95.さし湯して永久(とは)に父なる肉醤(にくびしほ)
さて難しい句である。
『眞神』での父の登場は、唐突であり、さびしく且つネガティブな印象がある。父の句には父に対する遠さと決して自分と交われない混乱があるように思えるのである。もしかすると「父」というのは敏雄自身を表現するものなのかもしれないと思いながら結論は出ないままである。
肉醤(にくびしお)は、一般的には「にくしょう」と読み、魚や鳥の肉で作ったひしお。また、干し肉を刻み、麹(こうじ)と塩に漬け込んだ調味料となるものである。穀物からの「溜まり」よりも前の時代の原始的方法の調味料が肉醤・魚醤ということになる。また古代中国で行われた極刑も意味し、処刑後の死体を塩漬けにすることも意味する。
「永久に父なる肉醤」・・・謎である。
世を捨てて 山に入るとも味噌醤油 酒の通ひ路 無くてかなはじ 狂歌師・大田蜀山人上記の歌はキッコーマン社のサイトから醤油のルーツとなる歌をみつけた。世捨て人となり山に入るにも味噌醤油は無くてはならないものだという歌だろう。永遠に使い続けられる醤を父としているのであるから、無くてはならない存在という意味として解してよいと思える。それが肉醤であるというのだから、ケモノの匂いのする父を想像するのである。
そこで「父なる」に続くものがあるのかを考えてみる。「母なる大地」という考えはある。Mother Land and Father Heaven という言葉があるので、「父なる天」ということになろうか。確かに、天は荒々しく、変わりやすい。下記の歌もある。
夏を愛する人は 心強き人 岩をくだく波のような 僕の父親一般的に父というのは、荒々しく厳しく、強いというイメージがある。では、肉醤にそのイメージがあるのかということになるが、ケモノから作った醤(ひしお)であるのだから、プリミティブ、野蛮ということを思う。
冬を愛する人は 心広き人 根雪をとかす大地のような 僕の母親
「四季の歌」詞・曲:荒木とよひさ
それを「さし湯」して「永久」なるものにしているのだから、ケモノの匂いのする醤(ひしお)を人肌くらいに口にできるようにして、永遠に飲み継いでいく、家族代々がその醤で生きながらえていく、ということに読めるのである。「父を忘れるな」という意志が込められていると読めなくもない。
あるいは、嗅ぐ嗅がないという意志に関係なく、「父」の香りのする生クサイ「醤(ひしお)」を家族は累々と、糠味噌床のように継ぎ足して使用してゆく。それは、「家」を継いでゆく、ということを意味しているのではないか。「家」の在り方、「家長=父」という考えについて「眞神」のムラに問題提議されている気がする。さし湯して薄まりつつも、その醤(ひしお)は、その家に無くてはならないものとしてま存在するのである。
水赤き捨井を父を継ぎ絶やす
父はひとり麓の水に湯をうめる
父はまた雪より早く出立ちぬ
馬強き野山のむかし散る父ら
さし湯して永久(とは)に父なる肉醤(にくびしほ
少年老い諸手ざはりに夜の父
敏雄の表現する「父」は敏雄自身なのかもしれないが、混乱している「父」という姿を描くことにより、代々累々と受け継がれてきた「父」という立ち位置の「揺らぎ」なのだろうか。
近代文学の中に「父」との対峙というテーマがある。敏雄の『眞神』はその文藝に「俳句」として入れる作品であることを思う。
敏雄の近代への挑戦ということも踏まえ、島崎藤村の「悲劇的生涯を終えた父親の苦悩」について鍵がある。まだまだ研究が必要である。
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