2024年11月15日金曜日

澤田和弥句文集特集(2-1) 第2編美酒讃歌 ➀麦酒讃歌

 澤田和弥は酒が好きである。およそ10編ほどのエッセイがある。私は澤田と酒席を一緒にした経験はないが、多くの交友は酒席で進んでいたというから、澤田の俳句の秘密と微妙にかかわっているかもしれない。そうした澤田の俳句の秘密を紹介したい。――筑紫磐井

 第1回の「麦酒讃歌」は「天為」に掲載したものであるが、転載して紹介したいと思う。(表題の「美酒讃歌」は編者が仮に名付けたものである)

 

➀麦酒讃歌(「天為」より転載)    澤田和弥

 どうにもこうにも酒が好きである。 乾杯の二、三秒後には口中から喉へと流れゆく麦酒の心地よさ。脂ののった〆鯖の後を追うように流れるぬる燗のときめき。わいわいと昔話に興じながら流す酎ハイのさわやかさ。どれをとっても酒とは気持ちのよいもの。度さえ過ぎなければ、まさに人生の潤滑油、百薬の長である。たびたび度を過ぎてしまうことは、ここでは棚に上げておこう。


 ガラガラガラと引き戸を開けると「いらっしゃい」という女将の声。空席を探して、よいしょと。さてさて何にしようか。「とりあえずビール」。そう、ビールである。ビールは夏の季語であり、夏といえばなんといってもビール。しかしこの「とりあえず」は春夏秋冬新年変わらない。ビールは苦手という方もおられるが、私なんぞはまずはビールで喉と心を潤し、さて肴は、といきたい。なにせビールは


  ビール一本夢に飲み干し楽しみな  高濱年尾


というほどの代物だから。この句は「一本」とあるので瓶ビールだろう。内田百閒は旅に瓶ビールを持っていったそうだ。あの重い瓶ビールを。酒飲みとはかくありき。瓶ビールも勿論旨いのだが、まずはぐいっとジョッキを傾けたい。そうそう、生ビール。


  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる


 「生きてゐる価値」とはまた大袈裟なと思いつつ、一口目の旨さは確かに万金に値する。あの至福は「生きてゐる価値」に加えても遜色なかろう。病床で酒の飲めぬときは生ビールの最初の一口が何度も頭に浮かぶ。元気になったら、まずは酒場へ。心やすけく元気なときはぐいぐいと杯が進む。


  安堵とはこんなにビール飲めるとき  坊城中子


 「えっ!もうそんなに飲んだっけ?」というのは楽しんでいる証拠。酒は楽しく、気持ちよく。


 私は恥ずかしながらいまだ外国に行ったことがないが、こんなに旨そうな海外詠がある。


  黒ビール白夜の光すかし飲む  有馬朗人

  この国の出口は一つ麦酒飲む  対馬康子


 黒ビールに白夜の光を透かしながらとはなんともお洒落だ。酒を飲むときは酒だけではなく、その場の雰囲気にも酔いしれたい。「出口は一つ」とは空港が一つしかないということか。それとも陸路か。いずれにしても蒸し暑い国をイメージした。空港であれば、そこのちょっとしたカウンターで一杯。あまり冷えておらず、氷を入れたりして。ビールが旨いのは万国共通、日本だけのことではない。しかしながら海外ビールよりも日本のビールの方が好きなのは、性と言おうか、業と言おうか。


 ビールは一人でも旨いが、気の合う人と飲むのもまた格別。


  麦酒のむ椅子軋らせて詩の仲間  林田紀音夫


 詩は万物の根源、心の奥底を紡ぐもの。その仲間であるから気心の知れた仲。「椅子軋らせて」を詩論激しく戦わせているのか、それともゆるりとまったりと、と捉えるか。読み手に委ねられるところだが、いずれにしても満たされたひとときである。


  同郷といふだけの仲ビール干す  佐藤凌山


 東京などの大都市にいると「同郷」ということがなんとも心強い。大学時代に県人会に所属していた。それこそ「同郷といふだけの仲」である。よく飲んだ。とてもよく飲んだ。同郷の仲を「わざわざ東京に出てきてまで」と言う者もいたが、何を格好つけているのだろう。やはり嬉しいのだ。その嬉しさが末尾「干す」に集約されている。「飲む」のではない。「干す」。似た感覚に


  阿蘇人と阿蘇をたたへてビール抜く  上村占魚


という句がある。故郷を誉められることはなんとも嬉しい。「阿蘇人」は常連だろうか。それならば他の常連も巻き込めば、さらに楽しい。瓶ビールの王冠をシュポンと抜き、さて今宵のはじまりである。かしこまった席ではなく、大衆酒場の一景と考えたい。


  うそばかり言ふ男らとビール飲む  岡本眸


 男は虚栄心のかたまりである。勿論女性もそうである。しかしこの句が「女ら」であったならば、なんとも苦いビールである。男たちが酒の勢いで嘘やほらを並びたてる。だから楽しい。場も盛況。現実はつらい。せめて酒の席だけでも。「男ってバカね」というのは蔑みではなく、あたたかさ。それを包み込む酒場という器。


  ビール呑み先輩もまた貧しかりき  栗原米作


 こちらはさびしい。学生時代か、大部屋時代か。ビールを呑んで憂さ晴らしといきたいところだが、財布の中はお互いに……。しかし先輩は「おごる」と言う。安い金額ではない。財布を取り出しても「いいから、いいから」と。先輩とはそういう生き物である。下五の字余りが涙を誘う。


  人もわれもその夜さびしきビールかな  鈴木真砂女


 こちらもまた。はじめてこの句を目にしたとき、私は小料理屋の女将と常連の男一人をイメージした。登場人物はこの二人だけ。カウンター越しに男の愚痴。「他に客もいないし」と女将のグラスにビールを注ぐ。ちびちびと一口ずつ。しかしそれは作者「鈴木真砂女」のイメージに引っ張られ過ぎていたのかもしれない。今は、立ち飲み屋をイメージしている。カウンターの内も外も賑やかで大忙し。そのなかでひとりポツリとさびしく飲んでいると、隣にもう一人。常連だろうか。たびたび見る顔だ。ビールの表面ばかりを見つめ、飲み方もちびちびと。たまに漏れる小さなため息。自分と同じ人がもう一人。がやがやとした店内にふとしたエアスポット。だが、話しかけることはない。大人の礼儀というもの。私自身が「さびしき」人になってきているのか。そのようにこの句を読むようになった。生ビールではさびしくない。中瓶と片手におさまるビールグラス。そして飲み方はちびちび。このようなさびしさに滑稽を見出したのが次の句。


  誰もつぎくれざるビールひとり注ぐ  茨木和生


 大勢で飲んでいるときに手酌は不粋。しかし誰もついでくれない。仕方なく自ら。よくある光景であり、誰しも経験したことがあるだろう。これが一句になると、さびしいのだがなぜかうなづかずにはいられない共感と滑稽を思う。「ビール」ゆえにパーティ等でポツリとひとりになった感じが出ている。これが「冷酒」や「焼酎」では場面設定すら大きく変わってしまう。


 さびしくなってきた。ひとり酒は体に悪い。ぱっと明るく。


  ビール溢れ心あふるる言葉あり  林翔


 溢れるビールがなんとも旨そうだ。パーティか、送別会か。ビールとともに溢れる言葉がきらきらと輝いている。まさに黄金色。ビールの開放感が心地よい。この言葉、ぜひとも先述の先輩にもかけてほしい。


  遠近の灯りそめたるビールかな  久保田万太郎


 ビールを飲みはじめるのは終業後の夜、または宵の口であろう。上五中七の広く漫然とした景を下五がきゅっと締めている。締めつつも「かな」というやさしい切れ字が充実した心のゆとりと満足感を伝える。


 されども、格別に旨いのは昼。


  旅なれば昼のビールを許されよ  永田豊美


 昼、特に平日の昼にビールを飲むことは少なからず罪悪感を伴う。皆、仕事に学業に勤しんでいる時間帯。私だけいいのだろうか。うん。いいのだよ。この罪悪感と解放感がことのほか、ビールを旨くする。そのうえ旅中ともなれば旨さはさらに倍増。詠み上げるのではなく、語りかける文体がさらに憎らしい。許す反面、許したくない気持ちがどうしても拭えない。自分が飲む側であれば、このような気持ちは全く起こらないのだが。


 俳句の力か、ビールは飲む前から旨い。


  大声の酒屋のビール届きけり  太田順子


 「大声」がいい。元気いっぱいの酒屋がガタガタとケースに瓶ビールを鳴らしながら、届けてくれた。この句の中では一口もビールを飲んでいない。届いただけだ。しかしなんとも旨そうだ。これからキンキンに冷やし、食卓へ。王冠をコンコンと二、三度叩いてシュポっと。グラスに注がれる溢れんばかりの白と金。唇に触れた瞬間の泡のやわらかさ。さあ、一気に喉へ。ここまで書くのは読解過剰かもしれないが、この句を前にするとどうしてもそこまで頭の中が行ってしまう。つくづく、私は酒飲みだ。キンキンに冷えたビール。


 ビールを飲むときはその雰囲気にも酔いしれたいと先に書いた。ビールにはビヤホールやビヤガーデンという特別な場がある。ビヤガーデンは屋外という開放感があるが、ビールがすぐにぬるくなり、虫を追い払いながら飲まなければないないので、ビヤホールの方が好きだ。


  さまよへる湖に似てビヤホール  櫂未知子


 「さまよへる湖」と言えば楼蘭のロプノール湖。ロプノールとビヤホール。なるほど。確かに似ている。そして杯が進めば目の前はさまようかのようにゆらゆら。お手洗いに立とうものならば「あれ?席は」とさまよって、と書いてしまっては滑稽が過ぎるか。ただビヤホールという空間は、ロプノール湖のようにいつまでも浪漫に魅了される場であってほしい。


 昨今、発泡酒や第三のビールの登場により、ビールが贅沢品になりつつある。しかしながら、ビールは庶民、大衆のものでありたい。ともに喜びを分かち合い、さびしいときには肩に手をぽんと置いて隣にいてくれる存在。


  ビール酌む男ごころを灯に曝し  三橋鷹女


 心を曝すことなどなかなかできぬ、世知辛い世の中。ビールを酌めば。酒に逃げるのではない。喜びをさらなる喜びに、さびしさに救いを。一杯のビールが心に一灯をともす。ビールを知ることは、相棒を得ることに似ている。人は一人では生きられない。だから今日も私たちはビールが飲みたいのである。


  生きてゐる価値の一つに生ビール  河西みつる

(2022年7月15日金曜日編)