2014年5月9日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その十四~ 網野月を

 (朝日俳壇平成26年5月5日から)
                          
◆風はたと止みたる後の花吹雪 (阿南市)湯浅芙美

長谷川櫂と稲畑汀子の共選である。長谷川櫂の評には、「一席。風はなくても、おのずから散る桜の花吹雪。しずかな花の命をみつめた句。」とある。稲畑汀子の欄には掲句への選評はない。

長谷川の評に在る様に「花の命をみつめた句」というのは名言であろう。しかもその「花の命」を「しずかな」と形容しているのは掲句を鑑賞する上で最も大切なことのように感じる。つまり掲句には音響がないのだ。それは風が止んでしまったからではない。季題・季語の「花吹雪」に音響の効果が薄いということだろう。視覚的に全神経を集中する景であることから、音に関する「花吹雪」のイメージが湧いて来ないのであろう。むろん擬態語や擬音語(?)が叙されている句が無いわけではないが、「花吹雪」は視覚的な季題・季語なのである。そこで「はたと止みたる」である。一瞬の静寂を感じさせているわけだ。

構成的にはどうであろうか?意味的には上五から中七、座五と繋がっている。切れを感じるには上五の「はたと」で一呼吸いれて披講するしかないだろう。しかしながら「はたと」は動詞「止みたる」の副詞的役割を有しているので、意味的には切れが生じない。一気に読み下して披講する方法もあるかもしれない。

そもそも風は、一様に吹いていないものだ。まさに花吹雪の様に拠って風の強弱や方向を知覚することがあるが、風の吹き方は海の波に似ていて、強く速いところもあれば弱く遅いところもある。「はたと」止んでいるところも在るわけだ。掲句では「後の」とあるが、それは同じ地点での「後の」ではなくて、風のある地点とその「後の」風の無い地点であると解したらどうだろうか?筆者からの可能性の提案に過ぎないが。・・・花の残る梢の地点では「風はたと止み」であり、十メートル「後の」地点では風が奪い去った「花吹雪」が舞っている、という景にならないだろうか。

◆下萌や涙はいつも新しき (柏市)藤嶋務

大串章の選である。中七座五の「涙はいつも新しき」はいわゆる気付きなのであるが、「下萌」の季題・季語の斡旋が秀逸である。

【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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