今年三月、『七曜』が第八〇〇号をもって終刊した。『七曜』は昭和二三年一月に誓子の主宰する『天狼』の僚誌として創刊された。創刊当時、僚誌としてはほかに『冬木』『激浪』『雷光』があったがいずれも終刊している。『天狼』の僚誌は年を追うごとに増加していったが、「共に手を取りあつてゐ」る「けうだい」(「七曜俳句会小規」『七曜』昭和二三・二)として出発した四誌のうち、最後まで残ったのが『七曜』だったのである。『七曜』は当初橋本多佳子と榎本冬一郎とを指導者とし、昭和二五年から多佳子が主宰、昭和三八年の多佳子没後は堀内薫、平成三年からは多佳子の四女である橋本美代子が主宰を継承し発行を続けていた。終刊号に掲載された橋本の言葉(「終刊について」)によれば、終刊の理由は会員の高齢化に加え、副主宰兼編集長であった川北憲央の急逝により「高齢の私の指導、これからの全てに渡る責任を考えて終結に向かう決心をした」ということであるらしい。奇しくも今年五月に津田清子が亡くなり、『七曜』の終刊したいま、誓子はその没後二〇余年を経ていよいよ遠き俳人となってゆく感がある。
誓子は『七曜』創刊号で次のように書いている。
〝おゝ成年よ、落ついて、華やかで、而して充実した〟とホイツトマンは詠つたが、〝天狼〟はさういふ〝成年〟の雑誌である。だからして、その同人の発表する作品なども、摑むべきものがわからなくて探し索めるといふのではなく、摑んだものをいよいよ確かめるといふ行き方になるのではないかと思ふ。(略)しかし〝七曜〟はちがふ。〝七曜〟は〝未成年〟の雑誌である。
その同人の発表する作品は、摑むべきものがわからなくて探し索め、探し索めしていゝのだと思ふ。摑んだものを確かめることなどは二の次、その作は常に試作であつてよく、その為めには、失敗に失敗を重ねていゝのだと思ふ。せいぜい手足を濡らせ。(「〝七曜〟は」)
『七曜』の創刊された昭和二三年前後は俳誌が次々に復刊・創刊された時期でもあった。一例を挙げれば『まるめろ』『風』『青天』『麦』『弔旗』『琴座』など、そのなかには理想とする俳句表現の姿こそ違うものの、そのなかには『七曜』と同じく「未成年」の雑誌たることを矜持とするものも少なからずあったように思う。いうまでもなく、戦後俳句表現史を形成したのは誓子ら「成年」ばかりではなかった。じっさい昭和三〇年代には、戦前からの作家が次々と鬼籍に入るなか、誓子や草田男らを鬱然たる権威として戴きながら、一方では自らの重要な仕事を成し遂げていった「未成年」たちの姿があったのである。
前川佐美雄に短歌を学び『七曜』に拠って俳句を始めた津田清子もまた「摑むべきものがわからなくて探し索め、探し索めして」いくうちに自らの表現にたどり着いた、かつての「未成年」の一人であったろう。
虹二重神も恋愛したまへり
紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る
狡る休みせし吾をげんげ田に許す
燈に遇ふは瀆るるごとし寒夜ゆく
思ひがけなき燈に蛾の翅を使ひ果たす
刹那刹那に生く焚火には両手出し
その津田は創刊当時の『七曜』を振り返って次のようにいう。
「七曜」のはじめは多佳子先生と榎本冬一郎さんが二人で指導してくださったのですが、そのほかにも「天狼」同人の先生がいつもいらしてました。だから、誰の雑誌かわからない。いちばん初めに誓子の句が出てくる。それから波止影夫、平畑静塔、西東三鬼の句がずらりと出てきまして、多佳子先生の句がたまに載ってないときがあるんです。文章も「根源俳句とは」「酷烈なる精神とは」「無季俳句とは」というのが出てきたりしまして。でも、それがいい文章なんです。勉強になりました。
(黒田杏子他『証言・昭和の俳句』下巻、角川書店、平成一四)
津田のいうように、たしかに当時の『七曜』には誓子のみならず『天狼』の作家たちの句や文章が並んでいる。津田は「多佳子先生の句がたまに載っていないときがある」と語っているが、『七曜』の中心には誓子がいたのである。かつて鈴木六林男は誓子の死に際して「現在、少なくとも俳句にかかわりをもちながら、誓子の俳句や評論から何の影響も全く受けなかった、とするむきがあるとすれば、その人の俳人としての度量はたかが知れている」と言ったが(「誓子管見」『俳壇』平成六・六)、戦後俳句における誓子の影響力はこれほどに大きく、また深いものであった。もしもいまの僕たちにそれが想像しがたくなってしまっているのであれば、それは僕たちの二〇年来の傷口の深さを物語るものであろう。
その意味では、『七曜』終刊号掲載の「七曜八〇〇号のあゆみ」は戦後俳句史の一端を伝える貴重な資料である。相原智恵子と渡辺喜夫によるこの膨大な年譜は二段組で約三〇〇ページにも及ぶ労作であるが、それを辿っていくといくつかの興味深い事実につきあたる。
たとえば昭和二七年には投句欄「七曜集」に「冬浪が短くはやく岩をうつ」(京武久美)や「わが声もまじりて卒業歌は高し」(寺山修司)が入選している。ともに青森高校時代の作品である。またこの頃の『七曜』は十代作家へのアンケートを二号にわたって掲載しており(昭和二九・九、一〇)、同時に十代の作家を特集している。以下にその一部を引く。
父が飲む一年間の十薬摘む 丸谷タキ子
柿の花散る抱擁は力いつぱいに 宮村宏子
麦の穂に向ひて何か叫びたし 岩井久代
近き虹車中美しき空気満つ 石野暢子
むし暑き休息銀幕にシーザ死し 石野佳世子
表現としては稚拙で決して上出来とは言えないながらも、ここには書くことによって自らの書く根拠を見出していくような彼らの異様な熱気がうかがえる。かつて『七曜』はこうした無防備なほどの若さを持っていたのである。このうち石野佳世子は三年後の昭和三二年に亡くなっている。享年二一歳。第一一〇号(昭和三二・六)には遺句とともに同世代の丸谷タキ子らの追悼文が掲載された。
遺句
身を立てて暗き春昼師を仰ぐ
病臥永し食膳に土筆つく
春浅し吾を去りてゆく師の後姿
己の書く根拠がますます見出し難くなっている現在、彼らの姿は眩しく見える。それは僕たちが、彼らのいる場所を「史」として思考しうるほど遠くにやって来てしまっていることを意味してもいよう。
また、この頃の『七曜』で「判らない句について―十代作家に答ふ―」と題して三谷昭や西東三鬼らが一文を記しているのも興味深い(昭和三〇・一)。そのなかで『七曜』の有力作家であった堀内薫は高柳重信の「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」について論じている。やがて『山海集』『日本海軍』へと歩みを進めて行くことになる高柳の多行形式も、この頃はまだ若い形式であった。「未成年」の俳誌とは、同時代のそうした試行にも目を配ることのできる風通しの良さもまた持っていたのである。その他、ブラジルの日系移民社会において俳句を書き続けていた長谷川清水、林越南らが同人となっているなど、『七曜』の歴史には興味深い点が多い。
そうした『七曜』の歴史のなかで最も重大な事件のひとつは昭和三八年の多佳子の死であろう。三谷昭は戦後の多佳子について次のように記している。
戦争直後の空白の中で、孤立のわが身を支えるだけでもせいいっぱいの生き方といっていい筈だ。そういう時期に、奈良句会にめぐまれたということは、彼女にとって大きな倖であったといえよう。「ホトトギス」と「馬酔木」で育まれてきた多佳子にとって、静塔・三鬼等いわば野人と呼んでもいいともがらの生活と俳句は、ふしぎな魅力をもたらしたのではないだろうか。その一種の開放感というようなものが、多佳子俳句にもたらしたものを無視するわけにはいかないと思う。
もとより誓子一辺倒の多佳子俳句は、やがては誓子のこころを摑み、それをもととして独自の句境を切りひらく日を迎えたであろうが、奈良俳句会で彼女の得たものが、多佳子俳句にひろがりを与え、奔放と呼んでいいような鋭いものをつけ加え、今日の多佳子俳句に到達したように思われてならない。そのような時期に、待望の「天狼」が創刊される。そこには誓子を中心に、静塔もいる、三鬼もいる、兄弟弟子の冬一郎もいる、九州時代からのつながりをもつ白虹もいる。その時の多佳子の心のときめきは、縁のうすい私にも容易に想像することが出来る。
(「多佳子回想」『俳句研究』昭和三八・七)
多佳子にはすでに第一句集『海燕』(交蘭社、昭和一六)、『信濃』(臼井書房、昭和二二)があったが、多佳子が作家「橋本多佳子」として立ったのは第三句集『紅絲』(目黒書店、昭和二六)においてであったろう。「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」「乳母車夏の怒濤によこむきに」「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき」「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」など多佳子は戦後『紅絲』の佳吟を次々に生み出していったが、その多くは『天狼』や『七曜』誌上に発表されたものであった。多佳子はたった一人で独自の作品世界を切り拓いたのではない。多佳子は「成年」の『天狼』と「未成年」の『七曜』の両方を往還しながら、「橋本多佳子」となったのである。その意味では、『七曜』とはまず「橋本多佳子」を育んだ場として、その功績を讃えられるべきであろう。だがその讃辞は、ついに「橋本多佳子」「津田清子」以外の目ざましい作家を生み出しえなかった場としての『七曜』への厳しい批判と表裏をなすものであろう。しかしながら、「未成年」とは本来、称賛と批判とにたえずその身を晒すことで自らを誇り高くあらしめる者の謂であったようにも思うのである。
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