2024年10月25日金曜日

『澤田和弥句文集』特集(1-1)第1編➀ 現在という二十世紀  澤田和弥

 さて「二十一世紀の若い世代の作品を眺めて」ということだが、これは「澤」平成二十六年七月号特集「五十歳以下の俳人」で主要部分はほぼ語り尽くされているように思う。集中の上田信治(文中敬称略)編「五十歳以下の俳人二百二十人」、押野裕「五十歳以下の俳人百二人」で充分であろう。もちろんそのなかに園田源二郎の名がないことは、明らかな見落としと思っている。

 園田源二郎は第三回芝不器男俳句新人賞特別賞を受賞している。昭和五十五年、滋賀県生。


  御佛の腋下に宿る星数多

  祖母語る脈絡の無き地獄かな(以上「週刊俳句」第二〇五号)


 新人賞最終選考会では大賞に御中虫が選ばれて驚いたが、それ以上に園田作品に流れる温かく確かな血に舌を巻いた。


  鉄の蟲大空を端から喰らふ

  地球儀を舐りて戯るる座敷犬

  黒き雨と或る寓話となりにけり(以上「のいず」第一号)


 また「澤」同号の「五十歳以下の俳人一句鑑賞」に一句だけ出ていた石原ユキオも「若い世代の俳句」を考えるならば挙げねばならぬ一人であろう。少々以前の作品になってしまうが、「週刊俳句」第二十七号「落選展2007 Jに出展された「不合格通知」五十句から数句挙げたい。

  魔女たりし祖母の南瓜雑煮かな

  欠席の机に載せる彼岸花

  すっぴんの美輪明宏がいる炬燵

  水鳥は溺死できないぼくできる

 この二人を挙げたのは、前述の特集に名がなかったということもあるが、私にとっては数少ない「同じ時代を生きている」と感じさせてくれた俳句作家だからである。

 私は二十一世紀という時代はいまだ来ていないと思っている。幼い頃にテレビや雑誌で見た二十一世紀は科学文明と人類の幸福が一体となった、それはそれは輝かしい時代である。今、そんな時代だろうか。東日本大震災という天災で多くの方々が亡くなり、東京電力福島第一原子力発電所事故という人災で多くの人々が今も苦しんでいる。9・‥‥‥‥に3・H。世界中ではテロや戦争が止むことなく起こり、難民が溢れている。人々は資本主義の格差の中で、富む者は肥え太り、貧者は死の行進をするしかない。二十世紀を「戦争の世紀」と呼ぶのならば、「戦争」は前世紀の遺物でなければならない。しかしどうか。二十一世紀など訪れていない。我々は二十世紀の延長を生きているだけだ。「ゼロ年代」という言葉にはとても違和感を持つし、「二十一世紀の」と言われるとえらく先の話のように思えてしまう。


 園田の作品は前述「澤」の「対談 新人輩出の時代」で上田が指摘するように「心象優位」の時代の一作品かもしれない。しかし私は彼の作品に土着的な手応えを感じる。それは初めて猪肉を食べたときの獣臭さや血の味のようなものである。この手応えは 「同じ時代を生きている」と同時に、「同じフィールドにいる」という感覚でもある。

 現在の若い世代には上手い俳句作家が山のようにいる。今さら名を挙げる必要もないだろうが、私たちの世代の俳句作家のトップランナーは終生、高柳克弘であろうし、第一句集『未踏』の完成度は筆舌に尽くしがたい。神野紗希は今後、ますます多方面に活躍していくだろうし、先日第二句集『君に目があり見開かれ』を上梓した佐藤文香の言葉はますます冴えていくだろう。高山れおなや関悦史、堀田季何が俳句評論や俳誌編集において大きな仕事をすることも想像に難くない。北大路翼も松本てふこも外山一機も山田露結も気になる。谷雄介はどんな悪巧みをするか。冨田さん、お元気ですか?私の所属する「天為」など数多くの場で、無数の若手作家が素晴らしい作品を発表している。昨今、外国語俳句も盛んにつくられている。しかしこれらの若い世代の俳句作家たちに、私はことごとくシンパシーを感じない。大きな溝を感じていて、その作品は鑑賞するものであって、ともに歩むものではない。私にとっては遠い世界の「ゲイジユツ」である。そのなかで園田作品は私にとってともに肩を組むことのできる、もしくはともに肩を組ませていただきたいものなのだ。

 一方、石原の作品には衝撃を受けた。面白い。とにかく面白い。この「不合格通知」五十句を読んだときの私はタモリに出会ったときの赤塚不二夫のような気分だろうか。同じことを面白いと思うことのできる俳句作家がいたという驚きである。私は昭和初期のエログロナンセンスを愛する。江戸川乱歩の「芋虫」を読んだときの感覚を忘れられない。そのような世界観、そして同時に「今」という現在性の持つ空虚さを石原の作品に見た。やはり石原も「同じフィールドにいる」というシンパシーを感じることができた。最近では「憑依系俳人」という肩書で活躍しているようだが、あまりシンパシーを感じなくなった。しかし今の若い世代の俳句作家を語るうえで、石原の特異な存在を欠くことはできないということは確かだろう。

 「若手」というと兎角「新しさ」が求められる。「リアルでホット」というと、やはり「新しさ」のことだろう。ワイドショー等で大きく取り上げられた小林凛はもうすでにマスコミに消費されてしまった感があるし、そういう意味での「リアルでホット」を求められた訳ではないだろう。そういえばあれだけマスコミに注目され、金子兜太等に絶賛された小林の名が前述の「澤」特集に出ていない。

 実のところ、私は「新しさ」には興味がない。それよりも「生きる言葉」「生きていることに揺さぶりをかけてくれる言葉」に関心がある。そういう意味で園田と石原を「リアルでホットな俳人」として挙げさせていただいた次第である。蛇足だが、そもそも若手俳人の句は「新しい」のだろうか。世界中の過去の文学、さらに絞って詩の中にいくらでも「類句」を見つけることができるように思うのだが。

 簡潔に言えば俳句史も含め、歴史とは究極のところ、特定個人の主観が生み出したストーリーであり、繰り返しに過ぎない。

 「過去は一切の比喩に過ぎない」。