アートと俳句の対話から学ぶ
今年の夏に、国際俳句協会のウェブサイトで「アートと俳句との対話」という企画を始めた(「haikuつれづれ36回、37回」)。かなり手応えを感じていて、シリーズとして続くといいなと思っている。コンセプトは、俳句に関心を持つ海外の現代アート作家と僕とで、アートと俳句との関係について語り合うこと。
第一回のマリサ・クラットさんは「Haiku」という題の写真シリーズを制作。第二回のラファエル・ローゼンダールさんはインターネットアートの先駆者の一人として有名な人なのだが、過去に来日した際に俳句に出会って興味を持ち、自分でも俳句を作り始め、それだけでなく展覧会でも俳句を壁画のようにして展示するようになる。放哉や山頭火を思わせるぶっきらぼうなシャープさがあって面白い。例えばこんな句だ。
oh no
forgot to buy
avocados Rafaël Rozendaal
なんてこった / 買うのを忘れたよ / アボカドを ラファエル・ローゼンダール
五七五も季語も気にしない作風だが、これは彼なりに理由がある。そもそも彼が芭蕉の句を英語で読んだ時、それは翻訳であるが故に英語で五七五のリズムにはなっていなかった。それゆえ、彼にとって五七五は重要な要素ではない。季語についても、芭蕉の時代には意味が大きかっただろうが、今の時代を描くのに果たして季語は重要なのか、と問いかける。今の時代は、季節よりもe メールなどデジタル環境などのほうがよっぽど生活への影響が大きい、と指摘し、その上で、瞬間のエネルギーへの着目や、物語性の排除が、俳句の本質だと分析する。
一方のマリサさんは俳句自体は作らないが、五七五の構造を彼女の写真の中に彼女なりに解釈して取り込む。また、haikuで重要視される季節感についても、四季がそもそも存在しないカナリア諸島で育った彼女は、英国に来て四季という存在の素晴らしさを知ったと語る。
それぞれに俳句に対してきわめて独特の見方をするが、実に本質を突いていると感じる。日本での俳句の議論は、五七五や季語の是非、あるいは切れの効果、といった議論に終始しがちで、それはそれで意味はあるものの、ある意味でそこで思考停止してしまい、議論が俳句の本質になかなか辿りつかない気もしている。一方、海外の現代アート作家が俳句を語る時、そういった日本でお馴染みの議論をまったく経ない分、ストレートに俳句の本質に迫っていける印象がある。
またもうひとつ実感したのは、彼らがとても積極的に本企画に参加してくれた背景には、haiku文化への深い関心や尊敬があるのだろう、ということ。あらためてhaikuは文化として偉大だと思った。
※写真はラファエルさんの展覧会「Permanent Distraction」から
(『海原』2024年12月号より転載)
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