2014年1月24日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」③ /筑紫磐井


③沖の二十代作家としての初登場

能村登四郎存命中の「沖」という雑誌は異常に若い作家を優遇する結社であった。「沖」昭和49年5月号は、恒例の二十代作家特集が行われており、沖の二十代作家12人が特別作品15句を発表している。掲載順に掲げると、正木ゆう子・筑紫磐井・森山紀美子・十時海彦(現在「天為」同人・元文部科学省文化庁長官)・小籔早苗・大関靖博(現在「轍」主宰)・堀江棋一郎・陶山敏美・能村研三(現在「沖」主宰)・四方幹雄・酒井昌弘・森岡正作(現在「出航」主宰)であり、もう俳句の世界で名前を見なくなっている人も半数ほどはいるが、それなりに俳句を続けている人たちもいる。

正木ゆう子(当時21歳)は俳句を始めてからわずか半年たつたかたたないかの掲載だから、当時の「沖」がいかに若手を優遇していたかがよく分かるだろう。この特集では、作品だけでなく所信まで書かせている。ではそれらをそのまま眺めてみよう。

蒼い橋    正木ゆう子
角ごとに風が生まれる二月の街 
青き踏むスカートの裾軽く 
桃咲いて部屋の四隅のやはらかし 
シャボン玉ぱちんとはじけ山遠し 
春暁の首すんなりと起き出づる 
春浅しギターの弦を強く張る 
春病めば足が遠くにあるごとし 
恋いくつ籠めて春夜の喫茶店 
バスが渡る春の夜の蒼い橋 
喉の奥に狂気が育つ桜かげ 
サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる 
春のセーターからひとすじのラメを抜く 
春の夜の髪の重さをもてあます 
粉砂糖ほろほろこぼれ春寒し 
故郷や母の後ろに連翹散り 
昭和27年6月22日
   浅瀬から沖へ 
去年の夏の或る日、黄色い小菊を抱いて歩いていると、ふと季語入りの十七文字の短い言葉が口をついて出て来た。それ以来、まるで子供が浅瀬で水遊びをするようにピチャピチャと俳句を読み、俳句とも言えないようなものを作ってきた。今、半年たって、自分にとっての俳句を意識して見ると、その魅力はもう浅瀬ではなく、引き返せなくなっていることに気づく。こうなったら覚悟を決めて、沖へ泳ぎ出すだけだと思っている。

現在若手の口語的作品を未熟だと言う人が多いが、すでに正木ゆう子の句にもそうした作品が溢れている。しかし全部が全部見るに堪えないかと言えば、この時の作品で「サイネリア」の句は一時期正木ゆう子を代表する句になっていた。第一句集『水晶体』のあとがきで林翔はこの句を激賞しており、初めて正木ゆう子に注目した句だとしている。

さて、所信の中で、正木が「季語入りの十七文字の短い言葉」といっているのはまことに的確だと思う。全ての俳句は、「季語入りの十七文字の短い言葉」から始まる、その意味で「俳句のようなもの」からしか「俳句」は始まらない、これは私も全く同感である。

いや正確に言えば、「俳句のようなもの」から始めさせる能村登四郎の指導方法と、厳密な「俳句」から始めさせる藤田湘子の指導方法の二つがあったというべきであろうか。あとあと、湘子の系列の同世代の作家から話を聞くと、同じ馬酔木の出身でありながら俳句の指導原理が二人は全然違っていたようなのである。どちらがすぐれた指導方法であったか―――それは一概に言うのはなかなか難しい。ただ、より厳密に言えば、「能村登四郎の指導方法」といったが、指導などしていないのが能村登四郎の指導方法なのであった。「春暁の首」「春病めば」「春のセーター」など、そうした無指導の指導のよろしさを得た俳句であっただろう。

ただ「喉の奥」などはおそらく今の正木ゆう子にとっては赤面するぐらい恥ずかしいに違いない。そこで、正木ゆう子ばかりに恥をかかせないために私(当時23歳)の恥ずかしい俳句も掲げておくことにする。

秩父魚虫図      筑紫磐井  
始祖鳥のまぼろしと啼く草いきれ 
廃屋に蛇の睡りのわだかまる 
蜘蛛去って鬼気ただよへり蜂むくろ 
青蝿の一瞬に消え屍を残す 
秩父には魑魅棲みつぐと油蝉 
不気味にも夜の雲ちぎれ蛙なく 
水底の我が影はめるかと大群 
泉底に小さき修羅場や藻が隠す 
炎天のどこから湧ける山の婆 
水中花睡りの中にのみ揺れて 
     ※ 
廃屋の枝垂れ桜は夜が妖し 
白梅の混み合ふ上を日が流れ 
ものの芽にあはあはとおく別れ雪 
霜の空蝶渡りたく息絶えぬ 
愛憎の屋に夜明けをり漱石忌

昭和25年1月14日

   民族の伝承詩 
俳句は文芸ではない。それは、作者の境涯からも、私性からも解き放たれた「伝承のうた」である。作者の悲しみは、一人の立場を離れ、民衆の挽歌として残されてゆく。滅びとて同様である。 
いつの日か、俳句の滅び去る日がくるかもしれない。しかし、そこにうたわれた時代の心は、文学以上の価値をもって人々を永遠に感動せしめうるであろう。 


40年ぶりに資料を引きずり出して、実に俳句を始めたときから、写生・嘱目でなく観念的なテーマ詠をしていたことに驚く。また、その後評論に専念してゆく私であるが、俳句の雑誌で最初に書いた文章がこの所信であるらしい。<俳句は文芸ではない。「伝承のうた」である>は、つい最近刊行した『21世紀俳句時評』に全く同じ文章があったから、ちっとも変化・進歩していないらしい。これまた赤面するぐらい恥ずかしい。


      *      *

この企画では附録的な編集が様々に行われていた。まず、作品については、二十代作家の作品を沖の主要同人11名(今瀬剛一、鈴木鷹夫ら)が選句をし、点を競っている。高点句は次の通りであった。

6点 春病めば足が遠くにあるごとし  正木ゆう子 
6点 炎天のどこから湧ける山の婆   筑紫磐井 
6点 水音のくもる高さに囀れり    能村研三 
4点 桃咲いて部屋の四隅のやはらかし 正木ゆう子

こんな傾向が当時の「沖」にあっては評価されていたということである。

また、簡単ながら二十代作家論が掲載されている。「あざみ」の若手である小野元夫氏(現在「あざみ」副主宰)が「「沖の二十代作家」十五人評」を執筆している。特別作品を発表している12人に少し補欠を加えて書いている。その中ではこんな評が行われていた。

●正木ゆう子 
俳句一家にあると言う環境も、本人次第で良くも悪くもなるものだ。 
溶けそびれまた夜となる渓の雪  
見つめられ柿輪郭を濃くしたり 
俳句の骨法を第一に教えられたようだが、多少、少女趣味におちる位の自在性を持っていないと、いつか俳句を投げ出したくなる日がきたときに詰まってしまう。新鮮さがこの人の魅力なのだから、ある程度の柔軟性が欲しい。

●筑紫磐井 
磐井君もまた学生である。彼の特性は極めて口数の少ない淡白な詠いぶりにある。 
更けてきて炭火の起こる夜の乾き 
雪わづか降る夜ほのかに咳もれぬ 
雪降りに焚く火の色は母の色 
など平明で、状況に対する反応は柔軟。しかし与えられた世界を変革してゆこうという気迫にかけるのは残念である。新しい展開が課題であろう。

わずかな作品から作家論を書くのはいささか乱暴であり(正木ゆう子に到ってはわずか数ヶ月の作品だ)、正木ゆう子の「少女趣味におちる位の自在性を持っていないといつか・・・詰まってしまう」「ある程度の柔軟性が欲しい」は、私などこの時期の正木ゆう子など少女趣味・奔放の権化のように思っていたからかなり他人の評は食い違っていると感じた。私にしてからが、「与えられた世界を変革してゆこうという気迫にかける」なんて、長い40年の句歴の中で、その後一度も言われたことがなかったように思う。

       *    *

翌月の49年6月号ではその後も恒例となるのであるが、特別作品評「躍動する生命力――二十代作家特集を読んで――」を三十代の若手同人であった上谷昌憲氏(現在「沖」同人。俳人協会「俳句文学館」編集長)が書いている。身近な人だけに的確なところが多かったように思う。

●蒼い橋(正木ゆう子氏) 
先ず何より魅力的なのは、ナイーブで柔軟な可能性であろう。 
角ごとに風が生まれる二月の街 
恋いくつ籠めて春夜の喫茶店 
都会的な俳句は非常に骨が折れるものだが、ポイントとなる季感が的確なため、感情に押し流されていない。他の句もほとんどが都会的な素材を扱っており、つぶやきのような不思議な俳句を見せてくれる。 
桃咲いて部屋の四隅のやはらかし 
春病めば足が遠くにあるごとし 
サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる 
一句目、二句目の女性らしい完成。三句目の素直さ、奔放さ。今後もさらにこの世界の拡大を願っておこう。ただ「青き踏むスカートの裾軽く」の安易さや「喉の奥に狂気が育つ桜かげ」のポーズは止めにして・・・。

●秩父魚虫図(筑紫磐井氏) 
現実への妥協を拒みつつ、具象を超えた何かに肉薄しようとする試みは貴重だ。だがその意欲が先行してしまって、観念の消化が不十分な作品も散見したがどうだろう。 
秩父には魑魅棲みつぐと油蝉 
泉底に小さき修羅場や藻が隠す 
炎天のどこから湧ける山の婆 
これらの句は虚実感を伴って筆者の胸に楔を打つ。山深い秩父の里で、作者はおどろおどろしき怨念のように詩への闘志を燃やしていたのであろう。「泉底に」の句は秀吟である。 
廃屋の枝垂れ桜は夜が妖し 
霜の空蝶渡りたく息絶えぬ 
現実を直視したときに湧くある種の触発を、いかに形に現わすかという作業は難しい。「始祖鳥のまぼろしと啼く草いきれ」「愛憎の屋に夜明けをり漱石忌」は観念過剰と見た。 
評者自身が若いから、自らの文章に溺れてしまっているようだが、なかなかいい線をいっているようには見える。

さて、長々としたこれらの資料を読まれて読者はどう思うだろう。入会してからわずか半年、あるいは一年の若手にこれだけ場を提供してくれる結社がかってあったと言うことが驚きである。実は、このように若手を偏重した能村登四郎・藤田湘子であるが、能村登四郎・藤田湘子自身、昭和20年代に馬酔木が行った若手偏重特集の中で頭角を現わした作家たちであったのだ。戦後若手の輩出を切望していた水原秋桜子が、わずか48頁の馬酔木の頁を割いて膨大な新人のための特集を組み、それにより、馬酔木の戦後新人がやっと登場したのである。新人は、新人自らだけでなく、指導者が努力をしなければ生まれない―――これは、間違いない!





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