クロアチアから届いた句集
依頼を受けて、クロアチアの詩人が書いた句集の評を国際俳句交流協会のウェブサイトに寄稿した(「haikuつれづれ」第20回)。ゴラン・ガタリサという詩人の句集『夜のジャスミン(Night Jasmine)』で、繊細で芯のある冴えた句が多かった。自分が行ったこともない国の詩人が書いたhaikuを読むのは、異国への一人旅の感覚と少し似ていて、それも面白かった。
night jasmine –
her bloomed soul brings water
to a refugee
夜のジャスミン / その花のみずみずしい心は / 難民に水を運ぶ
難民問題という大きなテーマが、巧みに構成された詩的なイメージとして、俳句という形式に上手にはめこまれている。旧ユーゴスラビアの解体からできたクロアチアは、過酷な民族紛争を体験するなど、歴史に翻弄されてきた小国と言える。そんな小国から見える国際的な問題という図式が、俳句という小さな器を通して大きな真実を見るという図式にも重なるのだろうか、大と小、動と静、重と軽、といった対照が詩的な結晶へと昇華している。彼は本書の前書きでこう語る。
「俳句は、我々の自然への結びつきを表現する力を持つだけではない。俳句は、我々をどんな歴史上の時代へでも瞬間移動させ、それをあらゆる人に理解させる力を持つ」
クロアチアという場所からhaikuを見るからこそ可能になった、ユニークな俳句観とも感じる。
melted snow –
my wife’s daydreams
in the fertility clinic
雪解け / 不妊治療クリニックの / 妻の白昼夢
「不妊治療クリニック」とは座りの悪い日本語だし、文字数も多いので、これを俳句に詠む日本人はほぼいないと思う。だが、例えば英語なら六音節と短く、かつかなり一般的に流通する単語でもある。となれば、「fertility clinic」を詠んだhaikuはこれからも増えていきそうだ。そんなちょっとした言葉の設えの違いが、その存在にまつわる情感を詩情として育てていくか否かを左右するのかも、と考えるのも興味深い。
この句集では、クロアチア語と英語だけでなく、日本語も含めた七カ国語の翻訳で句を載せている。本書前書きで、米国の俳人ジム・ケイシアンは、「俳句とは、その牧歌的な性質ゆえに、世界の隅々にまで行き渡り、どこででも書かれる」と記し、その上で多言語で翻訳された本書にhaikuの「現代性」を見る。確かに「現代性」という観点からはいろんな意味で、多くの日本人の句集はこのクロアチア人の句集にはなかなか敵わないかも、とも思わせる。
(『海原』2023年3月号より転載)