2014年5月16日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その十五~ 網野月を

(朝日俳壇平成26年5月12日から)

◆人の世話ばかりの一日花疲 (熊本市)内藤悦子

稲畑汀子の選である。座五に「花疲」とあるが実際には人に対する「世話」疲れなのである。汀子の評には「一句目。花見客をもてなした一日。行き届いた案内に客は楽しんだが、送った後の作者の疲れが想像される。」とある。客を迎えたのか?花見の先達を務めたのか?は掲句から定かでないが、「花疲」といいながら本人は花見をするチャンスさえ無くて、ろくに花を見ていないのである。何時ものように仰せ付かる御世話役に半ば諦めつつ、疲れながらも完璧な世話ぶりに一片の自負が伺える。

他の稲畑汀子の選に

◆畦塗るは夜勤の明けし男かな (八代市)山下接穂

がある。これも前掲句「人の世話・・」と同じようなメンタリティーの窺われる句意である。作者自身か?身近な方のことか?分らないが、昨今の農家事情を語っているようだ。中七の「夜勤の明けし」は、「男」の事情に詳しいことを表しているからだ。家庭菜園ならぬ、家庭田圃にチャレンジしているのかも知れない。ただ筆者にはこの「男」が嫌々「畦塗る」ようには思えない。この景は、夜勤が明けてようやくに自分の好きな土いじりができる、という風情なのである。

◆老妻の生きる音する余寒かな (神戸市)小嶋夏舟

金子兜太の選である。兜太の評には「小嶋氏。老妻をシンから労る男。」とある。「生きる音する」は突き放した言い方であり、シュールレアリスム的な表現だ。筆者ははじめ眠り姫の自動呼吸器を想像したが、選者は老妻と作者の二人の生活の音を感じたのだろう。それには座五の「余寒かな」が有効だ。この季題・季語の斡旋は将に秀逸だ。長年連れ添った二人の心の在り様が「余寒かな」に集約している。切れ字「かな」の付けも自然過ぎるくらいである。中七の突き放した言い方が、返って老妻への労わりを物語っている。評の「シン」にはどんな字を当てたら適うだろうか?

同じく金子兜太の選で妻を詠んだ句に

◆なぜか妻に多弁な刻あり猫柳 (北見市)二俣正美

がある。座五の季題・季語「猫柳」には議論の余地があるかも知れないが、筆者は至適だと思う。作者は妻の多弁の理由を熟知しており、または訳は判然としないがその生理的とも思える状態に慣れきっていて、特別びっくりしていないのである。「なぜか」と恍けているのだ。何故なのかはとうに考えることさえもしなくなったのである。

夫婦間のことは夫婦にさえ不可解なことがある。前掲句と並んで選者の十選に入っていることの可笑し味を感じる。

【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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