●ー1近木圭之介の句/藤田踏青
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル
「層雲自由律二〇〇〇年句集」(平成12年刊)所収の、作者が81歳の平成5年の作品である。掲句については以前「豈」にも書いたが、俳句は現実に触発された思いによって創られるが、現実的な世界を具体的に描く段階から発し、非現実的な虚構の世界を抽象的、シュールに描く段階へと、創作の意図のベクトルは拡大され、多様化されてゆく。そしてその虚構の美しさを保証するものはあくまで言葉のリアリティでなければならない。即ち、言葉が拘束するのである。
「虚構と現実」とは「文学の真実」にも相通じるものであり、その根底には人間の存在が横たわっている。文学には限界は無い。延いては表現方法と内容にも限界は無い。虚構とは表現技術の一方法なのであり、文学(俳句)だけではなく、芸術の全ての行為は虚構である、との言も過言ではない。そこに全ての本質が込められているのだから。
掲句は漢字とカタカナの表記であるが、これは圭之介が画家としてデッサン風に描いたからでもあろう。特にカタカナ表現は虚構の構築過程のメタファーに相当するものであり、その裏に硝子の如き脆さをも秘めている事を示唆している。またそれによって「虚構ノ美シサ」と「風」が印象鮮明に浮かび上がってくる効果もあろう。そしてその虚と実の世界に「往きて帰る心」が余すところなく表現され尽くしているとも言えよう。
圭之介の詩「パレットナイフ」(「近木圭之介詩画集」平成17年刊)に次の様なものがある。
Ⅰ 現象は飛躍の中で虚構
感受性は非存在の座から訴える
Ⅱ よどむ思念はいつか変貌
偽りの衣装
演技のなかで透視される実体
ここでも虚構と現実が相互に照応しあっているのがわかる。詩人として、画家として、俳人として、圭之介は吐き続けるのである。
ドコ切ッテモ日曜ノ午後 曖昧ナ狂イ 平成5年作
イノチ詩語吐ク 微量ノ毒吐ク 平成9年作
荻原井泉水は層雲第一句集<生命の木>(大正5年刊)において「芸術より芸術以上へ」と主張し、戦後もその求道的な「層雲の道」を説いたが、圭之介は「芸術より更に芸術そのものへ」との志向へと深めて行ったものと考える。それ故、晩年の井泉水の方向性とは異なった独自の作風となっていった。
●―2稲垣きくの句/土肥あき子
バレンタインデーか中年は傷だらけ
1963年第一句集を上梓した直後、「春燈」主宰久保田万太郎を亡くす。そのわずか3年後の1976年に出版された第二句集『冬濤』で俳人協会賞を受賞する。句風に大きく方向転換が見られるのは、万太郎の死が影響していることを感じさせる。
句集には1965年、まだアンカレッジ経由で世界旅行をしていた時代に、パリ、ローマ、サンフランシスコと賑やかな旅吟が混じる。〈夏帯にたばさむものやパスポート〉〈甃よし夏足袋のふみ応ヘ〉〈ゴンドラの波きて匂ふ水も夏〉と、それはまるで渡り鳥が係留地に点々と立ち寄っているような軽やかな詠みぶりである。
また、そののち、あきらかに恋人との死によって永遠の別れが訪れる。恋人を失ってのち、きくのは秘めたる愛を作品へと解放した。恋ほど軽くなく、情念ほど重くない、そして背徳の悲しみを背負ったきくのの愛は、完全な幕引きにならない限り、俳句にもエッセイにも個人を特定することができないよう配慮してきたものだった。
掲句は「ひとの死ー」と前書された連作に続くものである。不二家のハートチョコレートが発売されたのが1971年、このあたりから日本にバレンタインデーが定着したといわれる。掲句は1966年の作品であることから、まだ一般にバレンタインデーがなんのことかも、よく分からない時代である。
しかし、前年ヨーロッパ各地を旅行してきたきくのにとって、それが愛の日であることはじゅうぶんに意図し、さらに誰もが聞きなれない言葉であればあるほどふさわしい斡旋だった。
「そうか、今日は愛の日か…」と恋人を失った日々のなかで思うきくのは、傷だらけになったわが身をつくづくと見回し、名誉でも災難でもない、ただひたすら自分でつけてきた傷にそっと触れている。
●-4齋藤玄の句/飯田冬眞
たましひの繭となるまで吹雪きけり
昭和52年作、句集『雁道』(*1)所収。第14回蛇笏賞の選者の中では、森澄雄が感銘句のひとつにあげただけだが、没後30余年を経てもなお、歳時記の用例に取り上げられることが多い句。齋藤玄の代表句という者もいる。前回の〈おのおのの紅つらならず曼珠沙華〉と比べると写実の目とは異なるが、何かを見ている作者はたしかに表出されている。何を見ていたのか、それを探るのが今回のテーマでもある。この句について玄は、自註(*2)にこう記す。
「吹きまくる吹雪の中で、僕の魂は雪で真白になってゆく。その上にまた雪が吹きつけて重なってゆく。魂まで繭のようになってしまった」
しかし、読者には「魂まで繭のようにな」るとはどういうことなのかが判らない。見たものを追体験できるような作り方ではないからだ。前回の〈曼珠沙華〉の句は対象を見ることで生まれた。群がり咲く曼珠沙華を見て「一団の火」のように感じた「紅」の色ではあるが、子細に見ると一花一花、個々の持つ紅色に差異があることを発見した。その認識の結果を〈つらならず〉という語を用いて曼珠沙華の本質を描き出すことに成功した。見たものを見せることで共感が生じたのだ。
見ることは対象を認識するための過程のひとつである。五感を駆使した句は、表出された言葉を手がかりにして作者のつかみえた認識に遡及しやすくなるため「開かれた俳句」といえるだろう。いっぽう、認識そのものは、五感の架け橋を用いなければ、伝達することは困難である。「閉じた句」とは多く、認識そのものを詠んだ際に付与される評言といえるだろう。そうした「閉じた句」を鑑賞する際に手がかりとなるのが象徴的な語、イメージではないだろうか。
掲句の場合、手がかりは多いように思える。〈たましひ〉〈繭〉〈吹雪〉。なかでも季語の「吹雪」には、作者の住地が北海道であることを踏まえれば、風土と魂の相克という図式化した鑑賞に誘い込む陥穽すらある。だが、この句から感じるのは、風土の呪縛から解き放たれた詩魂の飛翔などといった空疎なものではない。もっと切実なものだ。
句集の配列をみると、この句の前に「病む妻の侘助の番をするでなし」があり、三句あとに「きさらぎの誰の忌ならむ髪ばさら」がある。そこから作句時期を敬愛していた相馬遷子の一周忌(1月19日)を含む一月中旬ないし下旬と類推してみたい。作者が、友の一周忌を契機にして、自身の病や妻の病から漠然と感じ取っていた「死」という見えないものを凝視することで受け止めた命のありようを詠んだものと言えないだろうか。つまりこの句における〈吹雪〉とは、老病死といった生きることの苦しみ、とりわけ「死」への恐怖を表し、それを感じ続ける〈たましひ〉とは作者を含む命あるもの。〈繭〉とはそうした感じやすい命を包みこみ、保護する悟性そのもの。いうなれば、「死」の恐怖を感じ続ける〈たましひ〉が「死」であり「生」でもある〈繭〉を生み出したのだ。繭とは「死」であり「生」でもある両義的な存在。だが「生」や「死」に翻弄されることはない。〈繭〉という象徴的な語から読み取れるのは、凝視した果てに到りついた作者の境涯であり、命を見続けることの永遠性である。見ることは次の生への過程のひとつという認識そのものを詠んだ奇跡の一句である。
冒頭に記した「何を見ていたのか」という最初の問いに答えるならば、「命を見ていた」ということになるだろうか。
*1 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊
●ー5堀葦男の句/堺谷真人
沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し
出航する貨客船。色とりどりの紙テープが宙に舞う。やがてテープは次々と切れ、人々の手から青い波間へと滑り落ちてゆく。餞の花束を高く振りつつ沖へと遠ざかる船客たち。一方、船上から望む埠頭には、見送りの一群の後方で立ち働く荷役の人々の姿があった。
葦男は神戸育ちである。小学生の頃から、夏冬の休暇に父と神戸~横浜間を海路旅行し、詩情を蓄積されたという。大学卒業後は大阪商船に入社、はじめ神戸支店、ついで大阪本社に勤務した。海や船は特別親しい存在だったのである。
しかし、彼が入社した1941年に太平洋戦争が勃発、翌年には国家総動員法に基づく特別法人船舶運営会が設立され、海運業界も国家統制の中へと組み込まれてゆく。1947年、肺患を抱える葦男は劇務に耐え切れず転職。棉花関係の職場を選んだのは、仕事の性格上、海彼とのかかわりを温存できるという淡い期待があったためかもしれない。
冒頭の句も『火づくり』(1962年)所収。句集最末尾の「祖国愛憎」中、船舶を素材とした6句のひとつ。20音節の破調だが、「寒暮の波になぶらせ離心軽い吃水」「灯漏らすキャビン鋼より緻密な沖指しつつ」など他の5句に比べ、表現は際立って平易であり、記憶に残りやすい。
ここで、『火づくり』上梓と同年、第10回現代俳句協会賞を受賞した葦男のコメントを聞こう。
だんだんと俳句の特質が、時間性よりも空間性に、詠唱性よりも形象性にあることが分って来るにつれて、本格的なデッサンを身につけたいと思うようになり、虚子はむろんのこと現代の先輩作家の技法を句集から学ぶことに努めた。
(「俳句研究」1963年1月号所載「受賞のことば」より)
「沖へ急ぐ」は受賞作品「砂礫の涯」50句に採録されている。が、連作とも見える他の5句の姿はそこにはない。句の取捨を左右したものは何か。筆者は「詠唱性から形象性へ」というテーゼに背馳することを、他ならぬ作者自身が行ったのではないかと見る。「オキエイソグハナタバハタラクキシオノコシ」この句は破調であるにも拘らず、同音や類似音を巧みに配し、詠唱性に優れる。景は淡白である。「本格的なデッサン」というよりも余白の多い略筆である。その余白に響くのは海風に遮られて切れぎれに届く家族や友人の声であり、岸壁に打ち寄せる波の音であり、船荷や起重機の稼動音であり、そういったもろもろの音声(おんじょう)が混淆する海上のサウンドスケープなのである。
神戸市の海岸通には1922年竣工の商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が現存する。渡辺節の設計によるこの優美なオフィスビルは、西向き入口のドアの上部にブロンズ製の欄間がある。中央には追い風を孕む帆船を描いた円盤状のレリーフ。周囲は透かし彫りの青海波文様である。筆者は葦男遺愛の白銅の文鎮を目睹したことがある。藍碧の青海波の上を飛び急ぐ5羽の金色の千鳥。
思えば、四海波静かなることを寿ぐこの意匠ほど海を愛した葦男にふさわしいものはない。そして平和希求という戦後日本の原点にもその思いはどこかでつながってゆくのである。
●―6富澤赤黄男の句/山田真砂年
爛々と虎の眼に降る落葉 富澤赤黄男
句集『天の狼』(昭和16年8月1日発行、旗艦発行所、発行者水谷勢二(砕壺))の巻頭に置かれた句であり、富澤赤黄男の代表句の中の一句である。
この句集は、逆年順に編まれており、もし編年であれば掉尾を飾る句であったろう。何故逆年順にしたかは興味あるところだ。
さて、この句には句集『天の狼』における赤黄男の特徴が顕著に現れている。
密林の中で飢えと孤独に耐えながら、眼の中には飢えを満たすべく獲物を希求する燃えるような光を湛えて待ち続ける虎、時折視界のなかに動くものは音もなく天上から降ってくる緑の葉。ここには黄色と黒の鮮やかな虎の縞模様や炎のような眼の光り、そしてひらひらと舞い落ちる緑という、すでに多く人に指摘をされている色彩感覚が、また孤絶感が現れており、赤黄男ファンのみならず多くの人を魅惑する。
落葉を緑色と捉えることに違和感をもつ人もあろう。それは落葉を季語として解釈しているからである。
赤黄男は『俳句を詩の特殊とする所以を一つに十七音形式に置いて、この最大の俳句性を確保する限り、本質的伸展の為に季題を必ずしも要せずとする方向に、より自由と発展を期待できるやうである。・・・新興俳句は、純粋の俳句を文学しつつあるものであり、この十七音定律たる最大の俳句性を捨てては俳句は存在し得ない。』と「新興俳句将来の問題」(「旗艦」昭和10年5月)と述べているように、この時期の赤黄男は、詩としての俳句で死守すべきは定型であり、季語は必須ではない。従って赤黄男自身はこの落葉を季語として認識していない。
密林の詩書けばわれ虎となる
の句もあり、また赤黄男が兵役についていたときに中支の野戦病院に入院したことを考慮すると、この虎は南支の密林が相応しい。とすれば季語としての枯れた落葉ではなく密林に緑のまま散る落葉でなければならない。
さらにもう一つの特徴は、爛々(らんらん)のように同じ音の重なる言葉の使用である。
瞳に古典紺々とふる牡丹雪
銃聲がポツンポツンとあるランプ
向日葵の貌らんらんと空中戦
など全217句中およそ一割、十句に一句の割合で同音を重ねる言葉が使われている。そしてそのほとんどが擬態語であるが、十七音の制限のある定型では、多くの言葉を要さず、詩情を感覚的に伝え読み手の心の琴線を共鳴させるためには効果的な方法である。
この句は私の中で燦然と輝く金字塔として存在し続けている。
●―8青玄系作家(日野草城)の句/岡村知昭
高熱の鶴青空に漂へり 日野草城
第7句集「人生の午後」所収。この句が書かれた昭和24年は日野草城にとっては大きな転機の年であった。まず2月には「風邪を引き、高熱と激しい咳嗽が続いた。相当応へ、以後ずつと臥たきりとなつた」(「人生の午後」各章前の前書きより)。4月には休職中の会社を正式に退職、25年の会社員生活にピリオドを打つ。直後にはその後の生活の拠点となった大阪池田の自宅「日光草舎」へ転居する。9月には第6句集「旦暮」(あけくれ)を上梓。そして10月にはいよいよ主宰誌『青玄』が創刊される。病状の悪化、退職、転居、刊行に創刊と1年間に身辺で起こった大きな変化の数々を、草城はただ病の体を横たえて迎えるほかなかった。『青玄』創刊も自らの手に寄るものではなく、草城主宰誌の創刊を望む若者たちの手によってようやく形作られたものであった。
句集「人生の午後」において「鶴」が登場する作品としては、この句のすぐあとに「鶴咳きに咳く白雲にとりすがり」があり、翌年25年には「病む鶴の高くは翔ばぬ露日和」「病む鶴の老足露にまみれけり」「病む鶴に添うてなまめく妻の鶴」といった作品がある。これらの作品中に登場するどの「鶴」も病を抱え込み、天高く飛べない存在として立ち現れるというところで、「句の中に流れる孤独な悲傷のなまなましさ」(大岡信)が作品中からにじみ出ているのはまぎれもなく、その後の草城が送った病床での日々と重ね合わせる形で読まれるのも、それはそれで致し方ない感じを受けるのだが、この1句の「高熱の鶴」にはその他の「病む鶴」たちとは微妙に異なった雰囲気を漂わせながら、草城の想念によって形作られた内なる青空を飛んでいるかのような印象を私に抱かせてやまない。
草城と「鶴」はこの1句において、どちらもが「高熱」を発しながら天地の狭間で真正面から向かい合っているのだが、このとき高熱を発する草城の「高熱の鶴」への対し方は、今ある己自身をなんとしても見届けようとする強い意志によって貫かれている。確かに漂う「鶴」はこれからどうなってしまうのだろうか、との懐疑は自身にとって強く感じずにはいられないものがあるだろうが、それでも青空に「鶴」あり、地にわれ草城ありとの把握を徹底して貫くことにより、ほかの「病む鶴」たちの登場する作品には見て取りにくい、強い求心力をこの1句は獲得した。それは境涯的な読みを誘いながら、同時に安易な作者と作品との一体化を跳ね除ける強靭さにもつながっている。「高熱の鶴」を通じての求心力の把握によって、草城は人生の大きな転機を迎えた自分自身の、俳人としての新たな方向性を見出していける自信を手に入れられたのではないかと私には思われてならないのだ、西東三鬼が病床で生死をさまよう中から詠んだ「水枕ガバリと寒い海がある」を「私の俳句は、この句によって開眼した」と述べたように。
青空から遠ざかる生活を余儀なくされながら俳人としての転機を迎えた草城は、『青玄』創刊号に「俳句は東洋の真珠である」との名高い言葉を寄せる。それは自らの俳句観のあるべき展開を指し示すとともに、「病む鶴」たる自分と若き「鶴」たち、それに自らの闘病の日々を支える妻子とが新たな青空へ飛び立つにあたっての宣言でもあった。没後、草城の忌(昭和31年1月29日)の異称として「凍鶴忌」「鶴唳忌」(かくれいき)が考えられたと、伊丹三樹彦は「日野草城全句集」の栞で記している。
●―9上田五千石の句/しなだしん
木枯に星の布石はぴしぴしと 五千石『田園』(昭32年作)
第1回で触れた「ゆびさして」の句から一年後、この句は生まれている。
この句について五千石は自註(*1)で、
冬の夜空は星の繁華街になる。名のある星座は競って店開きする。
と記している。
この句は「氷海」の昭和33年3月号に初出する。ただ、句集『田園』に掲載されたそれとは違っているのである。
木枯に星の布告はぴしぴしと 五千石
違っているのは一文字。「告」と「石」である。ただその意味は大きく違っていると言わざるを得ない。「布告」は「(政府から)一般に知らせること、告げること」。一方「布石」は「囲碁で作戦を立てて要所に石を配すること、将来のために用意すること」である。
句集『田園』でこの句を読んだとき、冬の空を碁盤に見立てて、星を碁石のように「ぴしぴし」と置く、そんな風に鑑賞して、冬の厳しい寒さが感じられ、「布石」という言葉がとても生きていると思ったのだが、原作で五千石が意図していたところは違ったようだ。
原作の「布告」を信じて読むと、木枯が吹いて星々が一斉に光りを増し、主張を始めた――、そんな風に読める。それもひとつの星の在りようを詠っているとは思うが…。ちなみに自註のコメントは、原作の意図に近いような気が私にはする。
◆
この句がいつ改められたのか、調べるすべがない。(いや五千石のことだからどこかに書かれているものがあるのかもしれないが)いずれにしても最終的には「布石」として残されたわけで、それは「布告」よりも「布石」が、五千石の心中でも優ったからに他ならないだろう。
それにしても、一字の違いの大きさを思い知らされた作品である。
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
郭公や過去過去過去と鳴くな私に
最晩年に近い昭和62年7月の作品。翌年1月に入院し、12月には亡くなっている。だから一見、郭公の鳴き声を模倣しただけの悪い洒落のような句に見えるが、この前後には死を意識した句がいくつか詠まれており、この「過去」には作者の生涯を振り返ったほろ苦い思いがこめられている。
万緑叢中死は小刻みにやってくる
黄落激し滅びゆくものみな美し
死んでたまるか山茶花白赤と地に
過去の回想を迫る郭公に作者は拒絶を示すのだが、開口音(ア行音)と調子のいいリズムで、暗さをあまり感じさせない。晩年は明るい派手さの中に死の匂いを撒き散らしているのだが、そんな憲吉の晩年が好きである。『隠花植物』よりは『孤客』が、さらにそれよりは『方壺集(未完作品)』の方が好きである。
掲出の句、なるほどどこか軽薄である。いや憲吉の句は総じてすべて軽薄である。しかし悪い感じはしない。軽薄な調子の良さにしか語れない真実もあることがこれらの句を見ていると分かる。死はことごとく深刻でなければならないわけではない。軽薄な死や軽薄な遺言はその人の持って生まれた宿命だ。それぞれの持ち味を生かした言葉こそが真実の言葉なのである。
「もっと光を」(ゲーテ)や「喜劇は終った」(ベートーベン)も悪くはないが、私たちの身近にそんな荘重な言葉の似合う人間は決して多くはない。私の友人などにゲーテやベートーベンなどいるはずもないからだ。臨終の席であってもそんな言葉を聞いたらぷっと吹き出さずにはいられないだろう。身の丈に合わない言葉は言わないに越したことはない。とすれば、ふっと思い出さずにはいられない憲吉の晩年の軽薄な句は、その人となりを語る印象深い句というべきであろう。
* *
(余談)戦後俳句史総論の鼎談を行っている堀本氏から日野草城の話を持ちかけられ、憲吉との関係についてちょっと触れてみる機会があった。思うに、草城は「ミヤコホテル」に代表される若い時代こそが軽薄の頂点であった(その意味で晩年に重い療養俳句を詠んで過ごしたことは、正統的な俳句人生であったと言えよう)作家だが、彼の弟子の憲吉は晩年が軽薄であるという点で似ているようでずいぶん違いがある。年取ってから覚えた道楽のような、ちょっと気まずく、滑稽な、しかし同年配の者には羨望に満ちた思いが湧いてくるのを禁じ得ない。どうだろうか、若い日の軽薄は鼻持ちならないものだが、晩年の軽薄は許せるものがあるように思うのだが。
●―11赤尾兜子の句/仲寒蝉
大雷雨鬱王と会うあさの夢 『歳華集』
はっきり言って第2句集(年代順では3番目)『虚像』を読み進むのは結構つらい。だがその苦痛にこそ兜子の俳句を余人のそれから画然と区別せしめる秘密が存する。
ふくれて強き白熱の舌吸う巨人工場
などはまだしもイメージが浮かびやすく分りやすい方である。それにしても7-9-7というリズムはもはや俳句と呼べるぎりぎりの地平まで来ている。
毒人参ちぎれて無人寺院映し
は字数の上では大人しいが先の句より意味を追いにくく(抑も意味を追ってはいけない類の句であろうが)イメージも結びにくい。毒人参、無人寺院というイメージの重なりにこそ一句の要があるのだろう。
解く絹マフラーどのみちホテルの鯛さびし
にはドラマ性を感じる。結婚披露宴の一齣でもあろうか、いきなり鯛が出て来る所が何となく滑稽でもある。
さて第3句集の『歳華集』は恐らく大方の見る所の兜子の代表句集ということになるのではないか。気力も名声も充実していた時代。年表風に記すと…昭和33年、現代俳句協会員となり高柳重信らと「俳句評論」創刊。昭和34年、第1句集『蛇』刊行。昭和35年、「渦」創刊。昭和36年、中原恵以と結婚、第9回現代俳句協会賞受賞、これが引き金となって協会が分裂し俳人協会が設立された。昭和40年、『虚像』刊行。
こうして前衛俳句の一方の雄としてその立場を確かなものとしていった兜子が昭和50年、満50歳の誕生日を期して上梓したのがこの第3句集『歳華集』であったのだ。序文を大阪外国語学校時代からの莫逆の友、司馬遼太郎が、さらに大岡信から「赤尾兜子の世界」、塚本邦雄から「神荼吟遊」という文章を寄せられるという実に豪華な句集であった。
『虚像』のまわりくどい表現からは余程分りやすく読みやすい句風になっている。子の病気や豪雨による被害など家族の出来事、西洋を含む各地への旅行、司馬遼太郎や陳舜臣(大阪外国語学校の1年先輩)との交流も詠まれていて内容からも親しみやすいものとなっている。先に「大方の見る所の兜子の代表句集」と書いたが、所謂前衛俳句の雄としての兜子は鳴りを潜めているのでその意味からは反対意見も多いことと思う。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
腿高きグレコは女白き雷
新興俳句は、モダニズム的要素を取り入れ、コスモポリタンで妖艶。それまでにない俳句の世界を築いた。弾圧事件により終息という記録をみるが、その意志は今日にも受け継がれている。掲句は『まぼろしの鱶』に収められ「昭和三十年代」の作品である。グレコとは、宗教画家のエル・グレコともいえるという宗匠の話を耳にしたことがあるが、三橋がニューヨークでジュリエット・グレコを見て得た句であるらしい。1960年三橋40歳の時、日本丸にて寄港した地であろう。日本の海外渡航は1964年に自由化されている。ジュリエット・グレコ。(Juliette Gréco)フランス人シャンソン歌手。今も歌いつづける。
「腿高き」という外人女性のとらえ方、「女」と指摘する危険さ、「白き雷」(「しろきらい」と読むと予想)の百合が香りたつような閃光。まるで競争馬のような気品を持ち三橋の前に立つフランス人女性が目に浮かぶ。五七五のリズムの中、作者の鋭い感性により洒脱な詩として浮かび上がっている。季語がどうだのという説明は陳腐に過ぎない。ジュリエット・グレコは第一回引用の「日はまた昇る」(アーネスト・ヘミングウェイ作)の映画に出演している。
技法的特徴は係助詞「は」にある。「グレコは女」。「グレコ」が「女」であることを強調し、題目を示す。そこに三橋の錬金術が冴える。「グレコ以外は女ではない」というところか。
「は」の使用について既にその特徴が明らかにされているのは、下記の句である。
出征ぞ子供ら犬も歓べり (『太古』)
出征ぞ子供ら犬は歓べり (『まぼろしの鱶』)(『靑の中』)
『太古』発表当時(昭和16年)、時勢を配慮して手直しをしたものを後に原形に戻したと考えられている。(*1)「も」であれば、全ての人々が喜び、「は」であれば「子供ら犬は」以外の人は喜んでいないことになる。(*2)
優れた作家は助詞の使用が巧みと言われるが、係助詞「は」の使い方に顕著な句が三橋にはある。脳裏でリフレインを起こさせる句たちである。これについては、改めて触れさせていただく。
結社を持たない三橋は俳壇と微妙に距離を置いていたように感じる。人気作家というより一部の熱狂的支持者を持つ作家という印象が強い(現在も)。超特装本も限定刊行された。『靑の中』後記に記載のあるコーベブックス(南柯叢書)(*3)の元編集者・装丁家である渡邉一考氏が経営する赤坂のモルト・バー「ですぺら」(*4)の壁面には「船焼き捨てし/船長は//泳ぐかな」(高柳重信)と並んで掲句の色紙がある。
余韻と残像を残しつつ、ふと日常を忘れさせてくれる句である。
*1)『俳句評論』昭和52年11月号 三橋敏雄特集 『「太古」および「弾道」の秀句』 松崎豊
*2)『休むに似たり』 池田澄子著
*3)1963-2002年に営業の神戸に本社のあった出版社。加藤郁乎、永田耕衣、マルセル・プルース、須永朝彦などの本を出した。
*4)「ですぺら」東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F Open: 18:00-26:00 定休:日曜・祝日 TEL:03-3584-4566