2026年5月1日金曜日

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(69)  ふけとしこ

   右へ

春昼や折れ線グラフ右へ右へ

足先で扉を止める花が散る

風船を捻る兎の耳になる

風船を連れて行きたい丘がある

海晴れて鰆のポワレ湯気立てて

・・・

 「秋の天文の季語で好きなのは何ですか」とのアンケートがあった。「霧」と答えた。するとそれを読んだ人から「へーえ。あなたが霧ねえ。人は見かけによらないねえ……」と言われた。

 昔「霧立ちのぼる秋の夕暮れ」百人一首のこの歌が好きだった。上の句がなかなか覚えられなくて「村雨の~」のところでさっさと取られてしまうのが悔しかった。

 「村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ 寂蓮法師」なのだが、何故あの頃この上の句を覚えられなかったのかよく分からないけれど。でも、今でも雨が上がりそうな頃に山肌を上ってゆく霧を見るのがとても好きだ。

 霧の中を歩くと睫毛に霧の粒がとまる。顔に霧の粒が弾ける。その霧の粒は私にぶつかって音を立てるようでもあった。あっという間に視界がぼやける。

 そのことを俳句にしたことがあった。

 霧って煙みたいなものじゃない。どうして粒なんていえるの? 粒っていうのはおかしい、と。もっと酷い言い方だったが、まさに酷評した人があった。

 私は黙っていた。この人には届かなくてもいいと思ったからだった。

 私の眼裏には一面の霧があって、小さな小さな霧の粒が流れてゆく。睫毛や前髪が濡れる。今や追憶の世界なのだが……。それでいいと思った。

 でも、と言いたい。霧は水滴だと。微小ではあるけれど、確かに粒なのだと。


 始発待つ顔に弾けて霧の粒 としこ


 これは昨年の作。

 埼玉県飯能市に石田郷子先生のお宅を訪ねた。

 山間の町にあるその家は近くに川があり、橋があり、バス停があった。ここでバスを待っていたら、こんなこともあるだろうな、の思いから出来た一句だった。

 

 流れゐる霧に面を打たれゆく 石田郷子 


(2026・4)