「現代風狂帖」は俳句新空間の前身・「俳句空間―戦後俳句を読む」から「俳句新空間」の初期まで掲載された作品コーナーで、おもに俳句(ときどき短歌、散文)を幅広い作者から寄せていただきました。
100号にあたり、編集子の精選した作品を鑑賞してみたいと思います。
(各作品タイトルより当該号の作品ページに移動できます)
第14号
花衣悋気の人と見受けけり 中西夕紀「初蝶」
「悋気の人」は見知らぬ人なのだろう。妬いているっぽいひとを「見受ける」という表現の距離感と、花衣の取り合わせが賑やかな気配を伝える。
越えられぬ壁の手前の石鹸玉 三木基史「東京メトロ」
シャボン玉が壁の手前で往生しているように見える。人生っぽく難渋に読むよりは、シャボン玉の自由気ままさを楽しみたい。
第15号
疑問符を握り芒をなぎ倒す 木村修「とんがり帽子」
「疑問符のような鎌」ではなく、コミック風にものさしぐらいの大きさの疑問符を実際に握っているところを想像してしまった。するどい疑問符だったら、それはとてもよく切れそうだ。
第17号
海髪【いぎす】として靡く千年若狭かな 曾根毅「傘の骨」
イギスは紅藻の一種。若狭湾の海中でそよそよそよぐ千年も悪くない。しかし現実の、現在の若狭湾は原発銀座とも呼べそうな、日本でも有数の原子力発電所の集中する地帯である。「傘の骨」は原発をめぐる骨太の一連である。
第18号
念力の通じてうごく花筏 岡田由季「爆発」
花の時期はあらゆる奇跡がゆるされる季節でもある。思いがけない美しさに(おちゃめに)出会った一句。
蝶の来る軌跡こんがらがつてをり 小川春休「ソーセージ六百本」
花畑などではない特定の場所で小さな蝶が群れているのに出会うことがある。とくに移動するでもなく、上を下へのからまり具合で飛び回っている、一匹ずつに糸でもつけようものならあっというまにこんがらがってしまうだろう。「こんがらがつて」が活きの良さを伝えている。
第19号
腕時計外せば飛べる春の空 中村猛虎「春の白日夢」
飛べない、と思うとき、ほんとうに重いのは気持ちなのだろう、とも思う。腕時計を外せば、というところまでは来た。飛べるまであともう少しなのである。
第20号
さらりさらり月に歩める守宮かな 依光陽子「無辺際」
人間の目からすると、守宮のあゆみは己の足下を確かめるがごとく、慎重に運ばれているようにも見える。月を目指しているのだとしたら、それは慎重にならざるを得ない。神聖さすら感じさせる「月に歩める」という把握。
第21号
輪投げの輪かぶりて春を惜しむなり 山田耕司「その春の日の」
的に当てるでもなく、目標に投げつけるでもなく、手遊びする、その輪をかぶってしまう。春の倦怠感がある。
葉桜にいつも面白さうな犬 依光正樹「寛大」
犬は楽しそうだな、と感じることがある。楽しいというより面白いというほうが、より上機嫌な気がする。
第27号
映るたび壊し泉を私す 近恵「リインカーネーション」
水面に映った自分の像を、なんらかの力を持って壊す。像ですら誰にも分け与えるつもりはない。ほんとうは、そんな形で水そのものを寡占しているのだという。ミニマムでいて永久機関のごとく繰り返される、心地よいナルシズム。
第29号
竹皮を脱ぐ大河内伝次郎 太田うさぎ「素手」
大河内伝次郎といえば丹下左膳、丹下左膳といえば大河内伝次郎。隻眼の剣士が竹皮を脱いでつるりと現れるイメージは必殺のものがある。とまれ、素顔の大河内はつるりとした面相の美男であった。
第32号
鞭のごと布団は干され嘶けり 後藤貴子「桜鯛」
干された布団を叩く、という描写を目にしたことはあるが、それが叩かれて「嘶いて」いる、とは思いもよらなかった。最後の直線で騎手がくれる鞭ほどに激しく布団を打つ情景。
第42号
葱の花頭大きは俳人なる 花尻万博「南紀」
「葱の花」でいちど切れ、(一般的に)頭が大きいひとは俳人だ、と読むより、頭にあたる部分の大きな葱は俳人である、と読んだほうがより面白いことに気がついた。傾いだところなど、実に俳人くさい。
第45号
ふゆいちご空間(ところ)と時間(とき)のふたなりに 小津夜景「遠近法と灰猫」
時間と空間の哲学を思うとき、きゅうに目の前が明るく、遠近感が狂いだし、手元の物体が「何」なのかすらわからなくなってしまうことがある。へたのつながった苺、そうだ、それぞれが「空間」と「時間」だったんだ、そんなことをなぜ今まで忘れていたのだろう。
第48号
さくらえび布教のごとくひろげ干す しなだしん「薄明の海」
さくらえびの天日干しは河川敷などの広大な土地を使って行われるのだそうだ。「布教のごとく」が言い過ぎとは感じられない程度にたくさん干す。その光景はさながら花畑のようである。もくもくと休みなく行われる熱心さに、そのような感慨を覚えるのも道理である。
鶏肉に挟まれて葱嬉しいか 望月士郎「海市元町三-一」
時々、食べ物に対して妙な感興をおぼえることがある。たとえばお好み焼きの上で踊るかつおぶしや、焼けて変形するするめいかなど。この葱の嬉しさを食らう背徳感。
第50号
うつし世の全米販の「お米券」 山田露結「アラッバプー族の場合」
お米券は米を買うためにあった。商品券であるはずが、物質そのものの謂であるように感じられるのは、なぜか。米という「豊穣の象徴」が紙切れ一枚に集約されていたから、といったら大袈裟か。
第55号
水を見て日を見て春の懈怠かな 西原天気「流体力学」
水にも日の光にも、太陽そのものの見え方にも、春は現れている。このものうさが動きなく表されている、ものうさがよい。
第57号
黙しあひ揉みあひ春のもすらかな 小津夜景「固有名のある風景」
特撮映画のモスラであるととってもよいし、子供の折「モスラ」と名指した、芋虫の類いの景ととってもよいだろう。口数のない生き物の蠢くさまが愛らしい。
第66号
駄馬の蹴破るわが胸板も万愚節 竹岡一郎「春疲れた」
この前後、竹岡さんはご厳父の死にまつわる作品を発表されている。その脱力、苦悶が集約された一連。駄馬に蹴破られた胸はさぞかし痛かろう。傷も深傷であるに違いない。
第71号
針運ぶ雹降る音と思いつつ ふけとしこ「十句」
不思議な句だ。「針運ぶ」を手芸の運針と思って読むと、「雹降る音」は分厚い布を縫うせいか何かで、不規則な縫い目を作る音かとも思うが、レコード針の音として読むと、「雹降る音」はノイズのことなのかとも思えてくる。
第75号
ゆきなさい海星に生まれたのだから 小津夜景「雨の思ひ出」
ヒトデの生態でもっとも驚くのは胃を反転させて口から体外に出し、餌を直接包み込んで消化吸収できる、というところ。動かぬ星のように見えながらアグレッシブな特徴をいろいろ持った生き物だ。この句の呼びかけも因果を含めたようで、魂に強く働きかけてくる。
(文責:佐藤りえ)
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