2014年1月31日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」④ /筑紫磐井


④再び青年作家特集

前号で紹介したのは正木ゆう子が発表した初めての特別作品だが、翌年50年5月には「青年作家特集」と題して30代作家を含めて再び特別作品10句を発表している。この年の評者は友岡子郷氏で、以後毎年、著名な俳人が若手の作品を鑑賞・評価して行くようになる。

   三角錐 正木ゆう子 
髪切りてどこかにひとつめの蓮華 
いぬふぐり母への言葉溜めてをり 
きさらぎの昼クリスタル眠る地下 
春宵の蒼さの底にゐてひとり 
無人の夢見て三月の朝遠し 
蘇枋咲く頃部屋隅の三角錐 
雪の夜の夢の放恣を許しけり 
眠らねば朝来ぬごとく雪降れり 
雪の中を行くべき手紙投函す 
六月やナルシシズムの果ての月

 恥ずかしながら私の作品も併載させていただく。こんな水準だったということを感じてもらえればいい。またテーマ詠だ。

   しづかなる反戦 筑紫磐井 
ヒロシマや万緑の奥うづきにたへ 
原爆忌呪縛のごとき火の明るさ 
八月の怒りしづかにまなこ灼く 
円柱の胸間よぎる黒い蛇 
妄執に餓鬼道のみづ水を恋ふ 
ひるねざめ血のうみのゆめだぶだぶと 
原爆忌雪の如くに人は消え 
死者は行くな青葉密なる白き河 
しづかなる反戦の夜火蛾よとべ 
雪しんしん俳句を捨てて銃持てとや

こんな作品を批評させられた友岡子郷氏も大変であったと思う。当時友岡氏は、飯田龍太の「雲母」の気鋭の作家・批評家(41歳)であった。友岡氏がこの評を記憶されているかどうかは不明であるが、中にはこうした出会いから、長い交流の続く作家たちもいた。若手たちに取って幸運だったのは言うまでもないが、新進作家たちが、将来俳壇に頭角を現わすかも知れない20代作家たちを観察出来ると言うことは、決して悪いことではなかったと思う。もちろんこれは変な俳句を読ませてしまった者の強弁である。

「純真と自愛」    友岡子郷 

   髪切りてどこかにひとつめの蓮華  正木ゆう子
 
清らかさとどこか隠微な美しさとがうっすらと重なり合った感じがある。もともと、いくぶんの奔放さを秘めた多才の人のようで、次の作品などにその片鱗が覗く。 
   きさらぎの昼クリスタル眠る地下 
   蘇枋咲く頃部屋隅の三角錐 
どこかつっけんどんだが、若い才能を開花させるためには、こういう多少の粗さをためらってはならないと思う。 
   八月の怒りしづかにまなこ灼く 筑紫磐井 
「八月の怒り」は、ほぼ「原爆投下への怒り」と普遍してとらえられるであろうから、この句は一応の独立性を持つと見てよい。 
この一編、反戦への疼きをテーマにしているが、そのような社会的政治的な渇望を持つことは、詩人の究極のヒューマニティに関わる重要事に違いない。問題はどう現わすかである。 
   死者は行くな青葉密なる白き河 
   しづかなる反戦の夜火蛾よとべ
力詠だが、やはり平均作と見る。
正木ゆう子は第一句集『水晶体』には「髪切りて」「雪の中」の句を納めているだけである。まだそれ程自信があるわけではなかったであろう。ただ、ある独特の雰囲気が、失敗作であろうと、句集に残さなかった句であろうと、漂っているのである。例えばそれが青春だと言ってしまえば言えなくもない雰囲気なのである。

そしてそれこそが肝要なのである。句集として残した作品からは、その時作者が感じた空気の全てが伝わっているわけではないからだ。次のように並べてこそ伝わってくる正木ゆう子の青春もあるように思う。ある種の美意識で切りとり、独自の世界に耽っている。幼くもあるが、どこか淋しげな、自己陶酔の風景だ。正木ゆう子の俳句世界はこうしたところから始まっている。実態のない茫漠とした心象風景は、自ら作り上げたものか、「沖」の中で醸成されたものなのか、改めて考えてみたい。

髪切りてどこかにひとつめの蓮華 
きさらぎの昼クリスタル眠る地下 
蘇枋咲く頃部屋隅の三角錐 
雪の夜の夢の放恣を許しけり 
雪の中を行くべき手紙投函す 
六月やナルシシズムの果ての月

後に書くことがあるかも知れないが、私が「沖」で評論を書き始めたとき、能村登四郎の昭和22、3年頃の作品を詳細に調べ、当時の登四郎あらゆる言説を引用した鑑賞や解説を毎月連載したことがある(「沖」昭和60年1月~63年5月)。能村登四郎の俳句の誕生はまさにその時期に全ての秘密があると思われたからだ。この時の副産物が、『能村登四郎読本』の詳細な<文献解題>として利用されている。その後何人かが登四郎論を書きその時期に触れた人もいるようだが、少し違うのは、それらが昭和22、3年頃の登四郎を長い能村登四郎伝の一部として通り過ぎるように書いているのに対して、私は昭和22、3年頃の登四郎を巡り漂っていた雰囲気、息吹を極力書き留めてみたことだ。その時期の登四郎は今日眺めている登四郎ではない、今日評価されている戦後派世代の一角を占める能村登四郎となることを予測もしていない不安に満ちた登四郎があったわけであり、また登四郎を巡る作家の中には、今日の登四郎や湘子を凌ぐ戦後を代表する作家となる可能性のあった若手(秋野弘、岡野由次、野川秋汀、岡谷鴻児、高野由樹雄、五十嵐三更ら)がいたのかも知れない。そうした「未確定」の状況の中で、暗中模索していた登四郎を眺めなければ登四郎を知ったことにはならないと考えたのである。そしてそうした登四郎を書くには、若手全体の生々しい言葉の中で登四郎が何を考え、何をしていたのかを探求する必要がある。私が書いたのはそうした登四郎論であった。俳人研究について多少とも私が方法論を獲得したとしたらこの時の経験が全てだと言えるかも知れない。

言ってみれば―――日常が歴史になる過程をたどってみる、こんなことをこの正木ゆう子論の中で再度行ってみたいと思うのである。



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