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例えば岸本尚毅のこの初期の一句が僕は好きである。
なきがらの四方刈田となつてゐし 『鶏頭』
刈り終えられた田はさっぱりとしているがまた一方で殺伐とした感じもする。そこになきがらが投げ出されている。尋常のことではない。主語は「なきがらの四方」で、それが「刈田となつてゐ」るというからには、なきがらの置かれたまさにその場所から田は刈られていったのだという気もする。一句はその出来事を「し」として述べる。いまはただなきがらがあるのみである。ただ過去であるばかりではない。「なりし」ではなく、それは、「となつてゐし」なのだ。刈田であることではなく、刈田となること。読者がついに見ることのなかったその始終を思うとき、田の刈られようは一瞬のことではなかったか、と思うのだ。
この句には自解がある。
「なきがらの四方刈田となつてゐし」が生まれたきっかけは、女優の夏目雅子の訃報であった。あの夏目雅子が亡くなったのか、と思いながら電車に乗っていた。小田急だったか。厚木の辺を過ぎると車窓から刈田が見える。目に映る刈田。脳裏に浮かぶ夏目雅子のなきがら。
(岸本尚毅「私のこだわり」/『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 岸本尚毅』2011年/ふらんす堂)
この文章を読んだとき僕の頭の中にはたちまちにゴダイゴの『Monkey Magic』(1978)が流れ出した。同年の大ヒットドラマ『西遊記』のオープニング曲だ。「昔々、この世に人間が現れるはるか前……」のナレーションののちにその曲は流れ出す。堺正章演ずる孫悟空のカットがたちまちに6つに分かれ、次の瞬間にはまた別のカットが大きく現れるあのオープニングは、いかにも当時のドラマの恰好よさを体現しているように思われる。堺の次に映し出されるのは美しく若い夏目雅子その人である。別段玄奘三蔵が女性と設定されているわけではなかったが、ドラマを見た誰もが三蔵は女だと思ったはずだ。
『西遊記』がこの時点でテレビドラマ化されたのは、それが日中平和友好条約調印の年であったからだったろう。そんなことを思いながら、僕にはそのようなことがらがすべてゆるやかに繋がっているような気がしてならない。あの美しかった夏目雅子がいた年であり、日中平和友好条約調印の年であり、ドラマのオープニングはあのように恰好よく、特撮やメイクはちょっとダサい、1978年だ。岸本が夏目雅子の名前をだしぬけに書いたとき、僕はたしかにその刈田が1978年にある気がした。〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉もまたゆるやかにつながることがらの一つであると。一句の殺伐とした感じは、いまや回想することでしか繋がりえないその年にあってこそ分かる。安い言い方をすればそれは「空気感」とでも呼ぶべき代物なのだ。
もっとも岸本にとっての夏目雅子は決して三蔵法師としての彼女ではなかったようだ。
夏目雅子はNHK大河ドラマの『黄金の日々』に豪商の娘の役で出演した。夏目雅子演じるモニカという娘は、根津甚八演じる石川五右衛門にかどわかされ、悲惨な運命をたどった。
(同書「自句自解」)
『黄金の日日』――踊り字じゃありません――は1978年放送の大河ドラマで主演は市川染五郎。夏目雅子は運命に翻弄されるキリシタンの娘を演じた。
〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句が生まれるに至った電車の中で岸本が思い出した夏目雅子――「あの夏目雅子が亡くなったのか」――が『黄金の日日』の夏目雅子だったことは非常に重要なことのように思われる。なぜならば夏目雅子が亡くなったのは1985年であり、決して1978年ではなかったからである。僕がはじめに思い浮べた『西遊記』が『黄金の日日』と同じ年の作品であったことは単なる偶然で、そこにはいくばくかの言い難い驚きもあるのであるが、とかく、自解以後の〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉の句を支えているのは、作り手と読み手ともに「あの夏目雅子」でしかありえない。きっと岸本にとっても、〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉はとてもリアルな句であっただろうと僕は思う。あの『西遊記』の夏目雅子の死と接続する「刈田」が僕にとってこの上なくリアルであったのと同様に、岸本にとってもその「刈田」は『黄金の日日』をとりまくあらゆる状況と無関係ではなく、それゆえにたしかな存在であったのだ。
正直に言って岸本の自解を読んだときには言葉というものの普遍性を思って少し絶望的な気分になったものだが、いまやその感はいよいよ増している。岸本がことさらに「なきがら」の正体を明かさねばならなかったほどには密接にその句の誕生にかかわっていたはずの夏目雅子をめぐる気分を〈なきがらの四方刈田となつてゐし〉は断じて伝えていない。一句はそれを切り捨てたうえで立ち上がっていた。そして僕がはじめ持った共感はよく考えてみればおそろしく無防備であったわけだ。岸本にとっての夏目雅子は僕にとっての夏目雅子ではない。あるいはそのどちらかが1982年の『鬼龍院花子の生涯』における夏目雅子だったかもしれないし、そうであれば余計にその齟齬は開いていただろう。ここにおいて言葉の普遍性を嘆かわしいもののように思うのである。
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『俳句』(2015.5)の特集は「どの年代でも俳句は輝く!」。その中に年代別名句180選として各年代の20句アンソロジーが掲載されている。50代を担当したのは岸本尚毅であるが、彼がその20句選に付した解説が興味深い。〈時代と年代〉というタイトルである。
五十代の作品として拾った二十句二十人の作者における時代と年代(堀下註――太字部、原文では傍点)の関係をざっと眺める。/真珠湾奇襲の昭和十六年十二月八日の年齢は、高浜虚子六十七、荻原泉井水五十七、水原秋桜子四十九、高浜年尾四十、加藤楸邨三十六、石田波郷二十八、森田峠十七、川崎展宏十四歳だった。
岸本はその後東京五輪開催の昭和三十九年十月十日に関して別の作家たちを同様に挙げ、また今度は作家が五十歳の年に起こった出来事を、阿波野青畝-ソ連の核実験成功――といったふうに並べた上で、こう書く。
ある人のある年代がどんな色調を帯びるかは、当然に時代の影響を受ける。俳人たるもの世に対し超然としていられればよいが、生身の人間として、また生活者として、戦争や天災、不況やインフレなどから無縁ではいられない。自分や家族の病気や老いといった事態も生じる。ただし、実社会・実生活がどのような形で作品に影を落とすか、直接的か間接的か、意識的か無意識的かは、作家・作風によって違う。
社会と個人はきっとどこかで繋がっているのだ。戦争は貧乏を生んだ。東京五輪だってそれぞれの実生活とどこかで繋がっていたはずなのだ。そういったものを思えばこそ見えてくるものはある。先述の通り、最終的にはほとんどの部分が普遍的な言葉で切り捨てられているから、想像するのは骨が折れるが。今となってはどれほど正確に想像しうるものか。いくばくか類型化されているのは当然のことであろう。その一句の誕生に際していったい何が関わっていたのか、それを見つめることは切実な行為に間違いはないが、一方でまた、読者は読者でその空気感を手さぐりで求めてよい筈だ。
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同じく、さいきんの岸本の文章から。
はこべらや焦土のいろの雀ども 石田波郷
昭和二十一年(二十二年)作。空襲の焼け跡です。当時、波郷は東京の江東区砂町に住んでいました。「はこべら」は春の七草。食糧難の頃ですから、おかずの足しになったことでしょう。
(岸本尚毅『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 十七音の可能性~俳句にかける』2015/NHK出版)
この焦土が「昭和二十一年」の焦土であることはひどく重要なことに思われる。それが第二次世界大戦によって齎されたものでなくとも、焦土であればきっとそこでは食糧難が起こっているのだ。だけれどもこの句が昭和二十一年の句であること、この焦土が昭和二十一年の焦土であることによって岸本には何らかの景色が見えている。多くの読者もそうだろう。その景色は決して波郷に見えていた昭和二十一年の焦土ではないのであるが、しかし、僕たちの焦土もまたたしかに「焦土」なのである。言葉の普遍性を恨み、一方で積極的に享受することによって、新しい読みは生まれてくるだろう。
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