③まほろば帯解俳談抄(語られた本人が語る) 筑紫磐井(豈)
現代俳句協会の仕事で奈良に行くことになったから併せて堀本さんの見舞いに行きたいと電話してみた。豈は忘年会を毎年やっていたがこれに毎回律儀に参加してくれていたのが堀本さんだった。ところがコロナの為2020年以降忘年会を開催できなくなり、再開した時には今度は自身の体調の不調で参加できなくなった。よく会っていた人が久しく会えなくなったので、ぜひ会いたいと思ったのだ。
ところが堀本さんは意外に元気であった。生駒まで来るのは大変でしょう、名所と言うと山の上のお寺(宝山寺。階段1000段)があるけれど登れる?私はとても登れないから一人で登る? 奈良なら行けるし、堺谷さんを呼ぶから、という話からどんどん広がり、帯解(おびとけ)窪之庄町に歌人・北夙川不可止(きたしゅくがわふかし)さんが改築された古民家があり水輪書屋(すいりんしょおく)となづけた歌会、句会や講演会などのイベントを開ける場所があるから、豈の関西同人や知り合いに声をかけてみようという話にどんどん、発展し、「筑紫磐井を囲む会」にまで広げてくれたのだ。豈同人に限らず、歌人や川柳作家、研究者、伝統俳人、前衛俳人と、属性を定義しきれない人々となるらしかった。
段取りや司会は堺谷さんが緻密にやってくれたが、最初のテーマは3協会統合論とユネスコ登録問題であった。こんなマニアックなテーマに果たして付き合ってくれるかと思ったが、協会幹部以外発言の場がない俳人にとって、協会批判や幹部の動静はそれなりに面白がってもらえた。或いは、協会分裂する前の、金子兜太や沢木欣一、原子公平たちの酒を飲みながらの「放談」とはこうしたものなのかなと思った。そうした話が消えてしまったのが、この60年だったのかもしれない。
特にユネスコ登録問題は大井さんと私が対立しているように見えたらしくて、豈同人同士がどうなっているのか、と堀本さんが心配してくれて、大井さんにも電話したらしい。両者そろっての西下の機会である。そろっての参加は勿論叶った。大井さんのユネスコ登録に対する見解は、「俳壇」11月号の「俳句時評」に載っているが、私の見解は「俳句四季」1月号に載る予定だ。大井さんと私の主張は問題の表と裏を語っているもので根本的に対立しているものではないと思う。堀本吟の感想は「俳句界撹乱戦術」だそうだ。言い得て妙である。
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その後席を移して近鉄奈良の近傍の「櫃屋」で食事しながら、昼の話題を中心にして放談のさらに放談が続けられた。話が行ったり来たりする中で、正論、暴論、激論、無茶苦茶論が行き来するのも新しい時代のためには必要なことだ。私個人に関して言えば、歌人・北夙川不可止と向かい合って聞いた巨大な結社「アララギ」がなぜつぶれたのかという話は興味深かった。短歌に比べて俳句が絶望的なわけでもないようだ。いや、皮肉を込めて言えばどのジャンルも絶望的なのかもしれない。
ということで、実り多いというか、「放談」の本意が如実に示された会であった。「俳句」や「季語」の本意より、「放談」の本意の方が、協会の中で閉塞している現代俳句にとって重要なのではないかと思われた。私としては、昭和31年に金子兜太と「夜盗派」「十七音詩」「坂」で発足した新俳句懇話会が後から考えると前衛の先駆けとなったと言われるように、50年後にこの会が俳句3協会統合の決起集会であったと回顧されるかもしれないと期待している。
本会の開催を努力していただいた、堀本さん、堺谷さん、その他ご参加いただいた各位に感謝申し上げる。
[注]「豈」の年間刊行回数が減り始めたとき、関西でも編集を担当してもらえないかと堀本さんに打診した。この成果が「豈」39-2(特別号関西篇。2004年12月15日刊)である。なぜ、枝番がついているかというと、編集途中で編集委員(小池正博、樋口由紀子、堺谷真人、岡村知昭、故大橋愛由等、堀本吟。今回大半の方が集まって頂いていた)から報告を受けているうちにとても1年では出ず、後の号が追い越してしまうのではないかと危惧されたからである。評論特集は順番があまり関係ないが、俳句作品は順番が前後すると都合が悪いので枝番にしたのだ。この時堀本さんからなぜ枝番になるのかクレームを受けたのである。しかし、たっぷり時間をかけた編集は大成功であった。