●『全山落葉』の諸相
当局の者とおぼしき黒外套
誘蛾灯有害図書を売る店に
助走から記録の予感夏の雲
緑陰の献血車から白き足
句集前半から選んでみたが、当局、有害図書、助走、記録、献血車とあまりふつうの句集にはなじみのない言葉が並ぶ。ただ、だからこそ風景がくっきり浮かびあがる。映像の輪郭がはっきりしている。これはいいことか悪いことかわからないが、他の伝統派の句集のように、対象の影がにじみでることがない。
世界史に悪妻多し曼殊沙華
百足より叫びし顔のおそろしき
見るほどの裸ならねど見てしまふ
水中り世界が終わりさうな顔
埋蔵金永遠に隠して花の山
こうしたユニークな素材の句から、やがて滑稽味のある句やショッキングな句へと発展する。絶対他の作者ではここまで読みはしないだろう。地雷原に一歩踏み出してしまっている。しかしだからこそ面白いのだ。「見るほどの裸ならねど見てしまふ」は素直な鑑賞者はエロチックに見てしまうだろうが、むしろ私は「見るほどの裸なら」ぬという失礼さに興味を持ってしまう。これは自らの裸にいわれなき自信を持っている人への皮肉なのだ。
ここで少し時系列で眺めていこう。
わが去りし席が消毒され西日
さうあれは春の風邪から始まった
これはこの4年間俳人が被っていたコロナの身辺環境ではないか。2023年7月、4年ぶりで開催された「こもろ日盛俳句祭2023」でシンポジウムが開かれた。テーマは「ポストコロナの俳句」。その司会を仲寒蟬が行っている。多分、日本で最初のポストコロナ俳句シンポジウムだったことだろう。その時パネラーがコロナの例句を掲げた時の、仲の上げた句が第一句。この時仲は「不要不急はとんでもない話で逆に文学・芸術の重要性が実感できた。「つまらないこと」の大切さ。」と述べている。
踏みにじる菫は戦車から見えず
この茂り戦車かくしてゐはせぬか
はっきりとそうとは言えないが、この時期の句集に含まれているとロシアのウクライナ侵攻と関係づけてしまいそうだ。作者がそうと思わないで作っても、編者としてはそう思われてもかまわないと考えて編んでいるだろう。私はコロナの句以上にこの時期に相応しいと思う。仲寒蟬は、紛うかたなき社会性俳句作家なのだ。
かつてダンディー枯れ放題に父の髭
秋灯や母ゐてこその父の家
独活の香や父のわがまま母にだけ
父でなく老人五月闇の奥
父君がなくなったこともあり、この時期には父の句が多い。師の大牧広も第一句集を『父寂び』と名付けたほどに父にこだわっていたが、大牧広との違いは、その父の相違でもあるようだ。大牧の父はどこか庶民的で行ってみればフーテンの寅さんのような面影がある(「もう母を擲たなくなりし父の夏」大牧広)が、この作者の父はインテリのように感じる。やくざで横暴な父の方が俳句の素材には向いているが、この著者の父は少しインパクトが弱いかもしれないと思う。この父は少し抽象的かもしれない。しかし一方で、男の作者にとって父は自己投影の一面も持っている。年を取って鏡で髭を剃っている自分の顔を見ていると、一瞬鏡の中に父の顔を見つけて愕然とすることがある。
白魚や死ぬとは濁ることにして
死して出ることも退院寒月光
うららかやあくびのごとく人吐く駅
上空に無駄な雲ある炎暑かな
真っ直ぐに来し台風と渋谷で会ふ
このあたりから仲寒蟬は大牧広から離れ始める。自分自身の俳句を考え始めるのである。言葉の絶妙な使い方に興味が湧いてくるのである。例えば最後の句――多分、足の速い台風が東京に上陸し、強風となっている渋谷に作者は来たのだろうが、待ち合わせをしたかのように「渋谷で会ふ」という言い方をしている。いかにも俳句的表現だが、余り見たことがない。大牧広の師、能村登四郎は擬人法を得意としたが、擬人法にも様々な用法がある。仲寒蟬はどうやら登四郎の世界に踏み込み始めたようなのだ。
以下、特に分類しきれない多様な作品の中で、仲寒蟬の今後を暗示させる句を若干あげさせていただく。これらが次句集へつながるようであれば、評者冥利に尽きるものである。
海女にして人の祖なり花海桐
いつ影と入れ替わりしや夏の蝶
落ちてどこかへ成人の日の画鋲
廃業と決まりし店の夜なべの灯