えないので矛盾した資料そのままに書いておく。

 それでも、38年に講師だったらしいことは、翌39年、この女子大生(筑紫出身)を詠んだこんな句があるから間違いなさそうだ。

 春一番筑紫乙女は幻めく

 講師の期間は1年だったらしいから翌年はもう教え子としての関係は途切れているが、憲吉としてはこの女子学生に相当未練があったらしい。憲吉先生、41歳の男盛り。その前年、長男が同じ慶応義塾中等部に入学しているというのに!

 嫌らしい視線といえば、こんな視線の句もある。

 スリットがこぼす脚線ころもがえ

 昭和61年『方壺集』より。ちょっと目のやり場に困るような句だ。そもそも「スリット」という言葉が何故出てきたかというと、憲吉の句会の袋回して「スリット」という題がでて最初のスリットの句を詠んだという。とんでもない句会だ、スリットなんて題を出す句会がどこにあるだろう!憲吉はそれ以来病みつきになり、盛んにスリットの句を詠み始めたらしい。しかし、この句、その中ではスリットの本意をよく詠んでいる秀作である。王道を行くスリットの句であろうか。


●―12:三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/北川美美

⑩ 渡り鳥目二つ飛んでおびただし

 渡り鳥の目だけが飛んでくるようなスピード感ある凄まじい光景がただ浮かぶ。渡り鳥は命をかけて飛ぶのである。その臨場感が伝わってくる。世界中に散らばる渡り鳥たちが、同じ地をめざし、どんな経験を積み重ねているか。克明に映像化した『WATARIDORI』(原題: Le Peuple Migrateur/2001 監督:ジャックペラン)は、生きるためだけに鳥たちが北に向かっていく姿だけを収めた壮大な映像である。彼らの繁殖が生まれ故郷の北極でしか行われないことは自然界の神秘的な法則である。

 敏雄に鳥の句は多い。『眞神』では、晩鴉(6句目)、渡り鳥(10句目)、信天翁(32句目)、発つ鳥(72句目)ひばり(82句目)、飛ぶ鳥(97句目)などが散りばめられている。『創世記』のノアの箱舟では、洪水の40日後にノアは水が引いたのかを確かめるため、はじめに鴉を手放す。『眞神』が鴉からの登場していることは偶然かもしれないが感慨深い。

 船上生活の永い敏雄は沢山の鳥たちをみてきたことだろう。『眞神』の中の鳥たちは天界の使者のような八咫烏(やたがらす)の役目とも思えてくるのだ。八咫烏になりえる実在の鳥が敏雄の審美眼により選び抜かれ配置されているように思えるのだ。

 『眞神』というタイトルから日本の神話、山岳信仰、陰陽道などを連想することができるが、それは無季句をより効果的にするためのトリックのように感じられ、八咫烏は実在しない上にそのイメージがあまりにも付きすぎているため『眞神』の中では排除されているのだろう。昇天した敏雄自身が八咫烏のような気がするのである。

 無季句を追求する敏雄にとり、鳥は、読者を異世界に連れて行くことのできる橋渡しである。掲句は無季句でありながら散文になることも感情を込めることもなく表現されている。命を賭けた鳥たちがただただ北に向かっていく姿だけが詠われている。人間は太古より鳥になることを夢見ていた。


⑪ 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

 陰陽道では、「北」について引いてみると、黒(色)、冬(季節)、羽(五音)、皮膚(五感)とでる。前掲句⑩の渡り鳥と⑪の羽のキーワードが一致。巧妙な句配列である。真北から西に6度ほど傾いているのが磁北になる。『眞神』であるならば磁北のことだろう。

 南の日照時間が多くなればその方位の家の老朽化が進み確かに北側に傾くというのは確かに頷ける。

 下五の「如何にせむ」は『古今集』ですでに使用されており「名取河せぜの埋木あらはれば如何にせむとかあひみそめけむ 読人不知」などがある。途方に暮れる嘆きの様子が雅やかに映る。現在、ビジネス文書あるいは国会中継で「いかがなものか」という台詞に遭遇するが、これには批判的意向が大いに含まれており、『古今集』の頃の「如何にせむ」とは使い方が変化している。掲句の「如何にせむ」にも少なからず批判的意志が含まれているとみる。

 というのは、ここで登場する「家」は、『眞神』の中でひとつのテーマとなり昭和30-40年代の日本の社会の底辺をも描いているように思えるからだ。「家」から広がる家族そして村社会が背景に潜む。

 写真集『筑豊のこどもたち』(1959土門拳)、映画『砂の女』(1963 原作:安部公房、監督:勅使河原宏)は『眞神』の世界をイメージするに恰好の資料と個人的に思う。特に、阿部公房と『眞神』の世界観には、前衛性を保ちながら、マクロの視点で人間の存在を観察し、アナキズムの匂いがある点に於いても共通項が多い。この人間の業を言葉に置き換えようとする作者の枯渇は戦争体験を通して戦後という時代を生きた人の心の渦のように感じるのである。

 『眞神』には思想的なものは何も含まれていない。一句一句に言葉によるシャーマンが隠れているだけなのだ。しかしながら家の老朽化の影に家族の不在も匂わせる掲句は社会的な日本の風景をも暗喩していると感じる。そういう村へ読者を連れて行く『眞神』の旅を楽しめばよいのだ。

『眞神』(1973年上梓)の発刊周辺の日本、世界の激動を一部挙げておく。


1972年

 日本陸軍兵 横井庄一 グアム島で発見

 連合赤軍・浅間山荘事件

 佐藤栄作退任 田中角栄就任

 ウォーターゲイト事件

 川端康成自殺

 大阪・千日デパート火災

1973年

 ベトナム戦争終結

 日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件

 金大中事件


⑫ 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 2011-2012年の冬は厳しかった。この氷河時代の前触れのような気象は雪国の老朽化した家々に例年の倍以上の雪を降り積もらせた。積雪に押しつぶされそうになりながら家の中でひっそりと暮らす独居老人がニュースに映されていた。けれどそこに暮らす老人の顔は決して苦悩に満ちてはいない。人間という業を生きるということを映像から垣間見た気がした。

 「よみがへり」とは、このような雪国という神話のような世界を示す地域に降る積雪のことなのだろう。雪国という名称に降る豪雪という自然の猛威。「急ぎ降る」という措辞に雪に埋もれながら孤独に年老いていく人の姿が隠れているように読める。


⑬ 冬帽や若き戦場埋もれたり

 日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。

 この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。

 若き兵その身香し戰の前 『弾道』

 支那兵が銃を構へて来り泣く 〃

 戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。


⑭ 針を灼く裸火久し久しの夏

 夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。

 「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。

突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。

 囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。

 「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。

 掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。


⑮ 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

 「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。

 涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、

 鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉

がその先にみえる。

 涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。


⑯ 著たきりの死装束や汗は急き

 人の死亡が確認されてから全ての人体機能が停止するまでには時差があり、それまでに痛みに苦しんだ表情がやわらかくなったり、掲句のように汗をかくということは考えられることだ。通夜の席で、ご遺体が微笑んでいるようだ、亡骸が一番美しい顔だったということに遭遇することは多々ある。その美しさを前に、すでに魂がこの世に無く、亡骸そのものが仏になったということを実感するのである。

 「著たきり」の措辞がややこしいのだが、遺体を送る側が見たご遺体の様子という見方と、死んだ人が俳句を詠んでいるという見方と二種類読めることにある。「昨日と同じ服で汗臭くて参ったな」と故人が汗をかいたことを自覚しているというように読めるのである。ここでは、後者の故人目線として視点を浄土へ飛ばしたということを考えてみたい。

 『眞神』では、作者の位置があちこちへ飛ぶのだが、視点を彼の世に飛ばして、下界を見るという一種のトリックにも思えるのだ。読者の視点を転換させるということが考えられる。

 「死装束」は、ご遺体を棺に納める際に故人に施されるもので、仏式では、故人の浄土での旅路にふさわし巡礼者の支度をさせるのが習わし。映画『おくりびと』での納棺の儀式で本木雅弘が死者に着せている装束である。

 この死者目線が昨今記憶にあるものは、新井満日本語訳の「千の風になって」(原題〝Do not stand at my grave and weep“直訳:私のお墓で佇み泣かないで)の視点がそうだ。死者が「泣かないでください」と残された人を慰めている視点と同じなのだ。

 「著たきり」の措辞により、霊的視点の読み方を選択したのは、霊的な存在が主人公となる「能」の世界の「夢幻能」と共通するジャンルが『眞神』と共通するからである。「夢幻能」は旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をする。前シテは、中入りの後、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、クライマックスに舞を舞う。

 能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)」の5つのジャンルに分けられる。これに「鳥」が入ってくると、なんとも『眞神』の登場物に似ていることになる。今まで何度観ても眠くなっていた能が『眞神』に共通項があると思うと、俄然、興味が湧いてくるのも不思議なものだ。能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てていることから「急ぐ」というこのキーワードも後シテの役割のようにも思える。

 「能」は「幽玄の美」と言われているが、敏雄は世阿弥の「幽玄」に戻って『眞神』を構成したというのも考えられることだ。

 さらに「汗は急き」の「急」の文字使用が『眞神』に3句もある。

 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋   8句目

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る   12句目

 著たきりの死装束や汗は急き   16句目

 3句ずつ離して「急」を使用した句を配置している。暗号解き、ミステリーツアーのようになってきた。能の話に戻るが、能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てている。「急」は五番目の切能にあたり、シテは「鬼」となる。このことから「急ぐ」というこのキーワードが能の番組と関係しているようにも思える。

 かつて、高柳重信は『蒙塵』の構想を中村苑子への書簡で明かしている。もしも『眞神』構想メモが、発見されれば、戦後俳句の遺産ともいえるのではないだろうか。

 また「著たきり」と「汗は急き」の検証として、「死装束」に他の言葉を馬鹿馬鹿しく置き換えてみる。

 著たきりの揃いの浴衣や汗は急き

 著たきりのめ組の法被や汗は急き

 著たきりの海水パンツや汗は急き

 著たきりの越中褌汗は急き

 他人が汗をかいているのか、自分が汗をかいているのかという点でいうと、やはり、自分が汗をかいているということがわかる。「汗は急き」が汗をかいた本人が実感する生理現象ということもあり、やはり死者が汗をかいているという見方の方が『眞神』らしいのかと思う。

 更にこの句から読み取れるのは、納棺されることのないご遺体が汗をかいていると想像するのである。死ぬ瞬間に汗をかくのは苦しかろう。「死に水をとる」とは臨終の際の死者を生き返らせたいと願う儀式である。この句の死者の死に水ととるのは、わたしたち読者と思えてくる。


⑰眉間みな霞のごとし夏の空

 「眉間みな霞のごとし」がわからない。

 再度、能を確立した世阿弥の世界を考えてみる。

 世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の花に例えて心と技の両面から探求した。花とは観客がおもしろい、めずらしいと感じる心のこと。自然の花はそれ自体が美しいものであるが、その美しさの意味を舞台の芸として具体的に再現しようとしても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではない。そこで世阿弥は、舞台の芸を種として観客の想像力に働きかけることで、ひとりひとりの観客が心の中にそれぞれの美しい花を咲かせる方法を工夫する。夢幻能はそのための様式として確立されたものなのである。

 読者の想像に働きかけること、それを敏雄は実践したのだろうか。

 「眉間」は表情がでるところである。そして顔面の急所である。記号的な読みとして、急所を調べてみると、眉間(烏兎)・鼻の下(人中)・下顎の前面(下昆)・こめかみ(霞)・、耳の下(露霞)、みぞおち(鳩尾、水月)等がある。これは武術でいう部位の呼称だが、広辞苑をはじめとする辞書にはどこにも出ていない。烏兎が日月を表すことから、眉間が襲われると、太陽と月が一気にでてくるような攪乱を起すという意味ではないかという説がある。記号的逆読みで掲句をみると、「月日の経過は早くこめかみが痛くなる思いで、夏の空はギラギラしていて眩しい限りだ。」と、わかった気になる。

 さて、「霞」を眉間とするならば、眉間で思い出されるのは、筆者世代では、劇画『愛と誠』(原作・梶原一騎)の主人公の早乙女愛と太賀誠が赤い糸で結ばれた蓼科高原スキー場での事故である。愛が誠の眉間に大きな傷を負わせる。早乙女愛を一途に愛する男・岩清水弘も懐かしい。花園高校というネーミングがまた想像を掻き立て、初めて新宿の花園神社を知ったときは、その中に『愛と誠』の学園が存在するのかと思った。

 そうとんでもないことを考えると、太賀誠の眉間の傷も過去のことであり、過去に操られ人生を翻弄するのは、霞のようなことであると思えてきた。何度も思うのだが、敏雄の句には人生のリセット願望を示すような句に遭遇すること多々なのである。

 秘すれば花。『眞神』は、残像の花を咲かせる。


●―13:成田千空の句– 「老」を読む -/深谷義紀

 小春日の雀となりて遊びたし

 平成17年作。句集「十方吟」所収。

 この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。

 「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)

 確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。

 「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」

 この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。

 「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。

 八十の路八方に稲穂かな   『十方吟』

 死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。

 この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。

 さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。

 千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。