虎杖(いたどり)はタデ科の多年生植物で2メートルほどになる。句会で「すかんぽ」に接し、これが「いたどり」であることを知った。春におやつとしてポキポキ折ってその汁を吸うらしいが食したことがない。四国で多く食べられるらしく、虎杖の酢物は、塩漬けにしたものを甘酢で合える食べ方などがある。
古わが宿の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 摘み生(おほ)し 実になるまでに 君をし待たむ 万葉集(巻11・2759)作者不詳古代から食べられている野草として虎杖がある。掲句の「虎杖の酢」が酢漬けの酢ということも考えられるが、イタドリの酸味のことを「虎杖の酢」と表記していると解する。植物としての虎杖の特性のことだろう。秋にちいさな実をつける頃、茎の酢が涸れてしまう。干上がってしまう。秋の風景である。
下五の「五十年」という作者の年齢と近いことから「も」は、「虎杖の酢」と同様に「作者」も繰り返し涸れていくことという並列を意味するだろう。
秋になると物思いにふけり、自分の人生を考える。涸れても虎杖である。酸っぱいことが青年期であれば酸っぱさが涸れていくことが人生の秋ということだろうか。
「枯渇」という言葉がある。違いのわかる男シリーズ、ネスカフェCMに登場するキャラクターは戦中派世代がよく似合う。戦後の復興を時下にみつつ時代に翻弄されて生きて帰ってきたことに対する枯渇だろうか。
72.北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり
『眞神』には赤、血などの神への生贄、地域に残るサクリファイス的な儀式が匂う。生きていることと死ぬことが紙一重であるように。死ぬことも生きることと思える。彼の世とこの世の境界線を勢いよく飛ぶ鳥を想う。
掲句は10句目<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>と被っている。そしてまたも「血」(前述<しらじらと消ゆ大いなる花火の血>)である。
生涯を通して鳥の句の多い敏雄であるが、『眞神』での鳥は、<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>の句同様に勢いよく突進していくものとして描かれる。鳥として生まれた辛さに同情しているように。
船上生活の長い敏雄にとっての鳥は唯一の訪問者でありよくよく観察した生物(いきもの)なのだろう。鳥は不思議である。鳥類のほとんどが飛行することができ、それを移動手段として陸・海・空を自由に行き来できる。
敏雄の鳥の句を拾ってみよう。
『まぼろしの鱶』
色色の小鳥の中の帰鴈かな
弱国の颱風眼に海の鳥
新しき小鳥のむくろ私す
踏青や鳥のごとくに顔提げて
帰る鳥来る鳥昼夜同じ沖
飢餓の子よ海へ群がりおりる鳥
破片確め難破確め渡り鳥
鳥つるむ半ば落ちつつ羽根出して
『眞神』
渡り鳥目二つ飛んでおびただし
蒼然と晩夏のひばりあがりけり
正午過ぎなほ鶯をきく男
北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり
目かくしの木にまつさをな春の鳥
飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし
『鷓鴣』
天ありて脳天弱し百千鳥
とぶ音やむかしの鳥に攫はれて
わたつみのなみのつかれよ渡り鳥
脇甘き鳥の音あり春の闇
鳥が飛ぶ疾風(はやち)に春の人出かな
おほぞらお我鳥(わどり)は汝鳥(などり)もろびとよ
鳴いてくる小鳥はすずめ紅の花
『疊の上』
國空や来つつ暮れたる渡り鳥
山高く水低く在り渡り鳥
大正九年以来われ在り雲に鳥
鳥風や鳥も體熱放しつつ
なつかしの色鳥どれが番なる
日月や走鳥類の淋しさに
一木の沈黙永し百千鳥
仔育ての鳥の瞼よ夜の風
雪の夜を當つる枕は白鳥か
山里の橋は短し鳥の戀
飛交ひていづれか強き春の鳥
『しだらでん』
日と月と鳥ゆくうれひ海跳ねて
大木に枝家に屋根あり鳥歸る
搖籠は止まりやすけれ百舌鳥
わが空路白鳥いまだ飛来せず
野の果の灘も相模や渡り鳥
鳥雲ニツポニアニツポン生きゐて絶ゆ
早死の鳥もあるべし百舌鳥
飛ぶ鳥のつひになかりし良夜かな
ありがたき空気や水や小鳥くる
鳥好きな敏雄にとって、鳥の進化、歴史をも考える句が含まれるのが時系列順にみているとわかる。
配列についても特徴がある。『眞神』の中10句目の<渡り鳥目二つ飛んでおびただし>と72句目の<北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり>の並びはそれぞれその前句に二句「秋」という語を入れた句を配置している。
8火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋
9こぼれ飯乾きて米や痛き秋
10渡り鳥目二つ飛んでおびただし
70石塀を三たび曲れば秋の暮
71虎杖の酢も涸るる秋五十年
72北空へ発(た)つ鳥の血をおもふなり
ただただ鳥をみて過ごし、敏雄の淋しさが伝わってくるようだ。生きていることの意味を鳥に託しているような気がしてくる。
しかし、これだけ鳥好きと思える敏雄が『眞神』に配した鳥はたった四句である。特別な鳥を配したと思えてならない。『眞神』の中で意味する鳥は神への使い、あるいは神と思える八咫烏(やたがらす)の存在とも似ている。
『眞神』の中の激しく飛び立つ鳥は敏雄の俳句に対する挑戦を映しているように思える。『まぼろしの鱶』が昭和四十一年四月(46歳)そして、『眞神』が昭和四十八年(53歳)である。『眞神』上梓の前年(昭和41年)には航海訓練所を退き、平河会館支配人の職に就いている。いよいよ俳句に没頭できる時が来たのだ。『まぼろしの鱶』からの7年間は敏雄にとって白泉を失い、三鬼全句集を編纂するなどの俳句に於いての大きな過度期を過ごした。
上掲句は、50歳を超えた敏雄自身の俳句に対する強い思いを託す八咫烏に思えるのである。
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