2025年2月28日金曜日

第242号

     次回更新 3/21



澤田和弥句文集特集

はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む
第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ①》読む ②》読む ③》読む ④》読む
第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ①》読む ②》読む ③》読む

おわりに~『澤田和弥句文集』出版にあたって~ 渡部有紀子 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹
第十一(2/28)浅沼 璞・筑紫磐井・佐藤りえ

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎
第十(2/14)小沢麻結・林雅樹

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【新連載】現代評論研究:第3回・戦後俳句史を読む【総合座談会】 》読む

【連載】現代評論研究:第3回・私の戦後感銘句3句(3)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり24 黒田杏子『木の椅子』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(55) ふけとしこ 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】  6 豊里友行「地球のリレー」鑑賞  三木基史 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

2月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

おわりに~『澤田和弥句文集』出版にあたって~  渡部有紀子(天為)

 この度、多くの人々の支援を受けて『澤田和弥句文集』が無事出版された。心から感謝を申しあげると共に、出版に至った経緯を書き留めておこうと思う。

 実は私自身、澤田和弥さんとのお付き合いの年月はそこまで長くない。私が平成24年に俳句結社「天為」に入会した頃、和弥さんはその年の天為新人賞を受賞し、結社誌での書評連載が始まる等、既に大きな存在の先輩であった。お会いした数少ない機会の中でも、平成24年3月に天為湘南句会でゲスト選者としていらしていただいた時のことは特によく覚えている。和弥さんは限られた時間の中で60名超の参加者による約300句の作品全てにコメントし、懇親会では緊張が解けたのか、完全な躁状態だった。疲れてしまわないかと心配していたところ、その夜のメールで、実は職場でのパワーハラスメントが原因で退職していたこと、今も精神科を受診中であることを知った。不安定な雇用状況で職場の人間関係に悩むことも多かった私にとって、和弥さんの苦しみは他人事とは思えなかった。だが一方で、心に闇を抱える人にどう言葉をかけて良いのか分からず、「大切なお話を聴かせてくださってありがとうございます」とのみ返信するのが精一杯だった。

 平成27年5月に和弥さんが亡くなってしまった時の驚きは今でも忘れられない。その数ヶ月前に和弥さんが幹事をしていたメール句会が突然終わり、以後連絡が取りづらくなっていた。和弥さんに近しい「天為」の同人たちがご実家の寿司屋を訪ねても、和弥さんはカウンターの奥から出てこなかったとも聞き、今はそっとしておいた方がいいとを考え、特にこちらから連絡することはしなかった。そのような中での訃報は、もう少し何か出来たことがあったのかもしれないという後悔と、所詮付き合いの浅かった人間に何が出来たのだ、思い上がるなという複雑な思いを私に残した。

 和弥さんが亡くなって7年経った頃、私は第1句集を上梓した。そこには迷いながらも和弥さんへの追悼句を入れた。それに目を留めた「夏潮」「山茶花」の杉原祐之さんから、学生俳句会で和弥さんと共に過ごした時間が懐かしいと連絡をいただいた。何度かやりとりを重ねる中で、こんなに周囲に愛されていた和弥さんの作品が、このまま埋もれてしまうのは惜しいという気持ちが強くなった。いつか和弥さんの作品集を自費出版で出したい、費用は自分が第2句集を出すために積み立てている貯金を当てても良いという考えを杉原さんにお話ししたところ、「こういうことは皆でお金を出しあってやりましょうよ」という言葉をいただいた。そして、和弥さんと学生俳句会で交流のあった「南風」の村上鞆彦さん、「夏潮」の前北かおるさんを紹介していただき、私たち4人は発起人となった。

 一人だけで数年かけて行うつもりだった和弥さんの句文集出版は、3人もの協力者を得たことで一気に現実的なものとして話が進んだ。大きな課題の一つであった資金集めについては、インターネットを使ったクラウド・ファンディングと銀行振込による寄附受付を併用したが、発起人たちはそれぞれ学生俳句会や結社の知人たちに声をかけ、210を超える人たちから支援をいただくことができた。また、原稿の著者校正や索引作り、出版社との交渉についても発起人たちそれぞれの経験をいかすことができた。

 出版する書籍の題名は『澤田和弥句文集』とした。かねてより「天為」の作品コンクールを通じて和弥さんのエッセイや評論を読んでいた私は、もし彼の作品集を出すならば、絶対に文章も載せたいと思っていたからである。文の構成や主張が明確で、何よりも読者を最初から最後まで惹きつける和弥さんの筆運びには、他の同世代の俳人にはない才能を感じていた。

 ただ、句文集の原稿のために和弥さんの文章を探す作業は予想以上に時間がかかった。彼が寄稿していたのは結社誌だけでなく、同人誌「のいず」や「blog俳句新空間」「週刊俳句」といったWEBサイト等、多岐に渡っていた。出版をお願いした株式会社東京四季出版の西井洋子社長は大変親身になってくださり、費用面でも相談させてはいただいたのだが、それでも全てを網羅して採録することは頁数の都合からも困難であった。結局、和弥さんが生前に傾倒していた寺山修司に関する論考を中心に載せることとした。

 こうして句文集に採録された作品を見ると、和弥さんはつくづく真面目で、何事にも真剣に取り組む人だったのだと思う。徹底的に資料を調べ、読み込むことによって得た知識の深さと、それを咀嚼して新たな発見や問題点を明解に示す文章技術は、主題と読者への誠実さがあって為せることである。


元日のママン僕から洗つてよ

男勃ちて吾に怒れる冬の湯よ

羅や乙女の腋の二三の毛

朝顔を愛でたる人の股かをる

セーターや相思相愛以下同文

佐保姫の唇に人さし指入れる


 和弥さんの俳句を語るのにやはりエロスという要素は欠かせないが、これも自身の若き肉体の中に沸き起こる性的衝動でさえも真正面から捉え、十七音の中で詩として昇華しようと、ぎりぎりを攻めているように見える。時には露悪的と受け取られそうな言葉を敢えて選んでいることさえ、「どうしてそれがダメなの?」と、タブーを超えるための問いかけを投げかけているような素直さがそこにあると思う。


やい鬱め春あけぼのを知りをるか

毛布一枚わたしは自由である

 

 和弥さんは第一句集『革命前夜』のあとがきで、「僕はもっと強くなりたい。十七音の詩型の中で、僕は僕であることを、そして今、ここに生きていることを表現していきたい」と、語っている。そう、和弥さんの俳句作品はどれもこれも「生きたい、生きたい」と叫んでいるように感じるのだ。自ら死を選んでしまった和弥さんだが、人生最後の0.01秒は、あぁやっぱり生きたいと強烈に願っていたと、どうしても思いたい。

 最後に。今回の句文集出版にあたり、ご支援をいただいた寄附者の中には、和弥さんを直接知っている人だけでなく、初めて和弥さんの作品に触れて感銘を受け、寄附や書籍購入をしてくださった人もいた。思いがけないほどの多くの人々から和弥さんは愛されていた。この本をきっかけに、より多くの人に和弥さんの俳句や評論が読まれ、読者それぞれの「澤田和弥研究」が深まっていくことを願っている。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり24 黒田杏子第一句集『木の椅子』

 黒田杏子第一句集『木の椅子』【増補新装版、2020年11月刊、コールサック社】をやっと再読できた。私は、黒田杏子先生の訃報に愕然と項垂れたのを思い出す。やっと黒田杏子第一句集『木の椅子』【増補新装版】を読み返すことができるようになった。まだまだ丁寧に言葉一語一語を読み解くには、精進し甲斐がありすぎますが、ゆっくりとですがこつこつと丁寧に句集鑑賞をしていきます。合掌。


 帯文の瀬戸内寂聴の『木の椅子』の中から。「私はいくつも短編小説になる核をもらった。たとえば、〈かもめ食堂空色の扉の冬籠〉。こんな句を見ると、私のイメージは無限に広がっていく」と賛辞を贈る。

 この黒田杏子第一句集『木の椅子』は、現代俳句女流賞と俳人協会新人賞を受賞している。

 その現代俳句女流賞の選評において満場一致で受賞となる。

 その選考委員の言葉を先ず記しておきたい。

 飯田龍太は、「明るい感性の魅力」と題し、「生得と思われる明るく若々しい感性がのびのびと示され、読後の印象がまことに爽やかである。完成そのものに瞭かな向日性がある。見たもの、感じたものに余分の粉飾をつけないのがいい。」と述べる。

 鈴木真砂女は、「溢れる新鮮味」と題し、その作品は新鮮味に溢れている。多少荒削りなところも無いではないが、読む者の心を引きつけるものがある。旅行吟も多くその若さから来るのだろうか自由奔放に詠みまくっている。この受賞がきっかけとなりぐんぐん延びてゆくだろうと述べる。

 森澄雄は、「闊達と清新と」と題し、従来の受賞者にはない、まだ俳句にもの怖じしていない闊達さと清新さがある。正念場はこれからだが、いわばその未知数を多分にもったこの新人に期待したいと述べる。

 この他、野沢節子の「感想」や細見綾子の「選評」の言葉のそれぞれに言葉の花束が手向けられている。

 そうそうたる選考委員たちの高評価に負けないだけの黒田杏子の志、その後、大きく飛翔し、現代の俳壇を代表する作品群を創造し続けている。そして俳句の選者としても優れた俳人たちを励まし、新しい俳人と俳句の発掘に当たられてきた。

 この第一句集の増補新装版という多面的に、この句集の俳句を検証がなされ、こののちの俳人たちの第一句集再販でのあり方の検証を世に問う事にも一石を投じている。

 私の読後感は、何よりも黒田杏子俳句の勢いと感性に圧倒された。

 どの俳句にもきらりと光る趣きがあって選び応えがあり過ぎて逆に嬉しい悲鳴を上げた。


十二支みな闇に逃げこむ走馬燈


 第一句集の第一行の句にして走馬燈を詠み、高く遠くへ出帆の志を抱く黒田杏子の大らかなる快活さ。俳句への情熱の新風が吹いた。走馬燈とは、影を利用した照明器具。この俳句では、二重の意味性がある。十二支がみんな闇に逃げ込むように影の動感を見事に言葉にスケッチして魅せる黒田俳句の力量。さらにさまざまなビジョンが脳裏に現れては過ぎ去るさまから人間、誰もが晩年の死の訪れを迎えるときに思い描くであろう人生を私は、この句から俳句は小説にも匹敵する物語を喚起しうることを思い知るが、現在進行形で俳句界を牽引している、黒田杏子ならではの壮大な俳句の展開だ。


かもめ食堂空色の扉の冬籠


 かもめ食堂とは、何だろうか。絵画のように読み解くのもいいかもしれない。意味性を安易な答えを出さないことで読者は、長い歳月をかけて絵画のように多様に読み込まれ受け継がれていくのだろう。私の俳句観賞だと冬籠の扉を開いてみた。魚の漁で航海し続ける海人たちの船に群がるように鷗たちが浮遊し、漁のおこぼれの魚を狙っている。二つの時空を結ぶ。かもめ食堂への扉は、俳句によって繋がっている。想像して欲しい。この俳句の読者が、十年も百年も千年も経た冬籠りのある日の扉から飛び出してくるのだ。そこからは、それぞれの俳句観賞と物語が展開していく。


小春日やりんりんと鳴る耳環欲し


 小春日の化粧台に向かう女性が、りんりんと鳴る耳環、イヤリングをしたいと呟く。その小春日のその日を占うように女性は、自身を装っていく。装いに特化した女流俳人ならではのこんな俳句は、いかが。


獅(しし)撃つて秩父祭待つばかり


 猪を撃って秩父祭を待つ猟師と祭を囲む人模様が鮮やかに秩父の風土を彩っていく。

 細やかで瑞々しく丁寧に俳句を詠もうとする黒田杏子俳句の観察眼は、その新人の時期においても顕著であり、ひときわ異彩をはなっている。比喩(直喩も暗喩も)のダイナミックさも俳句の壮大さを展開していて重要な見どころだと思う。


金柑を星のごと煮る霜夜かな


 金柑を煮るときの包丁の切り込みを星のごとくと捉えることで霜夜の厳かな世界観を喚起する。


李咲き母の割烹着の白さ


 李(すもも)の花が咲いた。その季節の母の割烹着姿の眩いほどの白さ。鮮やかな描写力。


月の稲架古墳にありてなほ解かず


 月の稲架と古墳を並べたダイナミックな表現力。その夜の

雄大な月と稲架と古墳の融合を以ってしてもその古墳の鍵穴の謎は、解けることがない。


はにわ乾くすみれに触れてきし風に


 埴輪(はにわ)は、古墳時代の日本に特有のやきもの。その埴輪を乾かすのは、今、そよいできた野の菫に触れてきた風なのよっという瑞々しい感性のアンテナ。


野分して絵馬の願のおびただし


 野分けとは、秋の台風の古い呼び名。その野分けの到来で絵馬の馬がはしゃぎ出す。その絵馬に書かれた人びとの願いは、つぎつぎと風の中でおびただしく鳴り出す。


小春日や木馬に傷のおびただし


小春日の木馬に陽気に浮き上がる傷。そのおびただしさを見出す。


雪片のまつげに積もる鶴の村


 鶴の舞う村には、容赦なく降積る雪だが、雪の一片がそこに佇む人間のまつげにクローズ・アップされることで荘厳な物語を鮮やかに浮き上がらせる。


白葱のひかりの棒をいま刻む


 台所に差し込む日の光を白葱の放つ光。今、その両者をつかむ瞬間の詠みっぷり。すべてが過去になってゆく今を丁寧に意識下に置いた。


亀の子のみなその石に執着す


 ひとつの石に執着するように亀の子の群れるさまには、ユーモアさえ感じる。この明るいユーモアこそが作者の逞しさ。


ボンベイの日暮は茄子のいろに似る


 この表現力に脱帽。全く脱帽。


はたはたを干せば低しや雲の群


 「はたはた」は、北日本で良くとれるはたはた科の食用の海魚。その魚類の存在感から北国の風土の荘厳さが浮き上がる。


蜆堂の内はあかるし雪時雨


 蜆堂の内部まで雪時雨が照らし出して明るいという気付きは、詩眼。


風囲して鶏の眼をとぎすます


 風へ囲いをする環境の変化に鶏の眼がとぎすまされてゆく瞬間をキャッチした観察眼。


手花火も連絡船の荷のひとつ


 この丁寧な観察眼そのものが、俳句の醍醐味となってゆくのだ。


日に透けて流人の墓のかたつむり


 流人のさびしげな墓にも日は射し込んで、そこにとどまる蝸牛が涙のように日を纏う。


 俳人として出会った風景や人物、さらに心の模様を私は出会いの財産と呼びたい。

 心をこめ紡ぎだした俳句による出会いの財産を黒田杏子は、脈々と心を通わせつぎつぎと俳句にしてゆく。彼女の人生の豊穣に私は、ただただ憧れ、俳壇のこのトップランナーの背中を見失わないように俳句に精進してゆく。次の句に心象を織り交ぜた黒田杏子俳句の豊かな財産を御堪能ください。

そして私は言いたい。・・・・・俳人よ!「高く高く遠く遠くへ。俳句の海原に大きく出帆の志を抱け」と。


短夜の金魚は己が鰭に棲む

ごきぶりの罠組み立てて誕生日

仕事休みたき日なり都鳥ま白

黄落は火よりもはげし一葉忌

現世もかの世もかなし火を焚きて

丹頂が来る日輪の彼方より

三茶花も白封筒もつめたしや

語り継ぐ絹市のこと十二月

一月の汚れやすくてかなしき手

荷風の川北斎の川冬鷗

旅鞄つめ替へてをり春の雷

蟬しぐれ木椅子のどこか朽ちはじむ

ひとひとり碑裏にかくす昼の虫

打水やいづこより湧く人の群

わさび田の冬の手帳を埋めつくす

春雷のゆかたにわたる夜をひとり

たつぷりと暮れてしまひぬ桐の花

火を焚くや軍手のいろの海かもめ

おとうとと髪切虫に耳澄ます

大粒の星に摘み足す山椒の芽

おとうとの忌日をつつむ青しぐれ

母の幸何もて糧る藍ゆかた

ふるさとの水はうましや夏燕

身を容れてかなかなの谷暮れんとす


【初出】

「藍生」(令和三年八月号、第三十二巻第八号)の特集『木の椅子』増補新装版を読む

「俳人よ!高く高く遠く遠くへ俳句の海原に出帆の志を抱け。」(黒田杏子第一句集『木の椅子』(豊里友行)

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(55)  ふけとしこ

ケサランパサラン

 ケサランパサラン春の月より降り来しか

 ケサランパサラン白鷺城に余寒あり

 ケサランパサラン春の星まで飛ぶ夢を

 ケサランパサラン動き出すまで待つ朧

 ケサランパサラン朧夜を転がれる

    ※ケサランパサラン 姫路市立動物園に展示あり

・・・

 「おばあちゃんと何かお料理したい」

孫娘が言う。末っ子。五歳。

「何作る?」

「えーとねえ、ギョウザ」

 具の用意はまだ無理かな。そこは私が手を出すことにする。

「あのね、ハートの形のギョウザ作りたい」

「え?」

 この子はハートの形が好きなのだ。以前白玉団子を作ったときもハートを作る…と頑張ったのだが、茹でると丸くなってしまうから、ちょっと歪なものができた。

 クッキーならともかく、餃子とは……どうしようかな。ちょっと考えて、皮をハート形に切ることにした。具を平たく置いて2枚を貼り合わすという作戦。ところがこれがなかなか大変。皮は沢山いるし、フライパンに並べられるのもせいぜい3個。で、6個だけハート形にして、大人用には普通の餃子ということにさせて貰った。

さて、件のギョウザはどうなったか。具が入る分だけ膨らむから、何だかふっくらとしたハートになった。茹でても蒸してもこの形はかなり難しい。(と、納得させた)

 何しろままごとの延長だから、楽しければそれでいいのだ。

 彼女が今迄で一番喜んだのが豆腐を潰すことであった。適当な量を手に乗せて、グチャグチャと潰す。それが楽しいようで、キャッキャッと大はしゃぎだった。

 料理ではないがこの子が最近覚えたのが、私の手の甲に浮いた血管を抓むこと。まあ迷惑なことではあるが、手を使うことをすると目立つから気になるのだろう。

わが手首のガングリオンにはまだ気づいていない。これが見つかったら、きっとグリグリってさせて~と言うだろうな。

(2025・2)

【連載】現代評論研究:第3回・私の戦後感銘句3句(3)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●―1 近木圭之介の句/藤田踏青

汽船が一つ黒い手袋から出て航く  昭和27年作「ケイノスケ句抄」所収


 圭之介は昭和9年に門司鉄道局に入社しているので、これは関門海峡の風景からイメージしたものであろう。黒い手袋は機関手のそれであり、夕景の中でのそれであり、戦後という時代を象徴するそれでもあろうか。それ故、汽船とはある意味で新たな世界、新たな希望へと、いつかは明るみへと出で立つものとして託された存在のようにも思える。

 画家としての圭之介は数多くのイラストや挿画を描いているが、氏の画風の基調は「黒」である。モノクロの世界では、白い背景の空白感と相俟って、まるで俳句における大いなる空白、「虚」と対峙する極限化された詩語のように「黒」が据えられている。つまり「黒」は氏の芸術の源泉であり、詩的認識の根源でもある。そして、この立体的な詩的空間は青春時代に夢中で読んだJ・コクトーの影響も多いのであろう。


黒。意識の統一                 平成5年作


 このエピグラム風の宣言こそが氏の芸術意識を端的に物語っているように思える。意識の統一としての「黒」がアイデンティティを主張しているからだ。


心のきれっぱし黒く蟻になり地を這う   昭和25年作

月夜楽器が黒いケースにおさまる     昭和29年作

自画像の中にあって黒いその船      昭和32年作

月夜に野犬化する黒い一匹の周辺     昭和41年作

思想は黒い実私の中にこぼれているだけ  昭和60年作


 これ等、黒い「蟻」「ケース」「船」「一匹」「実」は各々に、氏自身に内在するものであり、混沌とした自意識を客観的に分析しつつ、最終的には原郷としての氏自身へ回帰してゆく構成となっている。形象化された「黒」の切断面は、氏自身をも傷つけているのだが、結局は真の「黒」そのものに収斂されてゆく。つまり、氏の意識の統一こそは「黒」なのである。

 この門司港の職場には、ほろほろ酔うた山頭火が何度も顔を出したようである。それは其中庵(小郡)を発って九州の旅に出る時の通り道でもあったからであろう。また門司埠頭から東上遍歴する為に乗船する山頭火を見送りにも行った事もあるそうだ。その圭之介居の庭には山頭火の句碑が二基建てられている。


へうへうとして水を味ふ   山頭火

音はしぐれか        山頭火


その山頭火へ圭之介は今も語りかけているようである。


あの雲がおとした疑問 山頭火何処へ   圭之介 昭和57年作


●―2 稲垣きくのの句/土肥あき子

まゆ玉やときにをんなの軽はづみ


 1970年「現代俳句15人集」(牧羊社)に名前を連ね、きくのの第3句集『冬濤以後』が出版された。あとがきによると1966年から1969年秋までの3年間の作品が所収されている。句集とは生まれ変わるための禊のようなもの、とはよく言われるが、きくのの出版サイクルはすべて3年である。人間の細胞がおおよそ6年で大きく入れ替わるといわれることを考えると、その半分の周期で生まれ変わり続けるきくのの俳句にかける情熱は相当なものである。また、俳人協会賞を受賞した前句集を超える作品をまとめる前提は、かなりのプレッシャーになるのではないかと思うところだ。

 しかし、60代になったきくのの作品には、先の第1、第2句集よりずっと穏やかな呼吸が伝わってくる。前句集の痛々しいまでの率直な心情の吐露を経て得た切り口に、おおらかな艶が加わった。掲句にあるようなリズムの良さに加え、まゆ玉の色彩と、天から降るようなゆらめきによって、下五の「軽はづみ」を単なる無思慮ではなく、万やむを得ず囚われてしまうものとして明るく際立たせる。わが身を顧みながら、軽はずみにも思えたいくつかのできごとを、反省や忘却したいものとしてではなく、人生にきらきらと振り注ぐ光りのように感じているのだ。

 寄り道も後戻りもあった人生に、少しばかり肩をすくめながら、いくつかの軽はずみと思われたできごとも、ひとつひとつ愛おしんで振り返っているのである。〈牡丹もをんなも玉のいのち張る〉〈別れにも振向くはをんな冬木の芽〉などにも、掲句と同じ感情が働いている。

 自身を潔癖に見つめつづけたきくのが、あるいはどの女性も同じ弱さを持ち合わせていることを知ったのかもしれない。彼女のさらけ出してきた傷は、時代をこえて多くの女性が思い当たるものであり、それを誰に言うこともなくささやかな自己愛をもって癒してきた。女たちは、その性の強靭さやもろさ、あるいはずるさや哀しさについて、まるごと肯定するきくのに、なにより安堵し、安らぐのである。


●―4 齋藤玄の句/飯田冬眞

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒


 昭和55年作、句集『無畔』(*1)所収。感銘句の3句目は「見る」ことにこだわり続けた玄の絶句をとりあげたい。玄にとって「見る」こととは何であったのだろう。見たものを俳句にする。あるいは、見えるものを俳句にする。さらには見えるように俳句にするという手法を多くの俳人は用いている。この絶句は齋藤紬夫人が病床の玄の口許に耳を寄せ、きれぎれの言葉を聴き取って筆録したものという。だとするならば、病床で玄は「死」を見たのだろうか。

 掲句の鑑賞に入る前に、この句が詠まれた背景を、つまり、昭和55年5月8日に永眠するまでの、玄の最晩年の軌跡を全句集の年譜を参考にたどってみる。昭和55年の玄は、新春の頃から発熱と腹痛に襲われ、1月22日に北海道旭川市の唐沢病院に再入院する。翌日手術を受けたが直腸がんが再発、諸臓器に転移しており絶望状態となっていた。だが、この間も絶えず句作・選句に傾注し、見舞い客には枕頭でのお見舞い句会を命じるのが常であったという。4月10日、前年の3月に刊行した第5句集『雁道』に対する第14回蛇笏賞授賞が決まる。病床で受賞の報を聞いた玄は、「今回の『雁道』では、純粋にナイーブに句作一途に専念できた」(*2)と語っている。

 そして、蛇笏賞受賞後、病のために目が見えなくなった玄は、主宰誌「壺」の投句を一句一句、紬夫人に読み上げさせて選句したという。玄の凄まじいまでの俳句への執着を物語るエピソードである。「見る」ことにこだわり続けた玄にとって、失明という身体的困難が作風に変化をもたらしたことは想像に難くない。

 玄は『雁道』命名の由来を句集の「あとがき」に次のように記す。

『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*3)

 もちろん、『雁道』の「あとがき」を記述した時点で玄はまだ、〈花山椒〉の句は得てはいない。しかし、掲句の〈死が見ゆるとはなにごとぞ〉の一節を読むとあきらかに見えない死を見ている玄がいる。玄にとって「死」は他者の「死」であって、「見える」ものであった。前夫人、石田波郷、石川桂郎、相馬遷子などの死を作品化してきた玄にとって、「死」は「無くて在るがごとく」のものであったはずだ。客観的な他者の死であったからこそ「見える」ものであった。たが、自己の死を見たものはいない。玄は病による意識の混濁と覚醒のはざまで、不可視の死をすでに光を失った眼の奥底で見てしまったのだ。そのとき病床でつぶやいた独白が〈なにごとぞ〉という驚愕の一語であった。自身の「死」を見てしまった玄は、驚愕したと同時に恥じたのではないか。理性の人でもあった玄は幻視をみた自身をはにかみつつ、健康であった頃に見た〈花山椒〉を思い浮かべたのだろう。それは「山椒」の古称である「はじかみ」からの連想であったのかもしれない。病のせいでとうとう幻まで見てしまった。そんな玄の含羞が〈花山椒〉に託されているように思えてならない。

*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
*2 『俳句』昭和55年6月号 角川書店刊
*3 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5 堀葦男の句/堺谷真人

蝉はたと肩にいまわれ森の一部


 句集『山姿水情』(1981年)所収。

 夏。森の中をそぞろ歩いていると、一匹の蝉がはたと肩にとまった。瞬間、蝉も我も等しく大いなる森の一部であることを俳人は直観する。まるで自己自身が森の木々のひとつになってしまったかのような、自然とのホリスティックな合一感覚。蝉を肩にとまらせたまま、木洩れ陽の中に凝然と立ちつくす作者の「そのとき」をまざまざと追体験させる句である。

 「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」の項でも触れたように、葦男は晩年に至るまで作品の形象性を重視し、実作においては対象をよく見ることを自他に課した。漫然と眺めるのではなく、みとめる、つまり、「見て止める」「しかと見とどける」ことを求めたのである。


しなやかな枝の全長雪を置き   『山姿水情』

散り敷いて桜紅葉の表がち    『山姿水情』

水勢に真向ふ山女魚ひとつは外れ 『朝空』

鴨万羽いま十数羽天に弧を    『過客』

柚子の宙しんと黒棘みどり棘   『過客』


 『朝空』(1984年)は生前最後の句集、『過客』(1996年)は歿後に編まれた遺句集である。還暦を過ぎた頃から葦男の俳句視力には一層磨きがかかり、とりわけ吟行などの嘱目詠において遺憾なく発揮された。彼に師事した山本千之(元「一粒」代表、故人)は喟然として歎じていう。

ことばによって「かたち」を成すに当たって類型的になることを避けようとすると、通常のレベルを超える観察力を要請される。このような仕方の一つに精密描写とも云える、より突っ込んだ観察がある(中略)何人も同じ景色を見ていたのに、ここまで精しく書いたのは先生だけであった。(「一粒」堀葦男追悼号 1993年より)

 これらの作品を読むたびに筆者は中唐の詩人・銭起の五言絶句「銜魚翠鳥」を連想する。「有意蓮葉間(意は有り蓮葉の間)、瞥然下高樹(瞥然として高樹より下る)、擘波得潜魚(波を擘きて潜魚を得)、一点翠光去(一点翠光去る)」カワセミの敏捷さと青い宝石の如き姿を活写する銭起は尋常ならざる動体視力の持ち主であるが、葦男の透徹した観察眼は時にこれに肉薄するのだ。

 ここで冒頭の作品にもどる。

 かくの如く平素より対象を凝視することに務めていた葦男が森の中で遭遇したのは、蝉の不意打ちであった。対象をとらえたのは視覚ではない。蝉が肩にぶつかる軽い衝撃と、薄い夏物の生地を通じて肌に伝わる爪の感触、そして森全体との合一感覚。一句をくっきりと立ち上がらせているのは、意志的・能動的・集中的な凝視ではなく、却って偶発的・受動的・全身的な感受なのである。

 蝉の句はこちらから摑みに行った句ではない。あちらから飛び込んできた句である。葦男がしばしば口にした「俳句を授かる」ということを何よりも端的に物語る作例であるといえよう。


●―8 日野草城の句/岡村知昭

妻子を担う片眼片肺枯手足


 第8句集「銀」(しろがね)所収。「草城頑張れ」の前書が付く。この1句の直前には「蠅生れ身辺錯綜す家事俳事」が置かれ、直後には高浜虚子の見舞い(前書には「五月二十三日 虚子先生を草舎に迎ふ」とある)を自宅「日光草舎」に迎えたことを詠んだ3句「新緑や老師の無上円満相」「先生の眼が何もかも見たまへり」「先生はふるさとの山風薫る」が続く。「銀」は草城亡き後にまとめられた句集であるのだが、まるで自らの手で一集を編んだかのような計らいを感じさせる並びとなっているのが、私にとってはなんとも興味深く思われる。妻子を養わなければならない勤めを果たすどころか、妻子の手を煩わせなければならない闘病の日々、その中でもとどまることのない俳句への情熱。そんな数々の「身辺錯綜」に溢れる日々のさなかに訪れた旧師とのようやくの「和解」に喜ぶ草城の姿が、作品の配列を通して、ある時間の流れを形作っているように見えるからだ。

 草城にはいまこのとき、数多くの人々が与えてくれるさまざまな支えによって自らの存在が成り立っていることを十分にわかっている。横臥しかない自分に代わって一家を支えるだけにとどまらず、夫の励ましになればとの気持ちから自らも俳句を作るようになった妻(日野晏子の俳句についてはいずれ取り上げてみたい)、「新興俳句の系譜を愛し、病める草城を重んじる」(伊丹三樹彦『人中』あとがきより)との深い師への思いをもって、すでに自由の利く体ではなくなった自分が主宰者である「青玄」の元に集ってくれる若者たち。それぞれの立場で自分を支えてくれる人々の姿を横臥しながら目の当たりにしながら、草城としてはなんとかこの想いに応えなくてはとの気持ちに駆られただろうことは想像に難くない。そのために何をすべきかを考えたとき、横臥の毎日を送る自分にできるのはただ俳人「日野草城」であり続けること。これこそが妻や俳句の仲間たちに報いる唯一の手立てなのでは、との想いが湧いてきたのではないかと思われてならないのだ。だから「草城頑張れ」との前書はいまここにある自分自身への励ましであり、「妻子を担う」とはたとえ体の自由を失っていようが、これからもずっと俳人「日野草城」であり続けることへの意思表示でもあったのだ。

 ただ、病床にある自らが抱くさまざまな思いに裏打ちされて詠まれたものでありながら、この1句からはいわゆる「境涯詠」が持つ求心的な雰囲気とは異なる、一種の軽さを帯びているように見える。この1句をはじめとして晩年(すなわち戦後)の草城の作品はいわゆる「境涯詠」のカテゴリーから読まれているのだが、その「境涯」の詠みぶりの視点は、自分と周辺に起こっている現象をそのままに像としての造形に向けられているように思われる。さらなる体の異変や家族や仲間たちのさまざまな姿も、それらすべてが起こるべくして起こったこととして受け止められて、それぞれの作品に立ち現れているのだ。この強い作句姿勢があればこそ、虚子の見舞いを詠んだ3句の中に決して虚子が受け付けるはずのない無季の句を入れられたのだ、「何もかも見たまへり」なのは自分自身が虚子へ向けたまなざしでもあるからだ。横臥の病床から「妻子を担」ねばならない「片眼片肺枯手足」の草城は、自分を支えてくれる家族や俳句仲間の前で、強い自信をもって俳人「日野草城」であろうとし続け、その姿勢を最後の瞬間まで見事に貫き通してこの世を去った。


●―9 上田五千石の句/しなだしん

 第1回で、昭和29年、五千石は神経症を患っていたことは書いた。

この件についてある人物によって書かれた文章がある。それは、句集『田園』の復刻版に付録の「交響集」の、鷹羽狩行による「伝承の使者―上田五千石論」(*1)という評論の一部である。

(前略)大学二年のときの強烈な精神衰弱であろう。
第一に下宿先の大井町で羽田から低空でくるジェット機音に屋根ごと揺すぶられ、空襲の恐怖を感じて夜中に幾度か寝床をとび出したという。第二は何でも人並以上に出来る彼は、何でもできることは実は何にもできないのではないかという不安を抱き、何をやればいいのかという方向失調の強迫観念が次第に募る。第三は女性に対する欲求不満、これは死ぬほど苦しく、また実際に死のうと思ったらしい。

と、なんとも歯に衣着せぬ物言いである。同じ時代に真剣に俳句に取り組んだ先輩で、いわば同士である狩行ならではの物言いなのであろう。

         ◆

 かくして7月17日、秋元不死男に出逢い、その夜には神経症は吹き飛んでしまった訳だが、吉原市(現富士市)唯称寺の「氷海」吉原支部発足の会では、秋元不死男の講演「俳句表現の生命」を聴き、そして句会に参加する。

 この際、五千石の句は秋元不死男選人位に入選する。


星一つ田の面に落ちて遠囃子   五千石(昭29年作)


 それがこの句である。「遠囃子」は季語としてやや微妙だが、遠く聞こえる祭囃子と思うと「祭」の範疇に入ろううか? または「星」が「落ちて」で、流星を詠んだ句になるだろうか? 時期は盛夏、場所は青田になっているであろう田園の道である。“星がひとつ田に落ちて”は夏の夜のファンタジーであって、遠く聞こえる祭囃子が現実のものと読むのが、やはり自然かもしれない。この句は、句集にも収録されておらず、もちろん自註にも掲載されていない。

         ◆

 いずれにしてもこの句が五千石の俳句へのめり込んでゆく記念すべき句である。

「ゆびさして」の星の句が句集『田園』の一句めに置かれ、この27年のこの句も「星」の句であることは、とても興味深い。

 ちなみに五千石には多くの星の句があるが、昭和18年、五千石10歳のときの「少年新聞」への投稿、入選句〈探照燈二すぢ三すぢ天の川〉もまた星の作品である。

*1 鷹羽狩行「伝承の使者―上田五千石論」は昭和44年2月「俳句」に掲載されたもの。


●―10 楠本憲吉の句/筑紫磐井

天に狙撃手地に爆撃手僕標的


 狙撃手は文字通り鉄砲で標的を狙うプロフェッショナルだが、爆撃手はあまり聞いたことがない。軍隊用語で言うと、航空機爆撃の際の爆弾投擲の専門家(標的に合わせて爆弾落下の条件を設定する者)を言うらしいが、なぜ「地」なのか。むしろ障害物を破壊する爆薬筒を匍匐しながら運んだという爆弾三勇士のようなものがふさわしい。しかしこの爆薬筒という武器は工兵部隊が使うもので、敵陣や鉄条網、地雷を爆破する兵器であるから人を標的にすることはない。調子よく読み進めるのであまり矛盾を感じないが、調子に騙されて論理はよくつながらない。逆に言えば詩歌は調子さえよければ論理など重要でないことの証拠になるかも知れない。「天に狙撃手」「僕標的」、要はこれだけを伝えればよいのだが、調子よく対句を使って明るい戦場を描いている、いや戦場のような環境にある人生をカラリと描いている。爆撃手は判然としないものの、いずれにしろ、僕の命を狙う危険な奴ばかりだからだ。これも前回同様62年の作品だから晩年の作品、死の前年の作品である。死の標的は自分である。「死ねばただ一億分の一人 水引草」「冬バラ瞑想「侮る勿れ汝が死に神」」などが同年作品であるが、論理的であるだけ詩歌としての飛躍がなく感銘句にあげるようなものではない。

 62年の作品としては前回の「郭公や」とこの「天に狙撃手」をもって憲吉の代表句としてあげておきたいと思う。63年、なくなる年ともなるとさすがに入院生活が続くためか、師の草城の晩年のような沈痛な句が見られるようになるが、これは憲吉にふさわしくない。憲吉の晩年は明るく調子よく軽薄であってほしいのだ。

 そもそも憲吉は師の草城をどう見ていたのだろうか。55年にこんな句がある。

師の句いよいよ懐かしかぐわし草城忌


 前回、堀本・北村と「戦後俳句史を読む」で草城と憲吉の比較を論じてみたところであるが、これは憲吉自ら草城についての感慨の一句である。論評と違って、本当に草城のすべてを現わしているかどうかは不明であるが、かえって散文の論理を越えて直感的に草城の一面を描いている的確さがある。憲吉にとって「かぐわし」い存在の草城は決して晩年寝たきりの草城の姿ではないだろう。やはり大正末期から昭和初期にかけての、才気溢れた草城、それこそ「ミヤコホテル」を詠んだ草城ではなかったか。当時相変わらず憲吉はこんな句を詠んでいる。


女体塩の如くに溶けて夜の秋 52年

若き人妻春昼泳ぐごと来る  53年

風花やいづれ擁かるる女の身 55年


 まるで「ミヤコホテル」なのである。


●―11 赤尾兜子の句/仲寒蝉

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  『玄玄』


 最終句集『玄玄』の掉尾に置かれた句。昭和56年、兜子は不眠やアキレス腱の傷あとの痛みなどに悩まされていたが3月17日自宅付近の阪急電車の踏切で事故に遭い急逝した。享年56歳、一説には自死であったという。

 『赤尾兜子全句集』は作られた順に編まれている。最初に『稚年記』、ついで『蛇』『虚像』『歳華集』そうして最後が『玄玄』である。しかし刊行されたのは『蛇』(昭和34年、34歳)、『虚像』(昭和40年、40歳)、『歳華集』(昭和50年、50歳)、『稚年記』(昭和52年、52歳)の順であった。なぜ晩年になって初学の頃の作品集である『稚年記』を出版したのか。あとがきで兜子は「周囲の、度重る誘ひにのつて」遺書として父に手渡した句稿、父も亡くなり「三十年あまり筐底にねむりつづけて」いた句稿を湯川書房から出版することにした旨を書いている。『歳華集』の後、兜子はそれまでの無季も辞さず破調の多い新仮名遣いの俳句から有季定型、歴史仮名遣いのそれに回帰(?)していた。そのことと自分の初学の頃の有季定型、歴史仮名遣いの句稿を世に出そうと決めたこととは無関係ではないように思われる。

 その晩年の有季定型、歴史仮名遣いの俳句たちは作者の突然の死によって整理されないまま残った。ただ次の句集上梓の意志は固まりつつあり、句集名を『玄玄』にしたいということを周囲に告げていたと言う。『玄玄』は兜子の死後に編まれたためにそれまでの4句集と異なり本人の編集を経ていない。

『赤尾兜子全句集』のあとがきに和田悟朗は次のように書いている。

最後の一句、「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」は、没後かなりの日数がたってから、兜子の日記から発見された作品の一つで、その執筆は逝去のほんの数日前に当たる。そこに書きこまれた句は、その時の心情をそのまま書き連ねたものが多く、その中からこの一句だけをとくに恵以夫人の許可をえて、事実上の絶句として添えることにした。全巻を通じて唯一の未発表作品である。

 兜子の人生を離れて好きに解釈すれば「ゆめ」は誰かと誰か、例えば夫婦同士、友人同士といった二人の見る夢が異なっているということか。その場合の夢は眠って見る文字通りの夢と言う意味かもしれないし所謂未来のビジョンと言う意味での夢かもしれない。しかし考えてみれば見る人が違えば夢が異なるのは当たり前。別の見方をすれば同一人物が別の機会に見る二つの夢が全く違うということかもしれない。例えば気分が高揚している時と落ち込んでいる時に見る夢というように。

 蕗の薹は春になると真っ先に地面を割って顔を出す。これから過ごしやすい、いい季節に向かうという希望を込めた季語と言える。それに蕗の薹は蕗の子供であるからどのように成長していくのか未知数なのだ。二つの夢と蕗の薹との取合せは、従って将来の可能性、それも明るい可能性を示唆する。兜子の悲しい最後を想い合わせると、この句が全句集の最後に置かれていることが実に大きな救いのように思われる。


●―12 三橋敏雄の句/北川美美

山山の傷は縱傷夏來る


 環境は、人格形成に加え、作品に大きな影響を及ぼす。三橋敏雄の出生地・東京都八王子市は、西南には富士山、南には山岳信仰として名高い大山、そして丹沢山系が臨める。古くから宿場町として栄え、織物産業を中心に物流中継地としても発展した。筆者の出身地・群馬県桐生市とも、その織物文化交流は古く、八王子・大善寺境内の機守神社が桐生・白滝神社から勧請された記録もある。

 三橋には山を詠った句が多い。「裏山に秋の黄の繭かかりそむ」(『眞神』)「蝉の殻流れて山を離れゆく」(『眞神』)「山を出る鼠おそろし冬百夜」(『眞神』)「山里の橋は短し鳥の恋」(『長濤』)など。三橋敏雄の眠る墓地、八王子・吉祥院の高尾山が見渡せる高台に句碑「たましひのまはりの山の蒼さかな」(『眞神』)が建立されている。どの山の句からも山を背に角帽の三橋青年の姿が見えてくるようだ。掲句は『疊の上』に収められている。

 縦傷とは何か。開腹手術の場合、縦切りは、視野が広く手術しやすく、緊急手術はほぼ縦切りになるらしい。横切りは術後に傷が目立たないというメリットがある。縦傷とは深く跡が残る傷である。山の縦傷。伐採でむき出しになった「不整合」という地層(ジュラ紀=約1億4000万年前)がみえたのだろうか。山の縦傷から太古がむき出しになり、自然破壊への警告とも読める。そこに人を灼く夏がまた来る。 

赤蜻蛉わが傷古く日を浴びて (『鷓鴣』)

 一方、「傷」という言葉が一致している上掲句と並べてみると、不思議と「傷」の意味が同じにみえてくる。一瞬にしてついた昔の深い傷、夏から秋になると思い出すもの―「戦争」と結びつけるのは短絡だろうか。戦争は思い出したくない過去であると同時に、決して消えることのない歴史的事実だ。「傷」とは、ゆるぎない「過去の事実」に因るものである。

 『鷓鴣』と『疊の上』は制作年として10年以上の開きがあるが、「赤蜻蛉」の句を土台とし、「山山の傷は縦傷」の句が生まれたと思える。技法としては、前回(第二回)の「腿高きグレコは女白き雷」と同様、「は」の使用に注目している。

 三橋敏雄のような大正末から昭和初めに生まれた世代が「戦中派」とよばれ、注目されるようになったのは、昭和30年代初めのことだ。働き盛りの30代40代である。「もはや戦後ではない」(1956年)という言葉は、「戦前」のレベルを超えることは易しいがその先容易ではないという意味だった。「戦後」という言葉は使われつづけてきたが、3.11の震災を契機に、「戦後」から「災後」に変わるという論考(*1)がある。「災後」が文字変換トップにくる日も近いのか。注目していきたい。

 「傷」それは、「過去の刻印」ということに気付く。


*1)「災後政治の時代」(読売新聞2011年3月24日文化欄)御厨貴(みくりや・たかし):政治学者、東日本大震災復興構想会議議長代理

【新連載】現代評論研究:第3回・戦後俳句史を読む【総合座談会】/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

 ●―3,7,10 第3回戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

筑紫:今回は時間の関係もあり、次次回のテーマ「風土」について論じておきたいと思う(次回のテーマ「死」についてはすでにかなりの原稿が集まっているため)。今までは「戦後俳句を読む」で登場した作品・作家を中心に鼎談を行ったものだが、今度は「戦後俳句を読む」が書かれる前に、3人でそのテーマについて議論してみたいと思ったものである。ただあまり方向付けをしすぎてもいけないので、打ち合わせることもなく、3人が3人、それぞれの視点から論じてみた。作品鑑賞をされるにあたって参考にしていただければ興味深いと思う。

北村:第2回に採りあげた草城・憲吉などを都市派とすると、対照的にいわゆる地方にこだわった俳人がいる。たとえば斉藤玄、佐藤鬼房、成田千空。住んでいる土地と一体化して多くのの佳句を読んでいる。風土と言う土台を離れなければ、俳句は少ない言葉で多くのことを語る装置である。歳時記は言葉の型式にとどまらず、民俗学や生態学などを包摂している。しかし私の志向を述べると、風土描写にのみとどまるのは何か立体性に欠ける。そこで現実的な日常性を脱して国家・反国家といった方向に上昇する道はあるだろう。俳句というミニマルな器の中では、そのような観念的な上昇も表象(象徴的な表現)を通して詠まれることになるだろう。

 しかし私はもう少し大きな時間・空間を期待してきた。いわばSF(science fiction というよりも speculative fiction)の俳句化である。むろん、これも表象を通して詠まねばならない。しかし完全に離陸してしまうと、落着きのない空疎なものとなる。

 詩客の中で飯田冬眞 の採りあげた齋藤玄の句を見ると、一つの道が見える。玄は風土に浸りながらも、より普遍的なものを詠んでいる。飯田の挙げる

たましひの繭となるまで吹雪きけり

の前後にも

まくなぎとなりて山河を浮上せる

雪積むを見てゐる甕のゆめうつつ

など、死者に成り代わった視線がある。俳句にもエロス志向とタナトス志向があるのだ。もうすこし詩の考え方で言うと、これらの句は、俳句のうちではもっとも象徴詩となっているのではないだろうか。芭蕉の句には象徴性があるとされるが、玄はその要素を純化させたと言えそうである。(ついでながら、芭蕉の象徴性が、野口米次郎の介在によって内外の詩の運動に大きな影響を与えたとの、堀まどかの詳細な論考 がネットにある。そこに記された自由詩と俳句相互の影響の往還は大変興味深い。)その代わりに玄が捨てた、というより無縁であったものは俳諧性であろう。子規本人の意図は奈辺にあったかは分からぬが、結果としてラディカルな正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をくさし 、ほぼ有季定型を守るなど、模範的な正統派の顔を見せるが、豈 weekly に富田拓也が記した玄の来歴 を見ればそう単純な人ではないようだ。玄自身、内外の詩の洗礼を受けている。富田の文章には「13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していた」とある。教養は象徴的な現代詩に距離が近いのである。

 もう一つ風土ということで付言すれば、齋藤の行き着いた死者の視座に立つモノクロの世界と、安井浩司の汎神論的色彩を纏ったカオス、北方を領土とする俳人の対比も面白そうである。

旱畑にんげん湧くをたまゆらに     斎藤玄

大地に湧きし魚は河に棄てられん    安井浩司

筑紫:風土の前に風土俳句について述べておこう。風土俳句とは、昭和34年の角川俳句賞で村上しゅらが受賞した「北辺有情」を契機として生まれた俳句の傾向で、地方在住の作家による土地固有の自然と人間の生活をテーマにした俳句をいう。石田波郷が「村上しゆら君は角川俳句賞受賞以来、風土俳句の選手のように見られてゐる」と呼んでからこの名称が一般化した。この、「テーマにした」がくせ者で、昭和40年代ころまでは進歩的な俳句とは常にテーマを持つことが当然と考えられ、それがある時期は社会性俳句となり、あるいは狭義の前衛俳句(金子兜太)として展開したが、その一種の流れと見てよい。したがって俳句にテーマが顧みられなくなって以来風土俳句も衰退している。

 風土そのものは、地域に住む作者(飯田蛇笏、前田普羅など)である限り風土を反映した作品を発表せざるを得なかったが、どちらかといえばプレ風土俳句の作家たちは、風土に寄り添った諷詠俳句、風土をテーマとはせず背景とした詠み方が主流であった。

 これが変貌したのは、戦後登場した社会性俳句により、地域に住まない作者(能村登四郎、沢木欣一ら)が自らの居住する地域以外の地域(岐阜白川村、能登塩田)を旅行することにより風土をテーマとして句作することから始まったようである。風土を読んだ社会性俳句と風土俳句の相違は、地域に居住するか否かという点と、特に前者が倫理的態度(滅びゆく村や苛酷な肉体労働への同情)をもって望んでいる点であると考えられる。

 いずれにしても、風土をテーマに選択した社会性俳句が、そのジャーナリスティックな反響から地域在住の作家に影響を与えて風土俳句は生まれたものと考えてよい。角川俳句賞では、木附沢麦青、山崎和賀流、加藤憲曠などが風土俳句の流れにあるといわれる。

 むしろ、社会性俳句作家とも風土俳句作家とも考えられていない馬酔木の相馬遷子は、長野県佐久市という辺鄙な地域に在住し、後進的な長野の地域医療に身を置いて自然と人間を(憤然と)詠み続けている点で、社会性を持ち風土性を持つむしろ過渡的な作家であるといえよう。

 いずれにしても、①風土諷詠俳句(蛇笏、普羅さらには飯田龍太など)、②旅行者による社会性俳句、③地域在住者による社会性俳句、そして④いわゆる社会性俳句などのように座標軸をはっきり定めない限り風土を論ずることは難しいのではないか。


堀本

《俳句に於ける「風土」「風景」》 

 各自の「風土像」→「風土観」の違いや、関心ある対象作家の違いが見えてきた。北村虻曳が、ユニークな論理の運び方で、今ここに住み感受して居る人間の内面と、表現された風景(俳句)とをむすびつけている。また筑紫磐井は「風土俳句」という今まで私があまりコミットしていない枠組みを教えてくれた。

 おりからの東日本の大災害で地の相貌は破壊された、および原発事故に伴うテクノロジー社会の停滞はいつかは恢復するかも知れぬものの、そう簡単にはゆかないようすである。言えることは、戦後俳句の当初のテーマと今の状況を「風土」の変貌というコンセプトの内で重ねてみると、表現のあり方をかんがえる重要な契機ともなるはすだ。

《敗戦時の句 例示》 

 戦後の風景は、まず原爆による破壊と空襲による都市の焦土として象徴的にあらわれる。 戦後と言うモチーフをかぶせた俳句の展開はそれと軌を一にしている。戦後の日野草城や楠本憲吉がまず眼前に置いた都会はそういう風景であり。その奧には戦前から依然として見慣れた日本的な景観や季節のめぐりへの郷愁や再発見がある。

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨  (『野哭』(昭和23松尾書房)

山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  (『旦暮』・昭和24星雲社)

ニコライの鐘の愉しき落葉かなー戦終わりければー・石田波郷 (『雨覆』昭和23七洋社)

炎天の遠き帆やわがこころの帆・山口誓子  『遠星』(昭和22創元社)

国の阿呆 ただ撩乱と雪雫・冨澤赤黄男  『蛇の笛』(昭和27三元社)

地平より原爆に照らされたき日・渡辺白泉  『白泉句集』(昭和50書肆林檎屋)

星よ地に星孤児を得ん地に触れよ・高屋窓秋  『石の門』(昭和28酩酊社)

いつせいに柱の燃ゆる都かな・三橋敏雄  『まぼろしの鱶』(昭和41)

焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄  『雪欅』(昭和29書肆ユリイカ)

兄逝くや空の感情日に日に冬・飯田龍太  『百戸の谿』(昭和29書林新甲鳥)

夏浪か子等哭く声か聴えくるー敗戦3句の内—三橋鷹女 『白骨』(昭和27鷹女句集刊行会)

焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男  『来し方行方』(昭和22自文堂)

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む・金子兜太  『少年』(昭和30「風」発行所)

蚤虱詩性拳銃餓死議事堂・鈴木六林男  『荒天』(昭和23雷光俳句会)

 いずれも昭和20〜25年ぐらいまでに書かれ、「焦土」を眼前にして暗然としている俳人の心象風景でもある。この時期の社会的関心「戦後」を投影した風景。

《風土の固定性と浮遊性》

混乱した風土の恢復を求めめざして、戦後史が始まった。戦後俳句の表現史はどうなっていったのだろう。

 草城や憲吉の俳句を特徴づける都会性の奧には依然として見慣れた日本的な自然が存在していた。都会のイメージには、情報文化の氾濫等のよって、生活からすこし浮き上がったオシャレな一種の浮遊感と言うべきものにくるまれているところ、幻想であってもそれは地方からでて来て都市を支える人たちを引きつけた魅力であろう。都会もまた一個の仮想の風土を形作っている。

 現在、自然からの攻撃と原子力の害とを同時に受け、基層にある故里の風景が毀れたのであるから、いわば日本の大地が丸ごと浮遊し彷徨をはじめたのだ。これからは都会も地方も「浮遊する風土」として生きざるを得ない。そして筑紫が言うジャーナリズムの生長、情報の多様化を促すかも知れない。それがまさに戦後の帰結である現在の文化風土なのだ。今度の災害が、日本語文化圏のわれわれに大きな表現の課題をつきつけている、のは確かなことである。腰をすえてかからねばならない。

筑紫:実は「風土」と対にして、「風景」についても考えてみたかった。前者の主観性やナショナリズムの視点、後者の客観性やインターナショナルな視点の差は面白い。論者として言えば、前者は和辻哲郎、後者は志賀重昂であり、今や前者が圧倒的に分がよいのであるが、こと俳句に関して言えば、俳句一般論と親近度が高いのは風土ではなくて風景のはずである。風土俳句は現在ではごく一部の傾向にすぎないが、花鳥諷詠を含めて日本中の俳句の大半は風景俳句である。当たり前すぎてまだ誰も気づいていないのであるが。似た概念である風土と風景がなぜこれほど違った効果を持つのかを考えてみると興味深い。

 冒頭で述べたように、次次回のテーマ「風土」にどのように今回の議論が反映されるかも楽しみなのだが、それと対局的な「風景」はむしろ次回のテーマ「死」にふさわしいようである。編集者の特権として、次回原稿を今読ませてもらっているが、これこそ風景なのである。死は風土ではない。

【句集歌集逍遙】董振華編『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ

 董振華が聞き手となった『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』は、20人の証言・講演によって飯田龍太の姿をあらゆる面から浮かびあがらせる。姉妹編『語りたい兜太 伝えたい兜太 ― 13人の証言』の監修者黒田杏子が著した『証言・昭和の俳句』から続くフォーマット、すなわち、各章冒頭に聞き手の導入言があり、語りの後に聞き手の振り返り、各人が選ぶ龍太20句選、略歴という構成になっている。ガチガチな論文調でなく、あくまで「語り」のスタイルをとっているのが本書の特徴だ。具体的な交流の記述もあるが、作品、作句の考え方に対しての言及が各人の発言においてより多くのウェイトを占めている。

 龍太の活動に対して、作品に対して、何をどのように語るか、は、結果的に己の俳句観を詳らかにすることである。各人の思考、理想を伺わせる発言が興味深いのはもちろんのこと、結社とは何か、伝統俳句とは何か、俳人の来し方とは何か、読みつつ考えさせられるものがあった。


 無粋ながら各人の龍太20句選を統計的に眺めてみた。一番多く引かれたのは「一月の川一月の谷の中」で、20人中15人が挙げている。次に多い「白梅のあと紅梅の深空あり」「どの子にも涼しく風の吹く日かな」「かたつむり甲斐も信濃も雨のなか」が14人。「大寒の一戸もかくれなき故郷」「水澄みて四方に関ある甲斐の国」「紺絣春月重く出でしかな」を11人が挙げている。
 こういった場合の選句はこれぞと思う代表作を挙げる、自分のお気に入りをあげる、人に読ませたい句を挙げる、などさまざまな観点があると思われる。絶対のもの、というのではなかろうが、ある程度各人の「龍太像」を集約したものといっていいのではないか。「どの子にも涼しく風の吹く日かな」以外の選が重なった句は、おおむね風土性の色濃い句が選ばれているように見える。それも、外部から見る「甲斐の国」らしさ、とでもいおうか。ほかに「子の皿に塩ふる音もみどりの夜」を10人、「雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし」を6人が挙げている。こうして並べてみると、いよいよ伝統俳句とだけ紹介するには、ヴァリエティがありすぎるのではないか、とも思う。「一月の川」以外の句も、助詞と語順を繊細に使いこなし、変質的な語法に依らない文体を模索し続けたのではないか。
 本文中でも各人が分析、鑑賞を試みている「一月の川一月の谷の中」が一番多い結果になったが、そこに写生のその先を見るもの、構造を探すもの、哲学を感じるもの、さまざま論じるところがあり、百出する論より、作品が一番単純なのは、やはり面白いことだった。


 また、本書のおもしろさとして、各人のもつ時間をかけあわせた重層性がある。第3章の宇多喜代子が山廬を訪ねたさいの逸話が、第15章の保坂敏子の証言により、その舞台裏が伺える。福田甲子雄を見舞う龍太のエピソードも、幾人もの口により、色濃く甦る。インタビュアーの董氏は黒田杏子の残したこの仕事を引き継ぎ、途絶えかけた企画を昇華させた。金子兜太の弟子筋である氏が、フラットな立場で全員と相対したことが、本書を風通しのよいものとして成立させていよう。大変な労を重ねられたことはあとがきからも伺えた。
「語りたい兜太~」と本書の相違点として、飯田龍太が泉下の人となってからすでに17年、俳句の発表を辞めてから30年以上が経過しており、さらに「語りたい兜太~」における安西篤の位置づけにあたる福田甲子雄、広瀬直人らも既に泉下の住人となっていることがある。証言者20人中、半分以上が生前の龍太と面識がない。龍太と直接関わったエピソードを連ねた本というより、必然的に、龍太の影響がどのように今日に及んでいるのか、それがあぶりだされるものとなっていることも、じわりと感じられた。


 龍太の選が厳しかったこと、「四千名の選句」の物理的、時間的な大変さ、引退を表明した後の龍太の句作についてなど、愛弟子、また飯田秀實氏の語りから「俳句原理主義」とでも呼びたいような龍太の姿が浮かびあがる。大結社というと、あらゆる意味において人が犇めきあい、跳梁跋扈する、ぎゅうぎゅうの世界を思い浮かべがちだ。が、この一書から浮かぶのは、膨大な句稿が山廬に届き、その紙片は静寂の中で、厳しい目をした主宰ひとりが閲する――そういう静かな絵だった。龍太にとってはこの絵こそが結社の、主宰としての核心だったのではないか。
 長谷川櫂が帯文にしるす「失われた「龍太的なもの」」とは何だったのか。あくまで簡略化して記すとすれば、俳句原理主義――そう呼ぶのはいささか憚られる気もするが、そうしたミニマムなものを「維持すること」そのものだったのかな、と、最後の頁を捲りながら考えた。



2025年2月27日木曜日

澤田和弥句文集

はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む

はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む

第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む
第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ①》読む ②》読む ③》読む ④》読む
第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ①》読む ②》読む ③》読む

おわりに~『澤田和弥句文集』出版にあたって~ 渡部有紀子 》読む


2025年2月14日金曜日

第241号

     次回更新 2/28


妹尾健氏の「コスモス通信」についてーー石門心学とは 筑紫磐井  》読む

澤田和弥句文集特集

はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
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第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
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第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
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第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
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■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎
第十(2/14)小沢麻結・林雅樹

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【新連載】現代評論研究:第2回・戦後俳句史を読む【総合座談会】 》読む

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり23 関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】  6 豊里友行「地球のリレー」鑑賞  三木基史 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(54) ふけとしこ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

2月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

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麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

妹尾健氏の「コスモス通信」についてーー石門心学とは  筑紫磐井

  妹尾健氏の「コスモス通信」は76号にわたり刊行が続いている。「豈」第66号では「私の雑誌」の特集を行い、同人たちが刊行している雑誌(13冊)を紹介しているが、妹尾健氏の「コスモス通信」もぜひ紹介したいと思ったのだが叶わなかったのは残念だった。それくらい読みでのある、読んで損のない雑誌であるのだ。

 特にそんな中で、最近号(75・76号)で『鳩翁道話』を取り上げているのが非常に気になった。『鳩翁道話』は江戸時代に大いに流行した教学の「心学」(「石門心学」ともいう)の中でもっともよく知られた著作である。心学と言ったらまず、『鳩翁道話』という名前がすぐに頭に浮かぶぐらいの名著であり、戦前から岩波文庫では古典としてラインアップされている。

  *

 ここで少し「心学」について触れておく。心学とは、石田梅岩(『都鄙問答』1739年の著者)を開祖として平易で実践的な道徳を説いた学派である。梅岩の弟子の手島堵庵が優れており、多くの弟子を育成して隆盛期をもたらした。この隆盛期には、布施松翁(『松翁道話』1812年の著者)、中沢道二(『道二翁道話』1794年の著者)、脇坂義堂(『やしなひ草』1784年の著者)、手島和庵、上河淇水らがいた。その後、門内で対立が生まれ低迷期に入る。心学者として最も有名な柴田鳩翁(『鳩翁道話』1835年の著者)や奥田頼杖(『心学道の話』1843年の著者)も実は最盛期ではなく、低迷期の人であった。

 ただ心学では、特に講舎(明倫舎、参前舎)を設け、町民、農民から武士たちまでを集め、普及を図った。従って話術による洗練は低迷期に入ってもその名声を損なうことなく、心学の頂点をなす著述として『鳩翁道話』は名声を保っているのである。

 一般に心学は幕藩体制に都合の良い道徳を教えていると思われているが、初期の心学の書物を読むと、さながら明治以降の新聞に載せられている人生相談の質問と回答に近いものがある。「子供に学問をさせて大丈夫か」「子供を医者にしたいが、どう心掛けさせるべきか」「金持ちなのに金を使わず生きる楽しみをもたない親方がいる」「墓参りに行く前に神に参ってよいのか」など、道徳宗教と少し違う生活の知恵を求めている点だ。或いは現代の我々の日常で出て来る夫婦親子の会話に近いものがある。

  *

 今時心学を研究しようとする人がいるのか、まして俳人で心学に関心を持つ人がいるのか、大いに疑問であった。じじつ今まで妹尾氏は「コスモス通信」では古い俳諧の古典や新興俳句時期の著書、あるいは最新の句集の紹介など、俳句雑誌として納得できる有益な特集が組まれてきたのだが、ここしばらく上に述べたように、一見俳句とは何の関係もないと思われる「心学」の話題が登場したのは驚きであった。妹尾氏の「コスモス通信」75・76号では「『心学童話集』を読む」と題して、『鳩翁道話』を引いて教訓談を語るのだが、妹尾氏はこの中で、


あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり(敦忠)

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(忠見)


を説くのだ。不思議なのは、通常の道話にあっては『松翁道話』も『道二翁道話』も、あるいは『鳩翁道話』ほかの節にあっても「道歌」(例えば、脇坂義堂の「踏まれても根強く忍べ道芝のやがて花咲く春に逢ふベし」等)が頻繁に使われるのに対し、妹尾氏は、まっとうな百人一首の歌を取り上げ、正統的な和歌の解釈と心学の解釈を対比させている点である。実は74号の「『一休諸国物語』と道歌(一)」、75号の「『長者教』の教訓歌」でも道歌の系譜をたどっており、この道筋の中で心学が出て来るのである。つまり正統な和歌が道歌として解釈される過程を緻密に追っている。もし普通の和歌を芸術的和歌とすれば、道歌は実用的和歌となることになる。これらは作者や読者のコンテクストの中で解釈されるものであり、そのどちらかが正しくどちらかが誤っているわけではない。これは和歌や俳句の解釈にもかかわってくる話になるわけだ。

 この連載を読んで知ったのだが、妹尾氏は学生時代の卒論に仮名草子の『薄雪物語』を研究したという正統的な文学への関心であるようだ。しかしそれでも、浮世草子と比べてさえ劣ったと思われていた仮名草子を選択した氏の信念に〈文学を支えるものは実理性や教訓性といったものだ〉〈これがないと文学は単なる空想性や美的な遊戯性に陥ってしまう〉という確信があったようで、ここで氏が再び心学に語り始める理由となるのだ。

 一方私が妹尾氏の連載に関心を持つのは、実は私も学生時代に、『松翁道話』や『鳩翁道話』を読んで関心を持ったからである。その理由は、前述した妹尾氏の理由と少し違って、口語による講話の誕生に興味を持ったからである。真宗の講話にその先蹤があったと言われているが、心学の語り口はむしろ『盤珪禅師語録』(1690年口演)が源流ではないかと思えたからである。これらをならベてみると、そこには宗教や道徳と違って別の文学の本質があると思われたからである。通俗の本質は決して低劣・卑俗ではないのである。

 こんなことを言うと妹尾氏から非難されることになるかもしれないが、妹尾氏も私も純粋文学、芸術至上主義にうさん臭さを感じているかもしれないと思うのだ。それは妹尾氏の連載の続きを読んで確認してみたいと思う。

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)[執筆者]藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、山田真砂年、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●ー1近木圭之介の句/藤田踏青

虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル


 「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。

 「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。

 掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。

 圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。


Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構

  感受性は非存在の座から訴える

Ⅱ よどむ思念はいつか変貌

  偽りの衣装

  演技のなかで透視される実体


 ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。


ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ   平成5年作

イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク      平成9年作


 荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。


●―2稲垣きくの句/土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ


 1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

 句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

 また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

 掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。

 しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

 「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。


●-4齋藤玄の句/飯田冬眞

たましひの繭となるまで吹雪きけり


 昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。


「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」


 しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。

 見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。

 掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。

 句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。

 冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。

*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●ー5堀葦男の句/堺谷真人

沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し


 出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。

 葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。

 しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。

 冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。

 ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。


 だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。

(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)


 「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。

 神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。

 思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。


●―6富澤赤黄男の句/山田真砂年

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男


 句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。

 この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。

 さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。

 密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。

 落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。

 赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。


密林の詩書けばわれ虎となる


の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。

 さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。


瞳に古典紺々とふる牡丹雪

銃聲がポツンポツンとあるランプ

向日葵の貌らんらんと空中戦


など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。

 この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。



●―8青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城


 第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。

 句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。

 草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」を「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。

 青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。


●―9上田五千石の句/しなだしん

木枯に星の布石はぴしぴしと   五千石『田園』(昭32年作)


 第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。

この句について五千石は自註(*1)で、


冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。


と記している。

 この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。


木枯に星の布告はぴしぴしと   五千石


 違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。

 句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。

 原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。

       ◆

 この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。

 それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

郭公や過去過去過去と鳴くな私に


 最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。


万緑叢中死は小刻みにやってくる

黄落激し滅びゆくものみな美し

死んでたまるか山茶花白赤と地に


 過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。

 掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。

 「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。

       *     *

(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。


●―11赤尾兜子の句/仲寒蝉

大雷雨鬱王と会うあさの夢  『歳華集』


 はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。


ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場


などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。


毒人参ちぎれて無人寺院映し


は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。


解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし


にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。

 さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。

 こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。

 『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。



●―12三橋敏雄の句/北川美美

腿高きグレコは女白き雷


 新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。

「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。

 技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。

「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。


出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)

出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)


 『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2)

 優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。

 結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。

 余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。


*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集  『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊

*2)『休むに似たり』 池田澄子著

*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。

*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566


【連載】現代評論研究:第2回 【総合座談会】戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

●―3,7,10:戦後俳句史を読む 第2回/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

筑紫:俳句では「師系」という言葉がしばしば言及される。しかし詩の人々にはこの言葉は理解しにくいだろうむしろ、戦後俳句にあっては俳句の集団(しばしば雑誌名)として捉えた方が分かり易いと思う。ちょっとここで、今回の「戦後俳句を読む」で特に相関度が大きいそうした集団を眺めておこう。以下の通りだが、それぞれの集団を指導した作者としては草城(執筆者岡村。以下同)、赤黄男(山田)、憲吉(筑紫)、兜子(仲)に今回の連載は集中しており、これらの相互の関係を理解しておくとそれぞれの鑑賞も理解しやすいのではないかと思う。

 このうち、「旗艦」は「京大俳句」とならぶ戦前の新興俳句の代表的な雑誌である。

 今回は「戦後俳句を読む」で取り上げている16人の作家のうちから、特に注目する作家の活動から戦後というものを考えてみたいと思う。その際、上のような関係にも鑑み、また北村、堀本の二人との事前の話も総合すると、早い時期に日野草城に焦点をあてる意味があるように思う。

北村:日野草城について桂信子編著『日野草城の世界』(梅里書房)を読んだ。そこにある200句を見ると、戦前と戦後には大きな差がある。初期の句には、文化的生活をふまえた軽快さがある。そうした句は、機知に富んでいるし、いわば「そつなく」できあがっているというのが私の最初の感想である。しかし戦後の句には、そのような自在さは無くなり、ある種の難渋する様、それを何とか越えようとする様が詠まれはじめる。


晩涼や木を挽ける音挽き切りし

鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとおる

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり

生きるとは死なぬことにてつゆけしや


 敗戦に加え、病と休職の境遇がより「もの」を凝視することを強いたのである。岡村が選んだ掲出句はその始まりの句であろう。寒さの中に裸で立つ「寒い赤」の山茶花、敗戦の国土を象徴する。

堀本:モノの凝視や写生を虛子に学んだのだが、もともと、草城は、蕪村の句《お手討の夫婦なりしを衣更》に俳句開眼したと言う面白いエピソードがある。「物語性」を取り込んだ新しさはそういうところにも感じ取られる。高濱虛子には〈舌端に触れて夜霧の林檎かな〉で感覚的な把握を注目された。これも草城のセンスのモダニズムがはやくからみとめられたあかしである。その延長にある「ミヤコホテル」(昭和9年、「俳句研究」)は、結婚の日常的なあり方を風俗小説ばりの連作(物語)にしている。「ミヤコホテル論争」は、ゆくりなくも時実新子の『有夫恋』をめぐるスキャンダラスな反応を想い出させる。これには秋元不死男、西東三鬼は肯定的、久保田万太郎、中村草田男は断然反対の立場だった。水原秋桜子は、「草城君のこれが連作の標本になったら困る」、というような趣旨で批判的だった。なお、詩壇では、室生犀星が賞賛、萩原朔太郎に勧めたが、朔太郎は懐疑的だった。(以上は、伊丹啓子『日野草城伝』2000・沖積舎、参昭。

 しかし草城はまた「俳句は詩の一分野である」「究極に於て間接に一般芸術に於ける鑑賞表現を云為することになる」(ホトトギス大正11,10)(松井利彦『近代俳論史』(昭和41・桜楓社))という見解も披露している。

「戦旗」創刊号の「宣明」(昭和10年)では


 吾人ハ新精神ヲ奉ジ、自由主義ニ立場ヲトル。・・・陳套ノ排除、詩靈ノ恢弘ニ在リ。俗流ノ手ヨリ俳句ヲ奪還シ、以テ純正ナル文学的発展ヲ作品ト理論トノ上二実現セシメムコトヲ期ス。定型ハ・・・死守スベキ社稷ナリ。(以下略)。(伊丹公子《日野草城ー早熟にして晩成》より抜粋)


と述べ、虛子の方向とは公然とそれてゆく。翌年昭和11年、「ホトトギス」から除名される。

 この言挙げのもとで、無季俳句、連作俳句、戦火想望俳句などを発表。俳句の詩性を追究してゆく。この時期の連作のモチーフがだんぜん面白い。《事務風景》。《愛しき消費—ありがたきボーナス》《退職期》《浄房》(トイレでの排尿のことを句にしている)。他に口語、外国語をひらがなで書く、等々。スタイルが多彩である。ただ、強固な社会正義やイデオロギーをもった人ではなかっただろう。「京大俳句」の顧問にもなるが、統制のすすむ過程で、次第に沈黙してゆく

筑紫:ふうん。

堀本:戦後の第一声『旦暮』巻頭に誌された有名な箴言「俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある」、時代の文化風潮や庶民感覚の先端を覚る感性はおとろえていないのではないだろうか。

 ともあれ「極端に早熟な」作家は、終戦をむかえ、「極端に晩年の成熟」(どちらも山本健吉評)という時代へはいる。

 昭和24年「靑玄」(日野草城主宰)を創刊し、桂信子、伊丹三樹彦、公子、楠本憲吉らが傘下に集う。病床の日々で詠んだのが<高熱の鶴青空に漂へり>である。今回岡村が取り上げているので参照してほしい

 草城は、日常詠と境涯俳句に没したといわれながら、こういうところに、冨澤赤黄男、高柳重信。林田紀音夫、楠本憲吉など反骨の詩性を啓発した新興俳句の始祖の風格をみせている。

 日野草城と言う作家個人の面白さは、時代や世相の変化を持ち前の感覚に取り込み内面化したところにある。

筑紫:モダニズムという価値観が評価できるかどうかについて私はやや懐疑的である。むしろ俳句史的に面白いのは、高浜虚子の低調な客観写生時代→4Sの個性的時代という直接的な移行ではないことである。間に、草城が入っていることである。4Sの先輩に草城はあたり、草城に負けまいとするライバル心が4Sの活躍の原動力となっていた。それは東大俳句会の復活以前に草城が中心となった京大俳句会の発足と活躍があることも同様である。新興俳句の代名詞である「戦火想望俳句」も火野葦平の「麦と兵隊」の読後俳句として草城が提案した表題であった。ジャーナリスティックで人騒がせな、時代に先駆ける精神こそ草城の前半生の基調であり、モダニズムはたまたまそうした基調の下位的な属性に過ぎなかったように思われる。

 余計な話だがホトトギス裏面史では、大正13年に高浜虚子はホトトギスを水野白川男爵に5万円で譲渡、白川が経営、虚子が選句(選句料100円と言われている)、草城が編集にあたるという動きがあったという。不幸にしてこの動きは中途で断絶したが、これが成功していたら、あるいは全く違った昭和俳句史が出現していたかもしれない(当然、草城が編集するホトトギスは新興俳句雑誌化していたはずである)。このことからも、堂々と虚子と渡り合える立場に草城がいたことになるが、それは草城のジャーナリズムに対する感性の良さによるものであったろうと思う。モダニズムよりはるかのそのほうが重要であると思うのだが。

堀本 :その逸話は面白い。磐井の推測は十分考えられる。でも、草城は状況の読みが早い、それから、やんちゃではあっても無益な争いはしない性格だったように見受ける。虚子の近くではあまり過激にはしなかっただろうとも思うが。

北村:「日野草城の世界」に収録された宇多喜代子の文によると、昭和11年のホトトギス除籍から終戦までの時期は、作品は通常無視される。が、宇多はこの時期が彼の思想にとってまた俳句の歴史上重要であるという。彼のサラリーマンとしての生活が新しい題材と無季の俳句を推進したのである。そして虚子・ホトトギスの唱える花鳥諷詠との訣れに至ったのである。つまり草城を三期に分ける。いま彼の作品を見ても大きな驚きはないが、彼は第二期で虚子を振り切り未踏の域に歩み出し、それが俳句の転機をもたらした。その後の世界に我々がいるからもう驚かないのである。

 ところで私がテレビで見かけた「俳句甲子園」の議論は、おおむね草城第一期の延長上にあるような気がする。作品の技巧、新しい機知、伝統の知識など脱帽であるが、既成の俳句批評の言葉で絡め取られる。議論は俳句の世界を広め、深めるものには見えない。

 しかし、バブル崩壊、パラサイト、ロースト・ジェネレーション等の問題に加えて、この大震災・放射能禍。文芸の世界に大きな影響を及ぼして行くだろう。かつて都市のサラリーマン生活が草城の句を変えたように。

堀本 俳句甲子園の彼らに、われわれの年代の屈折を求めてもしかたがない。でも、彼らは優秀ですよ。将来多方向に化けるかもしれないし。また、おっしゃるように、都会に広範に潜在しているはずの若年のニート達が、何か独得な思想や表現をきりひらくかもしれない。

筑紫:今回の楠本健吉の鑑賞でも述べたことだが、草城は若い時代を「ミヤコホテル」で代表される軽薄な俳句で注目を浴びた。軽薄とは上に述べた下位的な属性のひとつであるモダニズムよりはるかに俳句の本質により近いものではないかと思う。新興俳句時代を経て、戦後は闘病を余儀なくされたこともあり、真面目な作品に移行している(正岡子規の姿を彷彿とさせる英雄的な姿だ)。しかし、弟子の憲吉は晩年の作品こそが軽薄だ。個人の生理からすると、進歩、深化してゆく草城の変化の方が健全なのだろう。

 ただ個人のなかに歴史が埋め込まれるとすると、晩年に軽薄な俳句を詠んだ憲吉の方が戦後俳句史そのものを顕現しているように思われる。戦後俳句、特に昭和50年代以降の俳句は憲吉の設けたモデルに従って進んでいるのではないか。俳句の作者が有名人となり、テレビに出演し、カルチャー教室を持ち、料理番組でうんちくを語り、子供俳句の指導をするのはすべて憲吉が始めたモデルである。

 しかしその憲吉の晩年のモデルになっているのは、若かりし日の草城であるように思われる。師系というものは争えない。北村が最後に掲げた現代俳句の現象は草城、憲吉の流れの中で見ると納得できる。「俳句甲子園」が当時開かれていたら、草城、憲吉も喜んで審査に参加していたのではないか。師弟にわたるジャーナリズム感覚の鋭さを感じた。

堀本:私の考えでは、草城を俳句のモダニズムの旗手(むしろ始祖のひとり)、とおさえることは原則点として重要だと思うのだ。そこから、余人が追随できないメディア人たる個性も育ってきたのではないだろうか。草城の「自由主義」、というのは、根本は、大正リベラリズムや昭和のモダニズムの機運をうけている、俳句ではこれは客観写生に対する「方法の自由」、ということになる。ただ、筑紫がもちだしてきたジャーナリズム感覚というのは、なるほど、いわれてみればわかるので、新たな切り口だろう。

 筑紫は、日野草城や楠本憲吉に対しては、俳句一句の深みをあじわうそのこととよりも、関係をつないで行く行動性に目を向けている。そこに不満を感じる。

北村:今回憲吉の句を少し見た。それで思ったことは、日本の女をあたかも季語のように詠んでいて、鮮やかである。その中に磐井の採りあげたような句が混じっている。それがまたしゃれた感じをあたえる。

 私が、草城の初期から憲吉、甲子園俳句の流麗なることに物足りなさを感じるのは、彼らの論には否定性が薄いと言うことである。否定性が軽快であるというべきかもしれぬが。磐井の師系の図で言えばやはり、薔薇(赤黄男)─俳句評論(高柳重信)─渦(兜子)の流れの方に目がいってしまう。これは私が軽みよりも濃厚を好むからだ。しかし、すべて草城が土壌を作ったと言うことは納得できた。中期以降それをあまり作品の形で残せなかったとしても。

筑紫:「戦後俳句を読む」のシナリオからゆくと、16人の作家の中に正式には草城は入っていない。岡村が、青玄系作家ということでまっさきに取り上げたことによってこの鼎談でも話題にすることになった。しかし、広範な系譜から行っても、今後様々な作家を論じる度に立ち返ってもいい作家だと思う。

 今回私が宇多喜代子などに代表される一般的な考え方にちゃちゃを入れているのは、新興俳句というものをあまりにストイックに見すぎるのは―――北村の「私が軽みよりも濃厚を好むからだ」というのはよく理解できるが―――、客観的俳句史からすると危険だという気持ちがあるからだ。新興という言葉を使った用語には、龍胆寺雄、吉行エイスケなどが組織した反プロレタリア文学的な「新興芸術派」もあれば(おそらく日野草城は最もそれに近い)、国策に沿った「新興満洲」(山口誓子の第2句集『黄旗』では、<黄旗は新興満洲帝国の国旗である>と書いている)、あるいはもっと危険な「新興ナチス」といった言葉が当時の新聞では踊っていた。新興俳句作家を否定するのではないが、「新興」には注意深くありたいと言う気がする。

 ジャーナリズム的性格を取り上げたのは今回おかど違いであるような気もするが、新興俳句が改造社の「俳句研究」の支援を受けて伸長したことを忘れてはならないと思うからだ。特に改造社という化け物的性格が、新興俳句にどのような影響を与えたかをいつか考えてみたいと思っている。月刊誌「改造」で左翼的知識人の圧倒的支持を受け、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』を出し、一方でファシズムに迎合して対極の『ムッソリーニ全集』を出し、植民地経営を支援する雑誌「大陸」を刊行し、軍部と結託して爆発的人気を呼んだ『麦と兵隊』を出版し、昭和の万葉集と言われた『新万葉集』を刊行し、反戦主義者バートランド・ラッセルやアインシュタインを招聘し、治安維持法違反となる横浜事件で解散させられるという不可解な経営方針を持つこの会社は、岩波書店と全然別の意味で新興俳句の性格を見定めるのに重要だと思うからである。堀本の私に対する批判はそれなりに甘受するが、ジャーナリズムの枠組みは、師系や結社以上に俳句作家の思想を拘束しているのではないか。40年近く俳句をやってきて、大家たちの戦後俳壇におけるパフォーマンスを見てきた私なりの結論である。

 今回話題が拡散してしまったが、それはそれではいかにも草城的であったかもしれないという気がする。それくらい一筋縄ではいかない作家として、また改めて草城を論じてみたいと思う。

(その2 了)

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】6  豊里友行「地球のリレー」鑑賞  三木基史

  「地球のリレー」とは、地球上の生きものすべてや死者でさえ繋がり合ってリレーとなっている、という意味らしい。確かにこの句集では、地球上すべての生命が織りなす過去・現在・未来の事象(物語)を、沖縄からの視点と壮大な空想力で描いている。


陽炎の十八歳の手榴弾


 戦争の中で青春の儚さを真正面から表現した作品。陽炎が揺らめく不確かな存在を示し、若者の一瞬の輝きと、それが幻であるかのような状況を強く感じさせる。十八歳という年齢は大人への過渡期で、多くの可能性と夢を抱いて生きる時期である。その若く美しい青春が「手榴弾」という生々しい戦争の象徴によって破壊され得る現実を思わせる。


戦中の茶碗に笑顔の兵隊さん


 遺品から戦時中の人々の日常を垣間見た一句か。本来、恐怖や疲労が先立つ戦場において兵士の笑顔は極めて貴重である。どんなに厳しい状況でも、国民の期待と希望が「笑顔の兵隊」として茶碗に描かれていることに着目した作者は、明暗の対比で深く複雑な当時の背景を捉えている。


あああああああああああ蟻は天辺


 冒頭の「あ」の連続が持つインパクトとリズムと響きは読者に強い印象を残す。「あ」は、驚き、感嘆、叫びなど、人間の様々な感情を表しながら、蟻の列の形状を「あ」で表現している。小さな存在が懸命に登り続けて天辺に達した姿を前向きに捉えれば、人間の努力、挑戦、克服の象徴として感じることが出来る。同時に人間の努力、挑戦、克服がいかに小さなものであるかという儚さで捉える読者もいるだろう。言葉の持つ音韻的魅力と意味の深さを巧みに融合させた一句。


琉球弧を描く春の猫の尻尾


 琉球弧は日本の南西諸島の連なりを意味するだけでなく、その豊かな自然環境を読者に想像させる。「春の猫の尻尾」の動きが、まるで琉球弧を描いているかのように感じたのは、作者にとって琉球弧を形成する地域が、読者にとって猫ほどの身近な距離感であることを暗に示している。春の猫の尻尾の柔らかい動きのように、この地域が穏やかであってほしいという作者の願いが感じ取れる。


宇宙史のX光年の蛙とぶ


 宇宙史という広大な時空を縦軸、X光年という途方もない距離(時間)を横軸が背景。蛙という小さく身近で現実的な生き物が「とぶ」という瞬間的な動作を切り取ることで、人間のひとつひとつの行為の小ささや存在の儚さを象徴的に表している。


(現代俳句協会 会員)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➀

 ➀ 澤田和弥さんのこと(同人誌「のいず」最終号より転載)   

                                  渡部有紀子

 今回追悼文を書かせていただく人の中で、私は澤田和弥さんとは一番短いお付き合いだと思う。二〇一三年七月に刊行された第一句集『革命前夜』について、俳誌「天為」で一句鑑賞文を書かせていただいたことが和弥さんとの初めての接点だった。それから、翌年の三月には神奈川県の天為湘南句会に選者をお越しいただいたり、メール通信の句会にもお誘いいただいたりと、常に結社の先輩として非常に親切なご指導をいただいた。湘南句会の直後に句会の若手育成のためによい方法はないかと相談した時は、結社主宰の有馬朗人の全句集を徹底的に読む読書会をと、発案してくださった。後輩や周囲の人のためには、惜しみなく知恵と労力を提供し、常に一生懸命に生きている人。私はそういう印象を受けた。

 その印象は、短期間しか和弥さんに接することの出来なかった私の誤解かもしれない。だが、かつて和弥さんが書かれた句集評論の中には、あえて誤読を行うと断った上で、その理由を「俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。」(“金子敦第四句集『乗船券』を読む” 「週刊俳句」二〇一四年二月十六日号)と、述べている箇所がある。私のように一年半という限られた期間だけ、直接和弥さんの発言を聞き、手紙やメールをやりとりした者にとっては、やはり和弥さんが残して下さった印象で五十パーセント、後の五十パーセントは私の乏しい想像力で補われた記憶に過ぎず、大部分は誤解であることを引き受けるしか無いのだろう。


俳人死す新茶の針ほど細き文字

和弥逝く色紙に酒とさくらんぼ


 和弥さんは筆まめな人だった。恰幅のよい体型と違って、手紙には先の細いペンで、所謂「とめ・はね」を忠実に守って書いたような生真面目で繊細な文字がびっしりと連なっていた。いつも決まって掛川茶が同封されていたが、同人誌『のいず』創刊の際は、創刊祝の返礼にと色紙を二枚くださった。退廃的な寺山修司の世界に憧れていた和弥さんには拒絶されそうではあるが、どうしてもその色紙には、瑞々しい光を放つ、甘酸っぱいさくらんぼを供えたいと思ってしまう。


瓶麦酒王冠きれいなまま開ける

王冠の歪まぬままの壜麦酒


 和弥さんはお酒好き、とりわけ麦酒が大好きだったようだ。「天為」の平成二十四年作品コンクールでは、麦酒を詠んだ先人達の俳句をとりあげた「麦酒讃歌」という随想で入賞している。先に述べた有馬朗人句集の研究会でも、皆で食事をした際は、昼間のファミリーレストランで、メニューを手に取るなり真っ先に麦酒を探して注文し、下戸の私を内心呆れさせたものである。とは言え、私が知る限りでは、酒に酔って乱れるようなことはない、終始朗らかな呑み方だった。それは昼間だった故か、それともやはり私の誤解なのか。もう少し機会があったら、よく冷えた瓶麦酒を王冠が歪むくらい勢いよく開けて、和弥さんのグラスに注ぎながら、俳句の話が聴きたかったと思う。私はウーロン茶専門なので、万が一、和弥さんが酔い潰れてしまっても介抱できただろう。


和弥死すこんなに五月の空真青

風五月手を振止まぬ弥次郎兵衛


 短期間しかお付き合いがなかった為、和弥さんについて私が誤解していることも多々あり、しかも同じ結社の先輩でもあるので、あまり馴れ馴れしいことは書かないでおこうと思っていた。だが、和弥さんが私に与えてくださったアドバイスや親切は、たった一年間だけでも私にとっては和弥さんという人物が、大切で尊敬すべき句友であると思わせるのに十分だった。

 最後に結社の先輩には失礼ながら、年齢は一つしか違わないという事実に甘えて、本音を吐露することをお許しいただきたい。和弥さん、あなた、死んでる場合じゃないですよ。もっと俳句を見せて欲しい、もっと俳句評論を書いて欲しい。あなたなら出来ることが沢山あります。あなたの句や評論がどれほど他の人たちを驚かせ、時には呆れさせ、同時に潔いまでにタブーをぎりぎりのところまで詠むあなたの作句態度や才能に圧倒されていたか。その青臭いほどの一途さと生真面目さに懐かしさと憧れを抱いていたか。和弥さん、あなた、これからでしょう?死んで今、何をしているのですか?

(2020年5月15日金曜日)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➁

 ➁『革命前夜』 一句鑑賞( 渡部有紀子)


咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 和弥

 和弥さんの句集を入手した日の夜、旧友が自宅を訪ねてきた。急ごしらえ出した泡雪寒を食べる頃になって、テーブルの上にあった句集を手に取った彼女の目が掲句の頁で止まった。「不思議な魅力のある句ね」と。彼女には俳句の心得がある訳ではないのだが、掲句の平明でストレートな表現が心を捉えたようだ。「何となく共感できるの」「咲くか咲くまいか迷っていたけど、咲いてみたら案外良いこともあるかもしれないって、思いきって咲いてみる決心というのな」と、コメントしていた。私はそれを聞いてなお、この句に不思議さを感じた。咲かぬという手だって?もし仮に花にも人間と同じような心があったとして、そんなの咲いてみて初めて知る事じゃないか!咲いてこそ、他の木や花がまだ咲いていないこと、あるいは花を愛でる人間達が咲きかけて結局散ってしまった花を嘆くこと、それらを認識した時に初めて、「咲かない」という選択も自分にはあったことを知るのではないのか。植物の花弁は温度と日照時間数が一定に達すれば開いてしまう。そこには「やめる」という意思が入り込む余地などない。しかるべき時期が来たから咲くのだ。初めて何かを為すというのもそれに近いと思う。今回は和弥さんの第一句集。「これが私です」と後書きにあるように、初めて和弥さんが自分を世に問うた第一歩である。問いかけずにいられなかったのだろう、今が和弥さんにとっての最適な時期だったのだから。十八歳から二十九歳までの玉句を収めた第一句集に続き、次なる三十歳代の第二句集を是非とも期待する。件の友人も「止めていいけど思いきってみたら良いことあるかもなんて決心つくようになったのは、三十路越えちゃってからよ」と、明るく笑っていたのだから。

(渡部有紀子)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➂

 ➂共同研究の進め方 澤田和弥のこと【筑紫磐井&渡部有紀子Q&A】


Q(筑紫)この研究会(有馬朗人研究会)の発足にあたり亡き澤田和弥氏が関与していたことは意外でした。彼の句集『革命前夜』を読み、何回かの手紙のやりとりをさせて頂きましたが、俳句に熱意を持つ一面で非常にナーバスなところもある人のように感じておりました。結果的に直接お会いする機会はありませんでした。有馬主宰の序文に書かれた「『革命前夜』をひっさげて・・・広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈る」も果たされない期待となってしまったのですが、『革命前夜』後の澤田氏の遺志は、この研究の成果で『有馬朗人を読み解く』である程度達せられたのかと思います。

 当時の経緯をもう少し詳しくお話しいただけますか。この研究を読みつつ彼を偲ぶよすがとしたいと思います。


A(渡部)結社の大事な先輩であり、個人的な恩人である和弥氏に注目していただきありがとうございます。本研究会発足の直接のきっかけとなったのは、先に述べた通り和弥氏を招いての藤沢での句会でした。

 句会の幹事をしていた天為の同人、内藤繁氏によると彼を選者に招こうと決めた理由は二つあったとのことです。


(1)当時、「天為」誌上で連載されていた「新刊見聞録」での和弥氏の原稿が、それまでの結社若手のとは全く違っていたこと。句集・俳論に限らず短歌や美術についての書籍を積極的に取り上げ、いわゆる読ませる文体で紹介していたこと。

(2)第一句集『革命前夜』を上梓した際に厳しい内容の礼状を出しところ、即返事が届き論争を仕掛けてきたこと。


 上記の点から彼の飽くなき俳句への探求心を感じ、神奈川県の結社会員、特に若手同人たちに刺激になればと彼を招いたそうです。よって、後に有馬朗人研究会発足のきっかけとなったアドバイスも、「神奈川県の若手を育てる良い方法は何か」という質問に対しての回答でした。

 句会当日は彼の地元である静岡県浜松市の他結社から足を運んだ人もあり、和弥氏は時間ぎりぎりまで全投句にコメントをする熱の入れようでした。当時、安定した公務員の職を辞したばかりと聞いていたので、俳句に何かをつかもうと必死にもがいているようにも感じました。

 研究会発足後も数回は浜松から出席してくださいましたが、やはり「余裕がない」との理由で途中からお見えにはなりませんでした。和弥氏が研究会へ期待されたことが達成できたのか、今となっては確かめようもありませんが「一人の作家を徹底的に読み解くのです」という彼の言葉通りのことは出来たと思っています。後は、参加者各自がこの成果から一歩進んで特定のテーマを見つけ深めていくことが重要でしょう。