2013年2月8日金曜日

戦後俳句とは いかなる時空だったのか?【テーマ:書き留める、ということ】/堀本 吟

[四] 天狼遠星集 津田清子の発見


[一][二] 1月25日掲載に書いているように、清子が初めて、遠星集に名を掲載されたのは、昭和二十三年四月号である。

毛糸編む吾眼差しは優しからむ  津田清子
(昭和二十三年天狼四月号《遠星集》の欄)

のことを、もう少し詳しく書こう。

この句は、津田清子が、隣家の堀内薫に誘われて、昭和二十三年一月十一日「七曜」新年句会。初めて橋本多佳子自宅の句会にでて、初めて多佳子に講評してもらった句である。お茶くみを手伝っていた橋本美代子は、次のように回想している。
引用は、特集・津田清子研究「俳句研究」 昭和五十八年四月号の橋本美代子(天狼。沙羅)《多佳子と清子》50-51p より。

       
たしか、その折の句は、

毛糸編むわが眼差しは優しからむ  津田清子 (俳句研究には「わが」と表記)

という句で、当日の特選であり、当日の高点句であったと思う。その当時、俳句とは縁なき衆生のような顔をしてお茶汲みをしていた私も、この一句と、母が黒地に紅白の梅小紋の着物を着て、やや声を弾ませながら選評をしていたことを、はっきり記憶している。

中略。昭和三十一年の『礼拝』における山口誓子の序文、例の「正直詩派」(誓子)と「不正直詩派」(清子)の格闘のことや、多佳子と清子が共に旅をした時の、同一対象の把握の違いなどが、美代子の視線から書かれている。(『礼拝』の誓子の「序文」に対して、)

正直詩派と不正直詩派の解説は既に周知のとおりであるが、この序文は一貫して先生自身心を弾ませている書かれている。

また、結びとして

橋本多佳子は、その俳句の生涯において、身近に二人の女傑にであっている。ひとりは杉田久女、一人は津田清子である。立場は違うが、この二人は多佳子に腹を括らせた女性であると、身内の私は思う。多佳子も望むところであったろう。(以上.橋本美代子)

津田清子を発見したのは、まず、堀内薫―昭和十五年の「京大俳句事件」で深い傷を負い、戦後の足取りはどういういきさつなのか、まだ私自身の調べは至っていないが、郷里奈良に住んで、前川佐美雄の「おれんじ」そして、「七曜」で橋本多佳子の補佐をしていた。その堀内薫が、多佳子のもとに彼女を連れて行ったのだが、このお膳立てに清子が気がついたのは後日のことである。

堀本の回想を披露すれば、津田清子さんとの会話の思い出。

「何も知らないでおずおずと部屋に入っていったら、あなた、そんな隅の方に座っていると、お茶くみばかりしなければならないから、もっとこちらにいらっしゃい」。と多佳子先生が手招いてそのそばに座らされた、ということである。「これも、最初から仕組まれていたんやね。」

と津田さんは、ある日の話の時に笑って言われた。

橋本多佳子は、津田清子の句を特選にし、それは。昭和二十三年四月号の最初の雑詠欄に載ることとなる。

「天狼」は昭和二十三年一月誕生、ほどなく雑詠欄を募集して投句を集めることとなる、その最初の遠星集の欄の中頃にこの句が載っている。誓子の選の以前に、僚誌である「七曜」で橋本多佳子の特選を得たものである。何らかの添削があったのかどうかまではわからないが、当時の結社の新人育成のシステム、や俳句の句会の様をまざと見る感がある。

とにかく、こういう句から出発した津田清子には、注目を浴びるだけの骨太な構築力と完成度と言葉の閃めきがあった。

表現が固まる以前の関心の動きにいくつかの方向があり、それは誓子が言う不正直詩派―表現上の比喩の独特さとして開花するのだが、(象徴的には「虹二重神も恋愛したまへり」の句だろう。)「毛糸編む」の方は親しみやすく、みずみずしい実感に沿った「やさしい眼差し」は生涯もちつづけられる。この方向が、晩年(つまり、今)に彼女のこの原質というべき生命感ともなって万物に対して働いている。

ただし、このデビュー作についても、清子についても、誓子の選評はまだない。

私のこの文での発見は、多佳子の四女で後継者となった橋本美代子の、文章に出会ったことである。多佳子の師である杉田久女と、弟子である津田清子を母を挟み撃ちにした「二人の女傑」と云う。美代子さんもなかなかの肝の座った眼力のある女流である。
(以下次号)

0 件のコメント:

コメントを投稿