2014年5月30日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 100. 肉附の匂ひ知らるな春の母/ 北川美美


100.肉附の匂ひ知らるな春の母

『真神』の視点、それは神の視点ともいえ、小さくなった一寸法師の視点でもある。母の身体に入ったり、流されたり、揚羽に乗ったり、自己の葬儀に立ち会ったりと、とにかくその視点は変幻自在だ。

「春の母」が誰かといえば、少女時代の母と読む。夏でも秋でも冬でもなくあえて「春の」としていることがキーになる。五行思想の四季の変移を春は青春に重ねる。

青春を過ごしている「春の母」すなわち少女時代の母に知られたら困ることがある。少女は、自分の体の奥に禁断があることにまだ気が付いていない。それは「僕」というまだ生まれていない、あなたを「母」として受け継ぐ存在なのだ。性の目覚めと同時にまだ誰が父親になるのかもわからない男の登場をはやくも「僕」が拒絶しているかのようだ。

ありえないことなのかもしれないが、すでに僕というあなたから生まれる存在は、少女である母の中にすでに存在する。だから僕の肉附が知られては困る。まだ生まれる前の僕なのである。

ここにあるのは未生の僕という視点である。

『真神』の変幻自在な視点を知るとき、私はセザンヌの静物画を思い出す。視点が自在に操られているのである。

セザンヌが作りたかったのは、そういう幻覚ではなかった。彼が作り出したかったのは、そこに充実した個体があり、そこに奥行があるという感じにさせるもので、それを彼は伝統的な描法を借りずにできると知ったのである。ただ彼は正確な描写にこだわらないことを実地に見せたこの作例が、芸術を今までの基盤から新しい基盤の上に大きく移すことになるとは夢にも思わなかった。(「美術の歩み」E・H・ゴンブリッチ著/友部直訳)



『リンゴとオレンジのある静物』 1895-1900 オルセー美術館

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