英国俳句協会で季語を語ってみた
僕の所属する英国俳句協会で冬の総会(オンライン)があり、僕がプレゼンテーションをすることになった。テーマは「四季」。実は外国での季語の論議をずっと見てきて感じるのは、日本での季語の実態が一面的にしか伝わっていないのではということ。その危惧を話してみた。
どこか一面的なのか。俳句は自然を詠む文学であり、季語はそのための重要な焦点になる。それが英語圏(あるいは他の外国語圏)で神話のように信じられていて、それは決して間違いでもない。しかし、季語はそれ以上のものを持つ。そのことが伝わらない限り、俳句そのものへの理解も偏ったものになりかねない。
まず一点目。海外それぞれの場所で独自の歳時記を編纂する試みも行われているが、彼らが使う季語の総数はおそらく数百レベルで、日本の歳時記が季語の数で数千や時に一万を超える広がりを持つことはたぶんあまり認識されていない。
二点目。季語が自然を反映するという観念が強いために、彼らの使う季語は花や鳥(なぜか鳥は多用される)といったものが中心となる。季節の行事であったり、旬の食べ物、あるいは人々の服装や生活用品、などはほとんど登場しない。
三点目。日本での季語には空想的なもの、奇妙な言葉遣いのものも実は多い。例えば、神の留守、蛙の目借時、龍天に昇る、雪女、鬼火、炎帝、山笑う、山眠る、などなど。だが、季語の持つそういった側面もほとんど知られていない。
それらの結果として、少なくとも僕が知る限りの英語圏のhaikuは、目の前にある自然を実直に読むhaikuになりがちだ。一方で、僕の知る日本の俳句は、自然だけでなく人々の日々の生活にも近いし、また、歴史や文化や空想にも広がる幅広いものだ。さらに言えば、季語の言葉やイメージ自体の面白さ、あるいは季語の背景が持つ面白さ、それも俳句の魅力でもある。そういうことへの理解が英語圏の俳句には充分ではないと感じる。
西洋人の俳句観が自然とのつながりに偏りがちだ、という僕の危惧に共感してくれた参加者もいたのは、心強かった。
ちなみに、川上弘美氏が書いた文章(『わたしの好きな季語』)が、僕が思うことにぴったりだったので、そのプレゼンテーションでも英訳して紹介した。
「それまで見たことも聞いたこともなかった奇妙な言葉が歳時記には載っていて、まるで宝箱を掘り出したトレジャーハンターの気分になったものでした」
もちろん、haikuとしての歴史の浅い国々に多くを求めるのは無理だろうし、そうすることが正しいあり方かどうかもわからない。ただ、各国に広く浸透した〝俳句は自然を詠む文学〟という神話からはこぼれ落ちてしまう俳句の特質や魅力も少なからずある、と感じている。
※写真は英国俳句協会のサイトより引用
(『海原』2025年3月号より転載)
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