2025年12月26日金曜日

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(65)  ふけとしこ

  山に雲

大綿の現れてより山に雲

橋を行き橋を戻つて雪ぼたる

山応ふ母の嚏の聞こえてか

煎餅の粗目零るる寒くなる

日は西に冬至南瓜はポタージュに

      ・・・

 坂本宮尾句集『ゆるやかな距離』の中に

 仏蘭西のリボンで束ね風信子

という句があった。好きな作品が数多ある中であら! と立どまった。内容はごく普通のことであり、どうということもないのだけれど、そして仏蘭西のリボンというのもとてもお洒落なのだけれど、それ以上に新鮮に思えたのである。何故だろう。〈フランスのリボンで束ねヒヤシンス〉と書かれても意味に変りはないが、仏蘭西と書き、風信子と書かれると目に入る印象ががらりと変わる。風信子はヒヤシンスではなく、別名のフウシンシと読むのだとしても。

 音の明るさと漢字からくるノスタルジーのようなものが作り出す世界があるからだろうか。

 耳から音として入る句ではなく、目から入って来る句では、漢字、片仮名、平仮名の使い分けがとても重要だと思う。

 古い話だが「耳の句会」というイベントに出たことがあった。選をするのが難しかった。発せられた語をまず理解しなくてはならない。例えば私が一番迷ったのが「ハイコウ」であった。前後の関係から廃港や配光は考えにくかったが、それでも廃校か廃坑かと悩んだのであった。うろ覚えだが〈ハイコウやぐんぐん太る蜂の腹、或いは蜂の尻〉だったような。後で分かったのは「廃校」であった。


 漢字のことになるが、西班牙・葡萄牙・埃及・伯剌西爾・亜米利加・仏蘭西・伊太利・緬甸・濠太剌利等々の国名のことである。

 故人となられた秦夕美さんが、これらの外国名を網羅した俳句を作っておられたことがあった。アメリカやイタリアなどはともかく、その殆どが読めなかった。それにしても、画数も多く、どことなく威圧感のある字ばかり。もとより当て字だがよくもこんな漢字を当てたものだと眺めることしばし、だった。

 私自身も「出埃及記」が云々という句を作ったことがあったが、読んでくれた人が無かったことなどを思い出した。

 外国映画のタイトル、今は原題のままのことが多いが、かつては抒情的な日本語に翻訳とか意訳とかされていたことも多々あった。

 昔々の『風と共に去りぬ』はそのままだとしても『望郷』の原題は確か「ぺぺル・モコ」という人名ではなかったかしら。『旅情』にしても「サマータイム」だったと思うし。まるで違うと言われればそうだなあ、と頷くしかない。

 アメリカの人にそのことを指摘されて、翻訳した人か、関係の人かは分からないが、「いやいや、我国では御国のことを米国、つまりライスカントリーというのですから」と言って黙らせたとか、笑わせたとかいうことを聞いたこともあった。いつ頃からか原題のままで、という様に変わってきたような。

 こんな古い事ばかり思い出すのはやっぱり加齢の所為だろうか。

(2025・12)