「ふ、は鳥に」は依光陽子の第一句集である。通常本の帯というものはカバーのデザインと共に考慮され、縦寸法の半分よりさらに短く、高さ5ないし7センチ程度に収められ、そこに衆目を引く惹句が大きめに、また刺激的な色文字で刷られていたりする。
本書の帯は縦寸法の半分サイズを超えたいわゆる腰高帯である。カバーのない上製本にとってはカバーめいたものとしても映りつつ、それぞれ明度の違うグレーで構成された表紙と帯。帯には絞られたサイズの文字が配置されており、「渾身の第一句集」とある。渾身の、という言葉はこういう時に使うものだよね、と思う。
章題の一に平成10年の第44回角川俳句賞受賞作の『朗朗』があるが、内容構成は大幅に編集されている。冒頭に置かれた〈江の電に垣して住まふ椿かな〉は選考会で大峯あきらが取り上げた句だ。
大峯 〈江の電に垣して住まふ椿かな〉は実に巧いと思ったけどね。
稲畑 すぐ虚子庵だなと思って。
大峯 僕もそう思った。そういう句、わりと巧いんですよ。
(完全保存版 第60回記念 歴代受賞作品集 角川俳句賞のすべて/2014)
鎌倉・由比ヶ浜の虚子旧居は江ノ電の線路脇に位置し、その垣根は小さな踏切まで続いている。ここ虚子庵に訪う感動をどのように、と考えたとき、説話の語りのような「垣して住まふ」という口調が生まれ、且つ「椿」がじんわりと感慨の受け止め役を果たしている。磨き抜かれた言葉の配置でありながら、実にさりげない。
あったりめぇだろう!という声が聞こえてきそうだが、見て、どのように見えているか、どのように感じたのか、どの部分、どれを、どのように言えるのか。この四人がかりの綾取りのようなものが作句という行為であるなあ、と改めて感じることおびただしい句集である。
蝶々を捕へし網を軽くねぢる
捕虫網で蝶をつかまえるコツは、網を水平に動かすことである。上からかぶせてとろうとすると、蝶は左右に漏れ逃げてしまう。すくいとるように、横から振り回すのがいい、と、これは人からの聞きかじりである。捕らえた後、地面に網を伏せて網の半分を捻る。つかまえた蝶が逃げ出さないように。もし虫カゴを忘れてきたら、そのまま捻った網で持ち帰る。通気性もあるし、とり逃がす間違いが起きるのを防げる。子どもの頃、そんなことまで考えは及ばず、すぐさま触ろうとして網をひらき、蝶を逃がしたことは一度や二度ではなかった。軽く「ねぢる」、確実さと残酷さが交錯する措辞だ。
船虫の打ち合ふ髭の音やある
年詰まる桜の太きこの町に
一句目。磯でぼうと潮だまりなど眺めていると、足元を船虫がそくそくと忙しそうに行き交う。体長と同じぐらいの長い触角を揺らしながら、皆なにをそんなに急いでいるのか。人間が触角と呼んでいるだけで、あの長い立派なものは髭なのかもしれない。激しく打ち合う、そんな時もあるだろうか。ヒトの耳が感知しない音が潜んでいるかもしれない、「音やある」の問いかけは、機知でありつつもヒトへの自省、見えていても知り得ないことがある、未知への憧憬、そんな気配が漂う。
言えば言うほど野暮な気がするのは否めないが、書評なので書く。ひとことで済ませるなら、面白い。
二句目。一年の終わりが近づく実感を、住み慣れた「桜の太」い町を歩きながら思い返す。桜といえば、のどけからましい春の盛り、花の多寡や花季の長短は話題になるが、幹の太さはどうだろうか。見事な木を指すのにその太さが捉えられていて、大きな木が大事にされてきたのだろうか、などと想像が膨らむ。年末、裸木の前を通りながら、寒いなあ春が待ち遠しいなあ、という気持ちの中に、桜に恃む気持ちが含まれているのかもしれない。
いずれの句も観察の上で渉猟された素材が描写されながら、作者の「ものの見方」をくっきりと内臓し、且つ言葉のあやを巧みにあやつる。何より肝要なのは「言葉のあや」だ。一見目立たぬ、しかし選び抜かれ凝らされた、その工夫こそが言葉をして言葉たらしめるものなのだから。
ふ、は鳥になり昆布干す人が仰ぐ
渡りでなくとも、帰巣する鳥の群れでもいい。ひらがなの「ふ」に見える鳥の編隊が、ぱらりとほどけたのか、空広く拡散する。それを昆布を干す人たちが仰いでいる。昆布の産地は九割方北海道だ。昆布干しときいてすぐさま思い浮かべるのは礼文島あたりの昆布漁。玉砂利のしきつめられた干し場に、手作業で一枚ずつ昆布を干す。屈んで行う大変な作業だ。鳥を仰ぐ人は、仕事の合間、腰を伸ばそうと手を止めたのかもしれない。
「ふ」がひらがなの形を失う景を見ているのは作者でもあり、つまり作者は鳥と昆布干しの作業双方が見える場所にいる。鳥を捕らえていたカメラがぐい、と引き、散り散りになる鳥とそれを見る人の景に、一句のなかで後退、画角がぐっと広くなる。
この広大な感覚をもたらしているのは「鳥になり」という強引な、しかし楽しい断定だ。飛ぶ鳥の形状をひらがなだと感じるのは人間だけだろう。鳥が文字から鳥になる、フワトリニ、「ふわ」の音が不意打ちに、ふわりと、やわらかく来るのにも受け止めへの効果があるのかもしれない。(に、だったらにわとりになる)
むろん鳥ははじめから鳥である。「私」の認識の変化が観察に織り込まれている。ここにあるのは、物の描写のみで繰り出される静物デッサン的な表現――そこにあるのは見ている「私」と「物」のみである――から一歩踏み込んだ、実存的な視点だ。そもそも「写生」は画室から解放され、視点を遊弋させることから始まった。写生が本来持つ偶然性という性格が、修辞により一行内によく整理され、初句から結句へ流れている。
岸本(尚毅) 現場に埋没せずに、現場とは違うところで句を制御している面はありますが、それがあらわに見えないところに彼女の努力がある。ものすごい努力家だと思います。基本的には頭のいい作家だけれども、頭の作家であることを消すに十分な緻密さを持っている。(『俳コレ』合評座談会発言より/「週刊俳句」編集部・2011)
岸本のいう「ものすごい努力」とは、現場に埋没する=見た物を書くことが自明化することを否み、言葉としていかに取り組めるのか、吟味・研究を重ねていることを指すと筆者は思う。三十年弱を研ぎ続けた言葉があふれる、渾身の一冊の正体はそこにある。
涼しさの一篇を読み席を立つ
浚渫船見てゐる昼のビールかな
仏生会猫の器に雨が降る
一歩また草に沈みて露けしや
耕の音なきがらの髯剃るは
沢瀉の水に映りて月の暈
葭切も釣人もこの沼が佳く
うららかにもの食ひながら泣くことも
関数や瓢をなぞる雨の粒
初蝶のあと禿頭をわたす橋
音を送るね草の実入れて封をして
袖長きセーターばかり編んでしまふ
君はもう君の言葉となりて冬
細き窓よりあたたかな木が見えて
(『ふ、は鳥に』左右社/2026)