『人類の午後』(堀田季何著、2021年刊、邑書林)を再読してみた。
堀田季何は、しなやかな言葉とごっつい語感、たおやかな思想が、きらきらと希望の光を紡ぎ出す。
私たちは今、何処にいるのだろう。
この句集を読んでいると私は、そんな感覚に誘なわれて世界への視野を拡げてもらう。
堀田季何の歩んだ道と想像力の翼が拾いあげる言葉たち。
その言葉の実感と真実に寄り添おうとする作者の姿勢がある。
私は、同時代に違う場所・沖縄からその魂の共振に震えた。
陽炎の中にて幼女漏らしゐる
陽炎(かげろう)とは、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象のこと。
道路のアスファルトの上で揺れながら踊るように風景が歪む。
物理的には、陽炎は追いかけても追いつけない自然現象。
その陽炎の中にて幼女がお漏らしをする。
この視座のやるせなくも遠く遠くに佇む世界への堀田季何の眼差しにふっと気づかされる。
他の句には、「塀一面彈痕血痕灼けてをり」「ひとりでに地雷爆ぜたる夜の秋」「ぐちよぐちよにふつとぶからだこぞことし」「自爆せし直前仔猫撫でてゐし」など世界の何処かにある戦地や紛争地など命がけで取材している戦場カメラマンさながらの肉迫振りの俳句世界も登場する。
そんなかつての前衛や社会詠の俳人、顔負けの俳句もあれば、これらの俳句を詠みながらも俳句定型と融合していく堀田季何のしなやかさが、句集では多くの俳句試行が効果的に成果を上げている。
息白く唄ふガス室までの距離
戰爭と戰爭の閒の朧かな
鳥渡るなり戰場のあかるさへ
堀田季何俳句は、今と歴史軸とを重奏的な俳句の弦で振るわせている。
私たちは広島・長崎・福島・沖縄などの悲劇を含めた世界の戦争や核の歴史を視て、どういった人々が犠牲になるのかを想像しなければならない。
その戦争や核の時代の歴史の視座を堀田季何もどっぷりとのた打ち回るように作句の格闘をし続ける。
そして立ち尽くすように世界の絶望を視座に据えている。
「息白く唄ふ」の句は、端的な史実の描写による歴史描写があり、歴史小説をしのぐほどリアリティーを過去の歴史から現在の「今」に引っ張り込むことに成功した俳句だ。
私は、ある沖縄戦体験者にどのように戦争に巻き込まれたかを質問したことがある。
その答えは、知らず知らずに巻き込まれていたから分からないという言葉だった。
堀田季何俳句で戦争を題材にした「戰爭と戰爭の閒の朧かな」は、三橋敏雄の「戰爭と疊の上の團扇かな」を髣髴とさせる名句だ。
「鳥渡る」の句も戦場の戦火の明るさへ飛んでいく渡り鳥の命を見る視座は、眼から鱗が落ちるようだ。
たとえば爆弾の被弾は手に触れてしまえば、皮や肉を削ぎ、骨を砕く。
この俳人の“怖れ”の距離感は、とても大切な実感を海外詠の中で身につけてきたのだろう。
堀田季何の傍観でなく本質を見抜いて俳句に込める批評性には、痛みの共振がある。
沖縄でいう「ちむぐりさ」というか。心の痛みの共振にも似ている。
これは、痛みを感じ取る感受性とでも言える。
いつかの前衛や社会詠では詠めなかった俳句がいくつもある。
それらいつかの先駆者たちは、戦争の時代に吞み込まれながらその時代に生きる上で生じる傷が創造の翼を剥ぎ取り、心の傷を背負いながらも戦争体験者が辿り着けなかった場所があった。
その歴史の暗黒地帯へ、果敢にナイフで切り拓くように希望の光を射し込みながら未だ足を踏み入れたことのない俳句世界へ堀田季何は、踏み込み始めているのだ。
その堀田季何の描写性の卓越したリアリティーも挙げておきたい。
鍬形蟲我武者羅足搔ピン刺せば
こどもの日ガラスケースに竝ぶ肉
冒頭に戾る音盤盆踊
鍬形蟲を標本にするためピンを刺すのだが、かの生命は我武者羅に足掻きをする。
その生命の我武者羅さがやけにリアルに脳裏にこびり付いてしまう。
「こどもの日」の何処かの町の肉屋のガラスケースに並ぶ肉塊にふっと思う。
現代社会の子どもたちは、この肉がかつて心音を躍動させて生きていた形を想像するにおよぶのだろうか。
まるで盆踊りの音盤が冒頭に戻る。そのエンドレスに社会の深層を深く思考することもなく機械仕掛けのオルゴールの玩具のように私たちは、この現代社会を踊り続けているのかもしれない。そんな現代社会への疑念が垣間見れる。
今生の父のかはりの櫻です
草摘むや線量計を見せ合つて
銃聲と思ふまで龜鳴きにけり
歴史書に前世の名前靑葡萄
夜濯のメイドしづかに脱がしあふ
堀田季何の俳句創造は、現代の語感で過去から今、縦横無尽に駆け巡る。
「今生の父のかはりの櫻です」「草摘むや線量計を見せ合つて」と後書きを読み合わせてみる。
「堀田家の殆どが廣島の原爆に殺されてゐる」とある。
堀田季何、自身が幼少期から長い間を国際的な環境で過ごされたとも複眼的な視座を獲得させる要因だったのかもしれない。
また核の世の批評眼が光る句が随所に見受けられた。
このように人類の午後に立ち現れる核の世の深層は、父の替わりを櫻とせざるをえない原爆の不条理であったのだろう。
核の世の此処で線量計を見せ合いながら今の現状を確かめ合う。
それら季語の「草摘む」を効果的に活かしながら詠んでいる。
歴史書に見つけた。私の前世の名前。それは、青葡萄というポエジー。
夜濯ぎの洗濯機の回転音のみ残してメイドは夜の快楽に呑み込まれていく。
私たちは今、何処にいるのだろう。
地球儀を回すように過去・現在・未来を俳句で縦横無尽に駆け巡る堀田季何俳句を読みながらふっとそんな漂流感を私は、いつしか覚えてしまう。
野に遊ぶみんな仲良く同じ顔
アーリントン國立墓地を穴惑
惑星の夏カスピ海ヨーグルト
冰水ここがカルデラここが森
ヨーグルトに蠅溺死する未來都市
野遊びのみんなが、同じ顔になっちゃう。
そんな現代批評が光る。
アーリントン國立墓地の死と穴惑いの生命の危機の揺らぎが対照的で絶妙な世界観を醸し出す。
変貌する地球において堀田季何の季語の活かし方が絶品だ。
「カスピ海」や「カルデラ」の俳句に見られる海外詠の巧みさは、決して旅行的な目線ではなく海外在住の経験にもよる独特な複眼の視座を内包している。
日常的に食べられるヨーグルトに蠅が溺死する。
其処に未來都市を暗示させる俳人の詠いっぷりに何処まで付いて行けるのか心許ない。
少なくとも私自身もまた地球の至る所へ想いを馳せて俳句を詠わねばならないのかもしれない。
そんな気持ちにさせてくれる素晴らしい句集だ。