2024年11月29日金曜日

まほろば帯解俳談抄――筑紫磐井・大井恒行を囲んで②

 ➁まほろば帯解俳談抄拾遺         堀本吟(豈)

其の一

 ことの発端は、奈良市で開催された現代俳句協会全国大会に、副会長として出席された筑紫磐井さんが、その帰りに、生駒に立ちよって堀本さんをお見舞いにゆきたい、という申し出からはじまった。磐井さんは、このじゃじゃ馬の私が、ついに老いて気も弱くなり衰えゆくことを、心配してくれたのである。緑内障がもとでヒダリ目がつぶれたとか、顔面麻痺のPicassoばりのキュビズムの顔つきでムンクのように瘦せこけた頬を抑えて嘆いているとか、おまけに膝が弱って歩けなくなり、と大騒ぎするものだから、大丈夫かいな、と心配してくださった。そして、生駒は奈良市よりずっと遠い辺鄙な山奥なのだと、彼が思い込んでいる節もあった。

 確かに、私は、八十歳を超えてから、だんだんいろんなことができなくなって、実行力も頭のまわり方も、文章の速度も落ちてきた。増えたのは、物忘れと入力ミス、間違いクリック。これ以上、世界が見えないような生活になったらどうしよう、と不安が嵩じ、いくぶん鬱的になっていた。が、日常の起き伏しは、まだどうにかできる。だから余計に、この「誤解」がうれしかった。

 私は、とたんに元気が戻ってきた。まだ、できる・・・。

 そして、何を考えたか、というと・・・。

 せっかくのチャンス、家族だけで会うのもいいが、もう少しおもてなしの範囲をひろげて、まことに大胆な俳人であり犀利な論客であるこの人を、私の友人たちに直接に会わせておきたい。私が死んだ後も、この関西の地に、磐井さんを親しく見知ってくれる人を拡げておこう、という願望を持った。そして最近、読書会でよく出会っている堺谷真人さんに相談して今回の企画となったのである。同じく、現代俳句協会の大会に参加した大井恒行さんが途中からフォローに入ってきてくれた。大井さんは最新句集『水月伝』(ふらんす堂)を出された。これは現代俳句に生きる無季俳句の佳品が多く見られる。

 ものごとなべて個人的な動機や些細なきっかけから生まれる。何気ない気づかいが人を力づけつないでくれる。蛸壺状に散在している人間関係をほぐす。草の根っ子で出番を待っている発展途上の人のモチベーションを目覚めさせることもできるかも知れない。今回は、そのきっかけとして、「彼―筑紫磐井」の問題意識を十全に引き出そう、という試みである。それをばねに、私も今の自分の退嬰性から向きを変えたかった。

 そして、私は、この「初心」を記念して、今回の集まりのタイトルを「筑紫磐井さんを囲む会」と名付けてもらうことにした。

 それからの次第は、堺谷さんが書いている通りである。これも、堺谷スタイルというべきか、古典的意匠を凝らした文章運び。言葉の本質にかかわるむずかしい話題も出てきた2時間を、わかりやすく軽妙な報告文にまとめてくれている。かつての「黄金海岸」や初期の「豈」に残されている俳諧無頼の雰囲気がどこかよみがえっている。また、前世紀末のニューウエーブのミニ同人誌のシンポジウムの集まりには、解放感とともに知の深みへ誘う、このような祝祭空間が生じていたかと思う。こういう会では、とかく話題は広がりすぎるものだが、堺谷さんのメリハリの利いたまとめや誘導なくしてはなり立たなかった。進行の質問が要を得ていたし、参加者へ返してゆく振りわけ方もよかった。そして、全体に、質の高い応答になっていた。それぞれが記憶の中でこれを消化してくだされば、今後の思考のヒントになるはず。

其の二

 オフレコの放談会、と言うものの、質問に答える磐井さん、大井さんは、俳壇事情を語っているように見えて、日本語で成り立っている短詩「俳句」の命運を押さえながらの放談だった。

 クライマックスは最後に生じた。SKさんが、「天狼」の支柱である「根源俳句」について質問し、さらに、磐井さんがそれに答えて、「天狼系」の同人誌「雷光」と結びつけて話題を拡げた一幕である。(「雷光」は西東三鬼指導から出発したが、のちに「天狼系前衛俳誌」と表題を変えて、その指導を排除した)。さすが、関西俳壇の動きを見つめ続けてきたSKさんだ。彼は、川名大も筑紫磐井もそこにあまり触れていない、と指摘した。

 皆さん気が付かれただろうか? じつは、これこそ関西の地でなければ出てこなかった話である。「三協会統合」を唱える筑紫磐井来たりて、かたや、川名大の『昭和俳句史』(角川書店)の論点がそろそろ検証されよう、という現在の俳句史の転機のタイミングをとらえたもの。「豈」に腰を据えた東西の論客二人の対峙であった。(「天狼」内部の根源俳句論争が、当時の社会性俳句や前衛俳句とのかかわりで総合的に見られてこなかったのではないだろうか?)私は俄然興味がわいてきた。

 磐井さんのコメントは、私たち在関西の「豈」同人たちが中心になり、編集制作した「‐俳句空間‐豈」特別号関西篇39-2(2004年)《関西前衛俳句》特集の「雷光」に関する記事を参考にしている。橋本直と堀本吟が「雷光」3号や、8号、13号を取り上げている。この号で、私たちは、この時期の関西で、社会性俳句や前衛俳句につながるテーマがいまだ整理されていないことを、ほんの端緒であるとしても、提示している。

 同人誌「雷光」は、「天狼系雷光俳句会会報」として、「天狼」創刊とほとんど同時、昭和23年に創刊。8号は表紙に「天狼系前衛俳誌-雷光」と表紙の肩書を変えて、「雷光改組の言葉」を宣言している。関西俳壇で「前衛」という名づけが出てきたのは、これが初めて、しかも「天狼系」と銘打っている。

 原資料には当たっていないのだが、「雷光」は終刊のころには、「前衛」の名をおろしていたように覚えている。そして、「天狼」を離れて「梟」(「夜盗派」と改題)、やがて島津亮、井沢唯夫、東川紀志男、立岩利夫の作家たちは、「縄」へ、さらに「夜盗派」(第二次)と新しい前衛俳誌を刊行した。鈴木六林男や杉本雷蔵は「頂点」を創刊、というように、それぞれの作家の信条に沿って、いくつかの小同人誌ができた。この辺はごちゃごちゃしていて私にもよくわからない。私たちがこれを取り上げた2004年段階では、一次資料の不足していたこともあり、このことに気が付かなかった。

 磐井さん、SKさん二人のやり取りを聞きながら、いまさらながらはっとしたことである。これは、磐井さんの話がきっかけとなり、この会が、関西俳壇に投げた大きなテーマとなろう。

 こちらの前衛俳句の動きは、実はまだ、関西でも、関東中心の戦後俳句史(とりわけ前衛俳句)にも、十分には整理されていないのである。これは、ぼけてなんかいられない。まだものが見えるうちに、なんとかしなきゃ、と思ったのである。

 「はい、もう買っちゃったから」と、いって、磐井さんからいただいた「お見舞い」は、かように挑発の味が焼き込まれたシュトーレンだったのである。そして、同志的友情と言うべき甘みも共に味わったのである。

 おかげさまで、私には、再び、元気がよみがえった。

 そういう顛末で終わったこの邂逅。磐井さん、SKさんお二人にはもちろんだが、この日に関わってくださった方たち全員にこころから「ありがとう」、を言いたい。(了)