林翔は、48年2月号の「沖」で「ベカほろぶ」の十句を掲載している。
潮饐えてベカほろびゆく雁渡し
秋風に古き軍歌やベカ潰え
海棄てし子連れ蜑かも海へ凧
(以下略)
ところがこれらの作品の下段に次のような随想を掲載している。
冬の日に
初めて浦安を訪れたのは何時だったろうと古い句帖をひろげてみた。昭和二十年十一月である。生徒の親の招待で網舟に乗せて貰ったのだが、その時に得た句。
冬の日にふれてひらきし投網かな
が、二十一年二月号の馬酔木の新樹集(現在の馬酔木集)に他の一句と並んで出ている。他の一句というのは見合のために行った信州での句、
吾亦紅手にをどらせてゆく日和
で、何か心がはずんでいるようだ。
「貝死なず」群作を作ったのはそれから十年後の昭和三十一年である。「海苔で知られた浦安町は全滅的な海苔不作のため、貝の採収や加工で僅かに生計を保つてゐる。或る晴れた日と雪の日に」という前書どおりの事情が新聞等で屡々報道されていたから、近くに住んでいながらこれを詠みに行かないという法はないと心に決めた。社会性俳句か盛んな頃だったから、その風潮に衝き動かされたこともあっただろう。十四句を得て、前述の前書きをつけて、秋櫻子先生のお宅に持参した。十句以内に削って頂くつもりだったが、先生は「このまま預かっておくよ」と言われた。四月号をあけてみると十四句そのまま載って巻頭であったのには驚いた。風雪集は十句が限度であるから気がひけていると早速波郷さんが「林さん狡いよ」と例のニヤニヤ笑いを浮かべながら言われた。波郷さんはその号では三席で、中に「葛西海苔不作」と題する一句
頬被ゆるびて干さむ海苔もなし
があったのである。
林 翔
この時(31年)の林翔の作品を眺めてみよう。
貝死なず
海苔で知られた浦安町は全滅的な海苔不作のため、貝の採収や加工で僅かに生計を保つてゐる。或る晴れた日と雪の日にーー
日に照らふ海苔簀空しき南向き
簀の葭の一すぢ一すぢ冬日沈む
痩せ葱と海苔なき海苔簀錯落す
天に凧海苔網洗ひ尽くすまで
冬日に干す籠に縋りて貝死なず
漁業組合事務所
干拓反対の文字へ風花つひに雪
まき籠は貝採取に用ふ。丈余の柄あり
まき籠の長柄犇めき雪を呼ぶ
雪にじむこぼれ浅蜊の茶絣に
雪舞うて剥身赤貝血あえたり
炭火あかあか貝剥き捌く一家族
雪の鳥居くぐる不漁のそそけ髪
猫実の江は広重の版画にもあり
猫実や皆雪とがる細舳
暮雪にてただ漠々の海苔簀原
遠き鴨蜑の早寝に雪積り
さて社会性俳句と言えばまず思い出されるのが能村登四郎である。馬酔木二九年一一月号で「北陸紀行」の大作を詠んだが、全体は紀行句集であったが、その中で内灘基地(一七句)を詠んだ俳句が含まれているのである。
○二九年一一月「馬酔木」より 「北陸紀行」
内灘村。日曜日とて射撃なし、炎日眩むごとし
何に追はれ単線路跳ぶ羽抜鶏
射撃なき日の昼顔の昼の夢
砲射音おののき耐へし昼顔か
昼顔の他攀づるなし有刺柵
しづかなる怒りの海よ砂も灼く
炎ゆる日も怒り黝める日本海
ありありと戦車幾台日覆かけ
眠られぬ合歓の瞼も基地化以後
基地化以後の嬰児か汗に泣きのけぞり
基地の子として生まれ全身汗疣なり
合歓の下授乳後の乳しまはざり
漁夫の大方は基地の傭員として働く
柵ぬちに汗の黄裸の俘虜めけり
馬酔木は、戦後中心をなした三羽ガラスと言われた作家たちがいた。能村登四郎、藤田湘子、林翔である。この三人によって多くの俳人(山口誓子、橋本多佳子、石田波郷、加藤楸邨、高屋窓秋、石橋辰之助ら)が抜けたにもかかわらず、馬酔木は復活したのである。そしてこの中で、能村登四郎、林翔だけではなく、藤田湘子も社会性俳句を詠んでいるのである。
砂川にて(32句)[藤田湘子]抄録
十月十一日早曉より、支援勞組の一員として砂川基地機張反對鬪爭に加はる
露寒し曉闇かづく雨合羽
作業衣の同紺五百の白息よ
測量隊の出動に備へ、農家の庭に分散待機す
熟睡子の足見え籾散りたたかふ家
午後一時二十分、測量隊到着を告ぐる半鐘乱打されたり
鵙の下短かき脚の婆も馳すよ
守るべし掌にさらさらと陸稻の穗
測量隊暫時にして引揚ぐ。再び待機
たたかひ解かず膝寄せ露の荒筵
中央合唱団に人々慰問に来る
鬪爭歌ジヤケツがつゝむ乙女の咽喉
穗絮飛べり爆音に歌消さるゝな
午後五時以後は測量隊の立入は許されず
砂川の泥濘深き秋落日
この日の動員は全学連、労組併せて六千を超ゆ。五時より阿豆佐味神社に於て報告大会を開き、順次解散す
黄落す三千の学徒おらぶ杜
黍焼く火赫と砂川雨降り出す
社会性俳句については誤解があるようだ。金子兜太、古澤太穂、鈴木六林男などだけが社会性俳句を作りだしたのではない。馬酔木の三羽ガラスも社会性俳句を作り出したのだ。あの時期、社会性俳句は伝統も進歩も関係なく、若い世代をその熱病に巻き込んだのである。