2024年10月11日金曜日

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 2 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


――現代俳句協会評論教室のフォローアップについて(2)――


2.「ぬばたま」伝説の拡散(波郷・湘子・健吉)

 能村登四郎が「ぬばたま」伝説を語り始める前に、「ぬばたま」伝説を作った人がいる。石田波郷である前述の通り波郷は「ぬばたま」の句を批判したのだが、具体的な文章はあまり知られていない。


【伝説資料3】

「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない【注】。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわに良寛忌』の方がかへって法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだったらこれは問題であらう。」「仰臥日記」―「馬酔木」24年3月)


 じっさいは、能村登四郎が書いた水谷晴光氏の句評にふれながら、登四郎の「ぬばたま」の句を批判しているのである。いきさつはこのようであったが確かに「ぬばたま」の句は批判的に取り上げられている。

 そして「ぬばたま」の句が取り上げられる次の機会が、登四郎の第1句集『咀嚼音』の跋文であった。


【伝説資料4】

「私が清瀬村で療養の日を送ってゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかった私は能村氏の

  ぬば玉の黒飴さはに良寛忌

の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。

 「黒酳さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書する生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊麗な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかった。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかった。

 その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通ってきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの彫響(反作川であっても)をのこしてゐると思ふ。

 能村登四郎といふ人は、物の理解のはやく深い人である。私などに指摘されるまでもなく、そのことはすでに承知してゐたのである。すでに壮年に達した氏は、理解し、納得してからじっくりと仕事にかゝる人であった。

 「長靴に腰埋め」一連の句を、氏は馬酔木誌Lで募集した新樹賞コンクールに提出した。作句の為の素材を生活の場に関りなく探し求める態度を放擲して、勤務先の学校での生活、職員室の同僚や、教室での生徒との人間的接触、家庭妻子、家庭にまでもち込んでゐる教師の体臭、翳、それらをもはや素材としてゞなく、それらの中から生れ出るものとして、氏らしい目と手で描き出してくる。「艮靴に腰埋め」から突然さうなったのではないが、この時を境に顕著にさうなったといへるであらう。」(『咀嚼音』跋文)


 前回書いた登四郎の「ぬばたま」伝説——秋櫻子に賞賛され波郷に批判された「ぬばたま」の句から、波郷に賞賛された「野分の句」へ——という道筋は、この波郷の跋文の中で明確となっている。

 跋文を注意深く読めばわかるように、初版本『咀嚼音』では「ぬばたま」の句は収められていない。普通序文・跋文は句集に掲載された句を取り上げるのが常識だし礼儀であるが、ここではことさら句集に収められていない「ぬばたま」の句が言及されている。ここから以下に述べる「ぬばたま」伝説の重層化した伝説が生まれることになる。

      *

 さてこうしたいったん成立した登四郎の「ぬばたま」伝説が俳壇に拡散するのは、登四郎自らが語るだけでなく、それを受容する人々がいたことを知らねばならない。それを証拠づける文献資料はたくさんあるが、特に藤田湘子の文章は大きい影響力があった。全く同時期に登四郎が馬酔木で競い合ったライバルであったし、波郷を引き継いで馬酔木編集長を勤めた湘子は馬酔木の戦後俳句史を語るにはうってつけの人であったからである。誰もその言葉を疑わない。

 藤田湘子は「沖」55年10月の「『咀嚼音』私記」で語り始める。長い物語なので適宜抜粋しながら見て行こう。


【伝説資料5】

「私は昭和十八年八月号から「馬酔木」を購読し、投句を始めた。その時分、新樹集二句欄の地名市川のところに、能村登四郎、林翔の名がいつも並んでいたという記憶がある。いまでこそ「馬酔木」も選がゆるくなったけれど、当時は入選率六、七〇パーセント、つまり投句者の三割から四割が落選(没)の憂き目を見ていたし、入選しても二句以上となると寥々たるものであった。だから、二句欄に載る人の名はすぐ覚えたのである。私はと言えば、投句を始めて一年間は、没と一句を繰り返していたのだから、能村さんの名は眩しくてしようがなかった。私に言わせれば、能村さんが一句十年を称するのは言葉のアヤであって、これは、上位の巻頭近くに進出しなければ一句も二句も同じという、きっぱりした気持に発していると思うのだ。」


 湘子は登四郎の「一句十年」の伝説も当時の状況では少し意味が違うことを指摘する。自身が感じていたことと周囲の人の見た眼は違うのである。

 さて、湘子がこの文章を書いたとき、初版の『咀嚼音』は改訂されて『定本咀嚼音』(49年5月)として世に広まったのである。そしてここで、「ぬばたま」の句は20年をへだてて復活しているのである。


「『定本・咀嚼音』が出たとき、私が興味を持ったことが一つある。それは、能村さんがどんな句を捨てどの句を再生させたかということである。定本の「後記」にはこう書いてある。

 「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬば玉の黒飴さはに良寛忌」のような私の思い出ふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」

 この部分を読んだとき、私には「ああ『ぬばたま」の句を入れたか」という強い感慨があった。この句を改めて加えたということで、能村さんの『定本・咀嚼音』を編集した姿勢や決意がわかるような気がした。初版から恰度二十年たった俳人能村登四郎の姿を、これほど端的に示すものはないと思った。」


 ここから藤田湘子の戦後馬酔木の懐かしい回想が始まる。我々にはうかがい知れない、その時その場にいた人にしかわからない雰囲気である。


「その頃の私たちの幸せは、なんといっても水原秋桜子、石田波郷という二つの巨星に、じかに接しられることであったろう。雑誌や句会での謂わば公式の場での批評、感想のほかに、酒席、雑談の席における両星の呟きや警句、そういったものをたっぷりと吸収できた。いま憶っても、贅沢で恵まれた作句環境と言うほかない。そのような環境下にあって処女句集を上梓できたことも忘れられないことであるが、当時相ついで出版された新人会メンバーの句集は、ほとんどが序文・水原秋桜子、跋文・石田波郷という豪華な二頭立てであった。余談になるが、亡くなった相馬遷子はこの二頭立ての姿を、碓氷峠の急坂を登る列車に譬えた。前部後部に強力な機関車を連結して、その力で高みへ押し上げてもらっている。」


 こうして当時の新人たちの句集(登四郎『咀嚼音』と湘子『途上』)の生成過程が語られ、或いは推測されるわけである。


 「『咀嚼音』も私の『途上』もそういう形をとった。そして、石田波郷の跋文は、『咀嚼音』と『途上』については、他の馬酔木作家の句集のそれより何故か厳しいように思われた。そのへんの詮索・解明は後日にゆずるとして、『咀嚼音』跋文の厳しさを感じさせる原因が、実はこの「ぬばたま」の句に対する批判に発しているのである。波郷は、清瀬病院に入院中の昭和二十四年にも、「馬酔木」に寄せた随筆「仰臥日記」の中で「ぬばたま」批判をやっている。その後『咀嚼音』発行の二十九年に、再び跋文の冒頭で、かなり強い調子で繰り返しているわけだから、この句がよほど気になっていたのだろう。波郷の言うところをここに詳しく紹介する余裕がないが、要するに、戦後の「馬酔木」の興隆を担うべき新人が、このような趣味的・非現代的な句をつくることは合点がゆかぬ、というものである。

 波郷が、五年前に書いた「ぬばたま」批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、

  長靴に腰埋め野分の老教師

という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当り障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賤な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に「ぬばたま」の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に「ぬばたま」があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけれど、私はあえて自分の推理をたのしむ。「ぬばたま」の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。

 もっとも、私かそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの「ぬばたま」対する愛着が、とりわけ深いということを感じとれるからだ。この句の初出は「馬酔木」二十三年三月号、すなわち能村さんが初巻頭を獲ったときのものであり、また、同年末「馬酔木賞」を受賞したときにも、この句が推薦作として入っているのである。自註シリーズの『能村登四郎集』に、「秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである」とあるのをまつまでもなく、こうした要の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。

 『咀嚼音』の草稿に、「ぬばたま」が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」


 以上「ぬばたま」伝説について、波郷、湘子の考えを述べた。最後に、もう一人重要な人物の見解を聞いておこう。山本健吉である。


【伝説資料6】

「つい先ごろ、私は登四郎氏が、自分は昔から波郷より楸邨に親しみを感じていたとの告白を聞き、やはりそうだったのかと思った。『合掌部落』が発表された時、私も取上げて讃めたことがあるが、言ってみればあれは当時の「社会性」俳句の時代色が濃厚に見られ、波郷より楸邨の句境に近づいていたと言えるのである。波郷と登四郎とは、「馬酔木」の内部でも、暗黙の中での牽引力と反視力とが重なって存在したと思う。それは『合掌部落』以前から、登四郎の出世作ともいうべき

  ぬばたま の黒飴さはに良寛忌

を、厳しく波郷が批判した時から、胚胎していた。その批判の正否は、今になっていろいろに言われているが、理窟以前の問題で、要するに波郷の胸中のムシの問題だったろう。もっと生きていたら、どう言ったか、ただ笑って過ぎたかも知れない。私はこの句を、変らずよい句と思っている。

 登四郎氏は波郷のみならず、師の秋椰子にも、一点自分との隔りを、拒み通す心を持っていた。それを獸邨に惹かれたとか、社会性を目指したとか言ってしまっては、少し間違うだろう。氏の美意識の根は、やはり獸邨より秋椰子や波郷と共通するものが多い。ただその反面に、その二人を拒もうとする潜在下の意識があって、それは相手にも暗黙に伝わるのである。秋椰子と波郷の間にあった黙契が、秋椰子と登四郎氏との間ではマイナスの諒解として作用したようだ。結社内の師弟関係とは、芭蕉と其角・嵐雪、あるいは去来、丈草、あるいは路通、杜国などの関係を見ても、単純に割切ることは出来ない。」(「沖」昭和60年10月「登四郎・翔そして耕二――沖に寄す」)


 湘子、健吉の文章は、「ぬばたま」伝説だけでなく、この句を踏まえた登四郎の本質にまでさかのぼる優れた批評であろう。

 しかしそれはそれとして、一句十年をへて、やっと秋櫻子の賞賛を得て巻頭を得た「ぬばたま」の句が、直ちに波郷の批判する所となり方向の変化を強いられた。その後、第1句集『咀嚼音』でも波郷に落とされ跋文でも批判された「ぬばたま」の句を、登四郎自身の判断で20年後の定本で復活させる。こんな壮大な伝説はなかなか見る事が出来るものでは無い。なるほど、美しい伝説ではある。しかし、本当にそれは正しい歴史なのであろうか。以下それを考察してみたい。


【注】波郷のこの批判を受けるに当たって登四郎が書いた言葉を眺めておこう。


【伝説資料7】

「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参篭と言ふアトモスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあったが今の苛烈な世相の中ではそれがうすれっつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。

 関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の溯は又一つのうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもっと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。

 俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。

  しらたまの飯に酢をうつ春祭

 私はこの句のもつ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思ってゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遙かに佳いものを期待してやまない。」(馬酔木24年1月「前進のために」)


 「前進のために」は秋櫻子が設けた若手のための相互批評欄であり、この回は、水谷晴光の特別作品「法隆寺」を登四郎が批評している。この時の特別作品には「松籟にこころかたむけ月を待つ」「十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ」「坊更けてはばかり歩む月の縁」等が含まれていて、いかにも古臭い作品であった。当時の馬酔木は誓子が創刊した「天狼」への恐怖心が大きく支配しており、「もっと現代色の濃い作品を」は頭で十分理解できるのであるが、しかし「しらたま」の句が美しくはあっても「今後の馬酔木の句はかくあるべきだ」とはとても思えない。波郷が反感を抱いてももっともなのである。

(続く)