◆二人からふたりに戻り新茶汲む (伊万里市)松尾肇子
長谷川櫂の選である。評には「二席。「二人」と「ふたり」の違いがわかる。これこそよき夫婦というもの。」と記されている。評によればはじめ「ふたり」であったものが「二人」になって、やがて「ふたり」に戻ったということだろうか?「戻り」が句の中に表現されている上五の「二人」の前の状態を惹起している。「二人」と「ふたり」はどちらがどれだけよいか、というのではないだろう。比較して良し悪しを決めようというのではないのだ。座五の「新茶汲む」が効いているからこそ、上五中七の措辞が盤石である。
◆朝寝して今日一日を予習せり (大津市)竹村哲男
長谷川櫂の選である。毎朝目覚めると床の中で「死んでみる」鍛錬をすると佐賀鍋島の武士道にあるそうだ。確か山本常朝口述、田代又左衛門陳基筆録の『葉隠』(正確には『葉隠聞書』)の教えかと記憶している。まさか作者が「死んでみる」ところまで極限の状態を予習はしないだろうが、行為としては似通うところがありそうだ。「朝寝して」の言い訳の様にも聞こえるのだが。
筆者は毎朝手帳を確認して物忘れが酷くなった自分の脳ミソを補っている。手帳のメモ事態が間違っていることが最近あった。情けないことだ。
◆苗木植うピアニッシモの風のなか (霧島市)久野茂樹
大串章の選である。評には「第一句。風の強さを「ピアニッシモ」と言ったところに惹かれる。ピアニッシモは音楽の強弱標語。」と記されている。(『広辞苑』には「音楽の強弱標語」とあるが、実際は「強弱記号」である。)「苗木植」える時節の微風をピアニッシモと叙して、本来音量を表す(記号)用語を風量に替えて表しているのだ。「ピアニッシモ」は音量だけでなく演奏家には感情記号というか表現記号にもなり、つまりアーティキュレーションを示す効力もあるので、風の修飾語としては適合している。
その六十六(朝日俳壇平成27年5月11日から)
◆吹くわれにのみ鼻濁音シヤボン玉 (東大和市)板坂壽一
金子兜太の選である。評には「十句目板坂氏。かるい自虐が諧謔を呼んで、味な句」と記されている。最近は鼻濁音の使用が廃れる傾向にあるようだ。「私が・・」の「が」が鼻濁音にならないのである。「鏡(かがみ)」の「が」が鼻濁音にならないのである。筆者の勝手な解釈だが、そんな中で作者一人が鼻濁音を正確に発音する方だということだろう。「われにのみ鼻濁音」が認められるということだ。
「鼻濁音(びだくおん)」の「ん」と「シヤボン玉(しやんぼんだま)」の「ん」の発音の差異が上手い仕掛けとなっている。
◆鈍感を楽しむやうに春の亀 (東京都)石川昇
長谷川櫂の選である。評には「二席。何があろうと何もなかったかのように、のどか。日向ぼこでもしているのか。」と記されている。評の通りで、作者の「亀はいいなあ!?」の呟きが聞こえて来るようだ。昨今は「鈍感力」という言葉がもて囃されている。将にこの「春の亀」のことである。「楽しむやうに」よりも「楽しんでいる」と直截な表現の方が筆者は好きである。
◆その日よりクラス全員猫の親 (静岡市)松村史基
長谷川櫂の選である。
可愛らしい句だ!世知辛い学校教育の現場の中で、担任の先生の鷹揚さが伝わってくる。それとも、もしかしたら何処か秘密基地で世話をしているのかな?
◆更衣今年も妻の手を借りず (泉南市)藤岡初尾
長谷川櫂の選である。自分の事は自分でやる、ということは大切なことである。が「妻」に何らかの事情があって「妻の手を借り」られないとしたら、この句の表現している意味合いのベクトルが別の方向へずれることになる。それでも五七五は、その何らかの事情を明かすことはない。潔く言い切ることが俳なのである。
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