はじめに『鶉』の中から私の気に入った句を紹介していきます。好きな句がいっぱいあって困るのですが、その中からほんの一部だけ。
いくつかは眠れぬ人の秋灯川柳なら「窓明り」としてストレートに社会性を滲ませそうですが、「秋灯」とすると全く雰囲気が違いますね。
困るほど生姜をもらひ困りけり前半の「困る」は量や程度、後半の「困り」は感情の状態。屈折や展開のあるリフレイン。
ばつたんこ手紙出さぬしちつとも来ぬ下五の字余りがいいです。
滅ばざるもののひとつや鶴の足興趣が麒麟さんの本領と思いきやこういう耽美的な句も。
玉子酒持つて廊下が細長し言葉が互いに交信しあって不思議な情感や調和を生み出しています。
手をついて針よと探す冬至かなメガネ、メガネ、ではないのですね。
紙切りの鋏が長し春動く
「紙切り」と「春動く」を配合するとまるでお伽噺のよう。
さてさて、私は幸い(?)にして短歌と川柳、二つの詩形を書いています。その関係で麒麟さんの句を読みながら「お、これは短歌の構造と似ているな」とか、「これは川柳人からは出にくい発想かも」なんて思うことがありました。以下、そのあたりのお話をしていきます。
秋蟬や死ぬかも知れぬ二日酔ひ掲句は、「秋蟬や」と「死ぬかも知れぬ二日酔ひ」に何の連絡もなさそうでありながら、即共感に至った句。テクストを凝視して考えているうちに、どうもそれは上五の季語と中七・下五の関係性に理由がありそうでした。つまり季語の「秋蟬」は、単に句全体の背景として機能しているばかりでなく、「秋蟬」←→「死ぬかも知れぬ」、「秋蟬(が鳴く)」←→「二日酔ひ(で唸る)」という照応性に貢献していると思ったのです。掲句を読んで即共感につながったのは、無意識にその潜在的な照応性を感知したからのようです。
言葉の潜在的な照応関係は短歌にもあります。たとえば吉本隆明は、短歌によく見られる構造を〈短歌的喩〉という言葉で説明しました。
灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ『現代短歌大事典』(三省堂)では上掲歌を引用して〈短歌的喩〉を説明しています。それによると「上句は下句の『像的な喩』、下句は上句の『意味的な喩』として円環的、相互的に働いている……」ということです。
岡井隆『斉唱』
要するに上句と下句は、「灰黄の枝をひろぐる林みゆ」(像)←→「亡びんとする愛恋ひとつ」(意味)というぐあいに互いを喩えあい、趣旨を補完しあう照応関係にあるということです。一見、上句と下句で無関係な内容が書かれているのに不思議と心に響いてくるとすれば、読み手が無意識のうちにこの双方向性を感知したからだと思います。
麒麟さんの句でいえば、「秋蟬」という季語が岡井作品の上句の〈像〉に、「死ぬかも知れぬ二日酔ひ」が岡井作品の下句の〈意味〉に対応するのではないかと思ったとき、定型詩の有機的なつながりを感じました。もっとも俳句のばあいは喩的関係といった大仰なものではなく、あくまでも取合せというべきなのでしょうか。
さて、短歌の次は川柳とからめたお話をしてみたいと思います。
我が庭は小さけれども露の国掲句は川柳でいう〈一章に問答〉と同じ書き方です。〈一章に問答〉というのは、ある〈問〉にたいして意表性、矛盾、飛躍のある〈答〉を出す書き方で、古川柳の時代から川柳が得意としてきました。
母おやハもつたいないがだましよい 『誹風柳多留』初篇
雪原に広がってゆくくすりゆび 畑美樹「川柳カード」第2号
『誹風柳多留』は江戸時代の川柳句集(前句付の高点付句集)、畑美樹は現在活躍中の川柳人。一句目は「母おやとは?」という問いに「だましよい」と答えて問答体を完成し、意表性や矛盾を出しています。二句目も問答を内包したパターンで、「雪原に広がってゆく」のは何かと問えば「くすりゆび」だと答え、飛躍を出しているのが分かると思います。
麒麟さんの掲句も「我が庭は」という問いに「露の国」と答えています。「露」は単に小さな水の玉ではなく、世界をまるまる映し出す「露」。一粒ひと粒が互いに反射しあって露国のように大きな世界を現出させる「露」。掲句は、情緒ばかりでなく意表性や飛躍も楽しめる答が示され、川柳の書き方と通じています。
でも、じゃあ麒麟さんの掲句をみて川柳らしさを感じるかといえば、やはり微妙な趣の違いがあります。俳句だなあ、と。それは文語だから俳句らしく思えるのではなく、「露の国」という発想に季語を前提した〈センス〉が感じられるのです。ほかにも「いくつかは眠れぬ人の秋灯」の「秋灯」に同じことがいえます。
これはあくまでも体感的意見なのだけれど、川柳人だと「露の国」「秋灯」といった発想はなかなか出てこないと思います。川柳にも季節語は出てきます。ただし、それは多くの選択肢からときたま選ばれた言葉であるし、また質的にも、日本人の季節感の歴史的合意を内包した季語とは異なります。おもに川柳のばあい、〈私〉に貢献するマテリアルなものとして季節語を用います。「うっかりと桃の匂いの息を吐く」(なかはられいこ『脱衣場のアリス』)は私の好きな川柳作品ですが、ここで使われている「桃」は、前述の理由からすごく川柳的だと思います。柳俳の〈センス〉の差はこのあたりから出てくるのではないでしょうか(でも、今の若い俳人が用いる季語は歴史的内圧の高さをあまり感じないから、川柳に近づいているか)。
現在は川柳界も、従来と違う質感の句を模索する作家が増えてきています。たとえば、〈一章に問答〉は当初、ズバリと答を出すことで共感を生む構造だったのですが、先の「雪原に広がってゆくくすりゆび」の「くすりゆび」はとても曖昧な答。でも、曖昧だからこそイメージに多元性が生まれ、これまでの〈川柳性〉に広がりを生んでいるといえます。
私は呑気なんで普段は〈川柳性〉など考えず好きなように書いているのですが、俳句を読むとおのずから川柳と比較してしまいます。綱渡り師というのはバランス棒をもって綱を渡るものですが、先鋭的な川柳人にとって綱にあたるのは〈俳句〉、バランス棒にあたるのは〈川柳〉じゃないかと思っています。そうやって危うい綱の上を渡りながらゴールの〈川柳性〉を延々目指している。怒られそうですが、今はそんな気がしています。
最後に『鶉』の全体的な感想を。
現代短歌と現代川柳。少し前までは両分野ともに、〈私〉の感情の深いところがのしかかってくる内容がじつに多くありました。私と〈私〉の波長が合えばいいのですが、たいがいは読んでいて非常にツラい……。一方『鶉』にも、〈私〉の感情が表出されている句がわりとあります。でも、すごく心地好い。感情をきちんと大衆割烹料理にしてくれているから、お酒がどんどん進む句群なんですね。『鶉』とはそんな句集でした。
【筆者略歴】
- 飯島章友(いいじま・あきとも)
歌人集団「かばんの会」会員、「ぷらむ短歌会」会員、「川柳カード」同人
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