●―1近木圭之介の句/藤田踏青
漁村で酒と蟹を食べ自殺論聞きながら 昭和53年
ストア派の自殺容認論とは異なり、ショーペンハウアーの有名な「自殺論(自殺について)」では「自殺のもたらす個体の死は、決して意志の否定による解脱を達するものではない」「虹を支えている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行に過ぎない」と説かれている。この自殺論をそのまま掲句に適用は出来ないが、薄暗い漁村での1シーンが自殺を客観的にみるか、自己の背景に刷り込ませるようにみるか、という両方の面で表現されている。しかし「世界が私の表象であるかぎり、いかなる客観であっても主観による制約を受けている*」のであれば、やはり後記の如く読むのが妥当であろう。「漁村」「酒と蟹」「自殺論」という言葉の流れから湿潤的なドラマの展開も予想される。「小指がきれいだ 死ぬことないのに(昭和63年)」の作品が其れに近いものかもしれない。
死んでうしろ姿のいつまでも見えて 行く 昭和15年
種田山頭火が松山の一草庵で死去した際の悼句であり、当然「うしろ姿のしぐれてゆくか」の山頭火の句が下地にあり、先にも述べた山頭火のうしろ姿の写真も二重に被さってみえてくる。そして一字空白がもたらすものは、此岸と彼岸との別れであり、去ってゆくうしろ姿をも示唆しているかの如く。
天に独り龍にてあり水に独り月にてあり 昭和51年
この年、師である荻原井泉水が91歳で逝去し、「龍翁井泉水逝く」と題した悼句である。龍とは圧倒的な定型俳壇の中にあって、自由律俳句を主張し続けた井泉水の孤軍奮闘の姿を示しており、その昇龍の様をも示しているのであろう。そして「空を歩む朗々と月ひとり 井泉水」の作品をも踏まえてもいる。
井泉水は長生であったが、圭之介はそれ以上に長生し、平成21年に97歳で没した。しかしその最晩年まで創作力の衰える事は無かった。
己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ 平成19年
今を生き。それだけに生き 終るか 平成19年
私という単純にうごく 影だった 平成20年
あれは船 海峡へ来た一つの月 平成20年
前二句は圭之介95歳、後二句は96歳の時の作品である。空白や句読点の使用法など、晩年に至る程に詩的傾向を示しているのも見逃せない。そして既に「死」を意識した自己存在というものに静かに向き合っている姿がそこにある。「船」はかつて金沢から下関へやってきた自己そのものであり、「月」は関門海峡に永遠に留まる自己というアイデンテイテイなのであろう。
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
ひとの死や薔薇くづれむとして堪ふる
『冬濤』に収められた「ひとの死ー」と前書された5句のなかの1句である。
きくのが生涯を貫いた愛は秘めたるものであったため、恋人の死を待って初めて作品となって明かされた。
きくのは実業界のさる人物に世話になっていた。彼女を住まわせた赤坂の800坪の屋敷には川が流れ、橋が掛かっていたというから、その大物ぶりは想像できよう。しかし、相手に家庭があることで、きくのは一切をベールに覆ってきた。明治初期には妻以外の配偶を法的に認めていた時代があり、「世話をする、される」という関わりを、現代の関係に簡単に置き換えることはできないが、妻と同じような強い結びつきがありながら、決して妻の座につくことはできない間柄が、どれほど不自然で悲しいものであったかは想像に難くない。
恋人が死の間際にいることを知っても、傍らにいることができなかった日々はまさに身を切る思いだったことだろう。恋人の死の寸前に詠まれた7句はかくも苦しく、救いがない。
まゆ玉にをんな捨身の恋としれ(『冬濤』所収)
逢ひし日のこの古暦捨てられず( 〃 )
たまゆらの恋か枯木に触れし雲か( 〃 )
永遠は誓へず冬木雲を抱く( 〃 )
出さざりし手紙ひそかに焼く焚火( 〃 )
忘れよと忘れよと磯千鳥啼くか( 〃 )
冬浜の足跡かへりみる未練( 〃 )
数日後とうとう愛する人が亡くなったことを人づてに聞く。掲句を含め、その5句には悲しみをたったひとりで堪えるきくのがいる。
先立たる唇きりきりと噛みて寒(『冬濤』所収)
残されて梅白き空あすもあるか( 〃 )
ひと亡しと思ふくらしの凍はじまる( 〃 )
ひと亡くて枯木影おくかのベンチ( 〃 )
そして次の1句で、彼女は恋人と永遠の訣別を告げた。
恋畢る二月の日記はたと閉ぢ(『冬濤』所収)
このとき、きくの60歳。こうしてきくのには隠すべく恋もなくなり、あとはひたすら長々と横たわる時間が残された。そして2年後の1968年、
噴水涸れをんなの欠片そこに佇つ(『冬濤以後』所収)
噴水涸れ片身そがれてさへ死ねず( 〃 )
と、水を噴かぬ噴水を見ては、残されたわが身をはかなむ時代を経て、
死場所のなき身と思ふ花野きて(『冬濤以後』所収)
と、つぶやく。
1976年、もっとも仲のよかった弟を亡くす。
うつせみや残されて負ふひとの業(『花野』所収)
花野の日負ふさみしさは口にせず( 〃 )
と、凛と言い放ってきたきくのの口から、ついに
かなかなや生れ直して濃き血欲し(『花野』所収)
という言葉がこぼれた。濃き血とは、夫、子供、孫という平凡な血統であり、結婚や子供という家族を持つことが叶わなかったきくのの、詮無い夢であったのだろう。
自ら選んだ女優という職業、恋人との生活による自由と不自由。生涯を通じて好んで詠んだ牡丹を並べてみると、きくのの化身のように見えてくる。
40代のきくのの作品に登場する牡丹は、華やかに身を持ち崩す。
落日のごとく崩れし牡丹かな(『榧の実』所収)
50代では絢爛たる美しさは輝きを放つ。
牡丹の百媚の妍をうたがはず(『冬濤』所収)
60代になると、牡丹もこれで楽じゃないのよ、という詠み方にしずかに変わり、
牡丹もをんなも玉のいのち張る(『冬濤以後』所収)
忽然とくづる牡丹であるために( 〃 )
70代では、震える姿で現れる。
冬牡丹つひのしぐれに濡るるかな(『花野』所収)
きくのが残した最後の牡丹は75歳の作品である。
寒牡丹五時の門限閉ざしけり(「俳句研究」昭和56年5月号)
生の象徴、女の化身でもあった牡丹はついに、扉の向こうの花となった。
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
白魚をすすりそこねて死ぬことなし
昭和55年作、遺句集『無畔』(*1)所収。掲句は〈死期といふ水と氷の霞かな〉および、前回の感銘句の3句目としてあげた〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉の間に記載された齋藤玄の絶句3句のひとつである。初出はともに玄の主宰誌「壺」誌6月号。そのときの表題が「死期」であったことを考えると、玄にとってもはや「死」および臨終は近しいものであったといえよう。
表題句ともなった〈死期といふ水と氷の霞かな〉は、永田耕一郎が言うように「風土感覚と季感を合一し、すべてを大自然のあるがままの姿にゆだねた、崇高な作品」(*2)、ととらえることもできる。病床に明け暮れた晩年の玄にとって、〈死期〉すなわち臨終とは単なる命の終わりというよりも空中に浮遊する水滴が日の光をうけて天空を赤く染める霞のようなものだったのである。水と氷が太陽の光という条件によって霞になるように、死もまた、生命の一過程をあらわす状態に過ぎない。臨終を実感したことがなくともそうした認識を読むことで読者は来たるべき自己の死を仮想体験しつつ、日常から解放された気分を味わう。そこに詩を読む快楽がある。それこそ、永田がいうように「大らかさと、やすらかさ」(*3)をこの〈死期といふ水と氷の霞かな〉から感受することもできるだろう。
一方で掲句には「大らかさと、やすらかさ」といった高みは感じられず、むしろ滑稽な作者の横顔が透けて見える印象の方が強い。それは〈すすりそこねて〉という措辞に作者の慌てた表情が想起されるためかもしれない。〈白魚をすす〉るという行為、すなわち食べるということは、他者の命を奪い、死に転換することで自身の生の連続性を獲得するという峻厳な営みでもある。だが、〈すすりそこねて〉とは、他の命を取り込むことに失敗したのであり、いわば生の連続性が中断されていることを意味している。つまり仮死状態である。だが玄は〈死ぬことなし〉と飛躍する。病者にとって食べられないことは死を早めることに直結する。無理にでも食わねば命を永らえることは難しい。そうした生に執着する病者であるならば、感傷におぼれて甘えることもできたはずだ。しかし玄は自身を凝視したうえで、〈死ぬことなし〉と突き放して見せた。〈死期といふ水と氷の霞かな〉の句を得ている玄にとって死とは、〈水と氷〉が霞になるように存在形態の一変化に過ぎないのである。よって〈死ぬことなし〉とは、そうした死生観に裏打ちされた断言と見ることができるだろう。この断言があることによって、ある種の軽みを読者に印象付けている。さらには〈白魚を〉〈すすり〉〈そこねて〉〈死ぬこと〉とすべてS音から始まる語を文節の頭にすえたことによって、リズムが生まれていることも軽みを印象付けるのに関係しているだろう。末尾の〈なし〉にもS音が使われており、〈白魚〉のS音に戻ってゆくような、ある種の循環構造を持っている。
春の到来を告げる〈白魚〉のぴちぴちと躍動する姿と〈すすりそこねて〉ぼんやりしている病者の対比、哀れさや感傷を寄せ付けない凝視の果てに得た生命観が〈死ぬことなし〉という無欲な断言を生み、それがある種の救いとなって読む者に「死」を実感させる句となっている。玄にとって死とは「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごと」き(*4)ものであった。まさに半透明の白魚のように。
*1 『無畔』昭和58年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
*2 『俳句』昭和55年8月号 「斎藤玄追悼」所載、永田耕一郎「水と氷」角川書店刊
*3 同上
*4 『雁道』昭和54年永田書房刊、『齋藤玄全句集』昭和61年永田書房刊 所載
●―5堀葦男の句/堺谷真人
陰画学級透し視れば革命前の鏖死(おうし)
句集『火づくり』所収「祖国愛憎」の句。
古色蒼然たるネガフィルムに写った級友たちの集合写真。透かし見れば毬栗頭の少年たちがまだあどけなさの残る顔でカメラのレンズを見据えている。しかし、それら友垣の多くは、あるいは戦陣に死し、あるいは不治の病に斃れ、若くして世を去ってしまったのだ。あたかも革命の成就を見届けることなく弾圧され散っていった志士たちのように。
「鏖死」とは見慣れない熟語であるが、「鏖殺」が「みなごろし」であるから、「鏖死」は「みなごろしにあう」というほどの意味であろう。「横死」と同音なのは、不慮の死、非業の死というニュアンスが込められているものと解したい。
掲句が作られたのは敗戦から遥かのち『火づくり』出版直前。一方、同じ句集の開巻第一章「風の章」(1941年から1948年までの作品を収録)には、「母校旧情(神戸一中同窓会誌に)八句」と前書きされた一連の作品がある。過ぎ去った学生生活をなつかしく回思する7句のあと、締めくくりにさりげなく置かれた句がにわかに読む者の肺腑をつかむ。そこには戦没者300万人余という大量死のone
of them
には決して還元することのできない一回限りの個人の生と、それにまつわる輝かしい記憶が鮮烈に刻印されているからである。
タックルを振り切り駆けり戦死せり 『火づくり』
ここで改めて年譜を繙くと、青年期の葦男は近しい肉親との死別を立て続けに経験している。1937年8月13日 父・駿次郎 急逝。1942年7月
4日 兄・進 病歿。1944年7月 7日
弟・治 戦死。この間、1941年10月には胸部疾患の疑いで葦男本人が日本赤十字兵庫療養院に入院。以後1年をここで過ごし、兄・進の新盆も病院で迎えることとなった。
新盆のすぐ飛ぶ紙の位牌かな 『火づくり』
病癒えて社会復帰を果たし、1944年6月にめでたく婚約した葦男を次に待っていたのが、海軍主計少佐としてサイパン島にあった弟・治の戦死の報である。
簾押して弟めける夜風かな 『火づくり』
葦男は理智の人であった。かけがえのない人たちの死に際しては、哭泣するよりもむしろ透き通るように静謐なかなしみをその大きな双眸に湛えて微笑していたように思う。行年91歳で最愛の母・あいが他界したときの句は、とりわけその感が深い。葦男は多くの愛する人たちの「それぞれの死後」を大切に生きたのである。
灰に帰しいまふくよかな母のこる 『堀葦男句集』
●―9上田五千石の句/しなだしん
上田五千石の死の一句といえば〈萬緑や死は一弾を以て足る〉を挙げるのが順当であろう。だがこの作品についての評はすでに潤沢であり、その評の大半を占めるであろう“「死」と生命力の象徴である「萬緑」の鮮明な対比”に対して、私は反論も、新しい論拠も今のところ持ち合わせていない。
五千石は「死」を忌み嫌い、「萬緑」の句の自註に“「死」はわが俳諧の忌字”と記し、句集『田園』のあとは「死」という言葉が表出する句は作らなかったというのが定説だ。それは父を早くに亡くしていること、戦時という死と隣り合せであった生い立ち、それに起因する人生観、宗教観に関係するところかもしれない。
ちなみに『田園』では〈萬緑や死は一弾を以て足る〉となっているが、自註での表記は〈萬緑や死は一弾を以つて足る〉と「つ」が足されている。これでこの句の読みが〈もってたる〉であって、〈もてたりる〉ではないことが明確になっている。また、この句の表記で「万緑」となっているのは誤りである。
◆
さて、次の4作品は、句集『天路』の巻末に並べられたものである。
九月一日 四句
夜仕事をはげむともなく灯を奢り五千石
芋虫の泣かずぶとりを手に賞づる
色鳥や刻美しと呆けゐて
安心のいちにちあらぬ茶立虫
詠んだ日は、平成9年9月1日。つまり五千石が、突然に死を迎える前夜の作品なのだ。
『上田五千石全句集』(*1)の上田五千石年譜(上田日差子編)の平成9年の項によれば、
2日夜、自宅で原稿執筆のあと倒れる。同日午後10時10分「かい離性動脈瘤」のため、杏林大学付属病院で逝去。満63歳10か月余。
とあり、また『天路』の上田日差子によるあとがきには、
父のあまりに早すぎた他界ではありましたが、俳句と師との出会いにより、いのちに生かされ、俳句を信仰することで幸せな生涯を全うしたのだと、今は思うばかりです。(中略)亡くなる前夜作の父の句を揚げて、父の「生きるをうたう」よろこびを偲びたいと思います。
とある。
この“「生きるをうたう」よろこび“とは間近で父五千石を見て育った、日差子氏ならではでの言葉である思う。実は「生きるをうたう」こそが、五千石の「眼前直覚」の秘められたテーマであると、私は思っており、それがこの〈あとがき〉から十分読み取れるのである。
◆
〈九月一日
四句〉は、五千石の作品として見ると取り立てて秀作といえるものではないだろう。ただこの作品が奇しくも遺作になることは、本人も夢にも思っていなかったことが、逆に死というものを如実に顕しているようで、ぞっとする。
人間は死をまぬがれない。そしてその「死」は時に唐突に訪れる。それは大震災や日常に起こる様々な事件事故に係わる可能性が、誰にもあるということ。常に「死」と隣り合わせにある命、その命を精一杯燃やすことが、いのちある者の使命といえる。
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
新涼や「死んで貰う」と高倉健
『増補楠本憲吉全句集』<拾遺作品>に載っているが制作年代不明。
俳句では、「新涼」は秋の季語。「涼し」は夏であるのに、「新涼」は秋の季語であるのは不可解である。暑いのは夏、涼しいのは秋に決まっている。俳人の因習はかくも怖ろしい。
問題は、そんな季語論ではない。この「新涼」は、一般人の「涼しいこと」だと仮定しても、それは何となく映画館の大画面にふさわしい季節の言葉である。特に野外であると、それも夜の青葉の騒ぐ広場であると一層効果的だ。
そこで健さんが極めつけのせりふ、「死んで貰います」とつぶやく。こんな映画をリアルタイムで見ていたころ、楠本憲吉がまだ存命で俳句を詠んでいたというのは不思議な感じがする。もっともっと昔の人のような気がしていたからだ。
今回の主題「死」で詠まれた俳句16句の中で最も軽やかな俳句が楠本憲吉のこの句ではないかと思う。憲吉にとってはこの程度の死がちょうどよい。重苦しい死はふさわしくないからだ。この時殺されるのが天津敏だとすれば、シリーズの次の回ではまた不死鳥のように生き返って健さんに殺される宿命にあるのだ。死とはいっても1回限りの死ではないから、実に軽やかである。どうやって美しく死ぬかに監督も俳優も工夫を凝らす。そうした「死」なのだ。
「死んで貰ふ」ではなくて「死んで貰う」もいい。決して健さんは、「死んで貰ふ」とは言わないからだ。「明治一代女」のようなせりふは健さんにはふさわしくない。俳句とはこのように細かく読むものなのだ。
* *
先日、楠本憲吉が創刊した雑誌「野の会」の創刊500号記念大会に招かれて出席した。「詩客」で久しぶりに俳句を発表された安井浩司氏も、遠く秋田から来られていて久しぶりの話をさせていただいた。その後挨拶のために壇上に上がり見わたすと、一面華やかな感じがした。参加者も多かったが、参会者に女性が多く、その女性が皆それぞれに高価そうな和服を着ていたからだ。俳句の会でこんな和服の花盛りを見たことはない。いかにも、灘萬専務(長男だが社長でなく専務)の楠本憲吉らしい会と思われた。
●―12三橋敏雄の句 / 北川美美
手をあげて此世の友は來りけり
「あの世」と「この世」。書かれていないのに書かれているように読める作品。逆転の回路である。読者の中にそれを呼び起こさせようとしているのではないか。概念として投げ込まれた言葉は、個々の読者の中で観念となる。詩歌の本領であろう。書かれていない「あの世」。「あの世」の友は来ない、「この世」の友だからこそ生きて手をあげてくる。両方事実である。
「あの世」の概念は、古代エジプト文明からあり、死後に世界があるというのは、生きるものに「魂」があると信ずる所以であり尊厳である。英物理学者・ホーキング博士が、「天国や死後の世界は実在しない」と述べた記事(*1)は、死んだ本人が「あの世」を感じるかという視点であり観点が異なるが、元も子もなくなる。「あの世」は、残されたものが想う古代からの死生観だ。
作品、風貌からの三橋敏雄は、肉體と精神の「健全さ」が「死」を遠く感じさせ、それ故、「この世」のリアルがある。頑強な體が三鬼、誓子、重信(*2)とは別の大物にした理由の一つと思える。三橋の「死」には、陸・海・空にひろがる大らかなものがある。
死の國の遠き櫻の爆發よ 『まぼろしの鱶』
たましひのまはりの山の蒼さかな 『眞神』
死水や春はとほくへ水流る
散る花や咲く花よりもひろやかに 『長濤』
死に消えてひろごる君や夏の空 『疊の上』
肉體に依つて我在り天の川 『しだらでん』
遠い「あの世」に友がいる。「この世」に残された僕からみえる風景がある。
「この世」により「あの世」を潜ませ、「友」をよりリアルにする。省略、読みの飛躍により、いかに句に現実感を与えるか、それは俳句形式そのものに立ち向かう行為であると思える。三橋作品が、リアリティを持つという実感は、氏が「夢の句」を嫌い、認識の薄い「聖五月」という語を俳句に使用することを非常に嫌ったという証言とも一致する。(*3)
掲句は、『巡禮』の6句目に収められている。(*4)
第二回「腿高きグレコは女白き雷」第三回「山山の傷は縱傷夏來たる」に続き、またも係助詞「は」を使用している句である。
*1)Stephen Hawking ‘There is no heaven; it's a fairy story’ Sunday 15 May
2011 Guardian, U.K.
*2)西東三鬼、山口誓子、高柳重信。それぞれ療養歴あり。
*3)「三橋さんは夢の句が嫌いだった。」故・山本紫黄談。「聖五月」を嫌ったことは、同じく山本紫黄、桑原三郎・池田澄子からの証言。
*4)『巡禮』製作1978(昭和53)年(1979 南柯書局)。一頁一句A6判小句集。偶数頁の右上、奇数頁の左上に、仏頭のような挿絵を置く。永田耕衣の絵である。自ら間奏句集と名付け50句を収録。限定250部。
●―13 成田千空の句/深谷義紀
人が死にまた人が死に雪が降る
句集「人日」所収。
千空には、個別の人間の「死」を対象とした作品が多数ある。例えば、若い時分に指導を受けた吹田孤蓬の死を詠んだ、
こほうさんと言ひて泣きけり梅雨の家 「白光」
や、夫人の母親が101歳の天寿を全うした際の、
雪よりも白き骨これおばあさん 「十方吟」
などである。さらには自身の辞世の句とも言える、
寒夕焼けに焼き亡ぼさん癌の身は
も記憶に残る。
だが、こうした個別の人間の死ではなく、雪国とりわけ津軽の厳しい自然環境のなかで懸命に生き、そして死んでいった有名無名の人々の死を対象としている点で、掲出句は異なる意味を持つ。
この作者らしく、句意は平明である。だが一句に籠められた想いには深いものがある。
上五から中七にかけての「人が死に」というフレーズのリフレイン、そしてそれをつなぐ「また」という措辞に、この土地で生き抜くことの厳しさを受け止める覚悟が看て取れよう。しかし、そうした各々の死、あるいは残された人々の悲しみとは無関係に、今日も津軽に雪は降り積もる。読後、何ともいえない切なさがこみ上げたことを覚えている。しかしその感情を喚起したのは、掲出句が持つ、謂わば“乾いた抒情”である。こうしたごつごつとした手触りの、しかも抜きん出て骨太の句こそが、却って最も抒情的だといえるのではないだろうか。例えば、同じ内容を現代詩で表現しようとすれば、たぶん可能かもしれないが、恐ろしく長いものになるだろう。掲出句はそれをたった17文字で描き切った。俳句形式の底力を見る思いがする。
そしてこの句の背景には、何と言っても津軽の風土が控えており、それが一句を支えている。何より人の「死」が生の営みの終焉である以上、大なり小なり「死」はその風土を反映したものになる筈である。だから「死」をテーマとした作品は、風土と直結し、風土そのものを詠んだものとなる場合があっても不思議ではない。掲出句はその好例である。結局、津軽の風土に生涯拘り抜いた千空にとっては、「死」も風土の一部だったといえるのではないだろうか。
●―14 中村苑子の句 1./吉村毬子
中村苑子は、今年生誕百年である[本稿は2013年2月22日金曜日掲載。編者注]。そして、一月五日には、十三回忌を迎えた。
あの世と此の世を行き来する、妖艶な女流俳人として名を馳せた、苑子の五十年余りの俳句人生と作品を、今一度、検証してみたいと思う。古典、軽み、癒しの俳句とは対極にある凄絶な俳句が彼女の代名詞となってはいるが、初期時代は、「春燈」で有季定型の基礎を学び、晩年は、静かな達観、無常を詠いあげながら、{生前葬}という形をとり、俳句人生に幕を閉じた。その数奇な女流俳人の世界を、一人でも多くの方に堪能して頂きたいと思う。十年ではあるが、苑子に教えを受けた貴い時間を反芻しながら、書き進めたいと思っている。
苑子略歴
大正二年 (一九一三)静岡県伊豆に生まれる。
昭和十九年 (一九四四)戦死した夫の遺品に句帳を見つける。
昭和二十二年(一九四七)幾つかの俳誌へ投句。「鶴」石橋秀野選に入選など。
昭和二十四年(一九四九)久保田万太郎の「春燈」に入会。
昭和三十三年(一九五八)高柳重信の要請に応じ、「春燈」を辞して「俳句評論」を創刊。自宅が発行所。
昭和四十七年(一九七二)尊敬する三橋鷹女没す。
昭和五十年 (一九七五)第一句集『水妖詞館』刊行。現代俳句協会賞受賞。
昭和五十一年(一九七六)第二句集『花狩』刊行。
昭和五十四年(一九七九)第三句集『中村苑子句集』刊行。集中の「四季物語」で現代俳句女流賞受賞。
昭和五十八年(一九八三)高柳重信急逝。「俳句評論」終刊を決意。
昭和六十一年(一九八六)富士霊園に苑子の墓「わが墓を止り木とせよ春の鳥」の隣に高柳重信の墓を建立。墓碑銘は「わが尽忠は俳句かな」
平成元年 (一九八九)福山市郊外に高柳重信の句碑建立。
平成五年 (一九九三)第四句集『吟遊』刊行。
平成六年 (一九九四)』吟遊』で詩歌文学館賞、蛇笏賞受賞。
平成八年 (一九九六)第五句集『花隠れ』刊行。
平成九年 (一九九七)「花隠れの会」を開催、俳壇からの引退を表明。
平成十三年 (二〇〇一)肝臓障害のため死去。
1. 喪をかかげいま生み落とす竜のおとし子
第一句集『水妖詞館』の第一句目である。竜とは、神話や民話に登場する実在しない生物である。日本では、十二支にも選ばれ、{竜の落とし子}という名の魚類までいる。しかし、掲句には水族館で見るあの愛らしさは感じられない。この句の「竜のおとし子」は、前者の、実在しないが、神話の対象として昔から日本人に馴染みの深い方であろう。
生み落とされた「竜のおとし子」は、「喪」を負っていると云う。生を与えられた瞬間から死へ向かうのは必然であるが、喪をかかげながら、竜は生み落とされたのだ・・・。即ち、此の世とあの世を行き来する女流俳人と、決定づけられた『水妖詞館』の句群を充分に意識して第一句目に置かれたのであろう。苑子自身の身体感覚に伴う詩への方向性、詩は生死であること、そして、生は死への始まりであること。まさしく、それを物語る一句であり、句集を開いた瞬間から苑子俳句に引き込まれる、妖しき予兆の一句でもあるのだ。 そして、「竜のおとし子」は、『水妖詞館』そのものであり、喪をかかげて、私は今、この句集を生み落とすのだと告げているのである。
吉村毬子略歴(1962年生まれ。神奈川県出身。1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)。1999年、「未定」同人。2004年、「LOTUS」創刊同人。現代俳句協会会員。2017年没。享年55。)