⑦冷酒讃歌 澤田和弥
地球物理学者にして近代日本を代表する随筆家、東京大学教授、文豪夏目漱石の弟子となると、私のような凡人は腰がひけてしまう。才人寺田寅彦である。「天災は忘れたころにやってくる」のアフォリズムはあまりにも有名。この寺田先生、新酒がどうもお好きだったようだ。新酒は秋の季語。収穫後の米をすぐに醸造していたため。
ひしこを得て厨に捜る新酒哉 寺田寅彦
客観のコーヒー主観の新酒哉
ばうとして新酒の酔のさめやらず
柿むいて新酒の酔を醒すべく
ひしこは鯖の糠漬け。かなり塩辛く、酒の肴には全くもって抜群。それを得たからには必然的に酒。新酒ともなればなお格別。大のおとなが台所で新酒を捜索する姿はなんとも微笑ましい。客観主観にコーヒーと新酒を対置。俳句は十七音の文芸。全てを語ることは難しい。提示されているのはヒント。どう捉えるかは読者に委ねられる。「主観の新酒」。あなたならばどう捉えるだろうか。さあ、先生。「ばう」としたり柿を剝いたり、酔い醒ましに奔走中。酒を前にして人は平等である。ここに描かれているのは酒好きのおじさんの日常だ。微笑を禁じ得ず、思わずポンと肩を叩きたくなる。
膝がしらたゝいて酔へる新酒かな 大橋櫻坡子
そうそう、どちらもポンと、ポンと。
寺田寅彦の師夏目漱石も新酒を句にしている。
憂あり新酒の酔に托すべく 夏目漱石
ある時は新酒に酔うて悔多き
漱石先生は神経質で憂鬱質。その憂いを新酒に托すものの、今度は飲み過ぎて「悔多き」。負のスパイラル。でも痛いほどわかるのです。そのお気持ち。「ちきしょう」と酒を呷り、翌朝の二日酔い。そのうえ昨夜は酔態を曝してしまった。沸々とした憂いが日常の憂鬱と結びつき、また酒を。世間とはそういうふうにできている、のかな。きっと、そう。
漱石の友人正岡子規は新酒をこう詠む。
小便して新酒の醉の醒め易き 正岡子規
ありのままとは言え、小便か。確かに放尿するとふと酔いが醒めることがある。新酒で心地良くなった体が、厠にて秋の夜風にふと醒める。「あれ、何やってんだ」と思うのは真面目なお方。「よし。これでさらに飲めるぞ」と思うのが酒飲みの習性。なんともおめでたい。めでたいことは佳いことなので、勿論これでよい。
君今來ん新酒の燗のわき上る 正岡子規
沸き上がったら一大事。風味も何もなくなってしまう。はよ来い。はよ来い。いかにも人が好きな子規らしい句。こう言われたら私なんぞは取るものもとりあえず、子規庵に向かうだろう。酒を飲みたく、子規に会いたく。
子規の弟子であり、近現代俳句の巨星高濱虚子は新酒でこんな句を。
呉れたるは新酒にあらず酒の粕 高濱虚子
そう。そりゃ、ね。この酒粕で粕汁や粕漬をつくれば、さぞ旨かろうよ。でもね。しかしね。やっぱり酒粕じゃなくて新酒の方が、ありがたいなあ。
人が酔ふ新酒に遠くゐたりけり 加藤楸邨
もう我慢できない。遠くになんていられない。酒粕じゃなくて新酒だ。新酒が飲みたい。どこだ、どこだ。
風をあるいてきて新酒いつぱい 種田山頭火
おお、ようやくあった。しかもいっぱい。さてさてどれから飲もうか。
新酒の栓息吹く如く抜かれけり 長野多禰子
シュポンと。あの音が旨い。そしてグイと傾けた一升瓶からトクトクと麗しの酒が流れ来る。
だぶだぶと桝をこぼるゝ新酒かな 下村牛伴
「だぶだぶ」がよい。もう、喜びに涙がこぼれそうだ。そして酒は桝をこぼれ、受け皿に広がる。「おっ、とっと」とでも言いながら、桝を斜(はす)に持ち、角から。まずはこの香りを。
新酒愛づ立ち香ふくみ香残り香と 清水教子
立ち上がる香り、口にふくんだ香り、喉を過ぎてからの余韻。まさに「愛づ」。どんな新酒かは記されていないが、これだけ香りを味わうほどに愛しているのだから、それはそれは旨い酒でしょう。飲んでもいないのに、今、私の鼻に口に幻の香りが。さあ、もう、くうっと、くううっと。
のむほどに顎したたる新酒かな 飯田蛇笏
おっと。失敬。でもこの「したたる」が旨い。いかにも新酒を味わっている姿。これは古酒では似合わない。ましてやビールでは単に酔いすぎたゆえの粗相である。
したたらす顎鬚欲しや新酒酌む 平畑静塔
顎鬚にしたたらせるとは貫禄の域。若輩者にこのいぶし銀は表せまい。ただし「欲しや」なので、実際には生えていない。もしくはそういう御仁を目にして「俺も欲しいなあ」ということか。酒飲みは憧れるのです。粋で貫禄のある飲み姿を。そういうときは着流しとしゃれ込んでみたい。ビール腹を隠せる服装ならばなお結構。
肘張りて新酒をかばふかに飲むよ 中村草田男
両手で桝を持つと、確かに肘を張り、まるで桝を庇うかのような格好になる。別に誰かに盗られるとは思っちゃいない。庇っているように見えるのは、隠しても隠し切れない酒への愛ゆえ。一口、一口、大切に。でも、したたらすほどに。快楽の戯れということで。
生きてあることのうれしき新酒かな 吉井勇
今、生きていて、そしてこの新酒と戯れ、味わっている。だぶだぶ注いで、顎からしたたらせ。喜び、嬉しさ。素直な気持ちがそのまま俳句になっている。人は「生きたい」と思い、「死にたい」と思う。いずれも苦境のとき。再びの幸せを求めて「生きたい」、再びの無を求めて「死にたい」。求める気持ちは同じ。しかしその結果には重大な差。そして人は「生きている」と感じるときがある。これは苦境を脱し、喜びに溢れているとき。「生きて」、今ここに「ある」という実感。「生きている」ために我々は生きている。その歓喜を新酒と、仲間と分かち合いたい。それもまた酒という幸福の一つであろう。
真面目くさったことを書いてしまった。なんだか急に恥ずかしい。お酒、お酒。
新酒酌む口中の傷大にして 櫂未知子
いてててて。そんな絶対に浸みるのに。嗚呼、しかもそんなグイッと。ほら。やっぱり。言わんこっちゃない。しかし、それでも口にしたい新酒の魔力。なにせ「酒」というだけでも魅力充分なのに、それに「新」がつくのだから。新し物好きは酒飲みに限ったことではない。「新酒」。まさに魔力である。ただし可能であるならば、その誘惑に負けたい。たらふく飲みたい。魔力は魔力でも、かわいい悪魔ちゃんである。
一本は彼女の為の新酒かな 稲畑廣太郎
この「彼女」はloverだろうか。それもsheであろうか。前者ならば「この一本は私の分ではなく、彼女へのプレゼントです」となる。後者の場合、プレゼントはプレゼントでも、酒席にて「これは今日の主役たる彼女のためのものです。さあ、一本、どんと味わってください」とも読める。loverであれば二人だけの関係性を思い浮かべるが、sheの場合は大人数の中のその女性という状況も考えられる。勿論loverでもsheでもなく、かわいい悪魔ちゃんの可能性もある。新酒好きの悪魔ちゃん。今宵もネオンがまぶしい。
二三人くらがりに飲む新酒かな 村上鬼城
こちらはネオンも届かぬ暗がり。森の中か、灯りも点けぬコンクリート・ジャングルか。それとも何処かの小屋か。何か土俗的な匂いすらする。新酒の華やぎはない。「二三人」なので、状景を確定できない不安も浮かぶ。まるでムンクの「叫び」を観ているような。あ。もしかしたら、実は隠れて飲んでいるだけか。本当は飲んではならぬ新酒をこそこそと。まるで私を見ているようだ。休肝日にがさごそと。「叫び」と私。まあ、顔だけ見れば似たか酔ったか。いや、寄ったかである。
そばかすをくれたる父と新酒酌む 仙田洋子
お父さん感無量。新酒というだけでも喜ばしい一杯を愛娘とともに。二人の顔にはともにそばかす。確かに父子。似ている。そして、酒好きなところも。似ているパーツの中から「そばかす」というあまりありがたくないものを選び、それを「くれたる」としたところに父への慈愛を感じる。「愛」と言っても甘やかな状景ではない。あくまでも新酒。キリッとパリッとした涼しさのなかで、肩の力のふと抜いた風景。父の気恥ずかしくも、嬉しくてたまらない様子が浮かんでくる。新酒が全てを演出する。
新酒汲み交はし同居の始まりぬ 中村恵美
同居一日目。理由のない私の退職と理由のある父の急逝で、母との同居はバタバタと話が進められた。荷物をほとんど置きっぱなしにしていた部屋にアパートからの荷物がなだれこんで、まさに混沌。私も母も片付ける気もなく、家の中をふらふらしているうちに夜になった。いつの間にか母が作っていた夕食。テーブルの真ん中に地元の新酒四合瓶がどかりと立っている。両親が使っていた切子グラスが今、私と母の前にある。母は無言で栓を開けると父愛用であった赤の切子にたふたふと注いだ。今までじっとしていたが、手を伸ばし瓶を受け取る。母愛用の藍の切子へてふてふと注ぐ。お互いの目が合う。切子を軽く額ぐらいに上げ、まずは私から。
「これからよろしく」
「こちらこそ」
辛口のすっと流れ込む感覚。秋の夜はまだ長い。同居が、始まった。そんなドラマが頭の中で始まる。新酒の情緒。
新酒は米と水という神々の力を杜氏たちが光り輝く一滴に凝縮したものである。気安くではなく、心から味わいたい。そして楽しく酔いしれたい。神々の宴も新酒を酌み交わしながら、よほど楽しんでおられよう。神々のようにとまでは言わずとも、どっしりと貫禄のある飲み姿でありたい。
国取りの国なる新酒汲みにけり 有馬朗人
(2022年10月28日金曜日)