前句の<北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり>のあたりから、しばらく『眞神』を読む感情の振動が激しくなっていく。読者を興奮させるような言葉を駆使しているのだ。
「そばだてる」がそれである。「高くそびえたたせる」という意味だろう。ところで「そばだつ(峙つ)」と「そばだてる(敧てる)」とでは漢字が違う。しかし、どちらも激しい言葉であるが「そばだてる」が他動詞使いであることが何とも意味深だ。
水上(おそらく川の上流)に夜の間に大きくなった氷をそびえたたせるということだと思うが、ではいったい、そばだてているのは誰なのか。なんとなく、大口眞神の見えない力がそうしているのではないかという読みになる。
山の中の川の氷である。「夜増しの氷」ということでこれが厳冬の風景であることが読み取れる。
敏雄句はこのような『眞神』という見えない山の神の存在の中に配置されることにより読者に不思議な興奮を与える。主語のない他動詞の使い方が幻想を思わせる。五七五に収められ、山の激しい風景、そして冬の厳しさが伝わってくる。
厳しい自然の中で暮らすとそれがまるで神の仕業なのではないかと思えてくることがある。神がそこに棲んでいると思えるのである。自然と対峙することは神と対峙することに等しい。
一句としても立ち上がるような勢いを感じることができる。激しいとも、厳しいとも言っていないが句は詠っている。一句として成り立つことができることが俳句なのである。
74.山を出る鼠おそろし冬百夜
句がますます勢いを増す。眞神山の頂上付近に近いことを示すようだ。総計130句の半分以上を過ぎた。敏雄はどの場所でどのように『眞神』を選句しそして配列していたのだろうか。130句の絵巻物である。
上掲句が物語りのように思えるのは、「冬百夜」という言葉によるところが大きいだろう。そして「おそろし」という表現により山の神が何か騒ぎ出しているような印象を受ける。恐ろしいのは鼠のことだろう。この鼠も神話の鼠のように思えてくる。『眞神』の中ではそのように動物がひとつひとつ何か意味を持っているかのように思えてくる登場をする。
「大山鳴動して鼠一匹」ということわざは西洋が出典であるようだが、「それは取るに足らない」という意味であり、上掲句はそれを逆手にとっているような句である。
さて鼠。日本の神話の中で確かに鼠は神の使者として登場してくる。『古事記』の根の国の段の鼠は、大国主命(おおくにぬし)の命を助ける。そして鎌倉時代中期の仏教説話集の『沙石集(しゃせきしゅう)』の中でもネズミの親が娘に天下一の婿を得ようと太陽を訪ねるが、より優れた者を薦められるうちに、結局ネズミこそが最も優れた者であると結論する。
鼠は西洋のペストの流行を媒体した害のある扱いと異なり、日本では優れた動物として描かれている。
『まぼろしの鱶』の中での鼠もどこか物語の使者のようである。
紐育鼠短距離疾走す
十二支の中でも鼠は頭のよいものとされている。丑の背中に乗りゴール間際で飛び降りて一位を獲得する話はよく耳にする。「疾走」というのはただ早いだけだろうか。別の意味を考えてしまうのは漢字のせいなのかもしれない。
掲句、山の中で集団の暮らしをした鼠が山を出ていく。私にはこの句の鼠は一匹の扱いのように読める。集団の中の一匹がおそろしいことをしそうなのだ。しかし、読者は、その「おそろしさ」に期待を持つ。ヒーローになるかもしれない鼠である。
何かが起こりそうな前兆のような句である。そう、次句は「かの狼」である。
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