2014年5月30日金曜日

【西村麒麟『鶉』を読む24】   俳句的自意識 / しなだしん


絵屏風に田畑があつて良き暮らし   麒麟

西村麒麟は、自分が俳人で、他者からも西村麒麟という俳人として認識されていることを常に意識している人である。過剰な自意識ではない。自分を冷静に見るクレバーな自意識だ。その一方で見られているという意識から他者にサービスしてしまうという面も持つ。

今般上木された句集『鶉』が私家版で、自選、序無し、あとがき無し、目次無し、という形式も、その表れであると思う。さらに『鶉』の巻頭が「へうたん」という力の抜けた素材の季題の句を三句並べる、というあたりも然り。

そもそも「麒麟」という俳号自体からして自意識とサービス精神のかたまりのようなもので、その名を含めて「西村麒麟」という俳人は出来上がっているのである。

さて、掲出句。この句もまさに俳句的自意識とサービス精神の真骨頂といえる作である。

一双の屏風の中の絵のことだけを詠っている。

それほど大きくない絵屏風を想像する。温かみのある筆致で描かれているのは、田畑の広がる古いが豊かな暮らしの様子。もしかすると絵の中には笑顔の好々爺も描かれているかもしれない。それは作者の好きな井上井月の時代の長野伊那の原風景を想像するのもいいのかもしれない。

そしてこの句の極みは、下五に置かれた「良き暮らし」という突き放した物言いだ。だが、突き放していながら嫌味にならないのは、それが作者自身の本心であるからに相違ない。

「良き暮らし」は、作者の真の感慨であり、措辞であり、俳句的自意識であり、さらに麒麟俳句を読む読者へのサービスでもある。

この句を読んでいると、屏風に描かれた絵の世界からズームアウトして、絵屏風を眺めている作者の姿があり、それを眺めている読者が居て、それを想像している作者西村麒麟が居る、という重層構造になっているようにも、想像が膨らむ。

西村麒麟という俳人の俳句的自意識とサービス精神は、これからもどんどん広がってゆくことだろう。

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