2014年5月16日金曜日

我が時代――戦後俳句の私的風景/筑紫磐井[新連載]


①再び・この時代の青年作家への期待への批判

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」を終え、「我が時代――戦後俳句の私的風景(沖編)」に切り替えることとした。前編が終わった理由はまた改めて書くこととし、これからは正木ゆう子と私以外の作家について書いてみることとしたい。

     *      *

 その前に、前シリーズの「⑩この時代の青年作家への期待への批判」(54年5月号は「青年作家特集」)で、「どういうわけか能村登四郎が「青年作家に望む」という文章を冒頭に掲げている。初めてにして最後のことである。」と書いてしまったが、実はこれは不正確であった。「沖の20代特集」「青年作家特集」の前に、20代作家について述べている2つの記事があったのである。

 最初の記事は、「20代作家への期待と不安」(「沖」昭和46年7月)というものであって、結社主宰者として20代作家に対する希望を書いたものである。創刊1年弱、ちょうどこのころ「沖」には福永耕治が指導する「沖20代の会」が発足していたから、極めてタイムリーなものであった。

 登四郎は、20代作家たち一般の現状を先ず述べる。

「私もいくつかの大学の文化祭に呼ばれて・・・講演や選評をする機会があったが、その都度感じさせられることは意外と古い俳句観念が通用していることである。そうかと思うと選者を面食らわせるような前衛的なものが混じったりして、伝統を踏まえた上での新しさを志向するものが意外と少なかったことを記憶している。」

こうした状況は現在でも変わっていないようである。古臭い俳句と独りよがりな俳句ばかりが横行しているのであろう。

「20代の人々は、現在俳句を作っていても、俳句をずっと生活の中に持ちつづけていけるという確信がおそらくないに違いない。」

「俳句への新たな参加者は、40代の生活の安定から入ってくる人、50代と言う停年期から入ってくる人が、圧倒的に多いと思う。しかしその年齢は境涯的によいとしても、詩の感受性という点では、感覚が硬化しつつある時期なので若い人のように感動が直感的に湧き起って来ない。」

これは面白い。俳句のニューカマーは、現在せいぜいよくても、40代、50代であろうが、40代、50代では感覚が硬化しており、新しい俳句は生まれないのだという。天才波郷を間近に見てきた登四郎には、20代前半をいたずらに過ごしてしまった者には新しい俳句が生まれないという確信があったのかも知れない(それは、28歳でやっと俳句を始めた自分への悔恨であったかも知れない)。

次は、世代論とは直接関係ないが、もっと独断的だ。

「意外なのは「けり」や「かな」が平気で使われていることである。こうした切字や文語については、現代の若者の疑問があってもよいのではないか。それとも俳句とは「や」「かな」「けり」の世界に入って行くことだという先入主があるのではないかと思う。」

切字や文語を使うことは、若い俳句ではないというのだ。これは現代の若い世代から総すかんを食らいそうだが、むしろこう考えるべきだ。第2芸術以後、俳句は、「現代俳句」でなければならないという強迫観念が発生し、古典的な俳句を否定することとなった。したがって、こうした「現代俳句」の洗礼を受けた作家たちは、切字や文語がないことが「現代俳句」のアリバイであると考えていた節が強い。この文章は全く、こうした強迫観念に基づくものであったのである(この強迫観念が消滅したのは、飯田龍太、森澄雄が脚光を浴びる、1970年代の「伝統俳句の復活」の時期からだ)。

実際、能村登四郎は切字を使わず、切れも入れず、文語色を薄めるために口語的な句をしきりに作るようになった。それが正しかったかどうかは別として、それにより戦後俳句の多様な文体を作りだしたことは間違いない。

さて話は、一転して、正しい俳句へ指導してやるのは自分たちの仕事だと宣言するのである。

「素質のよい若者たちの俳句へ大道を、甘やかすことなく正しく教えてやらなければならないという気がした。」

このことは、「沖」の盟友であった林翔が「国大俳句」について書いた文章を最後に引用して終っている。

「学生時代に学生だけの短歌雑誌の同人であった。同人には優秀な人が多く現在各方面で名を成しているが、歌人として名を成した人は一人もない。結社雑誌に属しなかったためである。「国大俳句」の人達が「国大俳句」にだけ拠っているかどうか知らないが、優れた指導者を持つ結社雑誌に属して若いうちから勉強することは将来の体制につながる道であろう。」

興味深いから、能村登四郎の20代を論じた続編である「ふたたび20代作家についてー伝統継承のかたちー」(「沖」昭和46年8月)を続けて紹介する。両者一体となっているからである。まず、能村登四郎はジャーナリズムが20代を甘やかしているという。

「ジャーナリズムの甘やかしの底には、俳句のような命脈の不安な伝統文芸を次代にはっきり約束しておきたいという悲願が打ちこめられているのを、見逃してはいけない。」

「50年後、100年後に俳句が現在のままの姿で存在するかという点について、誰も確信がないのである。それでいながら皆この有季定型の形で残ることを願っているのである。その希求のあらわれとして今20代人に求めようとしているのである。今20代の人にしっかり教え込んで行かなければ50年後の約束はない。と考えるからであろう。20代作家とか30代作家とかジャーナリズムが騒ぐのは単なる物見高さではない。深刻な伝統継承の問題につながりをもつからである。」

実はこれは「俳句」昭和46年7月月号で行われた「20代の作家」という特集を読んでの感想に由来している。これは結社からの推薦を受けて、「俳句」では珍しく20代作家に発表の場を設けたものであった(今では「俳句」も広く門戸を開放して、西村麒麟のような若手に発表の場を与えているが、当時は角川の「俳句」は鬱然たる権威であって、20代作家が近づけるような場ではなかったと思ってよい)。この特集にはいたく不満であったらしい。

「個々の作品に触れられないが、20代人としてもっと素朴でナマの詩の原型のようなものがあらわれているかと思ったのに、なかなか練れた作品が多いのに驚いた。 
このことは、俳句とはこう詠むものだという俳句の既成観念が発送以前の声を圧しつぶしてしまって主宰者先生の物真似に終ってしまったことを意味する。これによって、一番大切な若さの魅力というものを全くなくしてしまったのは遺憾であった。 
俳句の伝統を守り伝える立場の人間として私はある種の安堵感をもったものの、あれが20代の若ものたちの胸から湧き起こったほんとうの発想かと考えると首を振らざるを得ない。有季定型のかたちの中でもっと明日の俳句がきけないものであろうか。」 

果たして、その1年後に自らの雑誌で特集した「沖の20代」がどれほど登四郎の意にかなったものであるか、私は大いに疑問であったと思っている。それは前回に遡って、「⑩この時代の青年作家への期待への批判」の能村登四郎の「青年作家に望む」を読んでいただきたい。

ただ、あれから40年経って思い起こすと、当時の主宰者(藤田湘子や森澄雄もそうであったようだ)たちの中には強烈な指導意識を持っていた者がいたと言うことは否めない事実である。それは、若い作家たちにとって余計なお世話であったかも知れないが(私などは能村登四郎から、およそ俳句について指導を受けたことはないが、その代わり会うたびに名前を本名に改めろと責め苛まれたものだ。当然、「能村登四郎」は珍しい苗字であるが本名であった。俳句と関係ないように思うのだが、雅号やペンネームを使うというのは現実逃避の意識が現れているというのであろう)、ある意味でありがたいことではあった。


現在の結社の主宰者――特に、戦後生まれ世代の主宰者の中で、これほど強烈な指導意識を持っている者はいないのではないか。弟子をうまくすると言うことをはるかに超えて、弟子の運命(従って、その弟子のになう俳句の運命)を変えたいと思っていたところがあった。もちろん指導したくなるような若手集団が存在しないということもあるのだろうが。

繰り返そう。

「皆この有季定型の形で残ることを願っているのである。その希求のあらわれとして今20代人に求めようとしているのである。今20代の人にしっかり教え込んで行かなければ50年後の約束はない。と考えるからであろう。20代作家とか30代作家とかジャーナリズムが騒ぐのは単なる物見高さではない。深刻な伝統継承の問題につながりをもつからである。」

今こんなことを考えている現代俳人は一人もいない。


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