2025年2月14日金曜日

第241号

     次回更新 2/28


妹尾健氏の「コスモス通信」についてーー石門心学とは 筑紫磐井  》読む

澤田和弥句文集特集

はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む
第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ①》読む ②》読む ③》読む ④》読む
第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ①》読む ②》読む ③》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎
第十(2/14)小沢麻結・林雅樹

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【新連載】現代評論研究:第2回・戦後俳句史を読む【総合座談会】 》読む

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり23 関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】  6 豊里友行「地球のリレー」鑑賞  三木基史 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(54) ふけとしこ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

2月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

妹尾健氏の「コスモス通信」についてーー石門心学とは  筑紫磐井

  妹尾健氏の「コスモス通信」は76号にわたり刊行が続いている。「豈」第66号では「私の雑誌」の特集を行い、同人たちが刊行している雑誌(13冊)を紹介しているが、妹尾健氏の「コスモス通信」もぜひ紹介したいと思ったのだが叶わなかったのは残念だった。それくらい読みでのある、読んで損のない雑誌であるのだ。

 特にそんな中で、最近号(75・76号)で『鳩翁道話』を取り上げているのが非常に気になった。『鳩翁道話』は江戸時代に大いに流行した教学の「心学」(「石門心学」ともいう)の中でもっともよく知られた著作である。心学と言ったらまず、『鳩翁道話』という名前がすぐに頭に浮かぶぐらいの名著であり、戦前から岩波文庫では古典としてラインアップされている。

  *

 ここで少し「心学」について触れておく。心学とは、石田梅岩(『都鄙問答』1739年の著者)を開祖として平易で実践的な道徳を説いた学派である。梅岩の弟子の手島堵庵が優れており、多くの弟子を育成して隆盛期をもたらした。この隆盛期には、布施松翁(『松翁道話』1812年の著者)、中沢道二(『道二翁道話』1794年の著者)、脇坂義堂(『やしなひ草』1784年の著者)、手島和庵、上河淇水らがいた。その後、門内で対立が生まれ低迷期に入る。心学者として最も有名な柴田鳩翁(『鳩翁道話』1835年の著者)や奥田頼杖(『心学道の話』1843年の著者)も実は最盛期ではなく、低迷期の人であった。

 ただ心学では、特に講舎(明倫舎、参前舎)を設け、町民、農民から武士たちまでを集め、普及を図った。従って話術による洗練は低迷期に入ってもその名声を損なうことなく、心学の頂点をなす著述として『鳩翁道話』は名声を保っているのである。

 一般に心学は幕藩体制に都合の良い道徳を教えていると思われているが、初期の心学の書物を読むと、さながら明治以降の新聞に載せられている人生相談の質問と回答に近いものがある。「子供に学問をさせて大丈夫か」「子供を医者にしたいが、どう心掛けさせるべきか」「金持ちなのに金を使わず生きる楽しみをもたない親方がいる」「墓参りに行く前に神に参ってよいのか」など、道徳宗教と少し違う生活の知恵を求めている点だ。或いは現代の我々の日常で出て来る夫婦親子の会話に近いものがある。

  *

 今時心学を研究しようとする人がいるのか、まして俳人で心学に関心を持つ人がいるのか、大いに疑問であった。じじつ今まで妹尾氏は「コスモス通信」では古い俳諧の古典や新興俳句時期の著書、あるいは最新の句集の紹介など、俳句雑誌として納得できる有益な特集が組まれてきたのだが、ここしばらく上に述べたように、一見俳句とは何の関係もないと思われる「心学」の話題が登場したのは驚きであった。妹尾氏の「コスモス通信」75・76号では「『心学童話集』を読む」と題して、『鳩翁道話』を引いて教訓談を語るのだが、妹尾氏はこの中で、


あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり(敦忠)

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(忠見)


を説くのだ。不思議なのは、通常の道話にあっては『松翁道話』も『道二翁道話』も、あるいは『鳩翁道話』ほかの節にあっても「道歌」(例えば、脇坂義堂の「踏まれても根強く忍べ道芝のやがて花咲く春に逢ふベし」等)が頻繁に使われるのに対し、妹尾氏は、まっとうな百人一首の歌を取り上げ、正統的な和歌の解釈と心学の解釈を対比させている点である。実は74号の「『一休諸国物語』と道歌(一)」、75号の「『長者教』の教訓歌」でも道歌の系譜をたどっており、この道筋の中で心学が出て来るのである。つまり正統な和歌が道歌として解釈される過程を緻密に追っている。もし普通の和歌を芸術的和歌とすれば、道歌は実用的和歌となることになる。これらは作者や読者のコンテクストの中で解釈されるものであり、そのどちらかが正しくどちらかが誤っているわけではない。これは和歌や俳句の解釈にもかかわってくる話になるわけだ。

 この連載を読んで知ったのだが、妹尾氏は学生時代の卒論に仮名草子の『薄雪物語』を研究したという正統的な文学への関心であるようだ。しかしそれでも、浮世草子と比べてさえ劣ったと思われていた仮名草子を選択した氏の信念に〈文学を支えるものは実理性や教訓性といったものだ〉〈これがないと文学は単なる空想性や美的な遊戯性に陥ってしまう〉という確信があったようで、ここで氏が再び心学に語り始める理由となるのだ。

 一方私が妹尾氏の連載に関心を持つのは、実は私も学生時代に、『松翁道話』や『鳩翁道話』を読んで関心を持ったからである。その理由は、前述した妹尾氏の理由と少し違って、口語による講話の誕生に興味を持ったからである。真宗の講話にその先蹤があったと言われているが、心学の語り口はむしろ『盤珪禅師語録』(1690年口演)が源流ではないかと思えたからである。これらをならベてみると、そこには宗教や道徳と違って別の文学の本質があると思われたからである。通俗の本質は決して低劣・卑俗ではないのである。

 こんなことを言うと妹尾氏から非難されることになるかもしれないが、妹尾氏も私も純粋文学、芸術至上主義にうさん臭さを感じているかもしれないと思うのだ。それは妹尾氏の連載の続きを読んで確認してみたいと思う。

【連載】現代評論研究:第2回・私の戦後感銘句3句(2)[執筆者]藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、山田真砂年、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

 ●ー1近木圭之介の句/藤田踏青

虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル


 「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。

 「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。

 掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。

 圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。


Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構

  感受性は非存在の座から訴える

Ⅱ よどむ思念はいつか変貌

  偽りの衣装

  演技のなかで透視される実体


 ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。


ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ   平成5年作

イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク      平成9年作


 荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。


●―2稲垣きくの句/土肥あき子

バレンタインデーか中年は傷だらけ


 1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。

 句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。

 また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。

 掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。

 しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。

 「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。


●-4齋藤玄の句/飯田冬眞

たましひの繭となるまで吹雪きけり


 昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。


「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」


 しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。

 見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。

 掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。

 句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。

 冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。

*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●ー5堀葦男の句/堺谷真人

沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し


 出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。

 葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。

 しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。

 冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。

 ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。


 だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。

(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)


 「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。

 神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。

 思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。


●―6富澤赤黄男の句/山田真砂年

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男


 句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。

 この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。

 さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。

 密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。

 落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。

 赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。


密林の詩書けばわれ虎となる


の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。

 さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。


瞳に古典紺々とふる牡丹雪

銃聲がポツンポツンとあるランプ

向日葵の貌らんらんと空中戦


など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。

 この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。



●―8青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城


 第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。

 句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。

 草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」を「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。

 青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。


●―9上田五千石の句/しなだしん

木枯に星の布石はぴしぴしと   五千石『田園』(昭32年作)


 第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。

この句について五千石は自註(*1)で、


冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。


と記している。

 この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。


木枯に星の布告はぴしぴしと   五千石


 違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。

 句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。

 原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。

       ◆

 この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。

 それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

郭公や過去過去過去と鳴くな私に


 最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。


万緑叢中死は小刻みにやってくる

黄落激し滅びゆくものみな美し

死んでたまるか山茶花白赤と地に


 過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。

 掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。

 「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。

       *     *

(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。


●―11赤尾兜子の句/仲寒蝉

大雷雨鬱王と会うあさの夢  『歳華集』


 はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。


ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場


などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。


毒人参ちぎれて無人寺院映し


は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。


解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし


にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。

 さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。

 こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。

 『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。



●―12三橋敏雄の句/北川美美

腿高きグレコは女白き雷


 新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。

「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。

 技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。

「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。


出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)

出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)


 『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2)

 優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。

 結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。

 余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。


*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集  『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊

*2)『休むに似たり』 池田澄子著

*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。

*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566


【連載】現代評論研究:第2回 【総合座談会】戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

●―3,7,10:戦後俳句史を読む 第2回/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

筑紫:俳句では「師系」という言葉がしばしば言及される。しかし詩の人々にはこの言葉は理解しにくいだろうむしろ、戦後俳句にあっては俳句の集団(しばしば雑誌名)として捉えた方が分かり易いと思う。ちょっとここで、今回の「戦後俳句を読む」で特に相関度が大きいそうした集団を眺めておこう。以下の通りだが、それぞれの集団を指導した作者としては草城(執筆者岡村。以下同)、赤黄男(山田)、憲吉(筑紫)、兜子(仲)に今回の連載は集中しており、これらの相互の関係を理解しておくとそれぞれの鑑賞も理解しやすいのではないかと思う。

 このうち、「旗艦」は「京大俳句」とならぶ戦前の新興俳句の代表的な雑誌である。

 今回は「戦後俳句を読む」で取り上げている16人の作家のうちから、特に注目する作家の活動から戦後というものを考えてみたいと思う。その際、上のような関係にも鑑み、また北村、堀本の二人との事前の話も総合すると、早い時期に日野草城に焦点をあてる意味があるように思う。

北村:日野草城について桂信子編著『日野草城の世界』(梅里書房)を読んだ。そこにある200句を見ると、戦前と戦後には大きな差がある。初期の句には、文化的生活をふまえた軽快さがある。そうした句は、機知に富んでいるし、いわば「そつなく」できあがっているというのが私の最初の感想である。しかし戦後の句には、そのような自在さは無くなり、ある種の難渋する様、それを何とか越えようとする様が詠まれはじめる。


晩涼や木を挽ける音挽き切りし

鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとおる

冬薔薇の咲くほかはなく咲きにけり

生きるとは死なぬことにてつゆけしや


 敗戦に加え、病と休職の境遇がより「もの」を凝視することを強いたのである。岡村が選んだ掲出句はその始まりの句であろう。寒さの中に裸で立つ「寒い赤」の山茶花、敗戦の国土を象徴する。

堀本:モノの凝視や写生を虛子に学んだのだが、もともと、草城は、蕪村の句《お手討の夫婦なりしを衣更》に俳句開眼したと言う面白いエピソードがある。「物語性」を取り込んだ新しさはそういうところにも感じ取られる。高濱虛子には〈舌端に触れて夜霧の林檎かな〉で感覚的な把握を注目された。これも草城のセンスのモダニズムがはやくからみとめられたあかしである。その延長にある「ミヤコホテル」(昭和9年、「俳句研究」)は、結婚の日常的なあり方を風俗小説ばりの連作(物語)にしている。「ミヤコホテル論争」は、ゆくりなくも時実新子の『有夫恋』をめぐるスキャンダラスな反応を想い出させる。これには秋元不死男、西東三鬼は肯定的、久保田万太郎、中村草田男は断然反対の立場だった。水原秋桜子は、「草城君のこれが連作の標本になったら困る」、というような趣旨で批判的だった。なお、詩壇では、室生犀星が賞賛、萩原朔太郎に勧めたが、朔太郎は懐疑的だった。(以上は、伊丹啓子『日野草城伝』2000・沖積舎、参昭。

 しかし草城はまた「俳句は詩の一分野である」「究極に於て間接に一般芸術に於ける鑑賞表現を云為することになる」(ホトトギス大正11,10)(松井利彦『近代俳論史』(昭和41・桜楓社))という見解も披露している。

「戦旗」創刊号の「宣明」(昭和10年)では


 吾人ハ新精神ヲ奉ジ、自由主義ニ立場ヲトル。・・・陳套ノ排除、詩靈ノ恢弘ニ在リ。俗流ノ手ヨリ俳句ヲ奪還シ、以テ純正ナル文学的発展ヲ作品ト理論トノ上二実現セシメムコトヲ期ス。定型ハ・・・死守スベキ社稷ナリ。(以下略)。(伊丹公子《日野草城ー早熟にして晩成》より抜粋)


と述べ、虛子の方向とは公然とそれてゆく。翌年昭和11年、「ホトトギス」から除名される。

 この言挙げのもとで、無季俳句、連作俳句、戦火想望俳句などを発表。俳句の詩性を追究してゆく。この時期の連作のモチーフがだんぜん面白い。《事務風景》。《愛しき消費—ありがたきボーナス》《退職期》《浄房》(トイレでの排尿のことを句にしている)。他に口語、外国語をひらがなで書く、等々。スタイルが多彩である。ただ、強固な社会正義やイデオロギーをもった人ではなかっただろう。「京大俳句」の顧問にもなるが、統制のすすむ過程で、次第に沈黙してゆく

筑紫:ふうん。

堀本:戦後の第一声『旦暮』巻頭に誌された有名な箴言「俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある」、時代の文化風潮や庶民感覚の先端を覚る感性はおとろえていないのではないだろうか。

 ともあれ「極端に早熟な」作家は、終戦をむかえ、「極端に晩年の成熟」(どちらも山本健吉評)という時代へはいる。

 昭和24年「靑玄」(日野草城主宰)を創刊し、桂信子、伊丹三樹彦、公子、楠本憲吉らが傘下に集う。病床の日々で詠んだのが<高熱の鶴青空に漂へり>である。今回岡村が取り上げているので参照してほしい

 草城は、日常詠と境涯俳句に没したといわれながら、こういうところに、冨澤赤黄男、高柳重信。林田紀音夫、楠本憲吉など反骨の詩性を啓発した新興俳句の始祖の風格をみせている。

 日野草城と言う作家個人の面白さは、時代や世相の変化を持ち前の感覚に取り込み内面化したところにある。

筑紫:モダニズムという価値観が評価できるかどうかについて私はやや懐疑的である。むしろ俳句史的に面白いのは、高浜虚子の低調な客観写生時代→4Sの個性的時代という直接的な移行ではないことである。間に、草城が入っていることである。4Sの先輩に草城はあたり、草城に負けまいとするライバル心が4Sの活躍の原動力となっていた。それは東大俳句会の復活以前に草城が中心となった京大俳句会の発足と活躍があることも同様である。新興俳句の代名詞である「戦火想望俳句」も火野葦平の「麦と兵隊」の読後俳句として草城が提案した表題であった。ジャーナリスティックで人騒がせな、時代に先駆ける精神こそ草城の前半生の基調であり、モダニズムはたまたまそうした基調の下位的な属性に過ぎなかったように思われる。

 余計な話だがホトトギス裏面史では、大正13年に高浜虚子はホトトギスを水野白川男爵に5万円で譲渡、白川が経営、虚子が選句(選句料100円と言われている)、草城が編集にあたるという動きがあったという。不幸にしてこの動きは中途で断絶したが、これが成功していたら、あるいは全く違った昭和俳句史が出現していたかもしれない(当然、草城が編集するホトトギスは新興俳句雑誌化していたはずである)。このことからも、堂々と虚子と渡り合える立場に草城がいたことになるが、それは草城のジャーナリズムに対する感性の良さによるものであったろうと思う。モダニズムよりはるかのそのほうが重要であると思うのだが。

堀本 :その逸話は面白い。磐井の推測は十分考えられる。でも、草城は状況の読みが早い、それから、やんちゃではあっても無益な争いはしない性格だったように見受ける。虚子の近くではあまり過激にはしなかっただろうとも思うが。

北村:「日野草城の世界」に収録された宇多喜代子の文によると、昭和11年のホトトギス除籍から終戦までの時期は、作品は通常無視される。が、宇多はこの時期が彼の思想にとってまた俳句の歴史上重要であるという。彼のサラリーマンとしての生活が新しい題材と無季の俳句を推進したのである。そして虚子・ホトトギスの唱える花鳥諷詠との訣れに至ったのである。つまり草城を三期に分ける。いま彼の作品を見ても大きな驚きはないが、彼は第二期で虚子を振り切り未踏の域に歩み出し、それが俳句の転機をもたらした。その後の世界に我々がいるからもう驚かないのである。

 ところで私がテレビで見かけた「俳句甲子園」の議論は、おおむね草城第一期の延長上にあるような気がする。作品の技巧、新しい機知、伝統の知識など脱帽であるが、既成の俳句批評の言葉で絡め取られる。議論は俳句の世界を広め、深めるものには見えない。

 しかし、バブル崩壊、パラサイト、ロースト・ジェネレーション等の問題に加えて、この大震災・放射能禍。文芸の世界に大きな影響を及ぼして行くだろう。かつて都市のサラリーマン生活が草城の句を変えたように。

堀本 俳句甲子園の彼らに、われわれの年代の屈折を求めてもしかたがない。でも、彼らは優秀ですよ。将来多方向に化けるかもしれないし。また、おっしゃるように、都会に広範に潜在しているはずの若年のニート達が、何か独得な思想や表現をきりひらくかもしれない。

筑紫:今回の楠本健吉の鑑賞でも述べたことだが、草城は若い時代を「ミヤコホテル」で代表される軽薄な俳句で注目を浴びた。軽薄とは上に述べた下位的な属性のひとつであるモダニズムよりはるかに俳句の本質により近いものではないかと思う。新興俳句時代を経て、戦後は闘病を余儀なくされたこともあり、真面目な作品に移行している(正岡子規の姿を彷彿とさせる英雄的な姿だ)。しかし、弟子の憲吉は晩年の作品こそが軽薄だ。個人の生理からすると、進歩、深化してゆく草城の変化の方が健全なのだろう。

 ただ個人のなかに歴史が埋め込まれるとすると、晩年に軽薄な俳句を詠んだ憲吉の方が戦後俳句史そのものを顕現しているように思われる。戦後俳句、特に昭和50年代以降の俳句は憲吉の設けたモデルに従って進んでいるのではないか。俳句の作者が有名人となり、テレビに出演し、カルチャー教室を持ち、料理番組でうんちくを語り、子供俳句の指導をするのはすべて憲吉が始めたモデルである。

 しかしその憲吉の晩年のモデルになっているのは、若かりし日の草城であるように思われる。師系というものは争えない。北村が最後に掲げた現代俳句の現象は草城、憲吉の流れの中で見ると納得できる。「俳句甲子園」が当時開かれていたら、草城、憲吉も喜んで審査に参加していたのではないか。師弟にわたるジャーナリズム感覚の鋭さを感じた。

堀本:私の考えでは、草城を俳句のモダニズムの旗手(むしろ始祖のひとり)、とおさえることは原則点として重要だと思うのだ。そこから、余人が追随できないメディア人たる個性も育ってきたのではないだろうか。草城の「自由主義」、というのは、根本は、大正リベラリズムや昭和のモダニズムの機運をうけている、俳句ではこれは客観写生に対する「方法の自由」、ということになる。ただ、筑紫がもちだしてきたジャーナリズム感覚というのは、なるほど、いわれてみればわかるので、新たな切り口だろう。

 筑紫は、日野草城や楠本憲吉に対しては、俳句一句の深みをあじわうそのこととよりも、関係をつないで行く行動性に目を向けている。そこに不満を感じる。

北村:今回憲吉の句を少し見た。それで思ったことは、日本の女をあたかも季語のように詠んでいて、鮮やかである。その中に磐井の採りあげたような句が混じっている。それがまたしゃれた感じをあたえる。

 私が、草城の初期から憲吉、甲子園俳句の流麗なることに物足りなさを感じるのは、彼らの論には否定性が薄いと言うことである。否定性が軽快であるというべきかもしれぬが。磐井の師系の図で言えばやはり、薔薇(赤黄男)─俳句評論(高柳重信)─渦(兜子)の流れの方に目がいってしまう。これは私が軽みよりも濃厚を好むからだ。しかし、すべて草城が土壌を作ったと言うことは納得できた。中期以降それをあまり作品の形で残せなかったとしても。

筑紫:「戦後俳句を読む」のシナリオからゆくと、16人の作家の中に正式には草城は入っていない。岡村が、青玄系作家ということでまっさきに取り上げたことによってこの鼎談でも話題にすることになった。しかし、広範な系譜から行っても、今後様々な作家を論じる度に立ち返ってもいい作家だと思う。

 今回私が宇多喜代子などに代表される一般的な考え方にちゃちゃを入れているのは、新興俳句というものをあまりにストイックに見すぎるのは―――北村の「私が軽みよりも濃厚を好むからだ」というのはよく理解できるが―――、客観的俳句史からすると危険だという気持ちがあるからだ。新興という言葉を使った用語には、龍胆寺雄、吉行エイスケなどが組織した反プロレタリア文学的な「新興芸術派」もあれば(おそらく日野草城は最もそれに近い)、国策に沿った「新興満洲」(山口誓子の第2句集『黄旗』では、<黄旗は新興満洲帝国の国旗である>と書いている)、あるいはもっと危険な「新興ナチス」といった言葉が当時の新聞では踊っていた。新興俳句作家を否定するのではないが、「新興」には注意深くありたいと言う気がする。

 ジャーナリズム的性格を取り上げたのは今回おかど違いであるような気もするが、新興俳句が改造社の「俳句研究」の支援を受けて伸長したことを忘れてはならないと思うからだ。特に改造社という化け物的性格が、新興俳句にどのような影響を与えたかをいつか考えてみたいと思っている。月刊誌「改造」で左翼的知識人の圧倒的支持を受け、『資本論』『マルクス・エンゲルス全集』を出し、一方でファシズムに迎合して対極の『ムッソリーニ全集』を出し、植民地経営を支援する雑誌「大陸」を刊行し、軍部と結託して爆発的人気を呼んだ『麦と兵隊』を出版し、昭和の万葉集と言われた『新万葉集』を刊行し、反戦主義者バートランド・ラッセルやアインシュタインを招聘し、治安維持法違反となる横浜事件で解散させられるという不可解な経営方針を持つこの会社は、岩波書店と全然別の意味で新興俳句の性格を見定めるのに重要だと思うからである。堀本の私に対する批判はそれなりに甘受するが、ジャーナリズムの枠組みは、師系や結社以上に俳句作家の思想を拘束しているのではないか。40年近く俳句をやってきて、大家たちの戦後俳壇におけるパフォーマンスを見てきた私なりの結論である。

 今回話題が拡散してしまったが、それはそれではいかにも草城的であったかもしれないという気がする。それくらい一筋縄ではいかない作家として、また改めて草城を論じてみたいと思う。

(その2 了)

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】6  豊里友行「地球のリレー」鑑賞  三木基史

  「地球のリレー」とは、地球上の生きものすべてや死者でさえ繋がり合ってリレーとなっている、という意味らしい。確かにこの句集では、地球上すべての生命が織りなす過去・現在・未来の事象(物語)を、沖縄からの視点と壮大な空想力で描いている。


陽炎の十八歳の手榴弾


 戦争の中で青春の儚さを真正面から表現した作品。陽炎が揺らめく不確かな存在を示し、若者の一瞬の輝きと、それが幻であるかのような状況を強く感じさせる。十八歳という年齢は大人への過渡期で、多くの可能性と夢を抱いて生きる時期である。その若く美しい青春が「手榴弾」という生々しい戦争の象徴によって破壊され得る現実を思わせる。


戦中の茶碗に笑顔の兵隊さん


 遺品から戦時中の人々の日常を垣間見た一句か。本来、恐怖や疲労が先立つ戦場において兵士の笑顔は極めて貴重である。どんなに厳しい状況でも、国民の期待と希望が「笑顔の兵隊」として茶碗に描かれていることに着目した作者は、明暗の対比で深く複雑な当時の背景を捉えている。


あああああああああああ蟻は天辺


 冒頭の「あ」の連続が持つインパクトとリズムと響きは読者に強い印象を残す。「あ」は、驚き、感嘆、叫びなど、人間の様々な感情を表しながら、蟻の列の形状を「あ」で表現している。小さな存在が懸命に登り続けて天辺に達した姿を前向きに捉えれば、人間の努力、挑戦、克服の象徴として感じることが出来る。同時に人間の努力、挑戦、克服がいかに小さなものであるかという儚さで捉える読者もいるだろう。言葉の持つ音韻的魅力と意味の深さを巧みに融合させた一句。


琉球弧を描く春の猫の尻尾


 琉球弧は日本の南西諸島の連なりを意味するだけでなく、その豊かな自然環境を読者に想像させる。「春の猫の尻尾」の動きが、まるで琉球弧を描いているかのように感じたのは、作者にとって琉球弧を形成する地域が、読者にとって猫ほどの身近な距離感であることを暗に示している。春の猫の尻尾の柔らかい動きのように、この地域が穏やかであってほしいという作者の願いが感じ取れる。


宇宙史のX光年の蛙とぶ


 宇宙史という広大な時空を縦軸、X光年という途方もない距離(時間)を横軸が背景。蛙という小さく身近で現実的な生き物が「とぶ」という瞬間的な動作を切り取ることで、人間のひとつひとつの行為の小ささや存在の儚さを象徴的に表している。


(現代俳句協会 会員)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➀

 ➀ 澤田和弥さんのこと(同人誌「のいず」最終号より転載)   

                                  渡部有紀子

 今回追悼文を書かせていただく人の中で、私は澤田和弥さんとは一番短いお付き合いだと思う。二〇一三年七月に刊行された第一句集『革命前夜』について、俳誌「天為」で一句鑑賞文を書かせていただいたことが和弥さんとの初めての接点だった。それから、翌年の三月には神奈川県の天為湘南句会に選者をお越しいただいたり、メール通信の句会にもお誘いいただいたりと、常に結社の先輩として非常に親切なご指導をいただいた。湘南句会の直後に句会の若手育成のためによい方法はないかと相談した時は、結社主宰の有馬朗人の全句集を徹底的に読む読書会をと、発案してくださった。後輩や周囲の人のためには、惜しみなく知恵と労力を提供し、常に一生懸命に生きている人。私はそういう印象を受けた。

 その印象は、短期間しか和弥さんに接することの出来なかった私の誤解かもしれない。だが、かつて和弥さんが書かれた句集評論の中には、あえて誤読を行うと断った上で、その理由を「俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。」(“金子敦第四句集『乗船券』を読む” 「週刊俳句」二〇一四年二月十六日号)と、述べている箇所がある。私のように一年半という限られた期間だけ、直接和弥さんの発言を聞き、手紙やメールをやりとりした者にとっては、やはり和弥さんが残して下さった印象で五十パーセント、後の五十パーセントは私の乏しい想像力で補われた記憶に過ぎず、大部分は誤解であることを引き受けるしか無いのだろう。


俳人死す新茶の針ほど細き文字

和弥逝く色紙に酒とさくらんぼ


 和弥さんは筆まめな人だった。恰幅のよい体型と違って、手紙には先の細いペンで、所謂「とめ・はね」を忠実に守って書いたような生真面目で繊細な文字がびっしりと連なっていた。いつも決まって掛川茶が同封されていたが、同人誌『のいず』創刊の際は、創刊祝の返礼にと色紙を二枚くださった。退廃的な寺山修司の世界に憧れていた和弥さんには拒絶されそうではあるが、どうしてもその色紙には、瑞々しい光を放つ、甘酸っぱいさくらんぼを供えたいと思ってしまう。


瓶麦酒王冠きれいなまま開ける

王冠の歪まぬままの壜麦酒


 和弥さんはお酒好き、とりわけ麦酒が大好きだったようだ。「天為」の平成二十四年作品コンクールでは、麦酒を詠んだ先人達の俳句をとりあげた「麦酒讃歌」という随想で入賞している。先に述べた有馬朗人句集の研究会でも、皆で食事をした際は、昼間のファミリーレストランで、メニューを手に取るなり真っ先に麦酒を探して注文し、下戸の私を内心呆れさせたものである。とは言え、私が知る限りでは、酒に酔って乱れるようなことはない、終始朗らかな呑み方だった。それは昼間だった故か、それともやはり私の誤解なのか。もう少し機会があったら、よく冷えた瓶麦酒を王冠が歪むくらい勢いよく開けて、和弥さんのグラスに注ぎながら、俳句の話が聴きたかったと思う。私はウーロン茶専門なので、万が一、和弥さんが酔い潰れてしまっても介抱できただろう。


和弥死すこんなに五月の空真青

風五月手を振止まぬ弥次郎兵衛


 短期間しかお付き合いがなかった為、和弥さんについて私が誤解していることも多々あり、しかも同じ結社の先輩でもあるので、あまり馴れ馴れしいことは書かないでおこうと思っていた。だが、和弥さんが私に与えてくださったアドバイスや親切は、たった一年間だけでも私にとっては和弥さんという人物が、大切で尊敬すべき句友であると思わせるのに十分だった。

 最後に結社の先輩には失礼ながら、年齢は一つしか違わないという事実に甘えて、本音を吐露することをお許しいただきたい。和弥さん、あなた、死んでる場合じゃないですよ。もっと俳句を見せて欲しい、もっと俳句評論を書いて欲しい。あなたなら出来ることが沢山あります。あなたの句や評論がどれほど他の人たちを驚かせ、時には呆れさせ、同時に潔いまでにタブーをぎりぎりのところまで詠むあなたの作句態度や才能に圧倒されていたか。その青臭いほどの一途さと生真面目さに懐かしさと憧れを抱いていたか。和弥さん、あなた、これからでしょう?死んで今、何をしているのですか?

(2020年5月15日金曜日)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➁

 ➁『革命前夜』 一句鑑賞( 渡部有紀子)


咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 和弥

 和弥さんの句集を入手した日の夜、旧友が自宅を訪ねてきた。急ごしらえ出した泡雪寒を食べる頃になって、テーブルの上にあった句集を手に取った彼女の目が掲句の頁で止まった。「不思議な魅力のある句ね」と。彼女には俳句の心得がある訳ではないのだが、掲句の平明でストレートな表現が心を捉えたようだ。「何となく共感できるの」「咲くか咲くまいか迷っていたけど、咲いてみたら案外良いこともあるかもしれないって、思いきって咲いてみる決心というのな」と、コメントしていた。私はそれを聞いてなお、この句に不思議さを感じた。咲かぬという手だって?もし仮に花にも人間と同じような心があったとして、そんなの咲いてみて初めて知る事じゃないか!咲いてこそ、他の木や花がまだ咲いていないこと、あるいは花を愛でる人間達が咲きかけて結局散ってしまった花を嘆くこと、それらを認識した時に初めて、「咲かない」という選択も自分にはあったことを知るのではないのか。植物の花弁は温度と日照時間数が一定に達すれば開いてしまう。そこには「やめる」という意思が入り込む余地などない。しかるべき時期が来たから咲くのだ。初めて何かを為すというのもそれに近いと思う。今回は和弥さんの第一句集。「これが私です」と後書きにあるように、初めて和弥さんが自分を世に問うた第一歩である。問いかけずにいられなかったのだろう、今が和弥さんにとっての最適な時期だったのだから。十八歳から二十九歳までの玉句を収めた第一句集に続き、次なる三十歳代の第二句集を是非とも期待する。件の友人も「止めていいけど思いきってみたら良いことあるかもなんて決心つくようになったのは、三十路越えちゃってからよ」と、明るく笑っていたのだから。

(渡部有紀子)

第3編 澤田和弥論 渡部有紀子 ➂

 ➂共同研究の進め方 澤田和弥のこと【筑紫磐井&渡部有紀子Q&A】


Q(筑紫)この研究会(有馬朗人研究会)の発足にあたり亡き澤田和弥氏が関与していたことは意外でした。彼の句集『革命前夜』を読み、何回かの手紙のやりとりをさせて頂きましたが、俳句に熱意を持つ一面で非常にナーバスなところもある人のように感じておりました。結果的に直接お会いする機会はありませんでした。有馬主宰の序文に書かれた「『革命前夜』をひっさげて・・・広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈る」も果たされない期待となってしまったのですが、『革命前夜』後の澤田氏の遺志は、この研究の成果で『有馬朗人を読み解く』である程度達せられたのかと思います。

 当時の経緯をもう少し詳しくお話しいただけますか。この研究を読みつつ彼を偲ぶよすがとしたいと思います。


A(渡部)結社の大事な先輩であり、個人的な恩人である和弥氏に注目していただきありがとうございます。本研究会発足の直接のきっかけとなったのは、先に述べた通り和弥氏を招いての藤沢での句会でした。

 句会の幹事をしていた天為の同人、内藤繁氏によると彼を選者に招こうと決めた理由は二つあったとのことです。


(1)当時、「天為」誌上で連載されていた「新刊見聞録」での和弥氏の原稿が、それまでの結社若手のとは全く違っていたこと。句集・俳論に限らず短歌や美術についての書籍を積極的に取り上げ、いわゆる読ませる文体で紹介していたこと。

(2)第一句集『革命前夜』を上梓した際に厳しい内容の礼状を出しところ、即返事が届き論争を仕掛けてきたこと。


 上記の点から彼の飽くなき俳句への探求心を感じ、神奈川県の結社会員、特に若手同人たちに刺激になればと彼を招いたそうです。よって、後に有馬朗人研究会発足のきっかけとなったアドバイスも、「神奈川県の若手を育てる良い方法は何か」という質問に対しての回答でした。

 句会当日は彼の地元である静岡県浜松市の他結社から足を運んだ人もあり、和弥氏は時間ぎりぎりまで全投句にコメントをする熱の入れようでした。当時、安定した公務員の職を辞したばかりと聞いていたので、俳句に何かをつかもうと必死にもがいているようにも感じました。

 研究会発足後も数回は浜松から出席してくださいましたが、やはり「余裕がない」との理由で途中からお見えにはなりませんでした。和弥氏が研究会へ期待されたことが達成できたのか、今となっては確かめようもありませんが「一人の作家を徹底的に読み解くのです」という彼の言葉通りのことは出来たと思っています。後は、参加者各自がこの成果から一歩進んで特定のテーマを見つけ深めていくことが重要でしょう。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり23 関悦史句集『六十億本の回転する曲がつた棒』(2011年12月刊、邑書林の新撰俳句叢書①)を再読する。

  関悦史さんは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』のひとり。

 彼は、俳句と俳句評論の両軸どちらも秀でた作家で評価も高い。

 本著『六十億本の回転する曲がつた棒』は、第3回 田中裕明賞(2012年)受賞作。

 受賞者の関さんの言葉を抜粋する。


 句集にも入っている祖母の死去が2004年12月のことで、これは田中裕明のそれと同年同月である。祖母の葬儀をひととおり済ませた年の暮れに、新聞(当時はまだ取っていた)で田中裕明の訃報を目にしたのだった。当時は名のある俳人に直接会う機会もなく、その後そうなる予定もなかったから、田中裕明も単にこちらが一方的に読んでいた若手作家というだけの存在だった。

 ところがその後、友人の勧めでSNSを利用し始めたのを機に予想のつかない出会いが重なり、時には叱咤督励を受けたりもして、書いたものを発表するようになり、さらには経済力のなさから自分とは無関係と割り切っていた句集出版が、あろうことか東日本大震災で家が壊れ、困窮極まっているさなかに、多くの支援を受けるという形で実現してしまった(早く出させないと、私がいつ死ぬかわからないという判断もあったそうだが)。この間私本人はほとんど流れに乗せられていただけであり、今回の受賞も自分のことという気がじつはいまだにあまりしなくて、単に一連の動きの代表者として受け取るだけという気がする。 (関悦史)


 選考委員の言葉をどうぞ。


 私は『残像』『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪うぜ』『BABYLON』の三冊を推した。

(省略)

 このたびの選考結果に異存はない。受賞作に関しては、ひとえに私の眼力が及ばなかったのだと思う。(石田郷子)

 俳句は現代に生きる詩でありたい。いつもそう思いながら、私自身にどれだけのことができているのか心もとない。そんな忸怩たる思いを吹き払ってくれたのが、受賞した関悦史の『六十億本の回転する曲がつた棒』、そして私が続く二位、三位に推した山口優夢の『残像』、御中虫の『おまへの倫理崩すためなら何度なんぼでも車椅子奪ふぜ』だった。

 『六十億本』は、荒廃の兆し始めた現代の日本を、そして否応なしにそこに生きるしかない作者自身を描き切って迫力があった。特に著者の暮らす土浦の風景を描いた「日本景」、祖母の介護を描いた「介護」の章は、俳句の新しい領域とそれにふさわしい新しい詩情を見出して感動的である。季語を積極的に生かした俳句と無季俳句が違和感なく並ぶ眺めもこれからの世代の俳句のあり方なのかと思わされた。一句一句の完成度を云々する以前に、その総体としてのエネルギーに圧倒される。そしてその中から、〈人類に空爆のある雑煮かな〉のように古典的風格さえある句が生まれている。

(省略)

 現代に肉迫しようとすることと俳句という詩型を選ぶこととの間には、飛び越えがたい溝があろう。それをやすやすと飛び越えて彼らが俳句を選んでくれたことを、同じ詩型にたずさわるものとしてうれしく思う。(小川軽舟)

 『六十億本の回転する曲がつた棒』には有季句と無季句が混在する。有季の句では季題を生かし、無季となるべき句は無季にするという当り前のことを当り前のように実践していた。同じことは『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』についても言える。昨年の『千年紀』もそうだった。無季句が混じることにより有季句のよさがわかるし、有季句と見比べることにより無季の句の面白さがわかるのである。圧倒的な膂力の関氏の句集と稀有の叙情性を示した御中氏の句集の二冊が特に図抜けていると感じた。(省略)(岸本尚毅)

 私が一位に推したのは、関悦史句集『六十億本の回転する曲がつた棒』であった。この句集からは「一冊をいかに速く読ませるか」ということについての独創的な意図を感じた。連作、しつこい描写、固有名詞の独特な用法、ページ八句組みの奔流のようなレイアウトなどが、句を読むスピードを上げさせる目的に向けて方針一貫して機能しているところがみごとであった。796句という大量の句を猛スピードで読ませてしまおうとする壮大なプランにつくづく感心した。従来の俳句観を根底から問い直す、革命的な一書だと思う。

   蔵書ミナカプカプ翼畳ムナリ

  鷹は鳩我は扉となりゆくや

  ブロック塀のあまたの割れを蔦隠さず

 (省略)

 今回応募の七冊は非常にレベルが高く、選考に頭を悩ませることになった。若い世代の充実が実感され、嬉しい悲鳴を上げた審査であった。(四ツ谷龍)

                      【ふらんす堂HP「中裕明賞」より転載】


 私の場合は音楽鑑賞に例えると、「これ!」というアーティストの音楽アルバムを聴くときは、作家の作品をベスト・アルバムよりも随時、リアルタイムで制作されているアルバムで聴くが好きだ。その作家の生の声が聴けるから。同時代性にあることの意義。それは、視聴者の人生のBGMにもなるしね。そういう意味では、本著『六十億本の回転する曲がつた棒』は、ベスト・アルバムの感さえする。それくらい作家の作品の発表と発信力・浸透力がある。関悦史俳句は、話題作満載だった。

人類に空爆のある雑煮かな

 『セレクション俳人プラス 新撰21』(2009年刊、邑書林)に私を含む21人の新人俳人の中に関悦史さんのこの句があった。もう既に話題作であったし、社会詠に季語を結びつけることで俳句の新境地を切り拓いた関さんもまた新人発掘のアンソロジーの覇者のようで身震いしたものだ。

 人類に空爆があることなんて誰でも分かってらいっ。でも季語の雑煮がテレビや新聞では採り上げにくいグチャグチャの肉塊の雑煮を連想して驚愕した。テレビや写真には写らない人間の肉塊を私の脳裏に喚起させたのだ。俳句の1句もまた小説や映画の1作品足り得ることを思い知らされる。

蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ

 国際通りを曲がりジュンク堂那覇店に向かいながら食堂のショーウインドウに沖縄そばの関悦史俳句があった。そんなーあっちょんぷりけ~である。リアルな蝋製の沖縄そばから湯気は出ていませんが。箸(はし)が宙に凍っている。関悦史の感染力の旺盛さに苦笑いしてしまう。

CD十枚吊られ寒鴉へ乱す曙光

ぶちまけられし海苔弁の海苔それも季語

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿

Ω(をわり)からまたI(われ)を出す尺蠖よ

 音楽アルバムのCDなどを渡嘉敷島の畑に取材で行くとまたもや関悦史俳句のCDが宙に吊るされている。おまけに鴉の柄の鴉対策まであるしっ!関悦史俳句だとCD十枚が吊るされ鴉対策が曙光を乱反射して鴉らを蹴散らしている。

 ぶちまけられた海苔弁の暴力性の衝撃もさることながら、それを見て「それも季語」という俳人ぶりにも頭が下がる。あたなは、24時間、俳人できますか。

 皿の表記の中に1文字だけ血が交じる。表記の活かし方も偉業だが、関悦史俳句って、ビジュアルに脳内で喚起しやすいのよねー。写実の的確さに徹底的に世界を取り込もうとする関悦史の創作意欲の旺盛さがある。

 Ω(オメガ)を「をわり」と読ませるその心は、Iは我を見出す俳人と解く。尺蠖は、尺取り虫の別名。尺取り虫の体ごとしならせて前進する様の生きている絶頂と歓喜を彼もまた自然から見出している。

ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり

ズボン上げてやつて乳房が見えてしまふ

白髪散りし造花の下に祖母眠るか

氷よりも冷たき額撫でにけり

抱へて遺骨の祖母燥(はしや)ぎつつバス待つ春


 「Ⅲ 介護」の章で関悦史に与えられた試練は、俳句をぐんぐん深化させている。

 「祖母を引き抜く」「乳房が見えてしまふ」「白髪散りし造花の下に」「氷よりも冷たき額」「抱えて遺骨の祖母」のどの句にも祖母への愛しみがある。祖母の死は、関悦史俳句の試練として乗り越えることでまたさらなる飛翔のための試練であったのだろうか。

妹の消えて鮪の匂ひせり

鮪より電話来たりて家を棄つ

鮪らの首断面の照らしあひ

 妹が実在するのかは、さておき。「妹の大人の階段上る~のを兄さんは観ていたよー」的なドラマ性、性もね。気になる俳句ですね。


 「Ⅸ うるはしき日々」は、「あとがき」によると「東日本大震災以後の作だが、発生直後からの長い停電とアンテナ脱落とにより、地上デジタル波完全移行の日を迎えるまでもなくテレビは映らなくなっていた。津波の句がほとんど入ってないのは、映像ですらも目にしていないことがさしあたりの理由といえる。」(P132)とある。

福島の子供の習字「げんし力」

 この俳人の創作意欲は旺盛であり、怒涛の震災俳句の秀句も選びあぐねるくらいだ。

 震災を経験したリアルな生の声をしっかりと俳句にする力量もある。

 これらの多感な俳句たちは、必ずしも実感を持って俳句鑑賞者たちの心に届かないかもしれない。

 福島県出身で世界的な詩人の和合亮一さんは、東日本大震災直後からX(旧Twitter)に震災の状況を発信し、その投稿をまとめた『詩の礫(つぶて)』の仏語版が、フランスの文学賞「ニュンク・レビュー・ポエトリー賞」(外国部門)に選ばれた。その熱いパッションが喉元を通るときにしか詠めないモノがある。俳句の速報性も問われるけれど俳句の多様性は、何万通りもある。関悦史俳句にも沢山の震災の秀句がある中で今の私が実感を持って選びきれるのは、上に挙げた句1句だった。福島原発崩壊のあった福島の子どもたちが書いた習字の「げんし力」にどう感じるか。それぞれの核の世の視座が問われる。

 多弁なほど秀句が並ぶ。関悦史さんのこの句集には、沢山の秀句を量産されている。だが、その多弁なまでの俳句たちが必ずしも俳句鑑賞者の心に実感を持って届くとは限らない。その俳句鑑賞者ひとりひとりの経験や感受性、能力差、その鑑賞者の居る環境や態度、そしてそれを咀嚼していくだけの時間を俳句鑑賞者に費やさせる。それを誰もが引き受けると限らない。俳句鑑賞は、百通りにも千通りにも成りえるし、拒絶されることだってあるからだ。

 私の震災の俳句の共鳴句は、「供犠となるこの地に万の寒鴉のこゑ」「烈震の梅の木掴みともに躍る」「よその布団によその闇ごと揺れ轟く」「春星幽か大渋滞はどこへ向かふ」「信号灯らぬ大暗黒へ放尿す」「現金封筒その他つかみ出す春の堀炬燵」「隣県に原子炉が爆ぜ黒ずむ東風」「救援物資の箱らに自死を禁じらる」「ブルーシートも土嚢も足りぬ春夕立」「ファミリーマートへぬくき地割れを幾つか越す」「春の日や泥からフィギュア出て無傷」「テレビ見る彼ら・地揺らぐわれら原発燃ゆ」「罹災証明受け取り白々しき花時」「崩るる国の砕けし町の桜かな」「セシウムもその辺にゐる花見かな」「どうしていいかわからぬ街を葉桜占む」「原子炉を客観写生したき瓜」「夏の草ストロンチウムは骨に入る」「プルトニウムと夏空飛ばん塵の吾」「生きて疲れて遺伝子狂ひゆく万緑」など。

 あるベテラン写真家は、私につぶやくように「1日撮影したら2~3日は、疲れが抜けるまでゆっくり過ごしている」と語った。まるで未来の私に向かって語っているようにである。「疲れたら休む。」「首にカメラをぶら下げて歩くカメラマンの職業病もあるからカメラは肩にかけたり、たすき掛けにしなさい。」「量から質を生む。じゃなくて質を高めながら沢山の写真を撮る」など振り返ってみると多くの人生の先輩たちの出会いの言葉の財産が私にもあった。それは、丁寧に私なりの理解力で咀嚼している。

 ある俳句会では、「先生の選に選んでもらえたお祝いの御赤飯を炊く」ような俳句をより良く生きるささえにしている人たちもいる。特に震災に被災された関悦史俳句だからこそ丁寧に生きることでしか見えてこない俳句の世界がある。

 覇者の刃のように俳句を振りかざさなくても相手の心に実感を持って伝わる俳句を関悦史さんは、作っている。

 そんな関悦史さんだからこそ俳句の世界の裾野を広げることができるんじゃないかな。

自戒を込めて“よ~んなー(ゆっくり)よ~んなー(ゆっくり)”お互い俳句道を歩みましょう。

 その他の共鳴句もいただきます。

デパート跡のフェンスの中の虫の声

コンビニエンスストア冬銀河の入荷

畳積まれて総腐れなり草萌やしつ

毀サルルタメノ美童ニ降ル光

帝国なすこゑなきこゑや福笑

死にしAV女優の乳房波打つや

老人に夜握られし向日葵よ

未生の祖母に蟹星雲のうづきしか

人工衛星光りつつ落つ沢庵や