2024年12月13日金曜日

第238号

              次回更新 12/27



小特集:秦夕美追悼
秦夕美ノート・余滴 佐藤りえ 》読む
豈67号 秦夕美特集目次+秦夕美著作一覧 》読む

まほろば帯解俳談抄――筑紫磐井・大井恒行を囲んで
①》読む ②》読む ③》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 6 筑紫磐井 》読む

澤田和弥句文集特集
はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 4 生命と野菜と蝸牛について三句 石原昌光 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】② 『群青一滴』  田中目八 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり20 秦 夕美『秦夕美句集』 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(52) ふけとしこ 》読む

英国Haiku便り[in Japan](50) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】大井恒行『水月伝』評(2) 田中信克 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

11月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】3 『群青一滴』 田中目八

  縁あって句集を贈って頂いたこともそうではあったが、重ねて句集評のご依頼まで頂いたときには更に驚いたものである。

 私のような無名かつ若輩の身には得難い挑戦の場を提供して頂いたことに感謝しつつ、しかしさて、句集評をどう書いたらよいものか、それがわからない。

 とはいえ、わからないことはよいことだ、ということにしてわからないまま書き始めてみる。

 旅は散歩から始まり、また旅は単なる移動ではないはずだから。


 まず読者(評者)のわがままで自分に引き寄せて、私自身のテーマでもある「青」に焦点を当てて句を取り上げ鑑賞を試みたい。

 折よく句集の章立ての始めも「群青へ」である。

  暗きより青きへそそるチューリップ

 閉じた蕾の内側は暗闇の世界である。

 その暗き世界よりも外にあるという青き世界への憧憬がある。

 開花してまたチューリップが生まれるわけではないが、暗き胎内より天空の青きへとまた何かが生まれるような、生の多重性とでも言うような感じがある。

  青の世界蝶と小鳥とくちなわと

 青の世界とは何か。

 まず空や海を想像はするだろう。

 沖縄では青とは暗黒の世界でもなく明るい世界でもない淡い世界のことだという。

 古事記における黄泉に通じる世界で、古代沖縄人は死後は青の世界へ行くのだと。

 蝶と、それを捕食する小鳥とそれを捕食する蛇と……その先もすべて青の世界へと通じている。

  波打って光る渇望とは青葉

 古代では青色と緑色の区別がなかったという。

 現代において青葉とは青色の葉ではなく緑色の葉であるのは言うまでもない。

 波打つのは風によってか、葉の隙間から木漏れ日が光る。

 雨上がりの雨滴を湛えて木の葉雨の景もあるかもしれない。

 青葉は光を生をもっともっとと渇望する。

 そしてまた渇望こそが光であり生なのだろう。

  葡萄樹を囲む群青かつ完熟

 群青が青空であれば囲むと言うには高すぎる気がする。

 樹(幹)を囲むように葡萄の房が生っている景にも見えるがどうだろう。

 群青は紫がかった、もっと濃く深い青で、日の出前日の入り後の所謂ブルーモーメントのイメージが近い。

 完熟は生の頂点であり、未熟、成熟、完熟と来て次に訪れるのは過熟である。

 とすればやはり夕方、群青の元を辿ればラピスラズリは夜と星。

 あとは過熟して夜闇が落ちてくるのだろう。

  姉さまは手紙葉書魔青かえで

 青楓は秋の紅葉した楓に勝るとも劣らないと言われてきた。

 楓は蛙の手に似ていることからだが、そこからは手紙を書く手も想像するだろう。

 そしてそこからは更に異界の香りを嗅ぎとってしまうのだ。

 永遠に青いままの姉さまからの手紙葉書が青かえでなのである。

  炎天にからまれる地図あおみどろ

 炎天がどこにもゆかずしつこくまといつく、近年の夏はまさにそんな感じだろう。

 からまれるのは地図だが、実際には地図に記された現実の土地、空間もからまれているのだろう。

 あおみどろ自体、水草やめだかなどに絡まることもあるが、あおみどろの水面に生えている様子は地図のようにも見える。

 それは水界の地図、或いは彼岸、浄土なのかもしれない。

  春群青の夕空の死の際よ

 春の群青の空ではあるが、春で軽く切れてあるようにも感じる。

 春の夕は暮れきらず、ゆったりとしているので昼と夜の境界がそれだけに広いと言えるだろう。

 死の際とはまた生の際である、つまりこの際に青の世界が顕現しているのだ。

 この群青とは所謂ブルーモーメント、上掲の「葡萄樹」句に通じるのではないか。

  妣の国にてアオキのとむらいするだろう

 アオキは人名ではなくミズキ科の青木のことだろう。

 青木を弔うのか、青木を以て弔うのか、それはわからないが、弔いとは普通現世の我々が行うものである。

 妣の国にてであるから現世では弔えないということなのか。

 青木の名は常緑で冬でも青々としているところからであるが、常緑とは常盤木とも言うことを踏まえれば妣の国でなければ弔えないものなのかもしれない。

  青葉闇鴉つがいの麗しき

 木下闇ではなく青葉闇であるところにやはり青の世界を顕そうという意志を感じる。

 あまり歓迎されない鴉、その番を麗しいと感じるのは鴉が青の世界を往来するものであるからではないだろうか。

 そしてつがい(番)に伊弉冉伊弉諾をも想起するのは読みすぎだろうか。

  この空の青なら自来也来たるべし

 何故自来也なのか。

 読み解く必要はないのかもしれないが気にはなる。

 自来也の名前の由来は中国宋代の実在した盗賊「我来也」からだと言う。

 盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と記したとされている。

 空の青を盗みに来るのだろうか、それとも「この空の青」は今青の世界が顕現していて、その向こうから自来也の訪れを願っているのかもしれない。

 自来也は義賊である。

  朧月マリアを青き目印に

 曖昧な朧月と目印というはっきりとしたものが対比的に置かれてある。

 しかしマリアとは、青き目印とは何かは曖昧であると言えるだろう。

 朧月の夜は、その朧の世界は幽明界のようである。

 その中に目印として立つマリアなる存在は人か、かの聖母なのか、マリア観音なのか。

 青は聖母マリアのイメージカラーだという。

 朧の中をゆく者に青きマリアは灯台のようである。

  幾柱立つ地祇神の青写真

 地祇は国津神、地の神であり、天孫降臨以前から国土を治めていた土着の神である。

 地祇神の青写真とは別にブロマイドではなく、恐らくただ山河の風景が写っているだけのものではないか。

 その青写真の山河もかつての姿を留めているものはいかほどか。

 青写真というノスタルジー、山河というノスタルジー。

 だが、ノスタルジーへ葬ってよいわけではないだろう。

  腐る日の扉をぬけて青嵐

 日(太陽)が腐るとも読めるが肉体が腐るその一日のこととも読めるだろう。

 扉を抜ける、からは肉体という檻からという感じがする。

 日が腐るとしてもそれはこの世のことではないだろう。

 その扉を抜けて、青嵐が来る。

 或いは抜けると青嵐の荒ぶ世界なのか。

 どちらにせよ、青嵐は扉の向こうに属するものなのではないだろうか。

  青き踏むソニー・ロリンズの管響き

 ソニー・ロリンズはモダンジャズのサックス奏者、ちなみにまだご存命だ。

 歴史的名盤と言われる『サキソフォン・コロッサス』のジャケットは緑がかった青だ。

 その青のイメージの結びつきがあるのかはわからないが、ロリンズの太い息が管を震わせ響きへと変えるたびに草が生い、青むかのようで、それはまさに息吹というものだろう。

 この青き命を踏むのはやはり巨人ではないか。

  今年竹青き怒涛と和む耳

 今年竹は若竹のことで、その葉を竹の若緑などと言う。

 若竹の林を風が戦がせる、それが青き怒涛だろう。

 しかし竹の葉擦れの音は耳を和ませもするだろう、青き怒涛に和むのではない。

 竹の命の奔流のごとき青き怒涛があり、そしてそれを和みと捉える、捉えてしまう耳とがあるのだ。

  春満月青の故郷は裏面かな

 古代、色には赤、黒、白、青しかなく緑、黄などは青に含まれていたという。

 地球から見る月の色は黄色味を帯びている。

 黄はつまり黄泉であり、かつて沖縄では黄色い死者の世界を青と呼んだことは先に書いた。

 朧な、水を湛えたような春満月はまさに黄泉であろう。

 しかし地球からは見えないその裏面こそが青の故郷なのだという。

 もし仮に月の表が黄泉ならば、それは帰るところではなく逝くところだろう。

 青は地球へ仮初の肉体を得てまたやがて故郷である月の裏面へ帰るのだろうか。

 思えば地球は青い星と呼ばれている。

  冬青空プロパガンダの染み渡る

 キンと冴え渡った冬の青空を心地よく感じる人は少なくないだろう。

 しかし染み渡るのは寒さや冷えではなくプロパガンダだという。

 冬青空に染み渡るのか、それとも別の、冬青空の下生きる我々に染み渡るのか。

 冬は冬将軍の支配する死の季節であると言ってしまえば、寒さも冷えも死のプロパガンダと言えるだろう。

 冬青空にプロパガンダが染み渡れば次は我々の番である。

  梅雨の鬱親しき穴は空の色

 梅雨に鬱々と塞ぎ込むと青空が恋しくなる、梅雨によって空が塞がれているとも取れるだろう。

 鬱とは本来草木が茂っている様であることを思えば緑=青の世界が現れる。

 空の色が青に属するものだとすれば親しき穴とは黄泉へ通ずるものではないか。

  全地球戒厳令を蒼々と

 戒厳令とは簡単に大雑把に言ってしまうと国の統治を軍の支配下に置くということである。

 しかしもはや事態はそれどころではなく、地球の全てに戒厳令が敷かれてしまう。

 蒼々と、草木が生い茂るように地球は戒厳令に覆われてしまう。

 蒼々はまた葬送でもあるのではないだろうか。

  パガニーニ蒼き従者に虎の斑を

 パガニーニは言わずとしれたヴァイオリニストであり作曲家である。

 この従者とは実在したウルバーニのことだろうと思われるが、そうでなくともよいし、ウルバーニを食らって従者に成りすました虎であるかもしれない。

 悪魔のヴァイオリニストとまで呼ばれたパガニーニが虎の斑を与えたのかもしれないが、蒼きという言葉からは蒼白な面の、死者の姿を思いもするのだ。

  雨を洗う桜山神社の青楓

 桜山神社は盛岡、下関、熊本とあるようだが、作者や神風連を考慮に入れると熊本のそれであるかと思われる。

 雨に洗われるのではなく雨を洗う。

 現世の汚れてしまった雨を洗えるのは他でもないこの桜山神社のこの青楓に他ならないのだろう。

 ここには藤原為家「散はてし桜が枝にさしまぜて盛りとみするわかかへでかな」が下敷としてあるように思われる。

  青葉若葉詩に漂うは死ねの声

 青葉も若葉も生命力に満ち溢れているものだ。

 死ねの声は果たして誰に向けてのものか。

 その声が詩に漂うとしても詩が死ねと言っているとは、死ねと書かれているわけではないはずだ。

 そもそも詩とは死者へ向けて書かれるものでもあり、言うまでもなく詩は死に通じる。

 しかし死は=詩ではない。

 死を詩によって悼むことはできたとしてもその死そのものを詩とすることはできないのではないか。

 人間であるならば死ねの声を聴きながら若い時分を生きた経験のある人は多いと思われる。

 しかし青葉若葉は人間ではない。

 死に抗うこともなく枯れては芽吹く。

 果たして死ねの声はただ死を望む声なのか。

 漂うのが死ねの声であるならば、その詩に書かれているのは生きよ、かもしれない。

  泰山木の実青々と忠烈死

 泰山木も常緑であるが、実は11月頃熟して赤い種が飛び出るのだとか。

 白い花を咲かせたあと、その真中の蕊の部分が育って実になる。

 忠烈死からは花が散ったことと、熟すことなく青いまま果てたことを想像する。

 しかし実は熟し種は残り、いつかは泰山のごとき大木となるのである。

  けさのあき浅葱に染めてより出奔

 浅葱はあさつきではなく浅葱色のことで、薄い藍色、明るい青緑色、つまり青の属性である。

 浅葱と出奔とくればやはり新選組をイメージするだろうが、そもそもは武士の死に装束が本義だという。

 ならばこれは死に支度、立秋から立冬までの間を死の準備期間としてのことではないだろうか。

  バイク爆音紺碧に山痺れさせ

 峠を走る単車のエグゾーストノート。

 紺碧からは真夏の炎天を思うが、紺碧が山を痺れさせているのではなく、バイクが紺碧にそうさせている。

 単車の排気熱、炎天に焼ける路面から立ち昇る熱気、それらは炎天の紺碧の一部でもあり、山はその機能を停止する。

 かつて異界であった山は今や鉄の馬に、それに跨る生者によって蹂躙され尽くす。

 異界というベールを剥ぎ取り紺碧のもとに曝されたとも言えるだろうか。


 以上、強引に青に寄せて一句鑑賞をしてきたが、補遺として青に含まれる緑と黄の句を挙げておく。

  軽き脳分け合って喰らう緑陰

  水銀の行方まるまるみどりの夜

  身代わりの樹肌みどりをてにかけ

  昂るけもの地祇のみどりへ華を産む

  さりさりと死者が耳擦る銀杏黄葉

  ミサイルも戦車も溶けずされど緑雨

 加藤知子という人について、実は私は何も知らない。

 縁があって、としか言えないわけだが、前句集である『たかざれき』に併録された石牟礼道子論を思えば、やはりこの一連の青は有明海、不知火海に連なる青であり、他界の青でもあるのではないかと思われる。

 作者が意図的に置いたと思われる青もあればもちろんそうではないものもあるだろう。

 鑑賞で取りあげた25句に補遺の6句を加えても31句、それは収録数392句のうち取り立てて多いとは言えないかもしれない。

 だが敢えて一面を取りあげることによって作者の無意識、無意図が浮かびあがることもあるように思うし、読みの可能性は多面的に開かれて然るべきだろうと考える。

 願わくばこの句集評とは言えない何かに、僅かながらも作者の思惑を越えたものがあればと思う。

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 4 生命と野菜と蝸牛について三句 石原昌光

 じいじばあばの怪獣がトマト食う

テレビCMなどでは、イケメンのアイドルや俳優に

リンゴやトマトを丸かじりさせるのが流行した。

野菜や果物をワイルドに頬ばる様子が

若さと生命力の漲りを連想させるのだろう


一方で、人生の晩秋を迎えたじいじとばあばに

トマトを丸かじりさせるとどうか?

これまた、若人とは違う意味でワイルドだ

ガタガタする入れ歯ではちきれんばかりに赤い

トマトにかじりつくのは

肉食恐竜が草食恐竜に食らいつくのを連想させる

お行儀とは程遠い、食のドン・キホーテである。

歯の隙間から高確率でトマトの汁が飛び出す様と

トマトを飲み砕かんと目を剥く様は

まさに怪獣である。


決してTV受けしないであろう

じいじばあばのトマトの丸かじりの絵ヅラだが

その面魂に食糧難の時代を生き抜いた

人間の強かさを感じ取る。

生命を吸い取って生きてやろうとする

生の本能が感じ取れる。

高齢者には、お行儀なんぞより元気が大事である。

筆者の感性はそれを捉えたのだろうと

私は考えたりもする。


プチトマトたち感情あらわにせよ

はちきれんばかりと

形容できる野菜と言えば

それはトマトである。

トマトは汁気の多い野菜であるが、

その水分の多さゆえに大きく変形して

あべし状態のトマトも時たま見受ける。


今にも分裂せんとするその奇態は

憂悶の内に生を終えた人かのようで

不気味ですらある。


では、プチトマトとは何か?

それは少年少女である。

生命力に溢れていながら

その小さな胴体に

色々なモノを溜め込んでいる


SNS全盛の21世紀では

実名で何かを発信すれば

モノ言わば唇寒しどころか

モノ言わば総バッシングである。

まして、SNS以外に交流の場を

持たない少年少女には

それは死刑宣告だろう


しかし、それでも

言わなければ自分の考えは

相手には決して伝わらない

それが青臭い主張でも

嘲笑され、バカにされようと

自ら無機物になるよりは

ずーっと良い。


本心に蓋をし

建前だけを周囲に合わせて

話している間に

いつしか本当の心を失って

丸いプチトマトが

押し込まれた怨念で

ぼこぼこぶくぶくと

腫れあがってしまうだろう


良い子である前に

悪い子である前に

あなたは、あなただ

自分を表現しろ!

そのような筆者の叫びに

私には受け取れた。


返信の遅さもいいね蝸牛

親しい人の紙の便りは

待ちわびる事でさえ風情なのに

電子メールの返信待ちの焦燥感は

どうにも気持ちをかき乱す


たった一通100文字程度の

返信さえ寄こせないのか?

俺は、その程度の存在か?

などと、勝手に相手が

自分を値踏みしたのだと

やきもきする始末だ。


最近では電子メールにさえ

マナー講師なる人々が登場し

返信は30分以内で、

絵文字はNGだの

おじさんしか使わないだの

新しい飯のタネにしている


くだらない…

たかが磁石を近づければ

即座に分解する0と1の集まりに

なんで己の価値まで賭ける?


こっちはchatGTPではない

自動的に返信などできないのだ。

それが電気信号であれ、紙であれ

返信を出す時には、

心の一部を千切って出している。


だからこそ、帰ってこないと

寂しいのであるが

相手もまた、心の一部を千切って

出すのだから、少しは待つのが

風流だろう。


その余裕を持てるなら

人生はちょっとだけでも

行きやすくなるのではないか?

私はそう思う。


琉球歴史家 石原昌光  

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 6 筑紫磐井

 【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


6.初期身辺生活句(2)

 能村登四郎が馬酔木において、風景俳句から身辺俳句に転じたのは23年からであった。身辺俳句と言っても心象的な俳句から、生活境涯俳句的なものまでのブレがあるが、その前期は次の句で一応一区切りを迎える。


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ


 生活境涯俳句的なもので、貧しくはあるが、市民生活のささやかな幸せをうたっている。しかし文学的な価値はそれほど高くなさそうだ。いわば能天気なのである。最後の句にあって、少し生活の中の波乱が生まれ、新しさを期待させるものが見えて来る。

 しかし、こうした幸せな生活詠は一気に破綻する。この病んでいた子供が急逝するのである。長男急逝の一連を水原秋櫻子は2回目の巻頭作品に選んだ。


     長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり

白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり

露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)


 ほぼ3カ月間は慟哭の作品となる。長男・次男をなくし、妻と長女だけを残す家庭となってしまったのだ(三男の研三はまだ生まれていない)。登四郎の悲しみはわかるが、こうしたダイレクトな悲嘆が優れた俳句となるわけではない。能村登四郎の生活の事件としては納得できるが、登四郎の文学の転換とは未だなっていない。

 こうした何か月かを過ごし、運命の不条理さへの怒り、絶望、それから再起しなければいけないという思いが生まれて来る。


鶏頭やきはまるものに世の爛れ(23・12⑤)

朝寒や一事が俄破と起きさする

わが胸のいつふくらむや寒雀(24・1⓸)

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる

霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる(24・3⑨)

新雪の今日を画して為す事あり(24・4⑤)


 今回かかげた作品は、能村登四郎の作風の完成にほとんど影響を与えてはいない。しかし、極め個人的な事件と、俳句の作風の関係はあまり考察する機会がないと思われるので、ここで示して置いた。我々においても、極めて重要と思われる事件は、実は俳句の完成とはあまり関係しないのである。


資料 能村登四郎初期作品データ

(制作年月の次の〇数字は馬酔木集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実


澤田和弥句文集特集(2-7) 第2編美酒讃歌  ⑦新酒讃歌

 ⑦冷酒讃歌      澤田和弥 


 地球物理学者にして近代日本を代表する随筆家、東京大学教授、文豪夏目漱石の弟子となると、私のような凡人は腰がひけてしまう。才人寺田寅彦である。「天災は忘れたころにやってくる」のアフォリズムはあまりにも有名。この寺田先生、新酒がどうもお好きだったようだ。新酒は秋の季語。収穫後の米をすぐに醸造していたため。


  ひしこを得て厨に捜る新酒哉  寺田寅彦

  客観のコーヒー主観の新酒哉

  ばうとして新酒の酔のさめやらず

  柿むいて新酒の酔を醒すべく


 ひしこは鯖の糠漬け。かなり塩辛く、酒の肴には全くもって抜群。それを得たからには必然的に酒。新酒ともなればなお格別。大のおとなが台所で新酒を捜索する姿はなんとも微笑ましい。客観主観にコーヒーと新酒を対置。俳句は十七音の文芸。全てを語ることは難しい。提示されているのはヒント。どう捉えるかは読者に委ねられる。「主観の新酒」。あなたならばどう捉えるだろうか。さあ、先生。「ばう」としたり柿を剝いたり、酔い醒ましに奔走中。酒を前にして人は平等である。ここに描かれているのは酒好きのおじさんの日常だ。微笑を禁じ得ず、思わずポンと肩を叩きたくなる。


  膝がしらたゝいて酔へる新酒かな  大橋櫻坡子


 そうそう、どちらもポンと、ポンと。

 寺田寅彦の師夏目漱石も新酒を句にしている。


  憂あり新酒の酔に托すべく  夏目漱石

  ある時は新酒に酔うて悔多き


 漱石先生は神経質で憂鬱質。その憂いを新酒に托すものの、今度は飲み過ぎて「悔多き」。負のスパイラル。でも痛いほどわかるのです。そのお気持ち。「ちきしょう」と酒を呷り、翌朝の二日酔い。そのうえ昨夜は酔態を曝してしまった。沸々とした憂いが日常の憂鬱と結びつき、また酒を。世間とはそういうふうにできている、のかな。きっと、そう。

 漱石の友人正岡子規は新酒をこう詠む。


  小便して新酒の醉の醒め易き  正岡子規


 ありのままとは言え、小便か。確かに放尿するとふと酔いが醒めることがある。新酒で心地良くなった体が、厠にて秋の夜風にふと醒める。「あれ、何やってんだ」と思うのは真面目なお方。「よし。これでさらに飲めるぞ」と思うのが酒飲みの習性。なんともおめでたい。めでたいことは佳いことなので、勿論これでよい。


  君今來ん新酒の燗のわき上る  正岡子規


 沸き上がったら一大事。風味も何もなくなってしまう。はよ来い。はよ来い。いかにも人が好きな子規らしい句。こう言われたら私なんぞは取るものもとりあえず、子規庵に向かうだろう。酒を飲みたく、子規に会いたく。

 子規の弟子であり、近現代俳句の巨星高濱虚子は新酒でこんな句を。


  呉れたるは新酒にあらず酒の粕  高濱虚子


 そう。そりゃ、ね。この酒粕で粕汁や粕漬をつくれば、さぞ旨かろうよ。でもね。しかしね。やっぱり酒粕じゃなくて新酒の方が、ありがたいなあ。


  人が酔ふ新酒に遠くゐたりけり  加藤楸邨


 もう我慢できない。遠くになんていられない。酒粕じゃなくて新酒だ。新酒が飲みたい。どこだ、どこだ。


  風をあるいてきて新酒いつぱい  種田山頭火


 おお、ようやくあった。しかもいっぱい。さてさてどれから飲もうか。


  新酒の栓息吹く如く抜かれけり  長野多禰子


 シュポンと。あの音が旨い。そしてグイと傾けた一升瓶からトクトクと麗しの酒が流れ来る。


  だぶだぶと桝をこぼるゝ新酒かな  下村牛伴


 「だぶだぶ」がよい。もう、喜びに涙がこぼれそうだ。そして酒は桝をこぼれ、受け皿に広がる。「おっ、とっと」とでも言いながら、桝を斜(はす)に持ち、角から。まずはこの香りを。


  新酒愛づ立ち香ふくみ香残り香と  清水教子


 立ち上がる香り、口にふくんだ香り、喉を過ぎてからの余韻。まさに「愛づ」。どんな新酒かは記されていないが、これだけ香りを味わうほどに愛しているのだから、それはそれは旨い酒でしょう。飲んでもいないのに、今、私の鼻に口に幻の香りが。さあ、もう、くうっと、くううっと。


  のむほどに顎したたる新酒かな  飯田蛇笏


 おっと。失敬。でもこの「したたる」が旨い。いかにも新酒を味わっている姿。これは古酒では似合わない。ましてやビールでは単に酔いすぎたゆえの粗相である。


  したたらす顎鬚欲しや新酒酌む  平畑静塔


 顎鬚にしたたらせるとは貫禄の域。若輩者にこのいぶし銀は表せまい。ただし「欲しや」なので、実際には生えていない。もしくはそういう御仁を目にして「俺も欲しいなあ」ということか。酒飲みは憧れるのです。粋で貫禄のある飲み姿を。そういうときは着流しとしゃれ込んでみたい。ビール腹を隠せる服装ならばなお結構。


  肘張りて新酒をかばふかに飲むよ  中村草田男


 両手で桝を持つと、確かに肘を張り、まるで桝を庇うかのような格好になる。別に誰かに盗られるとは思っちゃいない。庇っているように見えるのは、隠しても隠し切れない酒への愛ゆえ。一口、一口、大切に。でも、したたらすほどに。快楽の戯れということで。


  生きてあることのうれしき新酒かな  吉井勇


 今、生きていて、そしてこの新酒と戯れ、味わっている。だぶだぶ注いで、顎からしたたらせ。喜び、嬉しさ。素直な気持ちがそのまま俳句になっている。人は「生きたい」と思い、「死にたい」と思う。いずれも苦境のとき。再びの幸せを求めて「生きたい」、再びの無を求めて「死にたい」。求める気持ちは同じ。しかしその結果には重大な差。そして人は「生きている」と感じるときがある。これは苦境を脱し、喜びに溢れているとき。「生きて」、今ここに「ある」という実感。「生きている」ために我々は生きている。その歓喜を新酒と、仲間と分かち合いたい。それもまた酒という幸福の一つであろう。

 真面目くさったことを書いてしまった。なんだか急に恥ずかしい。お酒、お酒。


  新酒酌む口中の傷大にして  櫂未知子


 いてててて。そんな絶対に浸みるのに。嗚呼、しかもそんなグイッと。ほら。やっぱり。言わんこっちゃない。しかし、それでも口にしたい新酒の魔力。なにせ「酒」というだけでも魅力充分なのに、それに「新」がつくのだから。新し物好きは酒飲みに限ったことではない。「新酒」。まさに魔力である。ただし可能であるならば、その誘惑に負けたい。たらふく飲みたい。魔力は魔力でも、かわいい悪魔ちゃんである。


  一本は彼女の為の新酒かな  稲畑廣太郎


 この「彼女」はloverだろうか。それもsheであろうか。前者ならば「この一本は私の分ではなく、彼女へのプレゼントです」となる。後者の場合、プレゼントはプレゼントでも、酒席にて「これは今日の主役たる彼女のためのものです。さあ、一本、どんと味わってください」とも読める。loverであれば二人だけの関係性を思い浮かべるが、sheの場合は大人数の中のその女性という状況も考えられる。勿論loverでもsheでもなく、かわいい悪魔ちゃんの可能性もある。新酒好きの悪魔ちゃん。今宵もネオンがまぶしい。


  二三人くらがりに飲む新酒かな  村上鬼城


 こちらはネオンも届かぬ暗がり。森の中か、灯りも点けぬコンクリート・ジャングルか。それとも何処かの小屋か。何か土俗的な匂いすらする。新酒の華やぎはない。「二三人」なので、状景を確定できない不安も浮かぶ。まるでムンクの「叫び」を観ているような。あ。もしかしたら、実は隠れて飲んでいるだけか。本当は飲んではならぬ新酒をこそこそと。まるで私を見ているようだ。休肝日にがさごそと。「叫び」と私。まあ、顔だけ見れば似たか酔ったか。いや、寄ったかである。


  そばかすをくれたる父と新酒酌む  仙田洋子


 お父さん感無量。新酒というだけでも喜ばしい一杯を愛娘とともに。二人の顔にはともにそばかす。確かに父子。似ている。そして、酒好きなところも。似ているパーツの中から「そばかす」というあまりありがたくないものを選び、それを「くれたる」としたところに父への慈愛を感じる。「愛」と言っても甘やかな状景ではない。あくまでも新酒。キリッとパリッとした涼しさのなかで、肩の力のふと抜いた風景。父の気恥ずかしくも、嬉しくてたまらない様子が浮かんでくる。新酒が全てを演出する。


  新酒汲み交はし同居の始まりぬ  中村恵美


 同居一日目。理由のない私の退職と理由のある父の急逝で、母との同居はバタバタと話が進められた。荷物をほとんど置きっぱなしにしていた部屋にアパートからの荷物がなだれこんで、まさに混沌。私も母も片付ける気もなく、家の中をふらふらしているうちに夜になった。いつの間にか母が作っていた夕食。テーブルの真ん中に地元の新酒四合瓶がどかりと立っている。両親が使っていた切子グラスが今、私と母の前にある。母は無言で栓を開けると父愛用であった赤の切子にたふたふと注いだ。今までじっとしていたが、手を伸ばし瓶を受け取る。母愛用の藍の切子へてふてふと注ぐ。お互いの目が合う。切子を軽く額ぐらいに上げ、まずは私から。

 「これからよろしく」

 「こちらこそ」

 辛口のすっと流れ込む感覚。秋の夜はまだ長い。同居が、始まった。そんなドラマが頭の中で始まる。新酒の情緒。

 新酒は米と水という神々の力を杜氏たちが光り輝く一滴に凝縮したものである。気安くではなく、心から味わいたい。そして楽しく酔いしれたい。神々の宴も新酒を酌み交わしながら、よほど楽しんでおられよう。神々のようにとまでは言わずとも、どっしりと貫禄のある飲み姿でありたい。


  国取りの国なる新酒汲みにけり  有馬朗人


(2022年10月28日金曜日)

澤田和弥句文集特集(2-8) 第2編美酒讃歌  ⑧続・新酒讃歌

  ⑧続・新酒讃歌      澤田和弥 


 新酒のことを「今年酒」とも言う。今年できた酒だから今年酒。確かに。今年できたばかりの酒には旨い肴を合わせたい。新人さんにはご祝儀をはずむのが筋というものだろう。まあ、結局はどちらも私の胃に入るのだが。

 酒屋から「新酒、入りましたよ」と一声。


  まづ夫と口もとゆるび今年酒  森谷美恵子


 夫婦揃っての酒飲み。共通の趣味があるのはよいこと。「ゆるび」がいかにも酒飲みを表している。ゆるりゆるりと味わいながら、話に花も咲き。仲良きことは美しき哉。読んでいるこちらも嬉しくなる。酒飲みであればなおのこと。

 さて肴は。


  今年酒鯖もほどよくしまりけり  片山鶏頭子


 〆鯖。最高である。青魚は全くダメという方もいらっしゃるが、好きな方はとことん好き。好みが極端にわかれる。私は「とことん」の方。しまりすぎては酸っぱいうえ、身も固くなる。「ほどよく」。それがよい。山葵醤油で口中に投ずれば、ふわりと広がる味と香り。脂が佳い。にくづきに「旨」と書いて、脂。旨さは脂の旨さ。肉も魚も同じこと。ここへ新酒をクイと一口。辛口がよい。脂をスッと流せば、また一口欲しくなる。秋鯖と新酒。絶品の組み合わせ。焼いてもよいし、味噌煮にしても。心地良い秋風を頬に感じつつ、名月の下でゆったりとした時間を堪能したい。そう。したい。したい、のである。


  甘海老のとろりとあまき今年酒  片山鶏頭子


 同じ作者が今度は甘海老。せっかく、秋鯖をなんとか我慢したのに、今度は甘海老だなんて、なんとご無体な。したい、じゃなくて、する。秋になったら絶対に堪能するの。もう決めた。〆鯖と甘海老を肴に、新酒をがぶがぶ呑んじゃうから。おっと。失礼しました。噛んだ途端にとろりと口の中に広がる甘さ。あの濃厚なとろりへ新酒をキッと一口。絶妙の味覚。舌も頭も大喜び。〆鯖の酸いと甘海老の甘み。それらを包み込む酒の懐の深さ。たまらぬ美味。嗚呼、ほんとたまんない。


  よく飲まば価はとらじ今年酒  太祇


 ぐいぐいとたらふく。しかも「旨い」「絶品」と褒めちぎれば、お勘定は要らないってことになるんじゃないか。確かに新酒はめでたいもの。祝儀ということで。とはならないのが現実。学生時代、バイト先の居酒屋にて。この頃たびたびいらっしゃるお客さんから「学生は飲みたくても金がなかろう。私が出すから好きなだけ飲みなさい」とのこと。ありがたく、冷酒を一升半ほどいただいた。大満足。

「ごちそうさまでした」

「三千円」

「え」

「三千円よこせ」

 タダ酒なんて、そんなうまい話はない。三千円で一升半飲めたのだから、勿論充分過ぎるくらいなのだが。今、そんなに飲んだら、帰りはタクシーではなく救急車、自宅ではなく病床へレッツゴーとなるだろう。若いとは恐い。もうお会いすることはないであろう、そのお客さんの方がヒヤヒヤしていたに違いないのだが。


  馥郁と流人の島の今年酒  鳥居おさむ


 飲み過ぎの罪により私が流された訳ではない。「流人の島」というと佐渡か、それとも隠岐か。その島の今年の酒が馥郁と香る。流人というと歌舞伎の「俊寛」を思い出す。九世松本幸四郎の俊寛があまりにも壮絶で我も忘れて見入った。歌舞伎を鑑賞しつつ、その馥郁たる新酒をちびりちびりとやりながら。両隣には和服の美女。嗚呼、なんという絵空事。空しくなってきた。「酒だ、酒だ」とでも言いたくなるのは、こういうときか。しっかりとただいま体験させていただいた。


  新酒汲みとどのつまりは艶話  片山依子


 いや、その。確かに「両隣には和服の美女」と妄りな想像をしましたがね。とはいえ、老若男女問わず、酔えば好いた惚れたの艶っぽい話になる。艶のある話ならばまだよいが、下世話なエロ話、所謂下ネタとなると辟易する方も多かろう。私は酔うとそういう話をする、らしい。意識も記憶もないが、周囲はそのように言う。それも露骨な下ネタだ。と周囲は言う。おそらく意識も記憶も「これを残してはなるまい」と自己防衛策を打ったのだろう。  あ。下ネタを言っている前提で話を進めてしまった。間違えた。いや、間違えているのは私の人生ではなく、話の方だ。濡れ衣の可能性は捨てない。絶対に捨ててなるものか。録音装置を酒席に持ってこられたことがある。たらふく飲んだ。録音されていたのは周囲のおしゃべりと私とおぼしき高いびきだけであった。下ネタは皆無。おそらく、自己防衛策の一環なのであろう。

 なんだか「私は下衆です」と懺悔しているような気がする。雰囲気をかえよう。


  胸中の父をよごさず今年酒  岩永佐保


 胸の内に映す亡き父の姿。お酒の好きな人だった。それで母や私を悲しませたこともあった。しかし、それはもう、よい。今、胸の中の父は凛々しく、逞しく、精悍な姿である。何ぴともよごすことはできない。父の愛した酒を、今年の酒を、献杯。澄みわたるその一杯が美しい。

 それぞれの年に、それぞれの今年の酒がある。十人十色、さまざまな思いが人にはある。それでも口にふくんだ旨み、感動はみな同じ。今年の酒を、今この瞬間の己れの胸の内をしみじみと味わいたい。


  とつくんとあととくとくと今年酒  鷹羽狩行


(2022年11月25日金曜日)

澤田和弥句文集特集(2-9) 第2編美酒讃歌  ⑨地酒讃歌

  ⑨地酒讃歌      澤田和弥 


 「地酒ありますよ」

と言われると、ついついそちらに目が行く。ほお、たくさんありますなあ。しかしながら正直なところ、よくわからない。友人たちはあれが好き、これが佳いと言うのだが、私にしてみれば、旨ければそれでよい。あと、お値段。よくわからないので店員さんに「このくらいの金額で、辛口のおすすめはどれ?」と尋ねる。餅は餅屋。酒は酒屋。そうすれば、その日のおすすめか、早く空にしたい酒のどちらかが運ばれてくる。そこで店の心を見定める。というような舌はあいにく持ち合わせていない。出てくる酒はことごとく旨い。日本全国よい心のお店ばかりということだろう。旅先ではその地の地酒を、故郷では故郷の地酒を。そういう手もある。地酒という文字を目にすると、それだけで喉が鳴る。地のものと合わせ、今宵の一杯としたい。勿論一杯で済む訳はないが。


  初鱈に地酒辛きを佳しとして  辻田克巳


 おっ。辛口がお好きですか。気が合いますな。初物の鱈。鱈はたらふく食べてこそ鱈。鱈鍋がよろしいか。鱈の身はもちろんのこと、だしも旨い。熱々のところに地酒を常温で。コップでもらおう。きゅいいと飲んで、ぷは。旨すぎる。さてさて煮え過ぎる前に鍋、鍋。民宿で炬燵にでもあたりながら。外は激しく風の音。気の合う友と三、四人で。男ばかりでも。いや、そう言いながら、そりゃ女性がいていただけるなら。ねえ。 


  地酒得て夫にさよりの糸づくり  野辺祥子


 さよりは春が旬。地酒が手に入ったからと、さよりの糸づくりを用意して。春らしい光のある句。地酒もさよりの脂も光っているが、なによりも輝いているのが、この夫婦愛。このやさしさが愛らしい。せめて地酒とさよりだけでも分けてもらえないだろうか。


  蕗の薹貰ひ地酒の封を切る  林照江


 こちらは蕗の薹。まさに早春の悦び。蕗味噌にするか、天婦羅か。勿論どちらも。先ほどのさよりの句は地酒を得たからさより、という発想。こちらは蕗の薹を貰ったからにはこの地酒、遂に封を切りましょう!という流れ。よほどとっておきの酒なのだろう。蕗の薹のほろ苦さは白いごはんにも勿論合うのだが、二十歳をとうの昔に過ぎた身としては、地酒でキュッと味わいたい。静謐なほろ苦さに辛口の酒が素直に流れていく。至福のひととき。


  地酒酌む野蒜の玉のこりこりと  竹村和哉


 勿論こちらの野蒜もこりこりおいしくいただきます。こりこり、そう、こりこり。


  地酒よし秋刀魚の煙る店なれば  竹吉章太


 最近は空調設備等によって「秋刀魚の煙る店」もなかなか目にしなくなったように思う。しかし、このようなお店での地酒。確かに「よし」と言いたくなる。秋刀魚の表面に弾ける脂。箸を入れると、さらにジュッ。あのとろけるような味わい。そこに流す酒は熱燗というより常温。ぐい飲みや桝よりもビールグラスで。「煙る店」、至れり尽くせりでは味気ない。粗野な部分がほしい。グラスを持ち上げつつ、口を近付けつつ。グイと。荒ぶる秋刀魚の脂には、少しばかり野趣ある酒、クセのある酒がよい。上品な酒では秋刀魚に負けてしまう。口中にて、がっぷり四つを組むような。のこった、のこった、えい。両者、喉から胃の中へ流れ込み。いい勝負だった。さて、もう一口、二口。秋刀魚の煙る店の大将が、酒のようにクセも旨みもある方ならば、何度も通いたくなる。秋刀魚のジュ、地酒のグイ。


  うなじ迄地酒に染めて風の盆  二村美伽


 風の盆は富山市八尾町にて毎年九月一日から三日まで、盆に続いて行われる行事。徹夜で踊り歩き、暴風の災厄を送り出すというもの。うまじまで真っ赤に染める祭衆。これを他の酒にしてしまうと間が抜けてしまう。地酒だからこそ、一句の雰囲気が楽しい。地酒を分けてもらえるならば、なお楽しい。

 祭の地酒をもう一句。


  踊太鼓地酒ぶつかけ滅多打ち  岸田稚魚


 この祭の観光ポスターを作成するならば、間違いなくこのシーンを採用するだろう。ふんどし一枚の色気立つ壮年の男が、口にふくんだ地酒をぶっかけ、踊太鼓を滅多打ち。日本の祭の一典型とも呼ぶべき、ダイナミックな状景。この地酒を「もったいない」と思うようでは、いや、私もちょっとは思いましたけどね。


  直会の辛き地酒と納豆汁  山崎千枝子


 そうそう、お酒は飲みましょう。酒はゴクリと。直会は「なおらい」と読む。神事の最後に神饌を神職や氏子等でともに分かち合うもの。お供えしたのは辛口の地酒。やはり土地の神様にはそこの地酒が一番よいだろう。そして奥さん方が作ってくださった納豆汁。冬の拝殿はたいていの場合、かなり寒い。冷えた体に辛き地酒と納豆汁とはなんとも嬉しい。仏教やキリスト教の禁欲と対をなすように、神道は大らかだ。御神酒として日本酒があれほどある。全部飲むのだろうか。ぜひともお仲間に入りたい。肝臓の神様はいらっしゃるのだろうか。


  山眠る久慈の地酒のさくら色  平塚奈美子


 「山眠る」は漢文が出典の冬の季語。眠っているかのように静かな冬山の様子。「久慈」は岩手県北東部の地名。風の音が遠くに聞こえる冬に久慈の民宿。注いでもらった地酒はぐい飲みの中でほのかに紅をさす。さくら色。東北の雪という白いイメージにさくら色がなんとも美しい。春を待ち望む気持ちも感じられる。美しい酒は間違いなく旨い。酒自体も言うまでもなく旨いのだが、その雰囲気もまた旨い。地酒をその土地で飲むということは格段に酒を旨くする。地酒はその土地の神々と人々によって生み出される。風土を感じながら、魂を味わう、と言っては大袈裟か。雰囲気と飲む場、そして酒。この三つの味を一心に味わいたい。


  旅人となりきる春の夜の地酒  岡本眸


 地酒はその土地で味わわなければと、言うつもりはない。そうじゃなくても十分においしいんですもの。旨い地酒を口にしつつ、その土地を旅する気分になるというのも一つの味わい方。地酒ならではの悦楽。夏冬では寒暖厳しい。秋では眼前の寂寥感に負けてしまう。駘蕩とした春の夜だからこその、夢見るような楽しみ方。酔いもまた旅の春風。


  一合の地酒を分ち花の宿  近藤一鴻


 こちらは旅の最中。桜咲き誇る宿でのこと。熟年夫婦の二人旅。ゆかたで窓の外を溢れる夜桜を眺めながら、そこの地酒を一合、徳利で。それをちびちびと分かち合いながら。桜に酔い、地酒を舌に転ばせ、お互い「お疲れさま」の旅。窓の下には屋台が一軒。一人でコップ酒の私。夜桜と酒は人を狂わせる。「一合じゃ足んないの。もっと、もっと、ガバッと注いで」。


  ざる一枚風呂吹地酒小一合  黒田杏子


 冬の一景。蕎麦屋にて。注文はざるそば一枚に肴の風呂吹大根、それに地酒の小、一合徳利。以上。量から考えて、一人でのご来店。酔態を曝す訳もなく、さっと味わい、さっと店を後に。粋である。かっこいい。私であればまず最初に「地酒大」と注文する。一人なのに。風呂吹大根をつつきながら「お酒おかわり」。すでに体験済みかのように目に浮かぶ。粋とはほど遠い。結構。粋じゃなくてもよいので、もっともっと飲みたいのだ。


  地酒注ぐ猪口も徳利も今年竹  黒坂紫陽子


 これはなんとも旨そうな。かつなんとも贅沢な。今年生えたばかりの若竹を猪口に、徳利に。今年竹は夏の季語。ゆえに地酒は冷やで。筍から竹に成長したばかりの若竹の香りが涼やか。都会ではそうそうに味わえない。酒の妙。場の妙。雰囲気の妙。記憶がなくなるまで酔いしれたい。いやいや。冗談です。節度、節度。

 地酒の知識があれば、さらにおいしく飲むことができるのかもしれない。たとえば米の種類や水、地域性等。ただどうにもこうにも覚えられない。記憶力の問題はすでに自覚している。今、目の前の酒が旨い。友との語らいが快い。その場が楽しい。それで満足してしまう。翌朝には「銘柄は……」となっている。その時その場の酒がある。同じ酒でも場や雰囲気、体調や懐具合によって全く味が違う。その時その場とは即物的、刹那的かもしれないが、人は次の一秒を生きているとは限らない。ならば今、この一瞬をともにしているこの酒を心から味わい、楽しみたい。

(2022年12月9日金曜日)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり20 『秦夕美句集』(2017年刊、現代俳句文庫―83・ふらんす堂)を再読する。

 十六夜に夫を身籠りゐたるなり


 帯の俳句が妙に私の脳裏にこだまする。

 この「BLOG俳句新空間」でも秦夕美・追悼がアップされているので鬼籍に入られたのを私も知った。『秦夕美句集』の私の初見からただただ秦夕美さんの生きるベクトルに圧倒されっぱなしだったのを思い出す。


ふぶく夜を屍の十指ぬぐひけり

寒紅をひくこのたびは喪主の座に

雪原の果いつぽんの泪の木


 私は、あるがままに世界を詠み込んでいく秦夕美の俳句に私は、惹きこまれていった。

 吹雪く夜の屍の十本の指を拭ったり、寒紅を引いて喪主の座に就く。

 雪原の果ての一本の泪の木となる秦夕美の悲しみの吐露も。

 その所作に静かに夫の死への深い悲しみを俳句に詠み込む秦夕美の態度が浮かび上がる。


ただ生きよ風の岬のねこじゃらし


 あるがままの秦夕美の態度は、自身の心もまたあるがまま詠み込んでいる。

 ただ生きよ。その生命の讃歌の謳いぶりは、岬に吹き続ける風にそよぐまま揺れている猫じゃらしなのだろう。

 この俳人の俳句をささえている丁寧な描写力は、丁寧に生きるこの詠いっぷりは、自己や周辺の世界をよく視ている。よく聴いている。よく心に感受している。

 それは、とても素晴らしい感性の弦で俳句を詠み込んでいた。


誰も叫ばぬこの夕虹の都かな

ゆつたりとほろぶ紋白蝶のくに


 「誰も叫ばぬ」「ゆつたりとほろぶ」の俳句にこの国を憂う俳人のアンテナが、暗雲の時代を感受している。この句集の中では、出色に見える俳句だが、私をきちんと丁寧に俳句に詠う力量は、社会へも実感を持った素晴らしい俳句を成していた。


秦夕美と名のれば乱れとぶ螢

苺つぶす無音の世界ひろごれり

霜柱十中八九未練なり

花のおく太古の魚を飼ひにけり

白南風に仮面の裏の起伏かな

ままごとのお客は猫と昼の月

今生の光あつめ雛の家


 秦夕美と名乗れるのは、世界でたった一人の秦夕美である。

 気負いなく自己をあるがまま詠う彼女のその乱れ飛ぶ生命の蛍の銀漢よ。

 苺を潰す。苺ジャムでも作るのだろうか。そこには、無音の甘い匂いが漂う世界が広がっている。

 霜柱に心を通わせながら足で踏むと十中八九の未練を身体の芯まで響き渡る。

 花の奥に心の眼を凝らすと太古の魚を飼っているという。

 仮面の裏の起伏を発見する観察眼に脱帽したいが、その仮面が白南風であるという。

 溢れるほどのポエジーの世界がある。

 ままごとのお客様は、只今、通過中の猫と昼の月。

 この秦夕美の生きる世界の光を集めた雛の家にもなにかしら童話のような世界観が立ち現れる。


 ただただ圧倒されたこの俳人の感性の弦を軸に人生を奏でる気概のようなもの。

 私は、俳句観賞するためにも、もっと人生を謳歌したい。

 人生の先輩俳人たちが、のたうち回りながらも人生を謳うことへの嫉妬を拭いきれない。

 しなやかに。

 たくましくも繊細に。

 力強く生きる。

 俳句の奥域を広げて、深めて、真実を捉えていく。

 私は、そんな俳人たちにこの句集鑑賞でこれからも精一杯のエールを贈りたい。

 この同時代に生きて俳句を切磋琢磨していく同志たちの精一杯のエールを私も確かに受け取っている。

 この俳人の情念を突き抜けた先にある世界観を改めて詠み込みながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

 『秦夕美句集』から共鳴句をいただききます。


貝がらをあやすのつぺらぼうの母

残照の鰭もつ子宮(こつぼ)泳ぎけり

念々ころり寝棺・猫又・願ひ文

とろり疲れてやさしい闇に吊柿

七草にまじへ啜るは何の魂

回想の雨のぶらんこ揺れはじむ

月浴びてゐる「わたくし」といふ魔物

雁風呂やわが情欲のさざなみも

乱鶯や乳首の尖がりゆく思ひ

花ざくろ老いても陰のほのあかり

何処へと問ひ問はれゐる鳳仙花

そして誰もゐない夕日の芒原

沈黙も寒のきはみの紫紺かな

椿一輪おく胎内のがらんだう

朝の鵙もうここいらで転ばうか

海市あり別れて匂ふ男あり

王子の狐火ゆうらりと昭和果つ

(たの)むものなし月光の針を呑む

画鋲挿す癌病棟の夏の壁

理由なき反抗獅子座流星群

梧鼠(むささび)がとぶ霊域の大月夜

後の世は知らず思はずねこじやらし

やさしさはずるさに似たり雲の峰

暇なのでひまはり奈落へと運ぶ

花嵐お手々つないで鬼がくる