2013年2月22日金曜日

文体の変化【テーマ:短歌と俳句で読む③】~私の場合~/筑紫磐井

俳句を始めたのは「馬酔木」で昭和46年秋、やがて「沖」に47年9月から入会した。泣かず飛ばずであったが、同期の最後尾で同人とはなった(この時一緒に同人となったのは正木ゆう子である)。そんなある日目覚めたのは、俳句で雅を読めるということであった。俳句の王朝風の雅といえば、蕪村や東洋城がいたがこれらは趣味的な感じがした。これを徹底してみようと書いたのが「王朝故実」20句であった。

これは沖の俳句コンクールに応募したものだが、選者の能村登四郎、林翔の1位となった。
女狐に賜はる位・扇かな
みちのくに戀ゆへ細る瀧もがな
ちょうど句集をまとめる時期に来ていたので、この調子で書き下ろしのように何篇か書き、1冊の句集とした。

面白いエピソードとして、このような作品群を富士見書房の「俳句研究」の賞に応募して見たのだが、本選では通らなかった。ところが本選が終わり受賞者が決まった後、突然角川春樹が今年こんな作品があったと私の句を取り上げ実に嘆かわしいと延々と批判し始めた。選者たちも、少し面白いと思ったが最終的にはこれはだめであるということを口々に言い始めた。これは角川氏への迎合であったろうか。最終的には、入選作よりよほど頁数を割いて筑紫磐井批判が行われたわけである。こんな経緯で生まれたのが、『野干』である。異色の名が立った。

七月の諒闇(りょうあん)といふ静けさよ
風薫る伊勢へまゐれとみことのり

こうした句集をまとめてしまうと以後、尋常な句は詠めない。時代を広げて、古代~終戦の日までを詠んで『婆伽梵』とした。

蛍放生容貌(かほ)よかりしは不幸(ふしあはせ)
八月は日干しの兵のよくならぶ

また戦後のT家の雅な生活を、滅びゆく家族の生活を描いた小津安二郎の映画の筆致に倣い『花鳥諷詠』として出版した。これは小さな賞を受賞した。

もりソバのおつゆが足りぬ髙濱家
俳諧はほとんどことばすこし虚子
和をもつて文學といふ座談會
来たことも見たこともなき宇都宮

 
こんな風に見てくると、俳句の中から不思議な世界を紡ぎだしたように思われるかもしれないが、実は昭和48年10月から前田夕暮の系譜をひく前田透主催の「詩歌」で短歌、それも自由律っぽい短歌を詠んでいた。現実離れしたところは、当時の歌壇の流行、塚本邦雄等の世界の模倣であったかもしれない。

創造の天地あかつきかへる雁 暮六つ時のぼろんじの夢
アンドロメダの渦巻いてゐる 遠い 遠い きさらぎの火の速さ
草うらの影絵の世界 匂ふべき夜叉のおごりもあさつきの色
安曇野のまひるの罪よ 生きとし生けるものは草焼きの匂ひ
この七月を生きた者のかなしみはただに青きよ 水の調律
東方に花一片の知恵もなし 青くたぎれる薔薇の原人
地獄門 血の一滴に火を放てり 幻想と恋の白羊宮かな

当時一つの手帖に俳句と短歌を書いていたが、57577にまとまれば「詩歌」に、77ができず575で止まってしまえば「沖」に投稿していた。手帳には次第に57577まで届かない断片が溜まり、俳句として通用するようになった。

俳句形式に現代詩を投げ込むと前衛俳句となるといわれていたが、俳句形式に短歌を投げ込んだものが私の俳句であった。その意味では私の頭の中には詩と俳句ではなく、短歌と俳句が常に渦巻いている。

やがてこうした手帳の中で短歌から俳句が分離独立し、自然な短歌との別れが生じ、一つの方向に独立した俳句が残ったのである。

 
先年NHK俳壇が思い出の地を探るという企画でどこへ行きますかといってきたので、前田夕暮・透の住んだ荻窪川南の邸宅を訪れた。未亡人(前田透は歌会始選者であったが、歌会始の前日、環状八号線でオートバイにはねられて10メートルもすっ飛んで数日後になくなった)には、昔そのままの洋館の中を案内して頂いた。私の短歌の別れから、30年後のことであった。




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