2014年1月10日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 93.94.<めし椀のふち嶮しけれ野辺にいくつ> <ははそはの母に歯はなく桃の花>/ 北川美美



93.めし椀のふち嶮しけれ野辺にいくつ

めし椀とは人が日常で使用する飲食の道具である。けれども「野辺にいくつ」とあるので、墓に供えるめし椀と想像する。野山には突然と墓が建っていることがある。村の風景である。

長閑な風景なようだが、ふちが欠けている椀がいくつか野辺に放置されているのである。墓参りをする人もない人の途絶えた村なのではないだろうか。過疎という現実、置き去りにされた消えた村を想像する。

さて「けれ」の用法識別であるが、過去(回想)の助動詞「けり」の已然形と判断する。「めし椀のふちが険しくなってしまったものだなぁ」と時間の経緯を思うのである。野を歩き、人がそこにいた筈の風景を思う。過去と現在が混在する感覚がそこにある。

ふちが欠けていることを「険しい」とすることで雅やかになり、欠けて貧相なめし椀が、渋い椀となる。そして「野辺にいくつ」とすることにより、数え歌のような美しさを奏でる。

欠けた茶碗が、装飾性の否定を特徴とした利休好みの楽茶碗の感覚となるのである。


94.ははそはの母に歯はなく桃の花

「ははそは」は「母」にかかる枕詞として知られているが、その使用で一番強烈で有名な歌は、斎藤茂吉だろう。

星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり   斎藤茂吉

「垂乳根の母」が産んでくれたことに感謝の意を表すのならば、「ははそはの母」は、はかなく母の亡骸が燃えてゆく悲しみがある。

敏雄は更にその「ははそはの母」に更にハ音を重ね「歯がない」と続ける。

ハ音続きの掲句、ここにも使用される「歯はなく」の「は」の用法が他の意味を含蓄しているようでもある。とすれば、「歯は無いが、髪はある」「歯は無いが、眼は見える」「歯はないが、耳は聞こえる」「歯は無いが、記憶力はいい」などが考えられる。

そして対比するように下五の「桃の花」。

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女   大伴家持

年老いた母に歯がない。さらに女性に歯が無いというのは、至ってエロティックなことも考える。思うに、母も桃の花の香るような女であったということを含んでいる気がするのだ。

母を女として見る読み方であれば、その読みもありと思うところなのだが、正解はなく、読者があらゆる想像を駆使して味わえばよいのだろう。

ここに母の句を再度引く。

母ぐるみ胎児多しや擬砲音 
生みの母を揉む長あそび長夜かな 
母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき 
産みどめの母より赤く流れ出む 
秋色や母のみならず前を解く 
ははそはの母に歯はなく桃の花 
肉附の匂ひ知らるるな春の母 
大正の母者は傾ぐ片手桶 
夏百夜はだけて白き母の恩

次はまた父の句が出てくる。

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