2025年3月21日金曜日

第243号

 次回更新 4/11



秦夕美ノート・余滴 秦夕美の短歌 佐藤りえ 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎
第十(2/14)小沢麻結・林雅樹
第十一(3/21)浅沼 璞・筑紫磐井・佐藤りえ

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀
第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹
第十一(2/28)浅沼 璞・筑紫磐井・佐藤りえ

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

【新連載】新現代評論研究(第1回):仲寒蟬、眞矢ひろみ、後藤よしみ 》読む

【連載】現代評論研究:第4回・戦後俳句史を読む(風景) 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】  7 ばちんと弾ける  小野裕三 》読む

【連載】現代評論研究:第4回・テーマ:「死」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり25 富澤赤黄男の俳句集 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(55) ふけとしこ 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

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北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

3月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

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前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】現代評論研究:第4回 戦後俳句史を読む(風景)/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井

筑紫:今回から「戦後俳句史を読む」の体裁を変え、それぞれの発言を充実する編集にしてみたい。とりあえずひとつの提案として、この「戦後俳句史を読む」を16人の行う「戦後俳句を読む」と同様、テーマを設けて論じてみたい。その第1回は「風景」とした。「死」も風景とすれば、以下で述べる風景論は多少「戦後俳句を読む(死)」と重なることがあるかもしれない。


北村:今回の話題の与えられたテーマは「風景」である。私の貧しい知識で山口誓子に見当を付け、朝日文庫『現代俳句の世界④:山口誓子集』(註1)を中心に作品を少し読んでみた。日野草城のときもそうであったが、戦後というくくり方からは少しはずれることになる。風景とは「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」とでも言っておこう。誓子は、俳句の詠むものはものとものとの新しい関係と言うから、ミニマルな風景。したがって以下、「風景」もいくぶん偏る。

 誓子は、ものとものの関係に接したとき刺激を受ける。そのときのその「ものたち」のシチュエイションを詠みとどめれば読者は同じ心の動きを体験できるであろう、といった趣旨のことを述べている 。


 代表作

① 夏草に汽缶車の車輪来て止る     『黄旗』・昭和8年

② 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る      『炎昼』・昭和12年


など、彼の作品についての、諸賢のオブジェ性や無機性の指摘が記憶に残るが、よく見ると繊細なものの関係の描写がなされている。それによって直接の言葉がなくても、彼が何に心を動かし、感興を覚えたかが分かる。


③ 男の雛の俯向きたまひ波の間に    『黄旗』・昭和8年

④ 蠅憎めばすこし離れしところにゐ   『激浪』・昭和19年

⑤ 行くにつれ奈良へ退く奈良の月    『一隅』・昭和41年


 これは特に動物を詠んだ句に著しい。彼は動物固有の動きの一瞬を写生できるのである。


⑥ するすると岩をするすると地を蜥蜴  『炎昼』・昭和10年

⑦ 諸処にとび終に一なる揚羽蝶     『激浪』・昭和19年

⑧ 稲雀汽車に追はれてああ抜かる    『激浪』・昭和19年


 蜥蜴の句、「するする」を間を置いて繰り返すことにより、間歇的に動くトカゲの動作が手に取るようである。対象を眺めて自由にさせ動きを見守り、ときに応じて干渉する。志賀直哉『城之崎にて』・大正6年などにも共通する、抑制のある知性人の態度であろう。しかしそれは後を追った、西東三鬼(年齢は誓子より1年上)、永田耕衣の抑制なく自己を押し出す迫力にはかなわない。耕衣となると、もう対象を遊ばせるよりも自らが泥んじるのである。


 いや、しかし若い誓子は、さらに魅力ある世界の入り口に立っていたのではないか。むかし、私には誓子の俳句が今ひとつ分からなかった。しかし


⑨ 終に苦しかやつりぐさの錯綜は    『和服』・昭和24年


を見たときに私なりに了解できた。「かやつりぐさの錯綜」する様は脳内の風景のメタファである。ものとの照応関係を用いて内的宇宙 (inner space: J. G. Ballard) へののぞき窓を作ったのである。この経験は、この句ほど図式的ではなくても、他の景物を詠んだ句を理解する上でも大変役に立った。

 しかしこの句、晩年自身が厳選したという朝日文庫版には収録されてはいない。この自薦句集は三鬼の選とはかなり異なるそうである。


⑩ 麦黄なり屋(や)に竜骨のそびえ立ち    『炎昼』・昭和13年


など抽象性のある一連の麦の句も収録されなかった。その理由は、「終に苦し」がしっくりこないなど句の立ち姿に問題を感じた面もあるかもしれないが、なによりも「我」や「主観性」の出ることを禁忌としたところにあろう。颯爽たる誓子にして、戦後このような地点に行き着いたこと、私には残念である。


筑紫:次回の「戦後俳句を読む」第5回は「風土」について句が選ばれ、論じられることになるが、風土とは何かを少し言及しておきたい。既に「風土俳句」については、前回で定義をくだしたが、これだけが風土の定義ではないことは当然である。一般的に言えば、風土とは自然環境であり、しばしば人を律してゆくものであるから、和辻哲郎のように「風土」は単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象というふうに拡張することもありえるだろう。その意味において風土俳句も「風土」の1つの表れとしてみておかしくはない。その意味では、そこに住む人間に与えられた条件であり、人間は受動的な役割を果たすにとどまる。風土俳句がごく一時の、ごく一部の人たちにしか適用されなかったのも頷けることである。

 さて、近代俳句ではこのような「風土」と違う全く新しい要素が正岡子規によって導入された。それは写生である。明治27年の秋に子規は根岸の郊外をしきりに散歩している。このとき1冊の手帳と1本の鉛筆を携えて次々と俳句を書き付けた。毎日得るところの10句、20句は平凡な句が多いけれど嫌味がなくて垢抜けしたように思って嬉しかったという。これが子規の写生の開眼である。そこでは人間的要素がすっかり捨象され、風土のように類型化されない個別個別の特徴ある純粋客観的な要素が俳句では注目されるようになった。

 風土といえないとすればそれは風景と言わなければならないであろう。俳句でしばしば用いられる、「客観写生」(高浜虚子)にしろ、「打座即刻」(石田波郷)にしろ、「眼前直覚」(上田五千石)にしろ、「第3イメージ」(赤尾兜子)にしろ、俳句のキャッチフレーズは風景となじみやすいのだ。

 では風景とは何か。北村がいう「何らかの余裕のある人間が、見ることによって感知する、結合した自然の物体群の醸すアトモスフェア」の説明はある程度共感できることである。

 私自身、雑誌「俳句空間」に執筆した「風景論」(平成3年)以来、風景という言葉に関心を持ち次のように考えるようになった。風景で重要なことは、風景があって風景思想が生まれるのではなく、風景思想があって目の前の自然から風景を切りとってくると言うことである。風景思想がなくては、風景は存在しない。問題は風景思想がどのように生まれたのかということである。

 明治の風景の創始は【注】に試案を述べてみた。戦後の風景は、これからさらに進んで独自の風景論を展開した。


中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼

陰干にせよ魂もぜんまいも 橋間石

厠にて国敗れたる日と思ふ 能村登四郎

雪国に子を生んでこの深まなざし 森澄雄

白い人影はるばる田をゆく消えぬため 金子兜太

悲しきかな性病院の煙突(けむりだし) 鈴木六林男

さうめんの淡き昼餉や街の音 草間時彦

どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太


 見てもわかるようにどこにも風土は存在しない。境川村に住んだ龍太ですら風土は詠んでいない。彼らが詠んだのはすべて風景である。戦後俳句の活動とは、思想を詠むことでもなく、主題を詠むことでもなく、ただひたすら風景を読むことに明け暮れてきたのである。

    【注】近代日本にとって重要な契機は、志賀重昂の『日本風景論』(明治27年刊)ではなかったかというのが、私の仮説だ。日本の山岳家の祖小島烏水が『日本風景論』を手に日本アルプスを探索したのはその小さなエピソードに過ぎない。

 前出の私の評論と前後して出た大室幹雄の『志賀重昂『日本風景論』精読』(岩波現代文庫)は志賀の業績を矮小化している。その理由を、①根拠なきナショナリズム、②志賀の科学的知識は浅薄である、③風景の本質は日本古来の煙霞僻にすぎない、とあげている。

 もともと①について言えば、ナショナリズムはどんなナショナリズムも根拠なきものであり不合理きわまりないのだから、それをもって志賀を糾弾する理由にはならない。また、一方で、明治のナショナリズムが功罪いずれに傾いているかは分からないのであり、現在ナショナリズムが否定されている世界で唯一の国家、戦後日本の評価基準で眺めても意味がないのである。一方、②と③は『日本風景論』の成立の根拠に遡らなければ分からない。

 そもそも『日本風景論』のようなものは何故書かれたのか。何を根拠にこんなユニークな本を書こうとしたのか。大室も誰もそのことを教えてくれないので、私なりに類書を当たってみた。英国の政治家・銀行家にして博物学を趣味とするジョン・ラバックが著わした“The beauties of nature and the wonders of the world we live in”(1892年。和訳名『自然美と其驚異』)は『日本風景論』(1894年刊)の2年前に出ている。内容は、動物→植物→森林と原野→山岳→水→河と湖沼→海→天、とミクロからマクロへ視野を広げてさまざまな風景を描いている。内容は科学的記述と文学作品をつづった啓蒙書であり『日本風景論』によく似ている。特に、その「山岳」の章は、『日本風景論』そのままといってよいから、この本の影響はかなり濃密なものがあるといってよいであろう。ところでラバックは、その後、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)、“The scenery of Switzerland”(1896年『スイス風景論』)を著わしているが、このような国別風景論は、ラバックに志賀は先立っていることになる。

 もちろん先蹤に、地質学者アーキボルド・ゲイキイの“The scenery of Scotland”(1865年『スコットランド風景論』)があったろうが、これはむしろ科学書に近いから科学と文芸の融合はラバックならではの業績であった。

 何を言いたいのかといえば、ラバックの『自然美と其驚異』の影響を受けたとはいえ、『日本風景論』は世界で最初の国別風景論の本であったのではないかということだ。思想が風景を切り出す、最初の現場を示してくれているのだ。

        *

 大室のいう、②科学的知識の浅薄さ、③日本古来の煙霞僻にすぎない風景観は、啓蒙のあり方、細分化された科学的ディテールから文化への発展を示しているように思われる。大室は、志賀の著書の新しさは、ただ一点、煙霞や雲霧、雲烟ついった古びた死後を水蒸気と呼び直した一点にだけあったのだといってさしつかえない、とこれまた批判するのだが、いや逆に、こうした単純な一元化こそ明治の精神であった。そしてこうした無茶な単純化を経ないでは西欧思想の翻訳は不可能だったのである。今も我々の周辺には単純化の結果の無茶な西洋思想の残骸が残っているではないか。かと言って、科学的知識は大学が機能し始めた当時山ほどあったはずであるが国民を感動させ、動かす知識には全くなっていなかった。無茶な一元化は国民の心を動かしたのだ。そして多分、当時の人々に必要なのは、翻訳された欧米の風景(立ち返って言えば風景思想)ではなくて在来の日本と連続した風景思想であった。それを実践し得たのも志賀しかいなかったのである。

 ラバックで思い出すのは英国民の、こうした分化した知識を総合する能力だ。話は飛ぶが、国際連邦を提案したH・G・ウエルズは、そもそもこの運動の前提となる「世界史」が存在しないことに気付いた。このために数十人の専門家に原稿を書かせ、それをウエルズが自らの思想に基づいて、一切専門家の意見を入れず書き改めた。分かりやすい、思想の一貫した啓蒙書とはこのように出来るという一例である(いまなら著作権の関係で決してできない手法である)。これがかの有名な『世界文化史大系』である。英国民は啓蒙書編纂のノウハウをこのように獲得したのだが、一時代の日本中の青年の血を熱くさせた啓蒙書『日本風景論』の編纂もこれに似た方針があったはずだ。「②科学的知識の浅薄さ」はことさらな分化した科学を排除する総合性に、「③日本古来の煙霞僻」は西洋の美意識を日本の山水に融和させる意志とみてよいのだろう。

 だから大室の指摘するちょっと変わった煙霞僻の中に明治の新しい精神が息吹いているのである。


○鮭捕り網を斜陽に曝す石狩江村の晩、奥州訛りの漁唱、雪の如き荻花の間に起こる。

○夜雪初めて霽れ、分明に認め得たり屯田村の灯火三四点。


 こうして生まれた明治20年代の風景に、俳句の風景も乗らずにはおかない。『日本風景論』以前の、子規の「かけはしの記」(明治24年)、「はて知らずの記」(明治26年)は芭蕉の奥の細道の亜流を一歩も出ていない。しかし、河東碧梧桐の『三千里』(明治39~40年)は『日本風景論』を踏まえ、さらに克服した全く新しい文学であり、風景であった。ここに『日本風景論』の過渡的な意義を認めるべきである。では、虚子は?この間虚子は全然旅行などしていない。風景の主体的な形成に全く没交渉だったのである。明治の精神が作り上げた新しい風景を、受動的に俳句に取り込んでいただけであった。


堀本

《 風景論の参考書 》

 風景論の参考書としては、まず、明治期、古典的な名著志賀重昂の『日本風景論』(明治27初版・現在近藤信行校訂 岩波文庫)、これは影響の大きい一書であるが、今読んでも愉快で刺激的である。 


一 日本には気候海流の多変多様なる事

二 日本には水蒸気の多量なる事

三 日本には火山岩の多々なる事

四 日本には流水の侵蝕激烈なる事 (『日本風景論』緒論)


 よって、日本風景は「瀟洒、美、跌宕(てっとう=豪放の意)」との特徴を持ち火山や水蒸気に美の根拠を持つ。〈霧時雨不二を見ぬ日ぞ面白き 松尾芭蕉〉(同書)。重昂は、この句を例に出して、霧や雨の水蒸気が生む風景、また見え隠れする景物の趣きを語る。「科学的」説明の間に挿入されるかなりの分量の詩文、俳諧句。この論述構成のあり方は、いささか奇書の感じもするのだが、本書のいわば浪漫的なナショナリズム、これこそ日本固有の風景だという発見と熱っぽい主張が、知識青年達におおきな影響を与えた。

 松岡正剛の『山水思想』(2003・五月書房)『花鳥風月の科学』(2004・淡交社)、には「花鳥風月」などのモードに分けて、日本人の美意識を解剖している。特に「風」」の章の探求が魅力的で、彼によれば、「風」は一種のメディア(情報)のシンボルである。風景とは何か、と言うテーマでの切り口は、諸家によって予想以上に多様である。


《 風景句の戦後性—「焦土」の風景》

 風景の書き方で戦前とあまり変わらないところを抜き出してみた。いろいろみてゆくと、廃墟や焦土にも豊かな景を見出しているところ、感動を覚えるほどである。日本人の精神世界では(少なくとも今までは)あるいはそれが、物質的な貧しさが埋蔵する見えぬ富に気づかせてくれるのかもしれない。


山茶花やいくさに敗れたる国の・日野草城  

明日如何に焦土の野分起伏せり・加藤楸邨 

焦土の辺晩涼は胸のあたりに来・森澄雄 

焼跡に遺る三和土や手毬つく・中村草田男


《風景句の戦後性—川柳集より「富士山」の詠まれ方》

富士山を取り合わせた句は風景句の好例になる。『近江砂人川柳集』(昭53・番傘川柳本社)番傘創立七十周年記念出版より。


お召艦その背景に富士の山   (昭14)

焦土あはれ流聯(いつづけ)をした店の跡  (昭21)

富士山にわが機の影がくっきりと (昭37)

聖火行く富士も声援する中を   (昭39)

元日の富士おごそかにあり石油危機(昭49)


 戦前は国の権威を美しく飾り、戦後は焦土での生活の背景に聳えている。いまならばプチナショナリズム、というところ。富士山の配し絵にすることの気持ちよさ、が伝わる。


《風景句の戦後性—「富士山」の俳句》

 俳句では、おおむね「富士」そのものをおおいなる「日本の風景」として称揚し対象化しようとする。それらの句が類型的でありながら単なる叙景をこえた完成度を獲得しているところも、戦前戦後とも変わらない。


元日や一系の天子富士の山  内藤鳴雪(明治の句)

立秋の麒麟の脚が富士を蹴り 須藤 徹(平成の句)


 須藤徹は戦後世代である。彼のキリンは動物園から抜け出して、巨大な神獣「麒麟」の風格を持つ。しかもウルトラマンのようにこの名山にケリを入れる。(しかし、これもやはり富士山の賛美と読みとられる。)


雪の富士高し地上のものならず  山口誓子

ばら色のままに富士凍て草城忌  西東三鬼

富士秋天墓は小さく死は易し  中村草田男  


 俳人の風景観も「富士」の神聖化からはまだぬけだしていないだろう。「焦土—荒廃」から立ち上がるために、「富士」という永遠の山への詠み方がまもられたのである。これは、俳句の方法的特質とのみはいえない。富士に代表される日本の風景の普遍の美を信じているゆえか、あるいはこれが日本的思考法というべきなのだろうか?


註1:『現代俳句の世界④:山口誓子集』「俳論 一」

【最新連載!】新現代評論研究(第1回):仲寒蟬、眞矢ひろみ、後藤よしみ

  BLOG「俳句新空間」で先行連載している「現代評論研究」は平成23年から連載を始めた「戦後俳句を読む」のシリーズの復刻であったが、これを受けて「新・現代評論研究」を今回から始めることとした。昨年実施した現代俳句協会の評論教室を契機にリアルタイムなBLOGの場で評論研究を進めようとするものである。その第1回目に当たる今回は取り敢えず3人が参加して頂いたが逐次追加されてゆく予定である。

 内容は、「戦後俳句を読む」に執筆した内容を多忙な中書き改めていただいた仲寒蟬氏、「戦後俳句を読む」に倣いつつ新しい作家鑑賞を加える眞矢ひろみ氏、取り敢えず短期連載で作家論としての取りまとめを考えている後藤よしみ氏と特に枠組みにこだわらない執筆をしている。今後予定される執筆者はさらに新しい企画を考えているようである。


★―1:赤尾兜子を読む1 / 仲 寒蟬

0. はじめに

 かつて2011年4月からの「戦後俳句を読む」(「俳句新空間」とその前身の「詩歌句」掲載)で赤尾兜子の俳句を46回ほどにわたって観賞した。

 今回の戦後俳句研究でも赤尾兜子を読もうと思うのだが、単に前回の続きというのでは発展性がない。筆者もあれから俳人としての経験を積み、それなりに色々と考えてきたのだからその兜子像も当時とは少しく異なる筈である。

 そこで手始めとしていわゆる兜子らしい前衛的な句が形成された『蛇』『虚像』よりも前の句集から読み始めてみようと思う。ちなみに生前の赤尾兜子には刊行順に『蛇』『虚像』『歳華集』『稚年記』『玄玄』(厳密には死後の刊行)の5句集があるが、年代順に並べると『稚年記』が一番先に来る。さらに死後にまとめられた『赤尾兜子全句集』刊行直前に遺品の中から見つかった句稿を元に『飈』という句集がまとめられたが、年代順で行くとこれは『稚年記』と『蛇』との間に当たる。

 したがって暫くは『稚年記』『飈』の俳句から読み進んで行くこととする。


1. 無花果や若き乳房ニある秘言

 『飈』の巻頭句であり「因習の彼方 一句」の前書を持つ。

 のっけから難しい句に出くわした。そもそも「秘言」は何と読むのか。「ひめごと」では「秘め事」とややこしい、やはり「ひげん」であろうか。大字源にも字通にも出ていない。意味としては秘めた言葉と取る他ない。

 『飈』は昭和58年2月28日発行、兜子の妻である赤尾恵以の「あとがき」によれば

  去年、『赤尾兜子全句集』が間もなく刊行される直前に、遺品の中から発見された未発表の二百二十二句でございます。

ということである。この句集の存在については妻にも他の何人にも一切知らせていなかったという。刊行に関わった和田悟朗によると

  日記風に書き連ねたこの句集は、初期の『稚年記』と、のちの前衛作品『蛇』との中間期に当たり、終戦直後のミリタリズムの反省とやがて始まる社会不安への危惧の心を抱いて、青年兜子が抒情主義から脱却しつつ、やがて前衛的姿勢への萌芽を見せる多情で思想的な作品集。

ということになる。

 さて、この句、無花果はその形と果汁豊かな感触とから容易に乳房を連想させる。若き兜子にあった恋、というより情事の記憶であろうか。前書の「因習の彼方」はどういうことだろう。まさか菊池寛の小説『恩讐の彼方に』とは関係あるまい。因習というからには古くて新しい時代には弊害となるもの。男女の関係で言えば恋愛感情のない結婚とか愛妾制度のようなものだろうか。その彼方ということだから新時代の自由意思に基づく肉体関係ということか。


★―2: 橋閒石の句 1/眞矢ひろみ


たましいの暗がり峠雪ならん


 昭和59年蛇笏賞受賞「和栲」の一句。選考委員の飯田龍太は「委員の誰ひとり、面晤をもたぬとは、まことに愉快」と記す。この句集は閒石が亡くなる8年前、傘寿記念の出版である。「大方の人が、受賞まで閒石の名を知らなかったようで」と正木ゆう子が述懐しているが(*1)、「和栲」は閒石にとって第7句集であり、永田耕衣や赤尾兜子とも親しく昭和33年には高柳重信の「俳句評論」創刊に参加し、鈴木六林男は閒石に再婚話を持ち掛けるほどであった(*2)。単に関東で無名だったのではと想像してしまう。一方、恩田侑布子が評したように「閒石が初老期までは平凡な俳人に過ぎなかった」(*3)とすれば、全国的には無名であったことの要因とも考えられる。

 さて、恩田評の正否はひとまず置くとして、閒石の作風の変化自体は、句歴が70年を超えることを考え合わせると、当然と言えば当然である。逆に生涯を通じて変わらなかったことに着目すると、その一つが故郷・金沢への郷愁の念が強く、生涯を通じてモチーフにしたことだろう。

 「和栲」には掲句のほか、故郷を語彙として使った句に


故山我を芹つむ我を忘れしや

はらわたに昼顔ひらく故郷かな

ふるさとや灰の中から冬の鳥


 また、故郷を強く意識した句として


こなゆきこゆき雪のでんでん太鼓かな

ふぶく夜や蝶の図鑑を枕もと

雪ふれり生まれぬ先の雪ふれり


などが挙げられる。

 閒石は祖父が加賀藩、お書物掛を勤めた書家という家に生まれたが、病弱な少年期を過ごす。中学を退学して自宅療養となるが、父親が図書館から借りてくる本に、江戸期から子規前後の俳書が含まれ、地方新聞や雑誌に投句するようになる。これが連句、俳句との馴初めである。金沢といえば、泉鏡花や室生犀星に始まり現代にいたるまで、多くの文人を出しているが、父親が俳書を借り与えるあたりを地域風土と呼ぶのかもしれない。その後、四高を経て京大に大正14年21歳で進学するが、この時期に両親や長兄を相次いで亡くしている。死と隣り合わせだった青少年の時期を、故郷で家族と暮らしたことが、閒石の精神に大きく影響したことは想像に難くない。

 大学では英文学を専攻し、教官の職を得て神戸に居を定める。専門は英文学、殊にラムやハズリット等のエッセイである。閒石自身も後年、金沢での家族の思い出、蟹、鰤、鶫、雛菓子といった食物、雪や氷柱、生家の佇まいなど、細々とした日常を随筆として綴っている。北陸とは違い、縁遠くなった雪には特に敏感で「雪という字にぶつかっただけでも、母親にめぐり逢ったような気がする」と書いている(*4)。

 昭和26年48歳の時の初句集「雪」には「ふるさとへ続くこの道秋の風」などあり、平成4年亡くなる直前の最終句集「微光」では「雪山に頬ずりもして老いんかな」と、自虐的でユーモラスながら凄まじい。頬ずりをするのは雪ではない。雪山である。閒石の「雪」は、映画「市民ケーン」の「薔薇のつぼみ」のイメージと重なってしまう。

 文頭のたましいの句についても、自己の魂の深部に、峠の雪、つまり故郷を見出しているものと読む。婉曲推量の助動詞・辞である「らむ」の機能を使い、話者(≒作者)の立ち位置を明らかにする。傘寿の閒石は、これから越えるだろう節目・峠に、魂の最深部に遺る雪・故郷金沢と母の背のぬくみを感じているのだろう。などと解せば深読み、妄想と叱責を受けそうだが「詩の本領は重層の曖昧さにある」「こうもとれああもとれる、というふうであってこそいいのだ」(*5)として、一つの読みに拘泥することを嫌った閒石である。このような読みに対しても、静かな笑みを浮かべるに違いない。

 以下、余談である。昨今、望郷をモチーフにした俳句を見かけない。交通通信のネット化が進み、全国どこでも同じフランチャイズの店が軒を連ねる時代である。そもそも豊かな地域風土を持つ地を故郷として持たない、又は認識しない俳人が増えている可能性も高い。また、唐突だが、野口る理が「俳コレ」(*6)に『意識していること』として「「今」や「思い」を書かない」としていたことを思い出した。望郷の念が俳句の対象から消えた、或いは共感を生む土台足りえなくなったように感じる。だとすれば、閒石は生涯を通じて故郷に向き合った最後の俳人かもしれない。


    *1『現代秀句』正木ゆう子 春秋社 平成14年
    *2『橋閒石全句集』栞 鈴木六林男 沖積舎 平成15年
    *3「終焉のむつの花」偏愛俳人館 恩田侑布子 角川『俳句』令和2年9月号
    *4「残雪」『泡沫記』橋閒石 南柯書局 昭和55年
    *5「比目魚」『泡沫記』 同
    *6「俳コレ」「週刊俳句」編集部 邑書林 平成23年


★―3:「高柳重信の風景」/後藤よしみ

 

一 はじめに

 (一)

 『芭蕉の風景』が、小澤實氏により二〇二一年に出版されている。松尾芭蕉が句を詠んだ地を作者が実際に訪れ、芭蕉の当時と変わらぬ風景のなか、また当時の面影が全く消え去ったなか、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考えつづけた連載をまとめたものである。「実際の風景と、それを形作ってきた文化の古層を読み解き、見聞きしたことを文章や句にとどめる。先人や歌枕の跡を訪ねた芭蕉の旅と二重写しとなり、時空を超えた豊かな文学世界」と評されている。

 この風景というものの概念は多様で、いろいろに解釈されている。一般的には、十七世紀以降に西欧において風景画が登場して風景に美を見いだすようになったとされる。日本においてはどうであろうか。柄谷行人は、明治二十年代の文学作品において、西洋と同じように風景に美を見いだそうとする発見がおこなわれているとする。

 その柄谷行人は、芭蕉において、風景は発見されなかったとしている。それに対する意見も多数出ている。

 それでは、戦後の俳句作家として高柳重信における風景とはどのようなものであろうか。高柳重信については、次のように紹介されている。「多行形式の俳句を開拓し、大いに実践」(澤好摩『現代俳句大事典』)。「従来の俳句概念を決定的に打ち破って出現した俳人。(略)多行形式によるイメージの屈折と重層化、カリグラムの表現法によって物語的世界を仮構、展開し、一句集によって宿痾の生の全体を象徴化した」(川名大『現代俳句』)とされている。このように戦後の俳句に新たな取りくみを展開した俳人である。

 高柳重信において、風景とはなにか。はじめに重信自身の言葉から見ていきたい。

 まず、少年期である。東京都文京区にある小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えた。重信は、度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てている。


《日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせつづけることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)


 敗戦後に移り住んだ荒川河畔の戸田の風景は次のように描かれている。


《秩父颪と呼ぶ北風が、日がな一日吹きつのり、空気が澄みきってくる夕暮れどき、夕焼けに染んだ西の地平線にくっきりとした富士が雪を被て、うす桃色に遠望できるのが、わずかに正月らしい風景なのであろうか。しかし、その遠望の富士につづく枯色の荒川の堤防や、更にそのこちら側の畑には、元旦早々から麦踏みの人影が見え、思えば、富士の遠望に心を奪われているのは酔眼の僕ただひとりのようでもある。つかの間に日が落ちると、歌留多を読む声もない。秩父颪に吹きたわんだ電線が暗闇の中で寒々として唸り声をあげるだけである。そしてこの秩父颪も、戸田橋のあたりで荒川を越え、東京に入った瞬間、もう何の風情ももたぬ唯の北風になってしまうのである》(「戸田の正月」『高柳重信読本』)。


 敗戦直後の寒々としたなかの富士の山容が美しい。

 次に、重信が宿痾と呼ぶ肺結核のため、吐血し、宇都宮病院に入院していた一九六五年に関するの文章である。入院中の生活で《自然から語りつづけられる体験》が甦る。入院時の状況をつづった「宇都宮雑記」(『高柳重信全集Ⅱ』)によりひも解いてみる。まずは、ようやく歩けるようになってからのものからみていく。


《顎をひき、胸を張り、両手は帯を握って、しっかりと拳をつくる。そして、なるべく見はらしのきく、すこしでも高いところを目指して、静かに歩をすすめてゆく。よく晴れた日には、まだ雪を被た日光の山々が、あざやかな姿を北西の方角に見せ、遠く、東の方角に、筑波山と思われるものが眺められる。(略)それは、少年期から青年期になろうという十八歳の時であったが、僕は、あの大戦の困難なさなかに、すでに右肺に空洞を育てていた。

 大戦が終わって、(略)僕だけは、依然として、今日明日あたりという、あまりさしせまった思いではないにしても、あるいは半年か一年の後にやってくるかもしれない死について、漠然とした思いで、ただ、それを待つことだけが、のこされたわずかな仕事であった。

 しかし、思いもよらず、四十二歳の今日まで生きてみると、いったい、何が手遅れだったというのであろうか、いささか唖然とするほどの不思議な思いがする。

 だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人々の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない》。


 さらには、


《ここでは、晴れているかぎり、眼前に日光の連山がくっきりと見え、たまさか快晴に少し高いところに立つと、うち続く家並みのはるか遠くに、うっすらと筑波山を眺めることが出来る。(略)だが、その昔、この日光や筑波の山々は、もっと直接に人間の日常生活につながり、その精神にも生き生きとしたかかわりを持っていたにちがいない。そこでは、人間がそれを眺めると同時に、山々もまた人間を強く見つめていたであろうし、季節に応じ天候に応じ、そして時々刻々に微妙に変化する山容は、人間とのさまざまな対話をもたらしたであろう。それは、いま、想像も出来ない澄みきった空気と、驚くべき荒涼とした見はらしの中のことである。おそらく、俳句が俳句であって、なおかつ同時代の多くの人間の心の中に、ある普遍的な感情を共通に喚起することが出来たのは、このような人間と自然との豊かな対話が、常に可能であったからであろう》。(「俳句の廃墟」『高柳重信全集Ⅲ』)


 このように、風景との対話を記している。ここで分かることは、重信が少年期から風景と対話をおこない、入院期の死を身近に感じた際の深い風景の洞察である。そこでは、俳句創作の根源にふれている。


 (二)

 重信の句業を概観すれば、次のことが言えるであろう。敗戦後に俳壇に多行形式により登場した重信。五〇年代後半から六〇年代半ばにかけ寡作となる。それが、この入院時期の風景の中に身を置くことから作風の変化がみられ、創作意欲が高まっている。

 初期の代表作から見ていく。


  身をそらす虹の                            

  絶巓                                          

      處刑台   

      *

   船焼き捨てし                                       

  船長は                                          

 

  泳ぐかな    『蕗子』(一九五〇年)

 

 形式面では、空白や一行空白を活用した視覚的造型性の多行形式をもちている。

 次に六十五年の風景体験からを、七一年の飛騨行での風景体験を経ての「飛騨十句」の作品は以下のようなものがある。


  飛驒の(ひだ)

  美し朝霧(うましあさぎり)

  朴葉焦がしの(ほほばこ)

  みことかな   

    *

  飛驒の(ひだ)

  山門の(やまと)

  考へ杉の(かんがへすぎ)

  みことかな

    *

  飛驒の(ひだ)

  闇速の泣き水車(やみはやのなきすゐしや)

  依り姫の(よりひめ)

  みことかな  「飛驒」『山海集』( )内ルビ (一九七六年)


 このように変化を見せる。形式面では、空白や一行空白がなくなり、四行形式に固定され、ルビがふられている。内容面では象徴主義の影響からの西欧的なものより日本的なものへと転換している。形式および内容の両面にわたる大きな変化が生じている。

 重信と風景の関係から重信の句業の移り変わりがどのようなものであるか。本稿では、これを探っていきたいと考える。

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】7 ばちんと弾ける  小野裕三

 昨年夏に、家族旅行で沖縄に行った。海などのリゾートだけでなく、宗教の聖地を巡ったり、食や街の文化を楽しんだり、そして戦跡やその資料館などをいくつも訪れてあらためて歴史のことを詳しく知ったり、と目を開かされることの多い旅となった。沖縄という地は、そのように多面的な輝きと悲しみの想いを併せ持つ場所でもある。そんな場所から発せられる俳句には(そういう先入観で見るせいもあるかもだが)、独特の何か仕掛けめいたものがうまく仕込んであるようにも感じる。バネのようなものが俳句の中に仕掛けてあって、読んだあとにふっと気づくとばちんと弾ける、みたいな感じだ。


たましいの楽譜なり蝌蚪の紐

 たましい、といった言葉遣いは、だいたい重々しいものになりがちだが、この句はなんだか楽しい。だいたい、音符のことをおたまじゃくしとも呼ぶくらいだから、あれはもともと楽譜めいている。それをたましいの、と説明したところで、どこか楽しげ。でもたましいだから、やっぱり軽々しいものとも思えない。そんなギャップが何か企みの仕掛けめいていて、あるときにそのことに気づいてばちんと弾けそう。


蟻一匹も大事な白紙の王国

 蟻と白紙は、イメージとしてなんとなくうまく繋がる相性のよいもの同士だろう。蟻は一匹しかいないようだし、だから蟻からすると白紙は王国のように見える、ということか。そんな見立ての句と思うのがわかりやすそうなのだが、そうすんなりと腑には落ちない。王国という言葉からは、地下に張り巡らされた巣も想起され、そんなイメージの交錯に、何かとんでもない企みの仕掛けが潜んでいそうな気がする。


憲法を耕す僕ら鰯雲

 戦争を巡って重い歴史を持つ地なので、憲法にもやはり独特の想いがあるのかなあ、と推察する。「耕す」がその想いを表すだろうか、とも考えつつ、理屈としては今ひとつ分かりきらない。ただ、何かふしぎな明るさのようなものを持った句だ。それはきっと、意志としての明るさなのだろう。この意志も、あるときになってばちんと心の中で弾けそうだ。

【連載】現代評論研究:第4回 ―テーマ:「死」その他―:藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

 ●―1近木圭之介の句/藤田踏青

漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら   昭和53年


 ストア派の自殺容認論とは異なり、ショーペンハウアーの有名な「自殺論(自殺について)」では「自殺のもたらす個体の死は、決して意志の否定による解脱を達するものではない」「虹を支えている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行に過ぎない」と説かれている。この自殺論をそのまま掲句に適用は出来ないが、薄暗い漁村での1シーンが自殺を客観的にみるか、自己の背景に刷り込ませるようにみるか、という両方の面で表現されている。しかし「世界が私の表象であるかぎり、いかなる客観であっても主観による制約を受けている*」のであれば、やはり後記の如く読むのが妥当であろう。「漁村」「酒と蟹」「自殺論」という言葉の流れから湿潤的なドラマの展開も予想される。「小指がきれいだ 死ぬことないのに(昭和63年)」の作品が其れに近いものかもしれない。


死んでうしろ姿のいつまでも見えて 行く   昭和15年


 種田山頭火が松山の一草庵で死去した際の悼句であり、当然「うしろ姿のしぐれてゆくか」の山頭火の句が下地にあり、先にも述べた山頭火のうしろ姿の写真も二重に被さってみえてくる。そして一字空白がもたらすものは、此岸と彼岸との別れであり、去ってゆくうしろ姿をも示唆しているかの如く。


天に独り龍にてあり水に独り月にてあり    昭和51年


 この年、師である荻原井泉水が91歳で逝去し、「龍翁井泉水逝く」と題した悼句である。龍とは圧倒的な定型俳壇の中にあって、自由律俳句を主張し続けた井泉水の孤軍奮闘の姿を示しており、その昇龍の様をも示しているのであろう。そして「空を歩む朗々と月ひとり  井泉水」の作品をも踏まえてもいる。

 井泉水は長生であったが、圭之介はそれ以上に長生し、平成21年に97歳で没した。しかしその最晩年まで創作力の衰える事は無かった。


己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ    平成19年

今を生き。それだけに生き 終るか      平成19年

私という単純にうごく 影だった       平成20年

あれは船 海峡へ来た一つの月        平成20年


 前二句は圭之介95歳、後二句は96歳の時の作品である。空白や句読点の使用法など、晩年に至る程に詩的傾向を示しているのも見逃せない。そして既に「死」を意識した自己存在というものに静かに向き合っている姿がそこにある。「船」はかつて金沢から下関へやってきた自己そのものであり、「月」は関門海峡に永遠に留まる自己というアイデンテイテイなのであろう。

    *ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる


 『冬濤』に収められた「ひとの死ー」と前書された5句のなかの1句である。

 きくのが生涯を貫いた愛は秘めたるものであったため、恋人の死を待って初めて作品となって明かされた。

 きくのは実業界のさる人物に世話になっていた。彼女を住まわせた赤坂の800坪の屋敷には川が流れ、橋が掛かっていたというから、その大物ぶりは想像できよう。しかし、相手に家庭があることで、きくのは一切をベールに覆ってきた。明治初期には妻以外の配偶を法的に認めていた時代があり、「世話をする、される」という関わりを、現代の関係に簡単に置き換えることはできないが、妻と同じような強い結びつきがありながら、決して妻の座につくことはできない間柄が、どれほど不自然で悲しいものであったかは想像に難くない。

 恋人が死の間際にいることを知っても、傍らにいることができなかった日々はまさに身を切る思いだったことだろう。恋人の死の寸前に詠まれた7句はかくも苦しく、救いがない。


まゆ玉にをんな捨身の恋としれ(『冬濤』所収)

逢ひし日のこの古暦捨てられず( 〃 )

たまゆらの恋か枯木に触れし雲か( 〃 )

永遠は誓へず冬木雲を抱く( 〃 )

出さざりし手紙ひそかに焼く焚火( 〃 )

忘れよと忘れよと磯千鳥啼くか( 〃 )

冬浜の足跡かへりみる未練( 〃 )


 数日後とうとう愛する人が亡くなったことを人づてに聞く。掲句を含め、その5句には悲しみをたったひとりで堪えるきくのがいる。


先立たる唇きりきりと噛みて寒(『冬濤』所収)

残されて梅白き空あすもあるか( 〃 )

ひと亡しと思ふくらしの凍はじまる( 〃 )

ひと亡くて枯木影おくかのベンチ( 〃 )


 そして次の1句で、彼女は恋人と永遠の訣別を告げた。


恋畢る二月の日記はたと閉ぢ(『冬濤』所収)


 このとき、きくの60歳。こうしてきくのには隠すべく恋もなくなり、あとはひたすら長々と横たわる時間が残された。そして2年後の1968年、


噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ(『冬濤以後』所収)

噴水涸れ片身そがれてさへ死ねず( 〃 )


と、水を噴かぬ噴水を見ては、残されたわが身をはかなむ時代を経て、


死場所のなき身と思ふ花野きて(『冬濤以後』所収)


と、つぶやく。

 1976年、もっとも仲のよかった弟を亡くす。


うつせみや残されて負ふひとの業(『花野』所収)

花野の日負ふさみしさは口にせず( 〃 )


と、凛と言い放ってきたきくのの口から、ついに


かなかなや生れ直して濃き血欲し(『花野』所収)


という言葉がこぼれた。濃き血とは、夫、子供、孫という平凡な血統であり、結婚や子供という家族を持つことが叶わなかったきくのの、詮無い夢であったのだろう。

 自ら選んだ女優という職業、恋人との生活による自由と不自由。生涯を通じて好んで詠んだ牡丹を並べてみると、きくのの化身のように見えてくる。

 40代のきくのの作品に登場する牡丹は、華やかに身を持ち崩す。


落日のごとく崩れし牡丹かな(『榧の実』所収)


 50代では絢爛たる美しさは輝きを放つ。


牡丹の百媚の妍をうたがはず(『冬濤』所収)


 60代になると、牡丹もこれで楽じゃないのよ、という詠み方にしずかに変わり、


牡丹もをんなも玉のいのち張る(『冬濤以後』所収)

忽然とくづる牡丹であるために( 〃 )


 70代では、震える姿で現れる。


冬牡丹つひのしぐれに濡るるかな(『花野』所収)


 きくのが残した最後の牡丹は75歳の作品である。


寒牡丹五時の門限閉ざしけり(「俳句研究」昭和56年5月号)


 生の象徴、女の化身でもあった牡丹はついに、扉の向こうの花となった。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

白魚をすすりそこねて死ぬことなし


 昭和55年作、遺句集『無畔』(*1)所収。掲句は〈死期といふ水と氷の霞かな〉および、前回の感銘句の3句目としてあげた〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉の間に記載された齋藤玄の絶句3句のひとつである。初出はともに玄の主宰誌「壺」誌6月号。そのときの表題が「死期」であったことを考えると、玄にとってもはや「死」および臨終は近しいものであったといえよう。

 表題句ともなった〈死期といふ水と氷の霞かな〉は、永田耕一郎が言うように「風土感覚と季感を合一し、すべてを大自然のあるがままの姿にゆだねた、崇高な作品」(*2)、ととらえることもできる。病床に明け暮れた晩年の玄にとって、〈死期〉すなわち臨終とは単なる命の終わりというよりも空中に浮遊する水滴が日の光をうけて天空を赤く染める霞のようなものだったのである。水と氷が太陽の光という条件によって霞になるように、死もまた、生命の一過程をあらわす状態に過ぎない。臨終を実感したことがなくともそうした認識を読むことで読者は来たるべき自己の死を仮想体験しつつ、日常から解放された気分を味わう。そこに詩を読む快楽がある。それこそ、永田がいうように「大らかさと、やすらかさ」(*3)をこの〈死期といふ水と氷の霞かな〉から感受することもできるだろう。

 一方で掲句には「大らかさと、やすらかさ」といった高みは感じられず、むしろ滑稽な作者の横顔が透けて見える印象の方が強い。それは〈すすりそこねて〉という措辞に作者の慌てた表情が想起されるためかもしれない。〈白魚をすす〉るという行為、すなわち食べるということは、他者の命を奪い、死に転換することで自身の生の連続性を獲得するという峻厳な営みでもある。だが、〈すすりそこねて〉とは、他の命を取り込むことに失敗したのであり、いわば生の連続性が中断されていることを意味している。つまり仮死状態である。だが玄は〈死ぬことなし〉と飛躍する。病者にとって食べられないことは死を早めることに直結する。無理にでも食わねば命を永らえることは難しい。そうした生に執着する病者であるならば、感傷におぼれて甘えることもできたはずだ。しかし玄は自身を凝視したうえで、〈死ぬことなし〉と突き放して見せた。〈死期といふ水と氷の霞かな〉の句を得ている玄にとって死とは、〈水と氷〉が霞になるように存在形態の一変化に過ぎないのである。よって〈死ぬことなし〉とは、そうした死生観に裏打ちされた断言と見ることができるだろう。この断言があることによって、ある種の軽みを読者に印象付けている。さらには〈白魚を〉〈すすり〉〈そこねて〉〈死ぬこと〉とすべてS音から始まる語を文節の頭にすえたことによって、リズムが生まれていることも軽みを印象付けるのに関係しているだろう。末尾の〈なし〉にもS音が使われており、〈白魚〉のS音に戻ってゆくような、ある種の循環構造を持っている。

 春の到来を告げる〈白魚〉のぴちぴちと躍動する姿と〈すすりそこねて〉ぼんやりしている病者の対比、哀れさや感傷を寄せ付けない凝視の果てに得た生命観が〈死ぬことなし〉という無欲な断言を生み、それがある種の救いとなって読む者に「死」を実感させる句となっている。玄にとって死とは「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごと」き(*4)ものであった。まさに半透明の白魚のように。


    *1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
    *2 『俳句』昭和55年8月号 「斎藤玄追悼」所載、永田耕一郎「水と氷」角川書店刊
    *3 同上
    *4 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載


●―5堀葦男の句/堺谷真人

陰画学級透し視れば革命前の鏖死(おうし)


 句集『火づくり』所収「祖国愛憎」の句。

 古色蒼然たるネガフィルムに写った級友たちの集合写真。透かし見れば毬栗頭の少年たちがまだあどけなさの残る顔でカメラのレンズを見据えている。しかし、それら友垣の多くは、あるいは戦陣に死し、あるいは不治の病に斃れ、若くして世を去ってしまったのだ。あたかも革命の成就を見届けることなく弾圧され散っていった志士たちのように。

 「鏖死」とは見慣れない熟語であるが、「鏖殺」が「みなごろし」であるから、「鏖死」は「みなごろしにあう」というほどの意味であろう。「横死」と同音なのは、不慮の死、非業の死というニュアンスが込められているものと解したい。

 掲句が作られたのは敗戦から遥かのち『火づくり』出版直前。一方、同じ句集の開巻第一章「風の章」(1941年から1948年までの作品を収録)には、「母校旧情(神戸一中同窓会誌に)八句」と前書きされた一連の作品がある。過ぎ去った学生生活をなつかしく回思する7句のあと、締めくくりにさりげなく置かれた句がにわかに読む者の肺腑をつかむ。そこには戦没者300万人余という大量死のone of them には決して還元することのできない一回限りの個人の生と、それにまつわる輝かしい記憶が鮮烈に刻印されているからである。


タックルを振り切り駆けり戦死せり  『火づくり』


 ここで改めて年譜を繙くと、青年期の葦男は近しい肉親との死別を立て続けに経験している。1937年8月13日 父・駿次郎 急逝。1942年7月 4日 兄・進 病歿。1944年7月 7日 弟・治 戦死。この間、1941年10月には胸部疾患の疑いで葦男本人が日本赤十字兵庫療養院に入院。以後1年をここで過ごし、兄・進の新盆も病院で迎えることとなった。


新盆のすぐ飛ぶ紙の位牌かな     『火づくり』


 病癒えて社会復帰を果たし、1944年6月にめでたく婚約した葦男を次に待っていたのが、海軍主計少佐としてサイパン島にあった弟・治の戦死の報である。


簾押して弟めける夜風かな      『火づくり』


 葦男は理智の人であった。かけがえのない人たちの死に際しては、哭泣するよりもむしろ透き通るように静謐なかなしみをその大きな双眸に湛えて微笑していたように思う。行年91歳で最愛の母・あいが他界したときの句は、とりわけその感が深い。葦男は多くの愛する人たちの「それぞれの死後」を大切に生きたのである。


灰に帰しいまふくよかな母のこる   『堀葦男句集』


●―9上田五千石の句/しなだしん

 上田五千石の死の一句といえば〈萬緑や死は一弾を以て足る〉を挙げるのが順当であろう。だがこの作品についての評はすでに潤沢であり、その評の大半を占めるであろう“「死」と生命力の象徴である「萬緑」の鮮明な対比”に対して、私は反論も、新しい論拠も今のところ持ち合わせていない。

 五千石は「死」を忌み嫌い、「萬緑」の句の自註に“「死」はわが俳諧の忌字”と記し、句集『田園』のあとは「死」という言葉が表出する句は作らなかったというのが定説だ。それは父を早くに亡くしていること、戦時という死と隣り合せであった生い立ち、それに起因する人生観、宗教観に関係するところかもしれない。

 ちなみに『田園』では〈萬緑や死は一弾を以て足る〉となっているが、自註での表記は〈萬緑や死は一弾を以つて足る〉と「つ」が足されている。これでこの句の読みが〈もってたる〉であって、〈もてたりる〉ではないことが明確になっている。また、この句の表記で「万緑」となっているのは誤りである。

     ◆

 さて、次の4作品は、句集『天路』の巻末に並べられたものである。


     九月一日 四句

夜仕事をはげむともなく灯を奢り五千石

芋虫の泣かずぶとりを手に賞づる

色鳥や刻美しと呆けゐて

安心のいちにちあらぬ茶立虫


 詠んだ日は、平成9年9月1日。つまり五千石が、突然に死を迎える前夜の作品なのだ。

『上田五千石全句集』(*1)の上田五千石年譜(上田日差子編)の平成9年の項によれば、


2日夜、自宅で原稿執筆のあと倒れる。同日午後10時10分「かい離性動脈瘤」のため、杏林大学付属病院で逝去。満63歳10か月余。


とあり、また『天路』の上田日差子によるあとがきには、


父のあまりに早すぎた他界ではありましたが、俳句と師との出会いにより、いのちに生かされ、俳句を信仰することで幸せな生涯を全うしたのだと、今は思うばかりです。(中略)亡くなる前夜作の父の句を揚げて、父の「生きるをうたう」よろこびを偲びたいと思います。


とある。

 この“「生きるをうたう」よろこび“とは間近で父五千石を見て育った、日差子氏ならではでの言葉である思う。実は「生きるをうたう」こそが、五千石の「眼前直覚」の秘められたテーマであると、私は思っており、それがこの〈あとがき〉から十分読み取れるのである。

     ◆

 〈九月一日 四句〉は、五千石の作品として見ると取り立てて秀作といえるものではないだろう。ただこの作品が奇しくも遺作になることは、本人も夢にも思っていなかったことが、逆に死というものを如実に顕しているようで、ぞっとする。

 人間は死をまぬがれない。そしてその「死」は時に唐突に訪れる。それは大震災や日常に起こる様々な事件事故に係わる可能性が、誰にもあるということ。常に「死」と隣り合わせにある命、その命を精一杯燃やすことが、いのちある者の使命といえる。


    *1 『上田五千石全句集』 平成15年9月2日 富士見書房刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

新涼や「死んで貰う」と高倉健


 『増補楠本憲吉全句集』<拾遺作品>に載っているが制作年代不明。

 俳句では、「新涼」は秋の季語。「涼し」は夏であるのに、「新涼」は秋の季語であるのは不可解である。暑いのは夏、涼しいのは秋に決まっている。俳人の因習はかくも怖ろしい。

 問題は、そんな季語論ではない。この「新涼」は、一般人の「涼しいこと」だと仮定しても、それは何となく映画館の大画面にふさわしい季節の言葉である。特に野外であると、それも夜の青葉の騒ぐ広場であると一層効果的だ。

 そこで健さんが極めつけのせりふ、「死んで貰います」とつぶやく。こんな映画をリアルタイムで見ていたころ、楠本憲吉がまだ存命で俳句を詠んでいたというのは不思議な感じがする。もっともっと昔の人のような気がしていたからだ。

 今回の主題「死」で詠まれた俳句16句の中で最も軽やかな俳句が楠本憲吉のこの句ではないかと思う。憲吉にとってはこの程度の死がちょうどよい。重苦しい死はふさわしくないからだ。この時殺されるのが天津敏だとすれば、シリーズの次の回ではまた不死鳥のように生き返って健さんに殺される宿命にあるのだ。死とはいっても1回限りの死ではないから、実に軽やかである。どうやって美しく死ぬかに監督も俳優も工夫を凝らす。そうした「死」なのだ。

 「死んで貰ふ」ではなくて「死んで貰う」もいい。決して健さんは、「死んで貰ふ」とは言わないからだ。「明治一代女」のようなせりふは健さんにはふさわしくない。俳句とはこのように細かく読むものなのだ。

     *    *

 先日、楠本憲吉が創刊した雑誌「野の会」の創刊500号記念大会に招かれて出席した。「詩客」で久しぶりに俳句を発表された安井浩司氏も、遠く秋田から来られていて久しぶりの話をさせていただいた。その後挨拶のために壇上に上がり見わたすと、一面華やかな感じがした。参加者も多かったが、参会者に女性が多く、その女性が皆それぞれに高価そうな和服を着ていたからだ。俳句の会でこんな和服の花盛りを見たことはない。いかにも、灘萬専務(長男だが社長でなく専務)の楠本憲吉らしい会と思われた。


●―12三橋敏雄の句 / 北川美美


手をあげて此世の友は來りけり


 「あの世」と「この世」。書かれていないのに書かれているように読める作品。逆転の回路である。読者の中にそれを呼び起こさせようとしているのではないか。概念として投げ込まれた言葉は、個々の読者の中で観念となる。詩歌の本領であろう。書かれていない「あの世」。「あの世」の友は来ない、「この世」の友だからこそ生きて手をあげてくる。両方事実である。

 「あの世」の概念は、古代エジプト文明からあり、死後に世界があるというのは、生きるものに「魂」があると信ずる所以であり尊厳である。英物理学者・ホーキング博士が、「天国や死後の世界は実在しない」と述べた記事(*1)は、死んだ本人が「あの世」を感じるかという視点であり観点が異なるが、元も子もなくなる。「あの世」は、残されたものが想う古代からの死生観だ。

 作品、風貌からの三橋敏雄は、肉體と精神の「健全さ」が「死」を遠く感じさせ、それ故、「この世」のリアルがある。頑強な體が三鬼、誓子、重信(*2)とは別の大物にした理由の一つと思える。三橋の「死」には、陸・海・空にひろがる大らかなものがある。


死の國の遠き櫻の爆發よ       『まぼろしの鱶』

たましひのまはりの山の蒼さかな   『眞神』

死水や春はとほくへ水流る

散る花や咲く花よりもひろやかに   『長濤』

死に消えてひろごる君や夏の空    『疊の上』

肉體に依つて我在り天の川      『しだらでん』


 遠い「あの世」に友がいる。「この世」に残された僕からみえる風景がある。

 「この世」により「あの世」を潜ませ、「友」をよりリアルにする。省略、読みの飛躍により、いかに句に現実感を与えるか、それは俳句形式そのものに立ち向かう行為であると思える。三橋作品が、リアリティを持つという実感は、氏が「夢の句」を嫌い、認識の薄い「聖五月」という語を俳句に使用することを非常に嫌ったという証言とも一致する。(*3) 

 掲句は、『巡禮』の6句目に収められている。(*4)

第二回「腿高きグレコは女白き雷」第三回「山山の傷は縱傷夏來たる」に続き、またも係助詞「は」を使用している句である。


    *1)Stephen Hawking ‘There is no heaven; it's a fairy story’ Sunday 15 May 2011 Guardian, U.K.
    *2)西東三鬼、山口誓子、高柳重信。それぞれ療養歴あり。
    *3)「三橋さんは夢の句が嫌いだった。」故・山本紫黄談。「聖五月」を嫌ったことは、同じく山本紫黄、桑原三郎・池田澄子からの証言。
    *4)『巡禮』製作1978(昭和53)年(1979 南柯書局)。一頁一句A6判小句集。偶数頁の右上、奇数頁の左上に、仏頭のような挿絵を置く。永田耕衣の絵である。自ら間奏句集と名付け50句を収録。限定250部。


●―13 成田千空の句/深谷義紀

人が死にまた人が死に雪が降る


 句集「人日」所収。

 千空には、個別の人間の「死」を対象とした作品が多数ある。例えば、若い時分に指導を受けた吹田孤蓬の死を詠んだ、


こほうさんと言ひて泣きけり梅雨の家    「白光」


や、夫人の母親が101歳の天寿を全うした際の、


雪よりも白き骨これおばあさん       「十方吟」


などである。さらには自身の辞世の句とも言える、


寒夕焼けに焼き亡ぼさん癌の身は


も記憶に残る。

 だが、こうした個別の人間の死ではなく、雪国とりわけ津軽の厳しい自然環境のなかで懸命に生き、そして死んでいった有名無名の人々の死を対象としている点で、掲出句は異なる意味を持つ。

 この作者らしく、句意は平明である。だが一句に籠められた想いには深いものがある。

 上五から中七にかけての「人が死に」というフレーズのリフレイン、そしてそれをつなぐ「また」という措辞に、この土地で生き抜くことの厳しさを受け止める覚悟が看て取れよう。しかし、そうした各々の死、あるいは残された人々の悲しみとは無関係に、今日も津軽に雪は降り積もる。読後、何ともいえない切なさがこみ上げたことを覚えている。しかしその感情を喚起したのは、掲出句が持つ、謂わば“乾いた抒情”である。こうしたごつごつとした手触りの、しかも抜きん出て骨太の句こそが、却って最も抒情的だといえるのではないだろうか。例えば、同じ内容を現代詩で表現しようとすれば、たぶん可能かもしれないが、恐ろしく長いものになるだろう。掲出句はそれをたった17文字で描き切った。俳句形式の底力を見る思いがする。

 そしてこの句の背景には、何と言っても津軽の風土が控えており、それが一句を支えている。何より人の「死」が生の営みの終焉である以上、大なり小なり「死」はその風土を反映したものになる筈である。だから「死」をテーマとした作品は、風土と直結し、風土そのものを詠んだものとなる場合があっても不思議ではない。掲出句はその好例である。結局、津軽の風土に生涯拘り抜いた千空にとっては、「死」も風土の一部だったといえるのではないだろうか。


●―14 中村苑子の句 1./吉村毬子

 中村苑子は、今年生誕百年である[本稿は2013年2月22日金曜日掲載。編者注]。そして、一月五日には、十三回忌を迎えた。

 あの世と此の世を行き来する、妖艶な女流俳人として名を馳せた、苑子の五十年余りの俳句人生と作品を、今一度、検証してみたいと思う。古典、軽み、癒しの俳句とは対極にある凄絶な俳句が彼女の代名詞となってはいるが、初期時代は、「春燈」で有季定型の基礎を学び、晩年は、静かな達観、無常を詠いあげながら、{生前葬}という形をとり、俳句人生に幕を閉じた。その数奇な女流俳人の世界を、一人でも多くの方に堪能して頂きたいと思う。十年ではあるが、苑子に教えを受けた貴い時間を反芻しながら、書き進めたいと思っている。


苑子略歴

大正二年  (一九一三)静岡県伊豆に生まれる。

昭和十九年 (一九四四)戦死した夫の遺品に句帳を見つける。

昭和二十二年(一九四七)幾つかの俳誌へ投句。「鶴」石橋秀野選に入選など。

昭和二十四年(一九四九)久保田万太郎の「春燈」に入会。

昭和三十三年(一九五八)高柳重信の要請に応じ、「春燈」を辞して「俳句評論」を創刊。自宅が発行所。

昭和四十七年(一九七二)尊敬する三橋鷹女没す。

昭和五十年 (一九七五)第一句集『水妖詞館』刊行。現代俳句協会賞受賞。

昭和五十一年(一九七六)第二句集『花狩』刊行。

昭和五十四年(一九七九)第三句集『中村苑子句集』刊行。集中の「四季物語」で現代俳句女流賞受賞。

昭和五十八年(一九八三)高柳重信急逝。「俳句評論」終刊を決意。

昭和六十一年(一九八六)富士霊園に苑子の墓「わが墓を止り木とせよ春の鳥」の隣に高柳重信の墓を建立。墓碑銘は「わが尽忠は俳句かな」

平成元年  (一九八九)福山市郊外に高柳重信の句碑建立。 

平成五年  (一九九三)第四句集『吟遊』刊行。

平成六年  (一九九四)』吟遊』で詩歌文学館賞、蛇笏賞受賞。

平成八年  (一九九六)第五句集『花隠れ』刊行。

平成九年  (一九九七)「花隠れの会」を開催、俳壇からの引退を表明。

平成十三年 (二〇〇一)肝臓障害のため死去。


1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子


 第一句集『水妖詞館』の第一句目である。竜とは、神話や民話に登場する実在しない生物である。日本では、十二支にも選ばれ、{竜の落とし子}という名の魚類までいる。しかし、掲句には水族館で見るあの愛らしさは感じられない。この句の「竜のおとし子」は、前者の、実在しないが、神話の対象として昔から日本人に馴染みの深い方であろう。

 生み落とされた「竜のおとし子」は、「喪」を負っていると云う。生を与えられた瞬間から死へ向かうのは必然であるが、喪をかかげながら、竜は生み落とされたのだ・・・。即ち、此の世とあの世を行き来する女流俳人と、決定づけられた『水妖詞館』の句群を充分に意識して第一句目に置かれたのであろう。苑子自身の身体感覚に伴う詩への方向性、詩は生死であること、そして、生は死への始まりであること。まさしく、それを物語る一句であり、句集を開いた瞬間から苑子俳句に引き込まれる、妖しき予兆の一句でもあるのだ。 そして、「竜のおとし子」は、『水妖詞館』そのものであり、喪をかかげて、私は今、この句集を生み落とすのだと告げているのである。


吉村毬子略歴(1962年生まれ。神奈川県出身。1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)。1999年、「未定」同人。2004年、「LOTUS」創刊同人。現代俳句協会会員。2017年没。享年55。)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 25 富澤赤黄男の俳句集

(『富澤赤黄男 高屋胸秋 渡邊白泉 集』(1985年刊、朝日文庫「現代俳句の世界16」)より)

 

蝶墜ちて大音響の結氷期


 この俳句を声に出して何度も朗読してみる。そのなかで内容をどう解釈していくのか。(ちょうおちて・だいおんきょうの・けっぴょうき)を私なりに何度も俳句鑑賞で解釈(創造)してみる。

 絵画でいうならば、シュールレアリズム。

 富澤赤黄男は、1902(明治35)年から1962(昭和37)年の時代を駆け抜けた俳人だ。

時代背景を深読みしなくても新興俳句において検証がもっとも必要な俳人のひとり。

 絵画を読み解くように俳句を咀嚼玩味していくにしても、この詩魂の凝縮は、現実よりもリアリティーを獲得したイメージの到達点がある。未だに私は、この俳句の構造を咀嚼しきれていない。

 そんな私は、何度もこの詩魂の俳句鑑賞をしながら俳句を味わう楽しさに浸る。


 先ずこの俳句を絵画的に読み込むうえでひとつの俳句鑑賞の設定をしてみる。

 アニメーションのようにこの俳句を読む。アニメーションとは、映画技法のひとつ。絵や人形などを少しずつ変化させ,1コマずつ撮影し,映写によって被写体が動いているように見せる手法のこと。絵画の1枚としていくつもの絵の展開(移ろい)を想像してみた。

 「蝶墜ちて」は、蝶の命がもがきながらも死期に墜ちていく刻々と移ろう映像を捉えている。

 蝶は、地に落ちた。

ではなく地に墜ちていくアニメーションでも見ているように映像が展開されて、また映像がエンドレスに再生を繰り返す。

 その「蝶墜ちて」の深淵な断絶は、たった5音にまるで封印されているようだ。

 この詩魂は、蝶の命の朽ち果てる映像を凍結させながら「大音響の」に詩的飛翔が生じている。

 富澤赤黄男や高柳重信などの俳句研究でもずば抜けている『絶巓のアポリア』の俳人の高原耕治先生の言葉(電話越しにだが)を借りて云うならば、「蝶は、蝶でありながら蝶を超えてゆく。」ということなのかもしれない・

 この蝶は、富澤赤黄男の生きた戦争の時代を象徴しながら宇宙の星の消滅にも見えてくる。

 そこに省略されている富澤赤黄男俳句の宇宙への想像力の翼が飛翔する。

 あの十五年戦争の時代に生きてきた方々の言葉で「いつも戦争という時代背景によって死が身近に存在した」のに基ずくならば、「蝶」は死にゆく時代の暗喩にもなる。

 その蝶の死へと墜ちていく絶頂の「間」(ま)から一変して宇宙にさえ響き渡る大音響が生じる。「大音響の結氷期」。この結氷期のマクロの世界には、人間がより良く生きれずに人間性を喪失してしまう時代の凍りついた人間の尊厳の結晶たちの標本のような万華鏡が、そのアニメーションのようにエンドレスに流れ続ける。

 まさに天に創造された万華鏡の蝶が、墜落の瞬間を木霊させ続け、永遠の詩魂としてエンドレスに展開されている。

 この「蝶墜ちて」と「大音響の結氷期」の死を身近な日常として抱き続ける富澤赤黄男たちの深淵な時代が、この俳句に凝縮して込められている。

 そんな時代を富澤赤黄男俳句は、生き続けているのだ。

 つまり私たちは、戦争の世紀が地球から風化して戦争の痛みのない世界に生きていくのだろうか。

 人類は、延々と戦争の世紀を繰り返している。

 上5の蝶は墜ちていく瞬間を捉えつつも死に到達するまで大音響の結氷期のような時代へさかのぼり、エンドレスに巻き戻されていく。

 それが、蝶の尊厳の崩壊(死)における戦争の時代を延々と炙り出し続けている。

 しかしこの俳句は、上5の「蝶墜ちて」にエンドレスに捩じれながら戻り、∞(無限大)に延々と戦争を象徴的に蝶の死を標本のようにとどめながら時代を暗示する。

 それは、天上の星空を描き出すように戦争に巻き込まれていった死を明滅させ続けている。

 富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」の到達点は、ある時代の戦争の世紀をさ迷いながら生き抜き、喉元を通り抜けてゆく、ある俳人が視た時代が標本化されていると云える。

そのことで浮かび上がる富澤赤黄色俳句に込められた戦争の風貌は、今もなお廻りめぐる星座早見盤の星たちの神話のように展開されている。

 戦争の世紀は、今後も続くとしても俳人の戦争への抗いをこの俳句から読み解き創造していきたい。


美しいネオンの中に失職せり


 みんな失職を詠める俳人をどれだけ知っているだろう。俳句にいい恰好ばかりを盛り込んでいませんか。「美しいネオン」の中を失職の果てにとぼとぼと歩いている。外界の煌びやかさは、隣の芝生とでもいいましょうか。失職の内心の落胆との対比が効果的だ。


戀びとは土龍のやうにぬれてゐる

乳房や ああ身をそらす 春の虹


 戀びととの交わりを書かずしてこのエロス!「土竜」のように濡れているという比喩も脱帽です。

 乳房を揺らしている。身をそらす歓喜も春の虹の隠喩もおおらかなエロスですな。

 今後も再読してみたい俳人のひとり。

 共鳴句もいただきます。


爛々と虎の眼に降る落葉

凝然と豹の眼に枯れし蔓

火口湖は日のぽつねんとみづすまし

鶏交じり太陽泥をしたゝらし

南國のこの早熟の靑貝よ

甲蟲たたかへば 地の焦げくさし

乳房に ああ満月のおもたさよ

ひとの瞳の中の 蟻蟻蟻蟻蟻

切株はじいんじいんと ひびくなり

草二本だけ生えている 時間

蛇よ匍ふ 火藥庫を草深く沈め

零(ゼロ)の中 爪立ちをして哭(な)いてゐる

秦夕美ノート余滴・秦夕美の短歌  佐藤りえ

二十冊にせまる句集をあらわした秦夕美には一冊だけ歌集が存在する。同名の句集とのセットとして作られた句歌集『万媚』がそれで、書肆季節社から昭和59年に刊行された。栞「万媚――その様式の別れ道へ」を馬場あき子が執筆している。夕美は当時馬場が主宰する短歌結社「かりん」に所属していた。

 人殺めきしここちして白木蓮の白にごりゆく梢に真向う 秦夕美『万媚』
 桃の肉しづかに落つる胃の腑ありていましばらくの生はあらなむ

夕美は句集と共に膨大な量の散文を残しており、俳句や文学にまつわる話題も多く、わりと赤裸々な自身の来歴が織り交ぜられている。十代の折、ふとしたきっかけで王朝文学にのめりこみ、万葉集より古今和歌集を好んだ――といったことまではわかったが、現代短歌を作ろうと思ったのはいつなのか、なぜ「かりん」に入ったのか、明確なことはわからなかった。

ただひとつ、手がかりとして「渦」の外部前号評にあたる文章にこんな記述を見つけた。

俳句もの説といわれるものがあるが、ものについて、馬場あき子著『鬼の研究』に面白い記述がある。『日本書紀』その他で鬼をものと呼んだといい

(…〈もの〉とは……はっきりと目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根源の力を〈もの〉と呼んでいる。)

「女流俳句について」(「渦」61号・昭和46年)

この稿は「渦」入会以前、兜子より依頼を受けて「鷹」所属のまま客筆として書いたものである。こののち第二句集『泥眼』を編む夕美は、以前から能・狂言への関心を持っていたようで、彼女にとって馬場あき子はまずは鬼の研究者として認識されたのかもしれない。この部分だけを見て判断するのは早計だが、気に入って引いたところとして、夕美の考え―感覚的なものを重視する―に合致するところが大いにあると思う。

さらに後年、「渦」風信抄に以下の投書があった。

馬場あき子氏の「かりん」(五月創刊)を読んでいますが、あき子氏の「和泉式部」岩田正氏の「わが戦後詩」辺見じゅん氏の「史外への旅」の三本の連載を中心に、エッセイ、歌人論、わが本棚とわずか四十二頁ですが、作品欄の外に密度の高い内容ぶりに瞠目致しております。レイアウトも素敵でした。

(「渦」129号・昭和53年)

夕美は思い込んだら一筋なところがある。藤田湘子との出会いにしろ、赤尾兜子との師弟関係にしろ、こうと決めたらロックオン、猛然と追いかける、みたいなところがある。馬場あき子の動向をフォローしていたからこそ、創刊間もない「かりん」を既に手にしているのだろう。翌年(昭和54年)の「かりん」1月号に作品が見えるので、この後ほどなくして「かりん」に入会したものと思われる。


「かりん」昭和54年3月号、夕美の作品は入会から3号めにして「かりん集」に抜擢されている。「かりん集」は渦なら渦集にあたる、主宰選の上位特別枠、会員欄とは別個に掲載される。

 連翹のかなたをはしる子取り鬼恋の小鬼もとりてゆくべし (「かりん」昭和54年3月号)
 さびしさの果は知らねど冬干潟うなじに風をうくる白鷺
 白地図のなかの風景あるきゐて柳絮いささかとぶを見たりき

「牡丹雪」6首、うちはじめの1首が翌4月号の前月号作品鑑賞で岩田正から評を受けている。

着想のおもしろい歌である。下二句に作者の着眼のおもしろさが出ている。いわゆる子供の遊戯を見ながら、そこに作者自身の、子供の世界への追想を含めた形での、ロマンチックな観点をうき出させている。「連翹」もよくきいている。

岩田の鑑賞は「子取り鬼」を実景として眺めているが(もちろんこれは「まひる野」を源流とした「かりん」の傾向として至極当然のことなのだが)、「冬干潟」も「白地図のなかの風景」も、描写であろうとしつつ、ことばの面が際立つ作りとなっているように見える。夕美のかりん集への入集はこの翌年昭和55年11月号が最後となる。

 夕鵙に五臓六腑の汚れたるこのかなしみを告げてみたきを (「かりん」昭和55年11月号)
 骨片のかろきを言ひて眺むれば虹あはあはと顕ちにけるかも

この頃の「かりん集」、会員作品欄には今野寿美、坂井修一、日高堯子、青井史、佐波洋子といった名前が並ぶ。のちの歌壇の重鎮たちが妍を競う、出航間もない活発な結社に身を置いていたのだ。技術的なことはもちろんのこと、現代的な主題、文体の試行、風俗の反映といったものが、刻一刻と進められる、現代短歌最前線の現場である。

 語りあふ古代の色など 勾玉のごときナッツを夜更け食みつつ  今野寿美
 水平線めざして無量の羊らの渡れるごとし夕なぎの海  青井史
 恋文を書くこと断ちてわが指は方程式を解く さわやかに  坂井修一

文語調の作品ももちろん多くあるが、そこに籠められた精神はぐっと現代的な彩りを見せている。

俳句においては審美的な作品作りを遂げていった夕美は、短歌においてはあくまで情緒的な表現、「もののあはれ」を基調とした詠いぶりが続いた。ライトバース、口語短歌隆盛の時代に「そういう新しさ」は夕美の欲するものではなかったのかもしれない。

「かりん」の門戸を叩いたのは、馬場あき子の持つ、古典を体内から自然に湧出させるがごとき作風、王朝文学への造詣の深さといった点に親和性を抱いていたから、ではないだろうか。

 菊焚きし手の昂りのさりながらはや大切のものもかへらじ  馬場あき子『葡萄唐草』
 頼朝はどこにもをりてひたすらに蹶起せざれば木を植ゑている  『雪木』

そんな馬場が『万媚』に寄せた栞では夕美の短歌の特徴二点を挙げている。一つは「王朝風な女手文体の美的なことばや律を生かし、時には古歌の一節を奪って情緒を加えることなどもしている」点。もう一つは夕美の短歌に連句風の構造を見ている点だ。

もう一つは連句風の上下つけ合せの技法を用いたもので、これは連句の復活というよみ方をした方が意味深いことになるのかもしれない。

  ながれあへぬ言葉も紅絹の色なして
   夕暮坂の楓ふかれつ
  かい擁く白き仔猫に春日さし
   二夜つづきの妬心ほのめく
  冴えざえと坂よぎりゆく笛の音や
   後生たのまぬたまゆらの恋

(中略)その特色をいえば、つけ合せの句の方がオクターブが低くできていることである。心性の深い一呼吸おいた転換をとげてはいるが、脇句風の下句であって、揚句風にはついていないところが、あるいは秦さんの作品的特色になるのかもしれない。脇句はなお三句へとつづく世界を含みもち、そのゆえに抒情は言い残した余白をもっているが、一首の屹立の上には嫋々とたゆたうものを残しすぎているといえよう。

「万媚――その様式の別れ道へ」馬場あき子

一首をそのままひといきに結句まで読み下ろしたとき、古風な抒情と美意識にのみ目がいきがちなところを、下の句が脇である、と見ることで、世界が転換していく、場面が移り変わり、情がにじむ。馬場の指摘は夕美の短歌の俳諧的な性格を読み取り、その可能性と課題を示している。この栞は夕美にとってきわめて真っ当な、敬愛する先達からのサジェストになったのではないだろうか。栞は「短歌と俳句のジャンルを同時踏破しようとする秦さんの企図に、拍手を送りつつ」「やがて才(ざえ)は一つに収斂せざるをえないのだろう」と続く。馬場の予言は、予言というより、夕美の淡い心情の輪郭を、より的確に指摘してみせた、ということのように思う。

夕美本人の言及が見当たらず、時期的なことはわからないが、「かりん」への出詠は昭和58年ごろを境に途絶えている。その後も夕美は折に触れて短歌を作り、個人誌「GA」などに発表していった。

 夕焼けをおしつつすすむ飛行機の翼のごときバターナイフよ(「GA」85号/2020)
 ひさかたの光のほしやさりとても舫小舟のやうな一日(「俳句界」2021年5月号)
 五月待つ闇の奥処を思ひつつ置く甕棺の湿りほどよき
 一本二本数へて草を抜きゐたり頭の中が暇すぎるので(「GA」89号/2022)

「俳句界」2021年5月号の特集「俳句と短歌」では上記の作品とともに、俳句と短歌への取り組みの違いを端的に述べている。

喜怒哀楽の中で短歌は喜と哀だろうし、怒と楽は俳句という形式に収まりやすい。もっと嚙み砕くと、心をゆるく情にゆだねている時は短歌で、心が鋭角に一点へむけて尖っていく時、俳句になってしまう。

最晩年まで刊行された個人誌「GA」には毎号俳句とともに短歌が掲載されていた。「心をゆるく情にゆだねる」。夕美は短歌とそのように手をたずさえ、歩き続けた。