縁あって句集を贈って頂いたこともそうではあったが、重ねて句集評のご依頼まで頂いたときには更に驚いたものである。
私のような無名かつ若輩の身には得難い挑戦の場を提供して頂いたことに感謝しつつ、しかしさて、句集評をどう書いたらよいものか、それがわからない。
とはいえ、わからないことはよいことだ、ということにしてわからないまま書き始めてみる。
旅は散歩から始まり、また旅は単なる移動ではないはずだから。
まず読者(評者)のわがままで自分に引き寄せて、私自身のテーマでもある「青」に焦点を当てて句を取り上げ鑑賞を試みたい。
折よく句集の章立ての始めも「群青へ」である。
暗きより青きへそそるチューリップ
閉じた蕾の内側は暗闇の世界である。
その暗き世界よりも外にあるという青き世界への憧憬がある。
開花してまたチューリップが生まれるわけではないが、暗き胎内より天空の青きへとまた何かが生まれるような、生の多重性とでも言うような感じがある。
青の世界蝶と小鳥とくちなわと
青の世界とは何か。
まず空や海を想像はするだろう。
沖縄では青とは暗黒の世界でもなく明るい世界でもない淡い世界のことだという。
古事記における黄泉に通じる世界で、古代沖縄人は死後は青の世界へ行くのだと。
蝶と、それを捕食する小鳥とそれを捕食する蛇と……その先もすべて青の世界へと通じている。
波打って光る渇望とは青葉
古代では青色と緑色の区別がなかったという。
現代において青葉とは青色の葉ではなく緑色の葉であるのは言うまでもない。
波打つのは風によってか、葉の隙間から木漏れ日が光る。
雨上がりの雨滴を湛えて木の葉雨の景もあるかもしれない。
青葉は光を生をもっともっとと渇望する。
そしてまた渇望こそが光であり生なのだろう。
葡萄樹を囲む群青かつ完熟
群青が青空であれば囲むと言うには高すぎる気がする。
樹(幹)を囲むように葡萄の房が生っている景にも見えるがどうだろう。
群青は紫がかった、もっと濃く深い青で、日の出前日の入り後の所謂ブルーモーメントのイメージが近い。
完熟は生の頂点であり、未熟、成熟、完熟と来て次に訪れるのは過熟である。
とすればやはり夕方、群青の元を辿ればラピスラズリは夜と星。
あとは過熟して夜闇が落ちてくるのだろう。
姉さまは手紙葉書魔青かえで
青楓は秋の紅葉した楓に勝るとも劣らないと言われてきた。
楓は蛙の手に似ていることからだが、そこからは手紙を書く手も想像するだろう。
そしてそこからは更に異界の香りを嗅ぎとってしまうのだ。
永遠に青いままの姉さまからの手紙葉書が青かえでなのである。
炎天にからまれる地図あおみどろ
炎天がどこにもゆかずしつこくまといつく、近年の夏はまさにそんな感じだろう。
からまれるのは地図だが、実際には地図に記された現実の土地、空間もからまれているのだろう。
あおみどろ自体、水草やめだかなどに絡まることもあるが、あおみどろの水面に生えている様子は地図のようにも見える。
それは水界の地図、或いは彼岸、浄土なのかもしれない。
春群青の夕空の死の際よ
春の群青の空ではあるが、春で軽く切れてあるようにも感じる。
春の夕は暮れきらず、ゆったりとしているので昼と夜の境界がそれだけに広いと言えるだろう。
死の際とはまた生の際である、つまりこの際に青の世界が顕現しているのだ。
この群青とは所謂ブルーモーメント、上掲の「葡萄樹」句に通じるのではないか。
妣の国にてアオキのとむらいするだろう
アオキは人名ではなくミズキ科の青木のことだろう。
青木を弔うのか、青木を以て弔うのか、それはわからないが、弔いとは普通現世の我々が行うものである。
妣の国にてであるから現世では弔えないということなのか。
青木の名は常緑で冬でも青々としているところからであるが、常緑とは常盤木とも言うことを踏まえれば妣の国でなければ弔えないものなのかもしれない。
青葉闇鴉つがいの麗しき
木下闇ではなく青葉闇であるところにやはり青の世界を顕そうという意志を感じる。
あまり歓迎されない鴉、その番を麗しいと感じるのは鴉が青の世界を往来するものであるからではないだろうか。
そしてつがい(番)に伊弉冉伊弉諾をも想起するのは読みすぎだろうか。
この空の青なら自来也来たるべし
何故自来也なのか。
読み解く必要はないのかもしれないが気にはなる。
自来也の名前の由来は中国宋代の実在した盗賊「我来也」からだと言う。
盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と記したとされている。
空の青を盗みに来るのだろうか、それとも「この空の青」は今青の世界が顕現していて、その向こうから自来也の訪れを願っているのかもしれない。
自来也は義賊である。
朧月マリアを青き目印に
曖昧な朧月と目印というはっきりとしたものが対比的に置かれてある。
しかしマリアとは、青き目印とは何かは曖昧であると言えるだろう。
朧月の夜は、その朧の世界は幽明界のようである。
その中に目印として立つマリアなる存在は人か、かの聖母なのか、マリア観音なのか。
青は聖母マリアのイメージカラーだという。
朧の中をゆく者に青きマリアは灯台のようである。
幾柱立つ地祇神の青写真
地祇は国津神、地の神であり、天孫降臨以前から国土を治めていた土着の神である。
地祇神の青写真とは別にブロマイドではなく、恐らくただ山河の風景が写っているだけのものではないか。
その青写真の山河もかつての姿を留めているものはいかほどか。
青写真というノスタルジー、山河というノスタルジー。
だが、ノスタルジーへ葬ってよいわけではないだろう。
腐る日の扉をぬけて青嵐
日(太陽)が腐るとも読めるが肉体が腐るその一日のこととも読めるだろう。
扉を抜ける、からは肉体という檻からという感じがする。
日が腐るとしてもそれはこの世のことではないだろう。
その扉を抜けて、青嵐が来る。
或いは抜けると青嵐の荒ぶ世界なのか。
どちらにせよ、青嵐は扉の向こうに属するものなのではないだろうか。
青き踏むソニー・ロリンズの管響き
ソニー・ロリンズはモダンジャズのサックス奏者、ちなみにまだご存命だ。
歴史的名盤と言われる『サキソフォン・コロッサス』のジャケットは緑がかった青だ。
その青のイメージの結びつきがあるのかはわからないが、ロリンズの太い息が管を震わせ響きへと変えるたびに草が生い、青むかのようで、それはまさに息吹というものだろう。
この青き命を踏むのはやはり巨人ではないか。
今年竹青き怒涛と和む耳
今年竹は若竹のことで、その葉を竹の若緑などと言う。
若竹の林を風が戦がせる、それが青き怒涛だろう。
しかし竹の葉擦れの音は耳を和ませもするだろう、青き怒涛に和むのではない。
竹の命の奔流のごとき青き怒涛があり、そしてそれを和みと捉える、捉えてしまう耳とがあるのだ。
春満月青の故郷は裏面かな
古代、色には赤、黒、白、青しかなく緑、黄などは青に含まれていたという。
地球から見る月の色は黄色味を帯びている。
黄はつまり黄泉であり、かつて沖縄では黄色い死者の世界を青と呼んだことは先に書いた。
朧な、水を湛えたような春満月はまさに黄泉であろう。
しかし地球からは見えないその裏面こそが青の故郷なのだという。
もし仮に月の表が黄泉ならば、それは帰るところではなく逝くところだろう。
青は地球へ仮初の肉体を得てまたやがて故郷である月の裏面へ帰るのだろうか。
思えば地球は青い星と呼ばれている。
冬青空プロパガンダの染み渡る
キンと冴え渡った冬の青空を心地よく感じる人は少なくないだろう。
しかし染み渡るのは寒さや冷えではなくプロパガンダだという。
冬青空に染み渡るのか、それとも別の、冬青空の下生きる我々に染み渡るのか。
冬は冬将軍の支配する死の季節であると言ってしまえば、寒さも冷えも死のプロパガンダと言えるだろう。
冬青空にプロパガンダが染み渡れば次は我々の番である。
梅雨の鬱親しき穴は空の色
梅雨に鬱々と塞ぎ込むと青空が恋しくなる、梅雨によって空が塞がれているとも取れるだろう。
鬱とは本来草木が茂っている様であることを思えば緑=青の世界が現れる。
空の色が青に属するものだとすれば親しき穴とは黄泉へ通ずるものではないか。
全地球戒厳令を蒼々と
戒厳令とは簡単に大雑把に言ってしまうと国の統治を軍の支配下に置くということである。
しかしもはや事態はそれどころではなく、地球の全てに戒厳令が敷かれてしまう。
蒼々と、草木が生い茂るように地球は戒厳令に覆われてしまう。
蒼々はまた葬送でもあるのではないだろうか。
パガニーニ蒼き従者に虎の斑を
パガニーニは言わずとしれたヴァイオリニストであり作曲家である。
この従者とは実在したウルバーニのことだろうと思われるが、そうでなくともよいし、ウルバーニを食らって従者に成りすました虎であるかもしれない。
悪魔のヴァイオリニストとまで呼ばれたパガニーニが虎の斑を与えたのかもしれないが、蒼きという言葉からは蒼白な面の、死者の姿を思いもするのだ。
雨を洗う桜山神社の青楓
桜山神社は盛岡、下関、熊本とあるようだが、作者や神風連を考慮に入れると熊本のそれであるかと思われる。
雨に洗われるのではなく雨を洗う。
現世の汚れてしまった雨を洗えるのは他でもないこの桜山神社のこの青楓に他ならないのだろう。
ここには藤原為家「散はてし桜が枝にさしまぜて盛りとみするわかかへでかな」が下敷としてあるように思われる。
青葉若葉詩に漂うは死ねの声
青葉も若葉も生命力に満ち溢れているものだ。
死ねの声は果たして誰に向けてのものか。
その声が詩に漂うとしても詩が死ねと言っているとは、死ねと書かれているわけではないはずだ。
そもそも詩とは死者へ向けて書かれるものでもあり、言うまでもなく詩は死に通じる。
しかし死は=詩ではない。
死を詩によって悼むことはできたとしてもその死そのものを詩とすることはできないのではないか。
人間であるならば死ねの声を聴きながら若い時分を生きた経験のある人は多いと思われる。
しかし青葉若葉は人間ではない。
死に抗うこともなく枯れては芽吹く。
果たして死ねの声はただ死を望む声なのか。
漂うのが死ねの声であるならば、その詩に書かれているのは生きよ、かもしれない。
泰山木の実青々と忠烈死
泰山木も常緑であるが、実は11月頃熟して赤い種が飛び出るのだとか。
白い花を咲かせたあと、その真中の蕊の部分が育って実になる。
忠烈死からは花が散ったことと、熟すことなく青いまま果てたことを想像する。
しかし実は熟し種は残り、いつかは泰山のごとき大木となるのである。
けさのあき浅葱に染めてより出奔
浅葱はあさつきではなく浅葱色のことで、薄い藍色、明るい青緑色、つまり青の属性である。
浅葱と出奔とくればやはり新選組をイメージするだろうが、そもそもは武士の死に装束が本義だという。
ならばこれは死に支度、立秋から立冬までの間を死の準備期間としてのことではないだろうか。
バイク爆音紺碧に山痺れさせ
峠を走る単車のエグゾーストノート。
紺碧からは真夏の炎天を思うが、紺碧が山を痺れさせているのではなく、バイクが紺碧にそうさせている。
単車の排気熱、炎天に焼ける路面から立ち昇る熱気、それらは炎天の紺碧の一部でもあり、山はその機能を停止する。
かつて異界であった山は今や鉄の馬に、それに跨る生者によって蹂躙され尽くす。
異界というベールを剥ぎ取り紺碧のもとに曝されたとも言えるだろうか。
以上、強引に青に寄せて一句鑑賞をしてきたが、補遺として青に含まれる緑と黄の句を挙げておく。
軽き脳分け合って喰らう緑陰
水銀の行方まるまるみどりの夜
身代わりの樹肌みどりをてにかけ
昂るけもの地祇のみどりへ華を産む
さりさりと死者が耳擦る銀杏黄葉
ミサイルも戦車も溶けずされど緑雨
加藤知子という人について、実は私は何も知らない。
縁があって、としか言えないわけだが、前句集である『たかざれき』に併録された石牟礼道子論を思えば、やはりこの一連の青は有明海、不知火海に連なる青であり、他界の青でもあるのではないかと思われる。
作者が意図的に置いたと思われる青もあればもちろんそうではないものもあるだろう。
鑑賞で取りあげた25句に補遺の6句を加えても31句、それは収録数392句のうち取り立てて多いとは言えないかもしれない。
だが敢えて一面を取りあげることによって作者の無意識、無意図が浮かびあがることもあるように思うし、読みの可能性は多面的に開かれて然るべきだろうと考える。
願わくばこの句集評とは言えない何かに、僅かながらも作者の思惑を越えたものがあればと思う。