2015年5月29日金曜日

【こわい川柳を読む】なぜ怪談は「おわかりいただけ」ないと駄目なのか-〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ。〉という怪談をめぐる定型性- / 柳本々々



「無人さん無人さん、いないならいないまま、私たちにノーと答えてください」
そう呼びかけることで始まる遊びが、小学六年生のとき真野さんのクラスで流行した。

  (我妻俊樹「無人さん」『実話怪談覚書 忌之刻』竹書房、2012年、p.203)

最近、娘の腹の中の子供が《しゃべるん》です、とMさんは言った。
「何を言っているのかは聞き取れないんですが──お腹の中から、ごにょごにょと何かしゃべる声が聞こえるんです。みんなが聞いている。ええ、私も聞きました。聞き違いじゃないですよ」
あれは言葉をしゃべってるんですとMさんは繰り返した。
「いったい何が《生まれてくる》んでしょう」
もうすぐなんですよと言って、Mさんは頭を抱えた。

  (京極夏彦「もうすぐ」『旧怪談 耳袋より』メディアファクトリー、2007年、p.260)

怪談は、不可思議な現象に妥当な「意味」を提供する。そしてその営みは、時に、規範的な解釈コードによっても処理できない「不思議」の存在を際立たせる。
  (一柳廣孝「怪談の近代」『文学』2014年7・8月号)

缶詰のラベルがまわる暗がりで  我妻俊樹

瀬戸夏子さん・平岡直子さん発行の川柳誌『SH』(2015年5月)における、ゲスト・我妻俊樹さんの「メタセコイア」からの一句です。

我妻俊樹さんは〈怪談小説〉も書かれていますが、〈こわい〉とはどういうことかを、我妻さんの川柳と小説からかんがえてみたいのが今回の文章です。

我妻さんの〈怪談小説〉の一冊に『実話怪談覚書 忌之刻』(竹書房、2012年)という怪談掌編集があります。そのなかであるひとつの共通する〈こわさ〉のようなものをあえて見出すとすればそれは〈あるべき場所にないひと・もの〉ということになるんじゃないかと思うんです。

この本のいちばん最初の掌編が、「みすずさん」です。

Sくんはみすずさんという女性と会う約束をしているんですが、みすずさんに会えません。ところが不思議なことに状況としては会っていることになっている。会っているものとして状況が勝手に進んでいく。Sくんはひとりのはずなのに、喫茶店の店員のひとからは連れの女性と同席していることにされている。みすずさんに連絡するとみすずさんは「お話たくさん聞いていただけてうれしかったです」という。

いるんだけれども・いない、〈あるべき場所にないひと・もの〉の〈こわさ〉があります。これは他の掌編にもいえることで、「部屋に戻ると、テレビの前に米袋を重ねてくずしかけたような異様なものが座って」いて「平板な男の声で」「「みんなさかさまになっていつか死ぬというお知らせです」」という掌編「みんな死ぬ」もそうだし、空にひまわりが咲いていた理由が最後に解き明かされる掌編「ひまわり」もそうだし、コンセントがなくなってしまう「「もうだめだよおれ。自分ちのコンセントが消えたり戻ったりするようになっちゃった」という掌編「コンセント」もそうです。

これらはあるべき場所になく・またあるべきでない場所にあるからこその〈こわさ〉です。みすずさんも、ひまわりも、コンセントもあるべき場所で機能さえしていれば、なんの問題もない。ただ、みすずさんと時空がどうしても噛み合わなかったり、コンセントが地中深くにあったりするので、それらがたとえ通常どおり機能していても〈場所〉がちがうので〈こわさ〉が出てくる。

たとえば上にあげた我妻さんの句もそうです。

「缶詰のラベルがまわる」ことは不思議ではありません。缶詰のラベルはまわそうとおもえばまわせるのだし、それを視覚的に確認することもできます。しかしそこに〈場所性〉が付与されたしゅんかん、〈こわさ〉が出てきます。「缶詰のラベルがまわる」という〈機能〉に「暗がりで」という〈場所性〉が付与されること。この「暗がりで」という〈場所性〉が与えられることによって、なぜ「暗がり」で「缶詰のラベルがまわ」っているのか、また「暗がり」なのになぜ語り手はそれを〈きちんと〉視認できているのかという〈こわさ〉が出てきます。あるべき場所でない場所で機能しているからです。

おなじ我妻さんの川柳、

夕焼けを見たいところにあてている  我妻俊樹

肩幅にたりないものが闇にある    〃

などもある意味では〈場所性〉をめぐる句として成立してるのではないかとも思います。「夕焼け」を〈操作〉し、「見たいところにあて」るなかったはずの場所をつくりだす〈場所性〉、「闇」のなかで「肩幅にたりないもの」を見出す〈場所性〉。これらは本来的になかったはずの〈場所〉に〈場所性〉を見出す所作です。だからこそ、よくよくかんがえてみれば、〈こわさ〉がでてくる。いったいなにをしてるんだ、なにをしようとしているんだ、なぜ世界をそっとそのままにしておいてくれないんだ、という〈こわさ〉です。

このように、もともと一般的には存在しないはずの〈場所〉に〈場所性〉を生み出す所作が〈こわさ〉なのではないかと思うのです。

よく心霊写真の番組では写真を紹介したあとに「おわかりいただけただろうか」というナレーションが入りますが、それもあるべきでない場所にひとの顔があることによってズレが生じ、そのズレを埋め合わせられないままに了解(おわかり)することが〈こわさ〉になっているからだとも思うのです。

これは現代の怪談のシーンを代表している京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』や『魍魎の匣』にもつながっているのではないかと思います。なぜなら、『姑獲鳥の夏』も『魍魎の匣』も〈そこにあるべきでないものがその場所にある〉物語だったからです。気づけばいたはずの人間がいなくなっている密室をめぐるミステリも、気づけば誰かがうしろに立っている怪談も実は〈場所〉をめぐる、もっといえば〈場所(のズレ)〉をめぐる物語なのではないかと思うのです。

「もし二十箇月間も子供を身籠ったままの女性がいたとして、その腹部たるや普通の妊婦の凡(およ)そ倍はある。それでいて一向に生まれる気配もない。それが事実だとすれば、矢張り尋常なことじゃないじゃあないか。不思議なことだとは思わないかね」
  (京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、2003年、p.23)

「誰にも云はないでくださいまし」
男はさう云ふと匣の蓋を持ち上げ、こちらに向けて中を見せた。
匣の中には綺麗な娘がぴつたり入つてゐた。
……
何ともあどけない顔なので、つい微笑んでしまつた。
それを見ると匣の娘も
につこり笑つて、
「ほう、」
と云つた。
ああ、生きてゐる。

  (京極夏彦『魍魎の匣』講談社、2004年、p.13)

〈密室で消えた夫と、いつまでも生まれないままの赤ん坊〉をめぐる物語としての『姑獲鳥の夏』や〈衆人環視のなか天女のように昇天し消え失せた少女と、匣のなかにぴったりと詰まった少女が《ほう》と鳴く〉物語をめぐる『魍魎の匣』。それらは〈あるべきでない場所性〉をめぐる物語でもあったはずです。

みにくいビルだ明日住んでみたいな  我妻俊樹

〈場所性〉を生み出す所作、〈場所性〉への言及、〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ〉という場所的な贈り物をそのまま受け取ることから、怪談の祝福ははじまっているようにおもうのです。あなたがこわがってくれる限り、ずっとあなたのうしろにいるよ、と。

お墓にはこんな仕掛けがあったのか。藪さんはすごい秘密を知ったと思った。 
不思議な光景に見とれて藪さんはぼんやりしてしまった。誰かが近くに立ったような気がしたので顔を向けると、頭が髪の毛ばかりで顔のわからない人物が桜の木の下にいた。…
その人はいつのまにか藪さんの背後に立っていて、いやな臭いのする頭を近づけてきた。
「な、右手ばかりだろ」 
はっとしてその人の手を見ると、シャツの袖口から紙のように薄い手のひらが、ひらひらとのびて地面を掃くように動いていた。 

  (我妻俊樹「右手ばかり」『実話怪談覚書 忌之刻』竹書房、2012年、p.44)

   

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