2026年6月12日金曜日

【新連載】新現代評論研究(第26回)各論:後藤よしみ、村山恭子、佐藤りえ

★ー3高新俳句詩法――「垂直の力学」として読み解く4 後藤よしみ

第2部

新俳句詩法の妥当性の検証 1

――〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉を読む


はじめに

 本章では、これまで提示してきた高柳重信の新俳句詩法が、実際の作品読解においてどれほど有効であるかを検証する。

 対象とするのは、『日本海軍』所収の代表句

〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉

である。

 初めて読んだ者の多くは、「何が逃げるのか」「なぜ鸚鵡が重たいのか」「松島とは景勝地なのか軍艦なのか」と戸惑うであろう。しかし、この戸惑いこそが重信の出発点である。わからないという感覚を入口として認めることで、理論は初めてその力を発揮する。

 本章では、新俳句詩法の5つの視点——語彙の地質学、倒語法の再編、沈降の力学、深層の噴出、6つの水平補強モジュール——によってこの句を読み解き、その妥当性を確かめる。

1 句の第一印象

――なぜこの句は「わからない」のか

 まず、この句を素直に読むと、不思議な違和感に包まれる。普通の俳句なら、「松島から鸚鵡が逃げた」あるいは「重たい鸚鵡が松島を飛び去った」のように、意味の筋道が明確になるはずである。

 しかし、この句では、「松島を」「逃げる」「重たい」「鸚鵡かな」と、意味のつながりが断ち切られている。読む者は、それぞれの言葉をつなごうとして何度も立ち止まる。

 この「意味がすぐにつながらない状態」こそが、重信の意図した読書体験である。つまりこの句は最初から「理解されること」よりも、言うならば「意味が揺れ動くこと」を目的としているのである。

2 語彙の地質学による読解

――言葉の衝突が何を生むか

 新俳句詩法の第一原理は「語彙の地質学」である。この句に現れる語を分類すると、次のようになる。

①地霊語彙――松島

 松島は日本三景の一つとして知られる景勝地、歌枕であり、美しい島々と静かな海、和歌や俳諧の伝統に包まれた日本的抒情の象徴である。しかし同時に、『日本海軍』という句集の文脈に置かれることで、軍艦「松島」の記憶も帯びる。一つの語が「風景としての松島」と「軍事記号としての松島」という二つの歴史層を持つ。この二重性が、句全体に強い揺らぎを生む。

②外来・浮遊語彙――鸚鵡

 鸚鵡は異国的な鳥であり、日本の伝統的俳句世界にはあまり馴染まない。さらに鸚鵡は「他者の声を真似る鳥」である。ここでは、主体性を持たずに反復し、模倣する存在である。これは、近代日本が外来思想や国家イデオロギーを模倣し続けた姿とも重なりうるだろう。この解釈は、重信の時代背景にある精神を「浮遊語彙」という枠組みで読み解いた一例である。

③身体的重量語彙――重たい

 この語は極めて物質的である。単なる形容ではなく、読む者の身体感覚を直接呼び起こす。「ずしり」とした重みが、言葉を通じて伝わってくる。これは後述する水平補強モジュールの①身体・実存モジュールとも自然につながり、理論が言語の分析にとどまらず、肉体的な感覚にまで手を伸ばしていることを示していることがわかる。

語彙衝突の結果

 美しい景勝地、軍艦、異国の模倣鳥、身体的重量という、本来交わりにくい意味の層が一つの句の上でぶつかる。ここで意味の断層が露出する。この現象は「語彙の地質学」によってよく説明できており、理論の第一段階は十分に妥当であると言えるだろう。

3 倒語法の再編による読解

――なぜ意味は宙吊りになるのか

 この句最大の特徴は、何が「逃げる」のかよくわからない、確定しない点にある。普通なら「鸚鵡が松島を逃げる」と整理されるところを、重信はあえて断ち切る。その結果、鸚鵡が逃げる、作者が逃げる、国家が逃げる、松島そのものが逃げる、という複数の読みが同時に立ち上がる。

 これはまさに、富士谷御杖の倒語がいう「意味を確定させず、読者の内側で生成させる」という働きである。意味は作者から読者へと手渡され、読者は単なる受け手ではなく、句の共同制作者となる。この点で、新俳句詩法が倒語法を現代的に再編したという説明は、この句によって裏づけられる。

4 沈降の力学による読解

――改行は何をしているか

この句は4行に分かれる。

松島を

逃げる

重たい

鸚鵡かな

 これを一行で書けば「松島を逃げる重たい鸚鵡かな」となる。しかし重信はあえて切断する。この改行によって、読む者は各行ごとに停止する。

 第一行「松島を」——何が起こるのかという期待が生まれる。第二行「逃げる」——突然、運動が現れる。しかし主体がわからない。第三行「重たい」——ここで速度が止まる。逃げるはずなのに重い。矛盾が生じる。第四行「鸚鵡かな」——最後に主体が現れるが、なお説明にはならない。

 この読書過程は、まさに「落下」である。読むたびに意味が崩れ、次の行へ沈んでいく。行ごとの心理変化を丁寧に追ったこの読みは、理論が実際の読書体験の分析として機能していることを示しており、「垂直の読書体験」という説明の妥当性は高い。

5 深層の噴出

――最終的に何が立ち上がるか

 語彙の衝突、倒語、沈降の果てに、言葉の深層が噴き出す。この句では何が現れるか。

 明確な「意味」はない。しかし、確かにある感覚が立ち上がる。それは「重苦しい逃走感」である。何かから逃げている。だが軽やかには逃げられない。過去の重みを背負ったまま、ぎこちなく飛ぼうとしている。

 この感覚は、戦後日本の精神風景とも読める。敗戦の記憶、国家の影、模倣としての近代化——それらを背負いながら逃れようとする意識である。「逃げる」という動きを示す言葉と「重たい」という重力を示す言葉が、理論によって一つの精神風景へと統合される。これがまさに「言霊の現代としての噴出」であり、意味ではなく感覚として立ち上がるものである。

 この着地点は、垂直の力学と水平補強モジュールの両方が交差した地点からこそ生まれる。ここでも理論は有効に機能している。

6 水平補強モジュールによる補足

――垂直の力学で掬いきれないものを救う

 垂直の力学だけでは届かない部分を、6つの水平補強モジュールで補う。

①身体・実存 「重たい」は肉体の疲労を思わせる。深く読めば、戦場を歩いた身体の重さ、生き残った者が背負う罪責の重みが、この一語に響いている。

②音韻・律動 「お」の母音の反復に注目したい。「まつしまを」「おもたい」「おうむ」と、低く沈む母音が連なり、句全体に重苦しい響きを作り出している。音を耳で感じることが、意味の解釈より先に句の核心へ触れさせることがある。

③視覚 巨大で黒ずんだ鸚鵡が松島上空をゆっくりと飛ぶ異様な光景が浮かぶ。ダリの絵画を思わせるシュルレアリスム的映像であり、その違和感は理屈より先に網膜に焼きつく。

④歴史 『日本海軍』という句集の題名が、軍事史的な文脈を濃厚にしている。単なる風景句として読むことや歌枕としてのみ読むことを、題名そのものが拒んでいる。

⑤主体・心理 誰が逃げているのかが曖昧であることは、不安定な自己意識の表れである。主体の境界が崩れていく心理状態が、句の底に潜んでいると言えるだろう。

⑥受容 若い読者は幻想的な映像として受け取るかもしれない。戦争の記憶を持つ世代は、敗戦の重みとして読むかもしれない。どちらの読みも成立する。この差異を認めることが、句の可能性の幅を広げる。

7  鑑賞

 〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉は、高柳重信の新俳句詩法の有効性をよく示す一句である。「松島」は歌枕としての景勝地であると同時に軍艦の記憶を帯び、「鸚鵡」は異質な外来の響きを持つ。この語の衝突が意味を揺らし、「逃げる」が主体を宙吊りにする。さらに多行形式の空白が読者を深層へと導き、歴史の重みや敗戦の影を言葉の底から立ち上がらせる。垂直に沈降する力学と、身体・歴史・音・視覚といった水平の補強が交差することで、この句は「重苦しい逃走感」という、説明ではなく感覚として立ち上がる読みへと結実する。意味を説明するのではなく、読む者の内側に重い感覚を呼び起こす点に、この詩法の力がある。

結論

――新俳句詩法は妥当か

 〈松島を/逃げる/重たい/鸚鵡かな〉を検討した結果、新俳句詩法は有効性を持つことが確認できると言える。理由は三つある。

 第1に、この理論は「なぜこの句はわかりにくいのか」を具体的に説明できる。

 第2に、その難解さを単なる奇抜さではなく、語彙の衝突や倒語などの構造的必然として示せる。

 第3に、最終的に読者が受ける重苦しさや歴史の圧力といった感覚にまで到達できる。つまり新俳句詩法は、句を解読するだけでなく、読書体験そのものを言語化する理論として妥当である。


 次は、この〈松島を〉の『日本海軍』以外の句集の代表句に新俳句詩法を適応し、高柳重信の新俳句詩法がどのような句に妥当性を有するかを見ていきたい。


★―7:藤木清子を読む16 / 村山 恭子 


16 昭和12年 ③


花のベンチ世につかれてはよるべきもの   京大俳句6月

 「花」といえば桜の花を差しますが、桜のみならず、華やかで賞美すべきものをいう抽象名詞でもあります。花の下のベンチに座り、この世の春を愛でています。世に疲れて「よるべきもの」は、この花の下のベンチ。世への儚さ、悲哀、無常感など詩情を掻き立てます。

     季語=花(春)


思い出の只中に来て子が倒れ        同上

 子と思い出を紡いで来ましたが、その真っ最中に子が倒れてしまいました。大切な子の

将来を案じながら、来し方の思い出が走馬灯のように蘇り、心が張り裂けます。

     季語=無季


つよき性かくしぬさくら草はやさし     同上

 「つよき性」と「さくら草」との対句表現です。強い生き様を隠し、さくら草のように優しくたおやかな振りをしながら生活しています。「性」「草」以外は平仮名表記により、性と草の対比により余韻を増しています。

    季語=桜草(春)


真黒な過去が噴水に散つてゆく       同上

 真っ黒な過去が噴水で散って行きます。噴水は目の前の情景ですが、真っ黒な過去で心

象を綴ります。噴水の水飛沫の飛び散らかりは、過去の思い出や情景が飛び散っているようでもあります。

     季語=噴水(夏)


ひとり身に馴れてさくらが葉となりぬ    同上

 前述に〈ひとり身に馴れてさくらが葉となれり〉があります。「なれり」は動詞「なる」の命令形+存続の助動詞「り」。「なりぬ」は動詞「なる」の連用形+完了の助動詞「ぬ」。「なっている」と「なってしまった」により思いを季題にゆだねています。

    季語=葉桜(夏)


落日に燃ゆる春潮船を焦がし        天の川6月

 春になると海の色も明るくなり、活き活きとした潮の音も印象深いです。沈みゆく夕日が海を燃えるように彩り、海を行き交う船を焦がしています。

     季語=春潮(春)


香水よしづかに生くるほかなきか      旗艦31号・7月

 愛用する香水の香りは、個性を表現するものと考えられています。華やかな香水に心情を託しながら、しづかに生きる他はないのかと身をもてあましています。

     季語=香水(夏)

   

草青く曇と捨猫しろししろし        同上

 早春に萌え出た草の青、沸き立つ雲と捨猫の白。「しろしいろし」のリフレインが、春の情景を愛でながら、やさしく捨猫へ呼びかけています。

     季語=草青む(春)

  

友得たるしあはせしづかなる真昼      同上

 友が出来た幸せはしづかなものと味わっています。「しあはせはしづか」が常套的ですが、最後に「真昼」を置くことで句を引き締めています。

    季語=無季


★ー5 清水径子を読む  佐藤りえ

紐からむ夏よ一気に喪服脱ぐ (「寒凪」昭和四十六年)

引き続き『鶸』より。夏の葬事から帰り、汗のひく間も待てず、一気に喪服を脱ぎにかかる。「紐からむ」というから和装だろう。本来なら長着を解いてまず衣桁に掛け、襦袢を、といきたいところだが、もう無我夢中で、すべてを畳に脱ぎ散らかしてしまったのかもしれない。

喪服を脱ぐまでが喪の作業の一部始終に含まれるようにも思うが、この勢いづいた行動が、まとわりつくすべてを束の間振り払いたい、ドライな日常にも見える。「ぬぐやまつわる」いろいろから、とにかく無事に帰り着いた家で、自らを投げ出す暑さ、暑さにはこんな書き方もあるのだ。

『鶸』の刊行当時、句集評がいくつかの雑誌、俳誌に出た。〔永島靖子(「俳句研究」昭和48年11月号)、佐野美智(「俳句とエッセイ」昭和49年3月号)など〕。なかでも中村苑子は角川『俳句』と『俳句研究』年鑑で二度に渡って触れている。


全体を通じて、生きるひとりの人間の限りない嗟歎が、嘆き以上の切実さで表現されており、濡れた情緒的な情感などからはほど遠い、ストイックで孤独な人生の旅人を想起させられた。

   *

俳句の書き始めから、書こうとする明確な主題を持っていたわけではなく、長い間かかって自己を追求しているうちに、自分の書いた作品のことばから、作者が一つ一つ自己を発見してゆき、何を俳句で書きたかったのかが内部で明確になっていったのだと思う。自己の発見とは、往々にして、自分の書いた文章や俳句からみずから教えられるものである。

(『鶸』の世界/中村苑子「俳句」昭和49年2月号)


俳句を書き出したのも同年、年齢も同じくらい、そして何より、俳句を書く主題が「われ」にあること、などから、ひそかに親近感を抱いてきた人である。俳句の主題など、これといって指摘できるものでなし、ましてや「われ」の主題など、ここと思えばまたあちら式の、捉えどころのないものであろう。それを承知で「われ」の内面に、かげりの深い冷静な眼を向けている点が、この作家の他と違う個性である。

(句集展望2/中村苑子「俳句研究」年鑑・昭和48年)


苑子は大正2年生まれ、径子は明治44年生まれ。昭和48年のふたりはともに60代を迎えている。〈春の日やあの世この世と馬車を駆り〉〈翁かの桃の遊びをせむと言ふ〉〈貌が棲む芒の中の捨て鏡〉といった代表作を思い浮かべると、中村苑子と清水径子とは言葉に執心するとはいえ、だいぶ違うベクトルを持つもの同士のように思うが、苑子の句集『花狩』の初期句抄にはこんな作品がある。


人の気配する雛の間を覗きけり  中村苑子

秋燕の沖さすことの何か不安

置きどころなくて風船持ち歩く


「雛の間」という季語が、女の子の嫁入りを祈念する、ひな人形を含意する限り、女性は単に人形という物を扱うのみならず、その言葉との位置関係を、一句の中に読まれてしまうことになる。「雛の間」の主、飾る側なのか、飾られる=子の側なのか、飾られたものを訪う客人なのか。しかしこの句では、どの立場も避ける「覗き見する」ものであるところが、強引に言ってしまえば、径子と響き合う要素を持っている。人の気配を覗きこむ。華やぎ、うれしさ、たのしさといった、「飾り雛」にまつわる明るいイメージが前面に感じられないのは、「人の気配する」の句跨がり、跨がっても字余りの初句6音の性急さによる。

二句目の結句「何か不安」の率直さ、文語調に整えるでもなく、投げ出すように口語、体言で結ぶところ、三句目の本意に背くかのような「風船」の用い方、いずれも径子の『鶸』の作風に通ずるものを感じる。『鶸』の径子の作風とは、違和を隠さず、季節にあからさまに殉じず、しかしその「違和」が句そのもののなかでも違和として目立ってしまう、文体が定着する以前の果敢な試行がパッケージされたもの、ではないか。


「われ」の内面に向けたかげりの深い冷静な眼、とは、苑子自身も持ち合わせた「眼」であり、少し先の話になるが、苑子の「眼」は時空を越え、幻想と退廃の裡に向けられ、径子の「眼」は内観へと進んでいくこととなる。