西村麒麟句集、『鶉』(発行:西村家、2013年12月)を拝読。
巻頭、
へうたんの中より手紙届きけり
へうたんの中に見事な山河あり
へうたんの中へ再び帰らんと
の三句が並び、読者を「へうたんの国」へ招きます。
中国の鉄拐李は瓢箪のなかに千年の妙薬を匿し、張果老という方は瓢箪のなかにロバを入れて、道中必要なときに自在に出し入れしたと伝わります。
また「壺中天」という言葉のとおり、神通広大なる仙人たちならば、酔余の一興にふくべのなかに別天地を造り、魂を遊ばせることも、容易いことでしょう。
しかし、ここで麒麟ファンの皆さんに残念なお知らせをしなければなりません。
この「へうたんの国」は、ありません。
実在の場所、団体、国家とは無関係のフィクションなのです。
蓬莱の神仙ならぬ21世紀の一青年であってみれば、テレビも観るしコンビニも行く。
確かな筋に確かめたところでは、作者は毎日満員電車に揺られて通勤し、きちんと接客も配達も行っているという。世塵を避けて隠遁生活を営んでいるわけではないのです。
なんだ、そんなこと当たり前だろう、とおっしゃる方。
あなたは、実は「俳句」界では少数派かもしれません。なにしろ「俳句は現実を写生するもの」「俳句は日常を詠う詩」と信じている方のほうが、多い(らしい)ですから。
閑話休題。
ともかく麒麟氏の作品は、あくまで作者によって仮構された桃源郷であるところに眼目がある。野暮を承知で私見を申しあげれば、俳句という小さな詩型によって擬制される世界の虚構性に自覚的であるという点で、麒麟氏は当代屈指の存在です。
鈴虫の籠に入つて遊ぶもの
貝の上に蟹の世界のいくさかな
この視点の伸縮自在ぶりは、まさに仙人気取り。
とびつきり静かな朝や小鳥来る
百千鳥の群れ騒ぐ喧噪の朝を「とびつきり静か」と言い止めるこの作者には、
江ノ電にきれいな梅雨のありにけり
すべての天然気象が美しく麗しく、
虫売となつて休んでゐるばかり
嫁がゐて四月で全く言ふ事なし
食も労働も、満ち足りて欠けるところがない。
そのうえ登場人物は、どういうわけかみな鋭さに欠け、
父は我がTシャツを着て寝正月
情けない。(タハッ)
お雑煮のお餅ぬーんと伸ばし喰ふとはいえ麒麟世界は、幸福と笑いだけに満ちているのではないのです。
かぶと虫死なせてしまひ終る夏
いつまでも死なぬ金魚と思ひしが
この「終る夏」の寂寥感はただ事でない。失うものがあるから、愛おしまずにいられない。
鶯笛に先生の死を言ひ聞かす
夕べからぽろぽろ鳴くよ鶯笛
辛い現実があるから、夢を見ずにいられない。
秋蟬や死ぬかも知れぬ二日酔ひ
作者は確かに生きづらい現実を生きていて、その意味でこの作者は「私小説」的。ただ俳句という古く小さな詩型を通すことで、まったく愛すべき別天地を作りあげている。
そのくせ、作者があんまり必死に作っているので、読者は思わず笑ってしまうのです。
闇汁に闇が育つてしまいけり
ひさごからこぼるる鶴や井月忌
飛び跳ねて鹿の国へと帰りけり
西村麒麟著『鶉』。愛すべき「へうたんの国」から届けられた、ささやかで美しい句集です。
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