麒麟さんとは共通項がある。大学が土佐であること。
年齢が違うので大学で直接会ったわけではないが、3年ほど前に麒麟さんと初めて会ったときに同じ大学出身と聞いてとても嬉しく思ったのを覚えている。当然といえばいいのか、土佐の地酒の話しになり、ますます嬉しくなったのであった。会ったのはそれきりなのであるが、以来勝手に親近感を持っている。
叱られぬ程度の酒やちちろ虫
おでん屋のあたりまで君いたやうな
冷酒を墨の山河へ取りに行く句集「鶉」にはお酒にまつわる句が多い。
叱られぬ程度の酒とはちちろ虫の鳴く声が判別できるほどの酔い具合か。
おでん屋のあたりではなく、最後のあたりまで君はいたのであろう。もしくはおでん屋のあたりで、みんなから「麒麟さんいなくなったよね?」ということなのか。
墨の山河に取りに行く。ついに水墨画の中の酒を取りに行くという。月を捉えようとした李白を思い浮かべてしまうが、お酒はA子さんによりちゃんと冷やされていたのであろう。墨の山河に入り込むことはなかったのである。
紙切りの鋏が長し春動く
冷麦や少しの力少し出す落語の好きな麒麟さん。寄席の雰囲気が表れている句も。
紙切りの師匠は紙を切る最中によく動く。動かないと画が暗くなるからという。お囃子に合わせて前後左右に動くのが紙切りらしい。
病弱そうな落語家がいる。夏の暑い盛りで、顔色も青白くいかにも元気がない。というのは枕のあたりまで。噺には少し力が入る。が高座を降りるときにはぐったりとした様子である。「少しの力少し出す」とは名言である。
ばつたんこ手紙出さぬしちつとも来ぬ
百日紅用の無き日も訪ね来よ
(自宅に帰り郵便受けを確かめてみる。手紙は入っていない。こっちから出していないから来ないか。)(用事のある時しか来ないのか。ただ来られても何を話していいのか分からないけど、でも来てほしいな。)
そんな麒麟さんの声が聞えてくるような句。明るいがとても切ない句である。
句集「鶉」はその土台に麒麟さんの明るさが流れている。可笑しさ、楽しさ、優しさ、切なさが一句一句に彩を加え、一つの作品群となっている。残念なのは私家版であって、冊数も限定であること。もっと多くの皆様に読んでもらいたい句集である。
鎌倉に来て不確かな夜着の中
どの島ものんびり浮かぶ二日かな
途中まで鶴と一緒に帰りけり
それぞれの春の灯に帰りけり
旅らしくなりたる旅の夕立かな
香水や不死身のごときバーのママ
麒麟さん。今度、酔鯨で一杯やりましょう。それではまた。
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