2015年5月29日金曜日

 【時壇】 登頂回望その六十七・六十八 / 網野 月を

その六十七(朝日俳壇平成27年5月18日から)
                         
◆乱鶯や人声去りて戻る杜 (浜田市)田中静龍

稲畑汀子の選である。今まさに鶯の季節である。春先の初音の鶯と違って将に「乱鶯」と言ったところである。鶯の囀りと人声を比しているのだ。この諧謔はそれ程ポエジーの邪魔になるものではない。むしろステュエ―ションとして人の去った後にまたしても囀り出した鶯がよく描かれている。ただ鶯が飛んで戻って来たというよりも鶯の声が再び聞こえ出したということであろうと筆者は考える。人声は去った筈だが、作者は何処にいるのだろう。気配を消してひそと両者に耳を澄ましていらしたのかも知れない。

◆日には白影には真白なるつつじ (岡山市)名木田純子

金子兜太の選である。評には「名木田氏。巧者の句。陽の当たり方で白つつじの味わいが違うのだ。」と記されている。「陰」ではなく「影」なのであって、「日には」のつつじと「影には」のつつじは両者ともにつつじそれ自体である。そうだとすれば「日には」「影には」は、全く条件を同一にしたつつじの対比ではない。陽の下にあるつつじと影として見えるつつじである。同一条件下の比較でないことは句の品格を損ねる要素にならないばかりでなく、むしろ視覚の対象物であるつつじの多様性を、「白」と「真白」の対比から来る味わい以上に叙すことになっている。

◆修行僧顳顬で噛む甜瓜 (静岡市)松村史基

金子兜太の選である。顳顬の文字が難しい。何となく修行僧は理屈で甜瓜を食しているような雰囲気だ。字面というのは現代の俳句にとって肝心な要素を有している。音として俳句を聞くよりも、文字として俳句を読む機会の方が多いからだ。むろん掲句は甜瓜をむしゃむしゃ食べる修行僧の顳顬がよく動いている様子を叙している。顳顬で甜瓜を噛み砕いているように見えると書いているのでる。


その六十八(朝日俳壇平成27年5月25日から)
                         
◆母の日に母を誘へば父も来る (福岡市)松尾康乃

大串章と稲畑汀子の共選である。好いとも悪いとも言っていないのである。事実のみを言って情感を訴えるのが俳なのである。作者は母だけ来てくれれば好かったと思っているのか?それとも父が一緒に来てしまって折角母と二人きりになれるのに残念に思っているのか?父を誘わなかった私(作者)自身をはじているのか?父を誘いそびれた事実を母が誘って連れて来てくれたことに感謝の念を抱いたのか?分らない。諧謔だけの句意ならそれだけの範囲のものになってしまう。筆者はもう少し深いところの情感を掲句から感じてみたい。いろいろと想像をするが、偶々父が一緒に連れ立ってきたということだろう。

◆蜜蜂の読経に埋もる無住寺 (いわき市)馬目空

金子兜太の選である。評には「馬目氏。発想の自由、かつ人懐かしさ。「蜜蜂の読経」は旨い。」と記されている。評に言う通り「蜜蜂の読経」が何とも上手い。無住持と蜜蜂たちの取り合わせが、少々理の整然とした構造物であるようにも受け取れるが、蜜蜂たちの読経のように聞こえる羽音だけが聞こえてくる、朽ちかけた寺を彷彿とさせ、この景は読者の眼前に出現することだろう。無駄の無い措辞で書かれて冗漫にならない叙法が俳的表現の王道を歩んでいる。

◆師の教へ父の戒め柏餅 (多摩市)吉野佳一

長谷川櫂の選である。作者にとって柏餅の味覚は、少年期から青年期の恩師の教えと父からの戒めの言葉を思い起こさせるものなのである。三段切れ気味なのだが、それでも恩師(筆者は男性を想像した)と父の厳格さや慈しみが語り尽くされている。どれだけ言い尽しても饒舌にならない短歌と、言い切って無駄を削ぎ落としても舌足らずにならない俳句は絶品である。掲句は柏餅に込めた作者の心持が遺憾なく表現されている。味覚への追慕は生い立ちの中に潜在するものなのである。


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