2025年6月27日金曜日

第249号

    次回更新 7/11

■新現代評論研究

新現代評論研究(第7回)各論:眞矢ひろみ、後藤よしみ、筑紫磐井、佐藤りえ、横井理恵 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第3回:『天狼』創刊に際し/米田恵子 》読む

現代評論研究:第10回総論・攝津幸彦1 執筆者:関悦史・筑紫磐井・北村虻曳・堺谷真人・北川美美 》読む

現代評論研究:第10回各論―テーマ:「夏」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/27)曾根毅・浅沼 璞・なつはづき

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂
第五(6/21)岬光世・依光正樹・依光陽子・岸本尚毅・木村オサム
第六(6/27)中村猛虎・松下カロ・望月士郎・堀本吟・花尻万博


令和六年秋興帖 補遺(6/21)中村猛虎

■ 第49回皐月句会(2024/5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第20号 発行※NEW!

■連載

英国Haiku便り[in Japan](54) 小野裕三 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(59) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり31 安田中彦句集『人類』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

6月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

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寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ(3)『天狼』創刊に際し/米田恵子

  前回の「『天狼』創刊号の『こほろぎ』」で、主宰山口誓子の「実作者の言葉」は「昭和42年11月まで続く」と書いてしまったが、これは誤りであった。創刊号(昭和23年1月号)から昭和25年12月まで続き、その後一時中断し昭和31年2月号から復活する。これは、ちょうど、編集長が山口誓子から平畑静塔に移った時であり、静塔の配慮により復活したのである。

 とかく雑誌を出版するには、編集長を誰にするかは重要なことであろう。『天狼』の場合、編集長に西東三鬼がなることは、誓子の句帖の昭和22年6月15日に書かれているように、創刊の半年前には決まっていたようである。

  一、山口誓子氏顧問とす(作品並びに文章を書く)

  二、同人を限定し、その力作を選抜発表

  三、西東三鬼氏を編輯者とす 

 創刊に関して西東三鬼が動いたことは確かであり、出版社である養徳社との交渉、用紙の手配に関しては鈴木六林男との折衝など、関西と東京を往復しての活躍は、四日市市で静養している誓子にはできないことであり、三鬼の働きなしでは『天狼』は生まれなかったであろう。

 世間では待ち望まれていた誓子の『天狼』創刊であるが、実際には遅刊や、ついには合併号となる事態に陥っていた。一応、前月の「二十日印刷」その月の「一日発行」となっているが、実際は遅れたり、昭和23年8月と9月は合併号となってしまったりした。この危うい状態は、その後も続き昭和24年7月8月も合併号となってしまった。結局、これではいけないということで、昭和24年11月の編集後記には、三鬼と誓子の共同編輯となり、誓子が運転台に立ち、三鬼が車掌になって『天狼』を運営していくと述べている。しかし、ついに、昭和25年5月、『天狼』の発行所が養徳社から天狼俳句会に変わることを機に、編集も三鬼から誓子へと替わった。また、一般読者の投句も3句から5句へとなった。

 この編集長の交替について、誰も述べていないので、以下は私の推測となる。西東三鬼は、戦後すぐに新俳句人連盟(昭和21年)を結成したことなどから、人を集めたり何かを計画したりというようなことには長けていたと思われる。

 ここに誓子と鼓ヶ浦(当時住んでいた鈴鹿市)で昭和24年に写した写真がある。後ろに手をまわし直立不動に近い和服姿の誓子と、口髭に銀縁の眼鏡、三つ揃いのスーツを着こなし、右手に長めのフィルターパイプをつけた煙草を持ち、左手をズボンのポケットに入れ斜に立つ姿はダンディとしか言いようがない。そんな三鬼の性格は社交的で、おそらく誓子とは正反対と思われる。誓子は真面目で几帳面な性格である。雑誌の編集には、やはり真面目で几帳面な性格が向くのであろう。結局、他の同人たちも本業があり、比較的時間のあるのは療養中の誓子であるため、編集を担当せざるを得なくなったのだと推測する。

 しかし、誓子といえども、療養中であり、病状は順調に快方に向かっているとも断言できない状態なのである。お気づきの方もあると思うが、句帖に書かれている「一、山口誓子氏顧問とす」というメモに引っかかるのではないだろうか。昭和22年6月15日の句帖の同じ頁には、おそらく『天狼』創刊に際し、解決しておかなければならない6つの重要事項と思われるメモがある。それは順に書くと「健康のこと」「対馬馬醉木のこと」「編輯人のこと」「内部融和のこと」「時期のこと」「資金、用紙、印刷のこと」である。1番初めにあるのが「健康のこと」なのである。しかしこれ以外の項目は雑誌創刊に必須のことであろう。

 誓子は、『馬醉木』の同人であり、主宰の水原秋桜子に『天狼』創刊を理解してもらわねばならないであろうし、編集も大事な仕事である。創刊同人は、有季定型の誓子に対し、無季俳句も作っていた『京大俳句』の会員も多く、内部の統一もはからねばならないであろう。また、出版の時期と資金、用紙、印刷所のことなど(私などはこれが先決問題だと思うが)は出版に関しての当然の心配事であるが、誓子にとっては何よりも第一に気にかかることは「健康のこと」だったのである。西東三鬼や平畑静塔には「主宰に」と言われていただろうが、内心誓子は主宰として結社を背負っていくことに対し健康面で自信がなかったようである。だから、自嘲気味に(?)、少しふざけて(?)、ユーモアをこめて(?)、「山口誓子氏顧問とす」と書いたのではないかと私は推測する。

 いずれにしろ、『天狼』は山口誓子主宰で昭和23年1月創刊された。

英国Haiku便り[in Japan](54)  小野裕三

芋づる式に世界へ広がるhaiku生活

 二〇二〇年に英国から帰国して以来、実は一度も日本を出ていない。だが、一歩も日本を出ないこの四年ほどの間に、僕のhaiku生活は驚くほど国際化した。英語とhaikuとインターネット。この三つさえあればどこまでも生活は国際化しうると知った。

 ひとつの大きなきっかけは比較的最近の出来事で、英語haikuの選者を始めたことだ。縁があって、昨年末から日本英語交流連盟のウェブサイトにある毎月の英語haiku投句欄の選者を務めることになった。本当に文字通り世界中の人から投句があることに驚くのだが、もたらされた変化はそれだけではない。おそらくこれのせいだと思うのだが、Facebookを通じて世界中の人から友達申請やメッセージが頻繁に届くようになった。

 二月のある週末には、四人の見知らぬ外国人からメッセージが来た。一人めはイタリア人で、これはあいさつのみ。二人めはニュージーランド人で、子ども等も対象とした俳句コンテストを主催しているらしい。サイトを紹介されたので、それはそれで微笑ましく思いながら見て好意的な返信をした。三人めはウズベキスタン人で、芭蕉や蕪村や一茶や子規の俳句を自分がウズベク語に訳した、といったことを説明してくれる。ウズベキスタンと言われてもどんな土地なのかあまり想像も湧かないのだが、そんな国にさえhaikuが翻訳されて伝わっているのは驚きでもあり嬉しくもある。

 そしてその週にメッセージをくれた四人めの人は、英国のウェールズに住む女性。「私、テレビのドキュメンタリー番組を作る会社で働いているんだけど、今度、日本の文化をテーマにした番組を作る予定なの。あなたはhaikuの世界でいろいろ実績があるみたいだから、ウェールズの詩と俳句の違い、みたいなテーマをあなたに話してもらってもいいかしら?」みたいなことが書いてある。

 面白そうなので、さっそくFacebookのビデオ機能を使って数日後に会話してみた。haikuは自然にも文化にも繋がっていて面白いわよね、といったことを画面の向こうから言われ、しばしhaikuの話をした後にこう言われる。「来月、私たち取材で日本に行くのよ。東京と姫路と福岡。あなた、東京までは近いの? 東京で会って話せる?」もちろんイエスと答える。最終的に僕がそのドキュメンタリー番組に登場するのかは不明だが、ウェールズの人と直接会ってhaikuの話ができるなんて、興味津々の機会だ。

 かくして僕の先入観など遥かに超えるペースと変化で、芋づる式に僕のhaiku生活は海外へと広がってきた。果たしてこれからさらにどんなめくるめく展開を見せてくれるのか、もはや予測すらもつかないのが、ワクワクもドキドキもする。

  ※写真は2019年にWalesにて撮影

(『海原』2024年5月号より転載)

【新連載】新現代評論研究:各論(第7回):眞矢ひろみ、後藤よしみ、筑紫磐井、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 6/眞矢ひろみ

 陰干しにせよ魂もぜんまいも  「虚」昭60年

  「和栲」以降には、揚句のように「も」を使った反復のほか、多様なレベルの反復(リフレイン)、畳語、オノマトペを用いる句も目に付くようになる。「荒栲」以前にあった破調は逆に減少し、音とリズムが織り成す不思議な世界に分け入る。

 雁帰る幕を揚げてもおろしても      「和栲」昭58年

 てのひらのひらひら濡れて雁わたる    

 すずなすずしろ子等よとくとく起き出でよ 「虚」

 反復は、古今東西の詩に用いられる基本的な技巧であり、閒石の専門である俳諧や西洋詩、更に近現代俳句においても重用される。句の音感やリズム等を司り、意味内容とは違う次元から、また相互に作用しながら句を演出する。

 律とは音節の量と強弱をめぐる規則性である。俳句や短歌の場合、もちろん音数律が基本だが、反復の連続性をもって形成するのが韻だとしても、あまりに短すぎて次の三句のような反復を韻と認めない見方もある(*1)。一方、俳句のもつ「口誦性」という特徴を念頭に、同様の効果を認めて「頭韻」と名付けているものもある。この場合、「陰干し」の句のように、閒石句に見かける「も」や「か」を体言等の語尾に付ける並列・反復形は、「脚韻」と呼べるだろう。分類・名称に拘っても、反復の機能に関する理解や認知が深まるとは思えないが、多くの俳句に見られる技巧であり、句全体を覆うリズムの生成や強調等に効果がある証左だろう。

 

 雨の日は雨こそよけれ柏餅  「虚」

   「雨」・母音(a)の反復

 春浅き渡り廊下をわたりけり

   「は」「わ」・母音(a)の反復

 梟の目の節穴の冬がすみ  「橋閒石俳句選集」昭62

    「ふ」・母音(u)の反復


 次の句は、音の技巧をさらに駆使する。

 お手あげの手をおろしたるところてん 「虚」

 揚句においては、「お」と「て」の反復や「頭韻」など、音の技巧を凝らすほか、「お手上げ」の意味をずらしたり、「あげるーおろす」の言葉回しなど、言葉の持つ音・リズムと意味の両面から遊びの粋を極めるような句作りである。ローマ字にすると、音の特徴も浮かび上がる。


 oteage no te wo orositaru tokoroten  

母音を抜き出すと  o-e-a-e o e o o-o-i-a-u o-o-o-e-(n)


 お(o)音の反復―母音韻を中心に組み立て、あ(a)音は句の前半後半に各々一つ、え(e)音を音節の後部に置く。一般的に、お(o)音の音感は「おごそか、荘重、おおらかで線が太い」というもので(*2)、音象徴性として「大きい」「奥深い」イメージを喚起することが指摘されている(*3)。

 閒石最晩年の句には「悠然」「飄々」「大人の風格」といった評がよくなされるが、その源泉には音感、韻律も一役買っており、これもまた閒石の中で、俳諧と英文学の素養が混然となった基盤に立つ成果と言えるかもしれない。


 以下は余談である。

 視覚では伝わらないものの、音読すると反復は魔術・呪術的な気配を呈することは往々にしてある。また日本語の場合、促音等の例外を除き、音節にはすべて母音を伴うため、音の面から母音の果たす機能は大きい。昨今の句においても、音の特徴に気付くことが多々ある。例えば次の句。

   あたたかなたぶららさなり雨のふる 小津夜景 「フラワーズ・カンフー」平28年

   atatakana taburarasa nari ame no furu

        母音を抜き出すと a-a-a-a-a a-u-a-a-a a-i a-e o u-u

 明るく、広がるイメージを喚起するあ(a)音を、母音韻また「頭韻」にも用い、う(u)音を最後に置き、ストンと落ち着かせて余韻を持たせる構造である。この構造は現代俳句にも例が多い。中七には「たぶららさ」という聞き慣れない、読みにくい体言をひらがなで記すなど、言葉の視覚や意味内容との絡みにも留意する。口中で言葉を転がせて、その音感を確かめたに違いない。閒石の「お手上げ」の句と構造はよく似ている。


*1 韻と認められるのは旋頭歌、長歌が限度となろう。

*2「俳句技法入門」 同編集委員会 飯塚書店 平4年

  秋元不死男、江湖山恒男の見解(出典不明)

*3 「音象徴の言語普遍性」篠原和子・川原繁人 『オノマトペ研究の射程―近づく音と意味―』ひつじ書房 平25年   

 音と意味との関係についてはS・ウルマン(「言語と意味」)、母音の音象徴性についてはR・ヤコブソン(「言語学と詩学」)等の研究を古典として、現在においても多くの実証分析がなされる。また、日本では、木通隆行が「音相学」を提唱し、イメージと音の構造の関係を「音相基」という階層で捉えようとしている。(「日本語の音相」 木通隆行 小学館スクエア 平16年)


★―3「高柳重信の風景」3/後藤よしみ

三 原風景の喪失と風景の仮構

1 原風景

 重信はその誕生の年に関東大震災に遭遇している。関東大震災の影響は重信にも及んでおり、そして震災については、「いきなり襲って来た関東大震災の混乱の中を、祖父の腕に抱かれて、まず大塚仲町から氷川下の方角に坂を下って行った」と人込みのなかの避難行がはじまる。さらに「それ以来、人混みに出ると大声をあげて泣くという性癖が数年続いたのが、その時の僕の顕著な反応である」と記す(「大塚仲町」『高柳重信全集Ⅱ』)。重信自身、当時のことを追想した文章を残している。 

〈いわゆる人間の言葉を、まだ一つも知らなかったころ、暗闇の中で理由のない恐怖におびえながら、ただ必死に泣き声をあげていた嬰児時代の、しんそこ切ない事実を忘れてしまってから、どれくらいの歳月が経ったというのであろうか〉。(「私にとって俳句とは」『全集Ⅲ』) 

 大震災後の東京を重信と同い年の池波正太郎は「情緒を失った町は〔廃墟〕にすぎない」とし、「東京の変貌は下町の人々の暮らしをすべて奪い取ってしまった」と述べている(『私が生まれた日』)。重信にとっても最初の重大な体験が一つの原風景の喪失となっている。 

 重信の記憶にある次の風景の思いでは以下のようなものである。自宅から南に坂を下りていくと護国寺があったが、その境内の一角には池があり、いつ頃からか食用蛙が住み着き、牛のような恐ろし気な声を上げていたという。子供心にも異様な魔物が闇のなかに潜んでいると記されている。

 そして、重信は幼年の頃より川に親しんでいる。 

〈草いきれの中の荒川に白い帆を張った舟が絶え間なく往来するのを眺めるのも、(略)都会育ちの僕には珍しい経験であった。更に、僕には大叔母にあたる霽月夫人が作ってくれる醤油味のカレーライスも珍しかったし、ときには「常見の栄ちゃん」が器用に櫓を操る舟遊びも、実に楽しかった〉。(「霽月句集あとがき」『高柳重信散文集成第七冊』) 

 また、荒川以外にも小石川の川でもよく遊んでいる。

  智慧もなく行く水もなき川の景 

 ざぶざぶと子供が歩く川の中     『山川蟬夫句集』 

   これらの句に永田耕衣は、次のような評を寄せている。 

〈高柳重信の幼年期ないし少年期に、間隙なく嬉々として食いこんだ小川風景かと思う。高柳重信なる少年が、純真無垢に佇っている愛すべき絶景的小品である。(略)ここには少年が生誕し成長しつつあった無心の原郷、その活潑々地が、むしろ酷烈にさえ親しめる境位がある〉。(「童心即高柳重信」『全集Ⅰ』) 

 耕衣が指摘するように川は重信の原風景の一部となっており、耕衣が現代古典風な完成感という多行形式にも水・川の句と共に河口・海の句がみられる。そして、俳句作品にも影響があらわれていると言えよう。 

 海へ       枯木らよ    暗かりし 

 夜へ    *  これは   * 母を 

 河がほろびる   河口の     泳ぎて 

 河口のピストル  楔形喪章    盲ひのまま 

 『蕗子』      『罪囚植民地』      『遠耳父母』 

 安井浩司は、これらの句から重信を「詩人としてその憧憬的位置が河口的である」句と指摘し、「そういう〈水〉と〈遊泳〉への憧憬といった潜在感覚が一貫している」と語っている(『海辺のアポリア』)。このようにして、川という存在が重信の内部に深く食い込んで流れていることが感じられる。 

 この川の存在は、誕生時の関東大震災の影響とともに重信の奥深いところにとどまりつづけ、後年の作品群へとつながっていったと言えるかもしれない。その一つの証としては、『山海集』の散文に「不思議な川」という重信の脳裏にしばしばあらわれた川の存在を指摘することができるだろう。 『山海集』は、一九七六年に発刊。八十四句とともに二十六ページにもおよぶ散文「不思議な川」を収める。 

〈しばしば僕の脳裏に出現した不思議な川は、あるいは小石川の名残りの流れであったかもしれないし、また、あるいは、如何なる具体的な川でもなく、まさに小石川という地名そのものの幻の流域であったかもしれないのである〉。 

 ここには、幼年・少年時代の川の体験が流れ込んできており、川の原風景と言うべきものであろう。 次の『日本海軍』においては、国名、山・川名など地霊を喚起する言葉があらわれるが、それを巡るものとしての川の流れがここに見られている。この川は夢のなかにもあらわれてきており、言葉に対する水平のアプローチにとどまらず、重信はこれを意識の深層にまで掘り下げてゆくという垂直のアプローチをとっているようだ。


2 喪失体験

 幼年期・少年期における死の体験は、自然への感受性や風景の感覚の形成に深く関わることがあるといわれる。喪失体験のある子どもは、感情的・行動的・身体的・スピリチュアル的な反応を示し、それが成長過程での自然と風景の関わり方に影響を与えることがある。例えば、幼少期に身近な大切な人やを失った経験がある子どもは、自然の中でその存在を感じたり、風景に特別な意味を見出したりする。

 重信の場合、死との最初の出会いは三歳の時であった。 

〈それは、軒を接して立つ隣家の二階の硝子窓を通して眺められた薄暗い部屋の光景で、そこには、中央に蒲団が敷かれていて、ひっそりと一人の女が臥ている。なお、よく眺めるとその女の顔には白い小さな布が掛けられ、また、蒲団の裾のあたりに脇差し風の刀が置かれているのが、何とも異様であった〉。(「不思議な川」『全集Ⅰ』) 

 亡くなったのは、重信の祖母の姉の一人娘で、女学校卒業を待たずに望まぬ結婚を強いられ、猫いらずを呑んだのであった。この話を重信は母から度々聞かされたという。 

 また小学校時代の遊び仲間も後年、幾人も亡くなったが、重信は「密書ごっこ」(『全集Ⅱ』)などのエッセイのなかで友人の死について書き残している。 

 A君。「密書ごっこ」の密書を懐中にして逃げる役で、A君の家の禅寺で追いかけまわっていた。鞍馬天狗の時代である。寺を継ぐべく禅坊主の名前に変わった翌年、中学五年の時に数日病んで急逝する。B君。重信と一緒に小学校で剣道をやり、勉強も良くでき、重信と六年間、首席を争っていた。大学ではフィールドホッケーの選手となったが、わずか一夜で急死した。C君。「水雷艇」は「間諜」に勝ち、「駆逐艦」に負けるという三すくみの遊びがあった。彼は「駆逐艦」の代りに「大砲」を入れての遊びをはやらせた。C君は、学徒出陣で戦艦大和に乗り、特別攻撃により遂に帰らなかった。D君。「ダルマサンガコロンダ」では、D君の見解で「ヒトツ・フタツ・ミッツ」と正確に数えるようにして遊び、横丁ではひそかな誇りとしていた。D君は、医学生となり、そして長崎で原子爆弾の犠牲となっている。 

 重信に対して弟は従順でまた無口であったが、誤診の結果、一週間ほど病んでわずか六歳で亡くなってしまう。重信が八歳の時であった。 

〈その夏のある一日、私は群馬県の母の実家にいた。そこは真言宗の小さな寺で、(略)いたるところに凄まじいばかりの蟬の声があった。(略)そのつもりになって眼をこらすと、八歳の少年の手のとどく高さにも、実に多くの蟬の姿があった。草刈り鎌を発止と打つと、いとも簡単に、次から次へ蟬は死んでいった。「お前ばかりを死なせないぞ」と声に出して言いながら、私の殺戮は続いた。(略) 

   いま、私は、山川蟬夫という別の筆名を持っている。(略) 

     六つで死んでいまも押入に泣く弟 山川蟬夫〉(「蟬」『全集Ⅱ』) 

 これらの身近かな死の体験がその悲しみや喪失感を埋め、そして表現する手段として重信を文学・詩歌に導いていったとは言えないだろうか。そして、重信の青年時代の宿痾発症と闘病生活のなかで醸造され、鋭敏な感受性として研ぎすまされ俳句作品に反映していったと思われるが、そのことは次の文章からも伝わる。「かつて重信に会ったとき、重信は時々死者が背中を触ってゆくことがあると、こともなげに言った」(林 桂『船長の行方』)。その一端は、『蕗子』以降の作品群のなかに見ることができる。 


3 風景眺望

 重信の小学校の三階建ての屋上からは、校歌の一節、「富士の高根に筑波嶺に」と歌われているように、富士山も筑波山も見えたという。そして、 重信は度々屋上に上り、そこからの風景を眺め、後年の詩心を育てていたようである。 

〈日々、その姿を眺めてくらすことは、やがては、その間近にあって、それを仰ぎたいという心を養い続けることであり、そしてまた、いつかは、その山に登ってみようとする思いを、具体的に確実につのらせ続けることでもあった。その山には、それにふさわしい霊魂がひそんでいると信じられていた時代であれば、それはすなはち、人間の精神と直接つながる思いであったわけである。(略)それは、ある一つのものが喚起する人間の精神や感情に、相互に共通した普遍的な感情を、あらかじめ期待することが出来る基礎でもあった。そして、この俳句表現の一つの特徴である即物的な発想も、そのような感受性の基礎がなければ、とても成立する余地はなかったろう〉。(「俳句の廃墟」『全集Ⅲ』) 

 屋上からの眺望の体験は、重信にとって貴重なものとなった。宿痾となった病気のために長期入院した際にもこの風景眺望の体験が再生され、重信の句業の後期の再出発とも言える「風景の発見」へとつながってゆくことになるのである。 


4 原風景喪失

 太平洋戦争末期、1945年3月の東京大空襲では、

〈更に近づくと、眼前の小さなビルが凄まじい勢いで焔を吹きあげており、その後方の家並みは赤赤と燃える熱風の中に蜃気楼のように揺らいで見えた。空を見上げると、雲も真赤に焼けていた。僕たちは、思わず息を吞んで無言のまま立ちつくしていた〉。(「大塚仲町」『全集Ⅱ』) 

と大火災を目撃しているが、重信の実家の小石川も4月・5月の空襲により焼け野原となる。これにより、東京から離れ、重信にとっての母郷小石川という原風景を失うことになる。

 この原風景については、奥野健男が『増補 文学における原風景』のなかで、次のように述べている。原風景はその個人の自己形成空間であり、作家にとっては文学の母胎であり、母なる大地である。それにより、作家の書くものに原風景は色濃く投影され、それは深層意識から作家の文学を決定する。ただし、それは客観描写できぬ風景としている。そして、また中川理は『風景学』おいて、失われた原風景の場所の再生はあくまで代償として生み出され、仮構される場所となるという。


5 新たな国土風景の『伯爵領』

 その失われた原風景の小石川に代わる新たな場所は、『伯爵領』である。重信はこう述べている。「まず『伯爵領』という架空の自治領を生み出し、その領内を巡察しながら次々と架空の地名を与えてゆき、そこから若書きの作品を飛翔させていった」(「新しい歌枕」『全集Ⅲ』)。 この「自治領」は、『伯爵領』に記載されている「伯爵領案内繪圖」を見ると海に面している。そこには、「花火の谷間」「碑銘の丘」「虎の斑の岬」「泯びの河口」などがあり、これを巡る句群になる。これは、後の『日本海軍』での地名、国名などの歌枕の句を巡るスタイルと通底するものがあり、その国見・道行の先取りとも言えるだろう。


  遂に 

    谷間に                      

  見いだされたる 

  桃色花火          「花火の谷間」

    *

  花茨

  碑銘の丘に

  蛇は架けられ      「碑銘の丘」

    *

  虎の

  斑の

  岬の

  青き

  淡き

  祭                 「虎の斑の岬」

    *

  海へ

  夜へ

  河がほろびる

  河口のピストル   「泯びの河口」『伯爵領』


●―10「明治は遠くなりにけり」論争/筑紫磐井

 松田ひろむ氏が、「蠍座」5月号で神保と志ゆき氏の論(東京都区現代俳句協会高田馬場句会2024年10月報告)を引き、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6年3月ホトトギスに掲載)に対し志賀芥子の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」が先行したと言われるという説を取り上げてそれが誤りであることを指摘している。「降る雪」の句の先行句が「獺祭忌」であると主張をしたのが嶽墨石(小穴忠美)の「旅と俳句」36年9月号の記事とされている。ところが、神保氏によれば、芥子の句が実は「雲母」系句集に発表した「菊花節明治は遠くなりにけり」という句(出典は2種類あり、昭和9年刊の『続水門』という句集に掲載の句と「雲母」昭和10年1月号「春夏秋冬」に掲載の句)であり、これらは草田男句の後の発表であったことを明らかだと言っている。これによれば、草田男句への盗作の誹謗は根拠ないものとされるし、その一方で「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句も存在しなかったことになる。

 草田男の句の生まれた経緯は非常にミステリアスで私も以前から関心を持っていたので若干論争に一石を投ずる指摘をしたい。実は関西の俳句雑誌「同人」昭和24年12月号「同人俳句」欄に

 獺祭忌明治は遠くなりにけり 岩国 梧葉

として句が発見される。作者梧葉という人物は菅裸馬主宰「同人」に所属する木村梧葉で、山口県岩国の木村梧葉という名の俳人は「若葉」、「同人」、「春燈」などに投稿しているが、多分同一人物と思われる。現在ほんど知られていないが岩国俳壇の重鎮であったようで、岩国俳句協会の会長を務めていた。高橋金窗会長(後に第4代「同人」主宰)の後任にも当たる。

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 色々推測できるが、嶽墨石が36年9月号の記事を書く際に、志賀芥子の「菊花節明治は遠くなりにけり」を引用する時に木村梧葉の「獺祭忌明治は遠くなりにけり」に書き誤ったとも考えられる。しかし墨石は芥子と「獺祭忌」の句として議論している(墨石は、芥子から草田男句についての類句取り消し要求の相談を受けた)ことになっているからこれはあり得ないだろう。嶽墨石の発言そのものが、根本から相当信頼性がないと推測すべきだろう(「菊花節」の句のようなきっかけがあったことはたしかだろうが、それ以外の状況はすべて批判的に見直す必要が出て来た)。

 一方で、「「獺祭忌明治は遠くなりにけり」」そのものについては、木村梧葉は時期的に見ても墨石の記事(36年9月号)を読んでいないわけなので、志賀芥子、嶽墨石の影響を受けて「獺祭忌明治は遠くなりにけり」と詠んだわけではないことは明らかである。あり得るとしたら草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」を読んで影響を受けたという方が草田男の句が著名なだけに可能性が高いかもしれない。

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 すなわち、草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(ホトトギス昭和6年3月に掲載)は、東大俳句会欄と雑詠欄の2つに登場しており、東大俳句会欄では6年1月9日の句会(丸ビル集会室/兼題寒紅・鯨と席題雪・宝船)で「虚子先生作句並びに選句」として掲げられ、雑詠欄では松本たかし、星野立子、川端茅舎に次ぐ第4席で掲げられている。

 さらに後のホトトギス5月号「雑詠句評会(第61回)」では、秋櫻子、たけし、虚子がこの句を評しており、ことに秋櫻子は長い評を書いているが、「此の句は全体としても隙がないが、殊に「降る雪や」といふ五字が巧みだと思ふ。これは目の前の飛雪の光景をよく現はし、随つて自然に昔を追懐する心を引き出すもとになつてゐるのである。」と激賞し、虚子は「降る雪に隔てられて明治といふ時代が遠く回想されているといふのである。情と景とが互に助けて居る。」と述べている。「獺祭忌」でも「菊花節」でも成り立たない評であった。「降る雪や」の名作性は、それが詠まれた時点ですでに確定していたのである。花鳥諷詠派(虚子)にあっても、新興俳句派(秋櫻子)にあっても事情は変わらなかった。


★ー5清水径子論5 /佐藤りえ

 飴ふくみ寒の濃き水婆使ふ 昭和40年(54歳)

 引き続き『鶸』より。飴を口に含み、それを食べきらぬうちに寒の水を使う。少々お行儀の悪い行為にも見える、この行動に「婆」を自称する書きぶりはユーモアなのか、自らを蔑む、あえてへりくだってのことなのか。

 『鶸』には自称「婆」の句が散見する。

 花柊動くよカサッとコソッと婆  昭和42年(56歳)

 朝顔・雀・婆がもつとも朝よろこぶ  〃

 八月や奈良に婆きて癇の声  昭和43年(57歳)

 凍る蜜もどしほんとに婆濁る 昭和47年(61歳)

 花柊の句は花の動きに直接「婆」が接続しており、花のみならず「婆」自身もカサコソいっているかのように見えてしまう。「朝顔・雀・婆」は加藤知世子の「婆・嫁・乙女の黙が深まり紙漉きだす」と関連があるだろうか。集中の自称には「われ」が使用されている例もあるがわずかだ。一人称を「婆」とするのはかなり異色な気がする。

 『鶸』出版時、径子は六十代に入っている。昭和四〇年代は一般的な会社員の定年が五五歳の時代である。六十代が自身を老境と自覚するのは社会通念上自然なこととも言える。しかし掲句の作成年次はそれぞれの句の末尾に挙げた通り、径子は五十代からすでに「婆」を使っている。老境を示すには早いのではないか。さらに、実生活上の年次と作品に詠み込むことがイコールである必要はない。自覚、認識がどこにあるか、どのように表すか、どのように見えるかを自覚した上での一人称が「婆」とは、自身を扱う手が厳しいというか、虚飾を払うにしても、少し過剰に感じられる。

 雪を除きて茣蓙一枚の婆の春  加藤知世子

 切れ切れのげんげの路を老婆来る  津田清子

 過去見るかに老婆泉を長眺め  橋本多佳子

 神輿来て戸口をふさぐ婆の腰  桂信子

 跣にて婆が物売る仏生会  阿部みどり女

 「我」でも「女」でもなく「婆」を詠み込む作品はもちろん存在するが、それらは必ずしも自称とはかぎらない。加藤知世子の「婆の春」などはクッション的な使われ方、わずかな幸福感を表す効果を感じるが、津田清子、桂信子、阿部みどり女の「老婆」「婆」は他者を指すものと思われる。なお、男性作家が「婆」を活写した作品は枚挙に暇が無い程に存在する。

 婆殿の忌日忘れそ蓬餅  正岡子規

 金輪際わりこむ婆や迎鐘  川端茅舎

 婆が手の蕨あをしも花曇  石田波郷

 竹藪あり爺婆をりて初雀  山口青邨

 盆芝居婆の投げたる米袋  沢木欣一

 「婆」は能面「姥」がごとく、記号的に老いた女として使用され、固定されていた、とも考えられる。


 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ  三橋鷹女

 老婆切株となる枯原にて

 街道に咲く痩カンナ痩老婆

 三橋鷹女も「婆」あるいは「老婆」を多用している。鷹女の用い方では観察の対象としての「婆」もあるが、自身を「老婆」と自称した作品が散見する。どちらかといえば、鷹女の方が「老婆」に対して容赦ない。径子は「氷海」26号に鷹女の『白骨』評を寄せている。鷹女への私信のような形式で、鷹女の自由奔放さ、「ロマン主義を基調とした抒情を知性的な把握によって昇華させている」と賛辞を送ったのち、「老いづまの泳ぐに水着かなしめり」「人の世へ覚めて朝の葱刻む」などを引いて、 

先生はたへず自己と自然の中に青春を見てゐられるといふことを深く深く感じたのでございます。「詩に青春を」といふことは、詩は年寄つてはいけないといふことではないかと思ひます。(清水径子「女のかなしさなど―「白骨」を読みて― 」/「氷海」26号・昭和29年)

と綴っている。「老いづま」という書きぶりの上で、水着を「かなしむ」含羞のあざやかさに打たれている。『白骨』は「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」が収録された鷹女53歳の第三句集。径子より十歳ほど年長の鷹女は、この頃富澤赤黄男の「薔薇」に参加、自由に力強く読み継ぐ鷹女に径子は感化されるものがあったのではないか。鷹女の存在によって、抵抗なく「婆」と自認、自称することができたのではないか――とは、少々強引な思いつきである。

 はじめから年とつて居る婆・瓢 『哀湖』

 雪婆ぐうたら山を昼に発ち 『夢殻』

 老婆うらがへせば春の蚊が鳴けり

 老女うすべに一日暑い日と思ひ

 包んであげる冬老人は花の色 『雨の樹』

 第二句集『哀湖』以降、自称「婆」はほとんど姿を消す。掲句にある通り、自己像というより、総体としての「婆」を包みこみ、慰撫するがごとき詠みぶりへと変化した。「雪婆ぐうたら」「老婆うらがへせば」の鷹揚な詠い口は、後の師・永田耕衣の影響によるものだろうか。ところで男性作家が自らを「爺」と称する作品はあらためて考えるとあまり思いつかない。一句二句はあれど、継続的に自らを「爺」とするのは憚られる、といったところか。永田耕衣は「老い」をふんだんに詠み、自身を「翁」あるいは「老人」と称しているが「爺」ではない。

 きさらぎの風にも覚めぬ翁かな  永田耕衣

 源流に腰かけて居る翁かな

 ぼんやりの素老人行く秋の浜

 日覆してカーテン引くや夢老人

 老人や何食つて裂く椿の枝

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 「粗にして野だが卑ではないつもり」は財界から国鉄総裁に転身した折の石田禮助の言葉。「爺」「婆」は蔑称の一種ではある。野趣あふれつつも卑しからず、永田耕衣の老い放題に老いる句のさまを見ていると、そんな言葉が浮かぶ。


●―15中尾寿美子の句/横井理恵

2011年09月16日

 手をかざす卯波の沖へ晩年へ      『草の花』

 『草の花』は寿美子五十台後半から還暦前後までの句を収めた第三句集である。句集全体の印象を一言で表すなら、「淋しい」であろう。身近な人々の老いや死に寄せる思いと、自らの老いを見つめるまなざしには、淋しさが満ちている。旅行吟などで夏の句はあるのだが、句集全体の印象は「秋から冬」そして「まだ浅い春」といったところである。

 その中で、夏の句を取り上げるとしたら、掲句だろうか。「今も沖には未来あり」といった青春性だけでなく、遥か沖を見はるかすまなざしは、こうして、自らの老いを見据えるものでもあり得るのかと、はっとさせられる。「手をかざす」という行為には、単に目をやるだけではない意志の力がある。「老病死」の哀しみから目をそらさずに、「生」をかみしめていこうという姿勢が示されていると感じる。

 晩年の眉消えかかる青葉寒

 しなやかな脱け髪悼む晩夏かな

 これらは、夏の句といいながら、生命力の衰えを感じさせる句であり、「夏の句」として掲げるには躊躇してしまう。若い時には艶々とした黒髪を誇りにしていたからこその嘆きなのだろう。現代では還暦はまだ現役真っ盛りという気がするのだが、寿美子にとって、人生の夏は、もう過ぎ去ったものとして捉えられていたようだ。

 寿美子は、この句集『草の花』でとことん「哀しみ」や「淋しさ」と向き合う。そして、第四句集『舞童台』以降、何かから抜け出したような「明るさ」と「勁さ」を備え始めるのだ。

 誰がこゑか泰山木にきて咲けり    『舞童台』

 長生は滝より滝へ懸りけり      『老虎灘』

 定型の中に暫く虹立てり       『新座』

 具象とか客観とか、そんな重力から解き放たれた「夏」が、これらの句には輝いている。偏在する寿美子の精神が捉えた「夏」である。この自在さの境地に至る道は、あの時に見据えた、卯波の遥か沖の晩年、そこへの一歩を踏み出した時に始まったのだと思う。(了)

【連載】現代評論研究:第10回総論・攝津幸彦 1 執筆者:関悦史・筑紫磐井・北村虻曳・堺谷真人・北川美美・堀本吟

 2011年09月23日

 今回取り上げているのは、2011年4月から始まった「詩客」の「戦後俳句史を読む」の連載であり、9月までに筑紫磐井・北村虻曳・堀本吟にゲストを加えて戦後俳句や川柳についての座談会を行いその概要をまとめたものである。連載開始して半年ほど経過し話題が一巡した後、もっとホットなイシューを取り上げようと相談し、攝津幸彦をとりあげて連載してみようと考えたものである。攝津幸彦は1996年10月に亡くなっており、没後15年経過している。この間、豈では6回の特集を組んだがちょうどいいタイミングとなったと考えた。


豈28号(1997年6月30日)特集回想の攝津幸彦

豈43号(2006年10月1日)特集攝津幸彦論・特集攝津幸彦の生きた時代

豈44号(2007年3月31日)大南風忌記念講演会

豈49号(2009年11月25日)特集安井浩司と攝津幸彦の彼方に

豈60号(2017年11月25日)特集29歳の攝津幸彦

豈67号(2024年11月15日)特集「攝津幸彦百句」


 今回復刻するものであるが、2025年10月は攝津幸彦の30回忌に当たり、回顧のタイミングとしては相応しい。「俳句四季」では「LEGEND~私の源流~」で10月から3回にわたり攝津幸彦の評伝が掲載される予定であり、それに先立ついいタイミングとなると思う。(筑紫磐井)

     *      *

はじめに

 攝津幸彦(1947~96)がなくなってからもう15年経つ。昨今話題となっているゼロ年代作家たちが登場する前にもう冥界に旅立ってしまった夭折の作家である。しかし、ゼロ年代世代の作品の全てが攝津から始まったと言っても良いような気がする、というと批判を受けるだろうか。

 戦後俳句を総決算するような、虚子と前衛俳句を足して2で割ったような、そして俳句が最後に文学で有り続けようとした証拠であった作品を残した作家は、「戦後俳句を読む」に登場してもおかしくなかったが、あまりにもメンバーにちかすぎた故に手を挙げる人がいなかった。

 今回、亡くなった10月13日に向けていくつかの鑑賞、論考を集めて掲載することとした。集めてみると1回分に相当する大量な分量になったので「戦後俳句を読む」の1回を使って特集する。読者は、この天才に思いを馳せていただきたい。(筑紫磐井)


●関悦史 3編

 外科室の雀わけなく蛤に(鹿々集)

 秋の季語の「雀蛤となる」、空想上の季語なので、ふだんは慣用句のように自動化した言い回し、単にそういうものとして受け流すだけなのだが、ここに「外科室」が介在することで、何か実際に医学的な施術を受けてスズメがハマグリに変身したような妙な印象が生じている。

 さらに曲者なのが「わけなく」で、この語によって、まともに考えれば物理的には到底不可能なはずの、異生物への改造手術という難事があっさり実現されてしまっているように見える。スズメの体内のひとつひとつの器官や細胞、臓器や骨格が内側からCGのように軽やかに分解されては瞬時に新たな組成を生み出し、ハマグリに変貌していくさまを思わせ、静かで軽やかでありながら同時にグロテスク。

 「外科室」で一旦物質化された「雀/蛤」が「わけなく」であっさりと再度非物質へと戻される往還運動により、言語という抽象物のなか以外ではなし得ぬ、言語のなかでのみあらわにされ得る生命現象の無気味さというものを見せられた思いがする。

 そこでもう一度「雀蛤となる」が単に秋の季語であるという地点にまで立ち戻れば、この句において視覚的に残るものは、あっさりと秋を迎えてしまった空漠たる外科室のみとなる。スズメもハマグリも無論いない。

 いのちとは、言語のなかでの扱われかた、分節のされかたひとつで現われたり消えたり、見えたり見えなかったりする、認識と意識の内外を自在に跨ぎ超えてしまう、つかみどころのない現象なのであろうかという不可思議の感も湧く。


 かたつむり常の身を出す空家かな(四五一句)

 普通に読めば「空家」から「かたつむり」が出てきていると、ただそれだけのことに見えるが、「常の身」の「常の」とは一体何か。

 わざわざこう断わられると、「常ならぬ身」を「かたつむり」が出す潜在性というものも考えられ、空家というものが持っている、懐かしくも「常ならぬ」想像を喚起させる詩的な力、その化身として「かたつむり」が「常の身」をのぞかせているような具合にもなってくる。

 あるいはこの「空家」は人家のことではなく、「かたつむり」の殻のことかもしれない。

 「かたつむり」が「常の身」を外に出している間、殻のなかには「かたつむり」の身はないので、それを「空家」と呼べば呼べる。

 しかし殻といえども身と分離することが不可能な「かたつむり」の身体の一部ではあるのであり、そう考えるとこの「空家」は、つねに「かたつむり」にまといつき、その一部をなす、死の影のごとき空虚ともとれる。それは「かたつむり」に限らない全ての生命体が持っているものだ。「常の身」を出すことができるというのは必ずしも恒常的にいつまでも続きうる事態ではなく、その期間は限られている。それでこの「かたつむり」は誰かといえば、いつの間にか読み手であるあなたであり、私になっている。あとには「空家」ばかりが残る。


御子様ランチ白き夏野の中にあり(四五一句)

 高屋窓秋の《頭の中で白い夏野となつている》は、意識そのものが空白にまで近づく、或る極限的な失語と茫然のなかに現われた自然のイメージを掬っているが、この句ではそこに「御子様ランチ」が置かれている。

 失語と茫然のなかに不意に幼年期の記憶や郷愁が介入したというべきか、むしろ失語状態が郷愁へと心を導く通路として用いられているというべきか。

 不意に介入した要素がもうひとつある。色である。ざらついたモノクロームの映像を思わせる「白き夏野」に対し、「御子様ランチ」のカラフルさが介入しているはずなのだが、しかしそれらは一句のなかでは曖昧に馴染みあっているようで、一句全体がとりむすぶ映像としては色があるともないとも見定めがたい。その各部の明晰さと全体の曖昧さの矛盾と両立が、一句を夢の時空に似たものへと仕立てあげている。


●俳句の本源   筑紫磐井

 攝津幸彦が亡くなって15年もすると、攝津が亡くなっていたときにおかれていた環境とずいぶん違った環境が今は生まれているように思う。攝津を愛し、また攝津も愛した、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、桂信子、永田耕衣と言った先達もなくなった。攝津が意識せざるを得なかった、飯田龍太、森澄雄といった対極の人たちもいなくなった。一方攝津が想像だにしていなかった、俳句甲子園世代や、芝不器男賞世代が次第に登場してきている。三橋敏雄や飯田龍太の対比で読まれて意味を持つ作品群が、新しい世代の中でどういう意味を持つか、興味深く眺めている。

 というのも最近、虚子について話し合いをしたときに、

 浅草になく鎌倉で買う走馬燈  高濱虚子

という句が取り上げられた。この句は、詠んだ虚子の意図を離れて、これが俳句というものだと現代の若い作家には受け取られているのではないかと議論がされたからである。もちろん詠んだ虚子の意図などは決して分からないのだが、三〇年程前にこの句に出会って否定的に見ていた我々とは違う評価が現代の若い作家の間では生まれているのではなかろうかという気がする。もっとつきつめて言えば、誰も真似などしなかった「走馬燈」型の俳句が現代の若手の作品に現れているような気がすると言うことであった。

 虚子の句の是非を問うわけではないので、あまりこの句について立ち入ることはしないが、攝津の句もこうした理解から、新しい解釈やとんでもない解釈が生まれているような気もする。

 蝉しぐれもはや戦前かも知れぬ 攝津幸彦

 この句は、知らぬ間に戦前が来ているかも知れぬと言う、フラッシュバックしているような現代の逆コースを詠んだものと理解していた。しかし時間を逆転すれば、常に時代は逆行するという恐怖をや不安は普遍的な感情かも知れない。この夏、全国の高校生が競い合う俳句甲子園の審査委員として招かれていったが、今年の最優秀作品に選ばれたのは、神奈川県立厚木東高校の次の句であった。

 未来もう来ているのかも蝸牛 菅千華子

 審査員を代表して高柳克弘が未来のすべてが出きってしまっているかもしれないという思いを詠んだと解説していたが、戦前が現代に到来するのと逆方向に時間の流れが移動して、未来が現代に到来すると見られなくもない。私は入賞決定に当たっては、攝津の句があるなあと若干躊躇したが、他の選者は気にもとめなかった。攝津幸彦自身マイナーであり、この句が知られていなかったせいもあろう。高校生だから盗作のおそれもないしそれほどとがめることではないかも知れない。むしろ気になったのは、尖鋭的と思われた攝津の発想が、現代の高校生の意識の中で自然に発生してきてしまうことだ。習わないでも生まれる言語感覚は、俳句の本源的な本質といえるであろうか。


●攝津幸彦を読む  北村虻曳

 攝津幸彦の作品から立ちのぼってくるものは肯定性である。彼に対するインタビューや「豈」同人に伝わる気風から察してもそれを感じる。ここで言う肯定性、極めつけはジョージ秋山(「ビッグコミックオリジナル」)の名作『浮浪雲(はぐれ雲)』の主人公「雲」の性格である。日常を楽しく受け取ると言うことである。攝津の場合、自分の病を自覚してからも、そのことの作品への反映は極小であるのはその現れだ。また、悲壮な長男ではなく、皆に受けとめられているという「末っ子長男」的心性もあるだろう。

 一方で

 幾千代も散るは美し明日は三越 『鳥子』幻景

 川に落ち山に滑りて戦地とす

 襟立ててハルピン破れて異国かな

に前後する一連のように戦争をネガティヴに描く作品も多いが、批判と言うよりもノスタルジーが主眼である。むろん、ネガティヴであるから、七五三のポスターに見るような空疎な古き良き日本肯定とはかけ離れている。むしろ攝津の学生時代は、「革命的な、あまりに革命的な(絓秀実)」時代であり、あらゆる権威は笑うべきものであった。したがって、詩客『戦後俳句史を読む・第7回』で堀本が挙げているように、初期は5・7・5型式でなにができるかを試している。後期においても、

 文禄元年春以下百字読めずに候 『四五一句』

など、穏健ながら詩形の短さの無責任にも居直ればよいという発見である。

 しかし彼は、観察家や分析家ではなかった。写生とはおよそ異なる方向に向かう。山口誓子のような対極的存在を思い浮かべるとよい。発見を言葉で正確に表現するよりも、ことばを風に流しもっとも豊かと感覚される瞬間を定着するという詠み方である。したがって彼の作品は無意識の方向にふくらみエロスをはらむ。

 踊り子の曲がりて開く彼岸かな 『與野情話』

 ばれているのか。しかしそんな読みでいいのか。この句にはもっと遠くが見えるではないか。この種の惑わしは彼の常套手段である。

 豊かさとは世に言う豊かさではなくて、言葉の組みあわせの機微・文目が多くの妄想をかき立てると言うことである。

 南浦和のダリアを仮のあはれとす 『鳥子』

 殺めては拭きとる京の秋の暮れ 『鳥屋』

 湯畑の小屋をとんぼが押している 『鹿々集』

 解析しても理解が進むわけではない。感得すべきものである。しかし彼の基調音は、反権威性と手を取り合ったおおらかな肯定性にあると言えるだろう。

(作品は『攝津幸彦選集』(邑書林2006年)によった。)


●Haiku from the Ruins~攝津幸彦小論~         堺谷真人

 1945年6月9日、土曜日、午前08時30分。米軍第58爆撃団所属のB-29戦略爆撃機40余機が兵庫県武庫郡鳴尾村に来襲した。任務番号第191号。目標は川西航空機鳴尾製作所。大日本帝国海軍の二式飛行艇や紫電、紫電改などの戦闘機を製造した軍需工場である。

 目標上空の天候は曇り。使用されたのはAN-M65 1000ポンド通常弾。高度2万フィートからの精密爆撃は約30分間続き、投下弾トン数は263.5トンに達した。任務終了後の航空写真では、工場総屋根面積の69%に破壊乃至損傷が見られ、施設の26%は修復不能と推定された。

 2ヵ月後の8月6日、月曜日。米軍第73、第314爆撃団に所属する250余機が阪神間に来襲した。いわゆる「阪神大空襲」である。任務番号314号。目標は西宮から御影にかけての都市部。作戦任務報告書の「目標の重要性」には、この地域が大阪と神戸の大企業に部品を供給する下請中小工場地帯であることが記載されている。写真偵察では市街地の32%の破壊が確認された。西宮に隣接する鳴尾村も罹災。爆弾、焼夷弾の大量投下により村域の大半が灰燼に帰した。

   ◆   ◆   ◆

 攝津幸彦は1947年1月28日に兵庫県養父郡八鹿町に生まれた。2歳のとき鳴尾に移り住み、以後、10余年をこの地で過ごした。筑紫磐井が『攝津幸彦選集』(2006年・邑書林)に寄せた文章「語録・文章・俳句から」には、幸彦自身による鳴尾時代の回想が見える。

戦争が終わって十年にもなるのに海へ続く運河沿いの飛行機工場の後は黒く焼け焦げた瓦礫の山でコンクリート片からニョキニョキと鉄筋がむきだしに伸びていた。あちこちに水溜りがあってその水は廃墟に似つかわしくなくいつも透き通っていて目高が泳いだりしていた。運河の堤防へ続く土手は春には蓬草が一面を覆い秋ともなると堤防の上から黄金の麦畑が一望できた。

(「中烏健二句集<愛のフランケンシュタイン>の思い出」より)

 幸彦に直接の空襲体験はない。が、空襲が残した廃墟こそ彼の遊び場だったのである。焼けただれた瓦礫、銹びた鉄筋、そして爆撃であいた大穴の水溜り。あたりを掘り返せば、高温で溶融した金属やガラスの破片が容易に見つかったことであろう。

 戦争体験者と非体験者。両者にとって同じ廃墟が異なる風景を見せることは想像に難くない。敵の猛攻で完膚なきまで破壊された軍用機工場の廃墟であれば尚更である。鳴尾製作所の跡地に立つとき、戦中派は否応なく戦争の記憶と向かい合わざるを得ない。一方、戦後生まれの少年にとって、そこは物心ついた頃からの生活圏の一部であり、日常生活の先験的与件に過ぎなかった。赤茶けた焦土の中から重厚な歯車やボルトを見つけた少年は、よしんばその造型や質感に即物的な興味を示すことはあっても、それらが本来持っていた意味、あるいは意味の喪失について思いをめぐらすことは稀であったかもしれない。

    ◆   ◆

 ところで、代表作「皇国前衛歌」について、雑誌「太陽」のインタビューに応じ幸彦は次のような発言を残している。小学校三年ぐらいの頃、母親の実家にあった昔のSP盤を電気蓄音機でよく聞いていた。それがほとんど軍歌だったため、「露営の歌」などの歌詞を意味も分からずある種のムードとともに丸暗記してしまった、云々。軍国主義や戦意高揚といった歴史的文脈とは無縁のところで幸彦が「皇国的語彙」に馴れ親しんでいった経緯がよく分かる。

 皇国(みくに)且つ柱時計に真昼来ぬ

 送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

 若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)

 満蒙や死とかけ解けぬ春の雪

 幾千代も散るは美し明日は三越

 南国に死して御恩のみなみかぜ

 皇国、万歳、八紘、満蒙、散るは美し、御恩・・・。これらいわば「皇国的語彙」に対して多くの日本人は戦後長く気まずい思いをしてきた。それらは戦前・戦中の軍国主義の記憶とあまりにも強く結びついているが故に否定すべき過去の遺物とされる一方、一部の戦中派にとっては根強い郷愁を呼び起こす特別な言葉であり、更に同一個人の中で否定・肯定どちらとも見定めがたい両義性を持つことさえあったからである。

 いずれにせよ、「皇国的語彙」はその濃厚すぎる歴史性・意味性のために、俳句の構成要素としては取り扱いにくい言葉であった。意味の牡蠣殻が厚く付着して詩語としての働きを阻害する惧れもあった。にもかかわらず、あの三島由紀夫が自決してから僅か5年後のタイミングで、幸彦は「皇国的語彙」を実にぬけぬけと苦もなく操ってみせたのである。あたかも練達の手品師のような手ぶりで。

     ◆   ◆   ◆

 廃墟に残る歯車やボルトの重さや手触りに対する即物的関心。熱による変形・変色さえも古陶の耀変のごとく賞玩してやまない孤独な偏愛。「皇国前衛歌」の作者・攝津幸彦が、大文字で書かれた歴史の意味性から遠い場所で「皇国的語彙」に対して持っていた距離感もしくは距離感のなさは、ひょっとするとそのような廃墟あそびの原体験に根ざしていたのではないだろうか。

 向日葵や瓦礫いつともなく消えて 『陸々集』

(2011年9月11日 脱稿)


●幸彦と前衛       北川美美

 「前衛」という言葉に激しさがある。躍動するエネルギー、それまでの流れを変えていこうとするあらゆるものを巻き込む力。幸彦の過ごした60-70年代の青春時代。まさに前衛芸術が盛んだった時代背景がある。時代を変えて行こうとする学生たちの紛争もその背景にある。すべては渦のようだった。

 前衛美術、前衛映画、前衛写真、前衛音楽、前衛小説…前衛芸術とは、「運動」というにふさわしい、あらゆる分野を巻き込んでいく力強いエネルギーだ。わけのわからない、絶叫のような空間に観客あるいは読者を巻き込みながら時間が進行する麻薬性。閉塞の解放、個の開化の実現を目指したのである。その興奮は、幸彦が俳句にのめり込む原動力となった。

 木に泊まる四人にひとり紅葉す 幸彦(第一回五十句競作佳作作品)

 前衛俳句と言えば、金子兜太、高柳重信がその旗手として挙げられ、さらに加藤郁乎氏の前衛活動もエネルギッシュであった。(*1)

 霏々としてあととりはない番外の灰かぐら 加藤郁乎『形而情學』

 そして、前衛芸術を語るとき、「実験」という言葉がしばしば付けられる。すでに幸彦の前にあった前衛俳句も「実験」的な仮のものとして映っていたのだろうか。

 南浦和のダリヤを仮りのあはれとす 幸彦

 前衛俳句について三橋敏雄が語っている。

「(中略)俳句の方は金子兜太とか赤尾兜子、それに高柳重信なんていうのがそっちの方の代表者だけれど、なんとなく否定的に葬られちゃうわけでしょ。どうしてああなっちゃったのかっていう理由をきちんとだれもまだ言っていないんだな。(中略)特にあれはね、六十年安保以降の空気と、どうもどこかで区切りがくっついちゃっているんでね。(中略)やっぱりこれも戦前の新興俳句が反伝統で否定されたように、なにかが働いたような気がしてしょうがないんですよね。(中略)」(恒信風第二号・三橋敏雄インタビュー/1995年)

 敏雄のいう、「どうしてああなっちゃったのか」は、おそらく、『現代俳句ハンドブック』の「前衛俳句」(執筆:川名大)の箇所、「昭和36年現代俳句協会から有季定型派が脱退し俳人協会を設立したのを機に俳壇ジャーナリズムから前衛派の退潮があり、前衛派内部の対立も深まった」その辺の原因ということだろうか。先の敏雄のインタビューは重信没後12年経過時の収録である。「運動」としては確かに終息したという見方が強い。一つには俳句は、師系が強いということが前衛を活動として続ける弱点であったと思える。破壊、自由、自己の解放ということがテーマであるのに、師系は邪魔である。

 幸彦は、『俳句研究』(昭和48年11月号)の「第一回五十句競作」で鮮やかに登場した。高柳重信の選である。前衛俳句の、その「運動」の終息をすでに察知していたかのように、第二回五十句競作の入選以降は重信の懐へ身を委ねることなく、17音の俳句形式を守りつつ、独自の修練と怠惰を繰り返していることが全句集から伺える。なので、前衛作家としては、適格な判断であったのかと思う。作品には、むしろ、当初より西東三鬼、渡邊白泉、三橋敏雄に直観、そして個々の言葉の深層部に読者を引きずり込むところは、特に敏雄に影響を受けているように思える。

 チェルノブイリの無口の人と卵食ふ 幸彦

 広島や卵食ふとき口開く 三鬼


 物干しに美しき知事垂れてをり 幸彦

 ひらひらと大統領がふりきたる 白泉


 はつ夏の折角の血の指ふふむ 幸彦

 はつなつのひとさしゆびをもちいんか 敏雄


前衛芸術作家(*2)の詩をみてみよう。

オノヨーコの詩。


RIDING PIECE

 Ride a coffin car all over the city.

 

1962 winter

* “GRAPEFRUIT” by Yoko Ono


 一行の詩が不思議なメッセージとなる。下記の幸彦の句と涅槃という題材こそ似ているが、幸彦句はメッセージ性を封印し幻影であろうとする。言葉のアクロバット的な駆使により読者をあちこちへ飛ばす。マジョリティではなくマイノリティの読者を誘う。生活の翳を引きずっていないところがヨーコと幸彦との共通点である。

 一月許可のほとけをのせて紙飛行機  幸彦

 そして、かの安部公房は、リルケ、ハイデッカーの傾倒者であり処女詩集『無名詩集』にその失われた青春性をみるようで輝かしい(*3)。「言葉から動く」という印象がある。

 安部公房の詩。

<夜だった>

 

夜だつた

クリームのやうに濡れた

奇妙な風がふいてゐた

部屋の中ではふと天上や壁を

まるで自分の皮膚の延長のやうに

しかし外では

ああ 破風をゆるがし

数々の過ぎ去つた太陽が涙となつて

眼の中に逆流する

そんな風が吹いてゐた

冬はよごれて道端にうづくまり

どこからか春が

まぎれこんでくる

町に出よう

ショーウィンドウの中では

もう人絹の華が咲き出てゐる

影が二つづつ

その中に映つてゐる

ひたひたと風にひたつて

すべての眼が涙をすすり込みながら

唇から早くも散つた赤い花びらが

ほんのちよつぽり煙草のやにを落し込み

ああ 世界が風邪をひいてゐる……三月

 [*1949.3頃制作] 安部公房


 「クリームのように濡れた風」は、アヴァンギャルドの夜明けを詩に託しているようである。そして夜が過ぎ、朝が来て、昼が来て、鏡に幸彦が映っていた。

 階段を濡らして昼が来ていたり 幸彦

    *

 幸彦は、60年70年代の日本の前衛芸術運動に触発され、渦のような時代のエネルギーを言葉に見つけようとした。前衛芸術運動、ひいては前衛俳句の路地裏から幸彦はヌエ的に出てきたのだ。

 路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 幸彦

 昭和の終わりとともに激しさよりも穏やかな精神性を求める平成の流れに変わっていく。前衛は運動として衰え、崩れゆく昭和の幻景に身を委ねるしかない。幸彦が現れそうな店に行ってみたい。ふと新宿の路地裏のどこかでレエン・コオト姿の幸彦が背後にいるような気がする。遭ったこともない俳人でありながらどこか懐かしい。

 雪の日の戦後に生れて以後も戦後 幸彦

 太古よりあゝ背後よりレエン・コオト


*1)加藤郁乎氏の俳句は舞踏とコラボレーションされ「俳句」が前衛芸術という空間で上演された。タイトル:『降霊館死学(1963/出演:土方巽、他/美術:池田満寿夫)』『形而情學(1986)』、いずれも草月ホールで上演。「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)という言葉が生々しい。

*2)日本の前衛集団に「世紀の会」(1950年代)があった。安部公房を中心とし、関根弘、高田雄二、瀬木慎一、勅使河原宏らが参加した(岡本太郎、花田清輝は特別会員)。当時の勅使川原宏の父・蒼風がミッシェル・タピエのアンフォルメル運動に参加し、かつ現代美術のパトロン(サム・フランシス、ジョルジュ・マチウなど)ということもあり活動は草月アート・シアターが拠点となった。武満徹、オノヨーコ、一柳彗、ジョンケージも巻き込み、実験的な前衛芸術が展開された。

*3)番外編:安部公房の詩

「別れ」

涙なく泣きたければ

声もなく笑みたりき

夕暮に

君行く日

 白泉の「われは戀ひきみは晩霞を告げわたる」を彷彿させる。白泉1913年生まれ、公房1924年生まれ。かの安部公房も白泉の句に涙しただろうか。


●亡きものは亡き姿なり・・団塊世代俳人の逆説的立ち位置・・・ 堀本 吟      

1・〈極私〉 

 攝津幸彦没後十年、それからさらにもう五年経とうとしている。うれしいことに、この間に、生前の各個人句集を集めて、『攝津幸彦全句集』(沖積舎)や『選集』(邑書林)、散文集『俳句幻景』(沖積舎)、夫人の回想集『幸彦幻景』・・。後世が十分学ぶに必要な資料が刊行された。これらの文献をひらくことは「セッツ」と共にもういちど「セッツ」とこの世界をたのしむことでもある。あるいは果ては忘れさられてしまうのかも知れないが、この作家ののこした俳句の幅や深度を反芻すればそうはならないはずである。

 しかし、そうはいっても、攝津幸彦とは、じつは型どおりには捉えにくいたいへんな俳人である。彼の俳句には(依然として)とらえ方のわからぬ要素が多々埋蔵されているのである。(すぐれたリーダーや先達とはおうおうにしてそういうものだが)

 団塊の世代は、昭和二十年以降つまり第二次世界大戦以後に生まれ、昭和の終焉を見た。戦前に生まれた戦後作家(鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄、安井浩司、阿部完市、加藤郁乎、等を想起してほしい)作家達を父として年の離れて兄として、その背中をみて成熟していった。最近台頭している平成の新人達、昭和という時代を知らないで生まれ育った青年俳人達(いまの『新撰21』の20代〜40代の作家を一応想起してほしい)は弟や息子世代にあたる。攝津幸彦達はそのはざまに活躍した。

 春夜汽車姉から先に浮遊せり 攝津幸彦 

 弟へ恋と湯婆ゆたんぽゆづります   同

 「姉」の句は 『陸々集』(1992・弘栄堂書店 )、「弟」の句は 『鹿々集』は最後の公刊句集である『鹿々集』(1996、ふらんす堂)所収。

等々、なつかしみある句を遺した彼が、前後の世代の人たちと決定的にどこが違うか、ということが私には一つの関心を惹く。(同時代の坪内稔典や江里明彦、夏石番矢等との作風や個性の異同のほうがむしろ言いやすい)。私がここにきた当初には、彼らが昭和後半、二十世紀末の「新人」といわれていたのだが・・・。俳句の流れの中で、その終盤に登場した新しい波、攝津幸彦もその一人であり、現在の平成の新しい波をうむ一つの起点ともなっている。

 たしかに戦争を知らない世代のはしりとなった存在であったが、その時代人の特徴と共に、彼にあっては、発想の場所とりわけ個人的なところにある、とみられる。俳句形式を想定して解読してある程度のことが解る多くの俳人にくらべてやはりそうとう蠱惑的な印象をふりまいている理由かも知れない。

 摂津の句があまりに高度の技術を駆使しているために、そういう彼の俳句の意味の重層性多義性に惹かれて、同時代のわれわれは、多義性のひとつひとつ根拠を明らかにするようなことをあえて等閑視してきたとも言える。攝津幸彦の特異性をしめす表徴は多くの句にも散見するのであるが、それはあとにおくこととして、私はある散文の一節に目を留めた。そこにはこう述懐されている。

 青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病いのように、私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。しかし、いつの頃からか、血が流れる身体をこすりつけるにふさわしい価値あるものが見いだせない状況がやって来ていて、いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いているのであった。

 思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造から、なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。

 《俳句と極私的現在》一九八一年三月「俳句研究」。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行)

 存在と言葉は別次元のものである、と言う命題を認めながら、それでも作品の内容や形式と、一種の絶望感ただよう個人的動機とが不即不離であるということに、あやうく触れてまた離れるている微妙な筆調である。

 表現の動機は人さまざまであるが、伝統詩型の場合は、おおむねその様式性を学ぶことに重点が置かれる。俳句などはとくに形式への帰依のほうが強い。それで、上に書かれた「思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、」という攝津の俳句形式に対する認識は、まさに多くの共通認識でもある。私が十代の少女だった頃、〈思想は一の意匠であるか〉という萩原朔太郎の詩の一節にひどく惹かれたことがあった。それと同じ感慨をあるいは攝津幸彦も抱いてしまったのである。

 だが、その後につづく「思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造」というところは、攝津特有のレトリックでその時代の文学思想としてともかく納得されている。これを、穏やかに平たく言い直すならば、さしずめ次のような説明がいるだろう。

「俳句形式とは、思想を信条や真情の吐露としてではなく、完璧に詩形のスタイルを完璧に表現することで思いを貫徹する行為である。これは表現の動機からすれば逆説となるが、俳句形式を完成するためにはこの逆説が、まさに正当であり、正統ということの証しであるとされるが、しかしこれは事大主義である。」(筆者翻案)

・・と最低限これぐらいの説明は必要で。このほうが、思わせぶりないちゃもんと受け取られかねない。ともかく、彼はこの「逆説的構造」から「なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。」のだそうだ。句もわかりにくいが、散文の文脈も散文詩の一節のように、論理がねじれたり曲がったりしている、攝津幸彦の心底もわかりにくい。しかし、このような理念のねじれや錯綜を情緒的な面もふくめて丁寧に書き込むことを、攝津は誠実に果たしているのである。感覚的に私には攝津の懐疑がよくわかる。そして、人口に膾炙する下記のような名句は、このような韜晦に充ちた認識の中から生まれている。

 幾千代も散るは美し明日は三越  『鳥子』

 国家よりワタクシ大事さくらんぼ  『陸陸集』

 韜晦に充ちた日常詠や、太宰治の発言にこと寄せたマニフェストである。


2 無化された〈私〉

 彼の根底にはつよい伝統回帰の心、(いや、回帰ではない。むしろ伝統とは何か、と訊ねる心)、私に執しながらも、自己放棄においつめられるなにかの心理的機制が強烈だといわざるを得ない。言葉もふくめて世界から退こうとする退嬰の心理や自分の生存への危機感や葛藤が、形式破壊をも辞せず形式の本質をきわめようとすすむ現代俳句の形式願望のベクトルとかみ合ってゆく。だれもが抱く葛藤である。その葛藤は、すくなくともその時期までは創作のエネルギー源として効果的に機能していた・・。

 先ず、深みのある諧謔というべき独得な味わいと、それを生み出すための高度な技巧・・が驚きをもって注目されるのであるとしても、それは曰く言い難い生存への懐疑という実存的な動機からあみだされているのだ。攝津幸彦に対しては、(あるいは対しても)、私は表現の思想が成立する重要場面として、そのかかわりのありかたを考えたい。

 私は攝津の俳句を読むたびに、人生いかに行くべきかについて素朴に素直に考えている青臭い青年の像を思い描き、且つ、最後になって、そういう感慨全体を茶化される。このように句が進む経過や段取りが面白くてならない。彼はきっと、晩年執心した永田耕衣や安井浩司の世界のなにかに反応しているのだ。(今回はこのことは述べない)。そして、きわめて人間的でありながら、存在と言うときに、ふと、懐疑におちいる思考のアンビバレンツをみてとる。そこに大きな大事な示唆を受けるのである。

 また。

 俳句的自然、俳句のリアリティ、新しい俳句形式の発見という大義や情緒への回帰そのものにも白けきろうとする時、やがてそこに無化された「私」が発見されるのではないかと思った。(同上エッセイ)

 とつづく文意では、「俳句とは?」と言う「大義への回帰」を捨てたときに、書き得なかった「私」が、書き得ない「無化された」すがたのままあらわれるはずだ、これこそ自分が俳句で語りたかったことなのだ。と言う。

 きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』

 亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)

 これは「無化された私」が、「逆説的」にそこには居ないことを主張しにあらわれている、と読むべきなのである。(ほんとうにそう読むべきであろうか?)

 具体的な解説はこの後に囃したい。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり31 安田中彦句集『人類』(2017年、邑書林)を再読する。

 安田中彦句集『人類』は、怒涛の俳句原石だ。

 この原石は、多くの鑑賞によって磨かれる。

 安田中彦俳句の俳句原石は、あまりにも沢山あるのだ。

 俳人は他人の俳句原石を磨く暇ない?!

 反論あるかたは、先ずはつたなくとも俳句を鑑賞してみて欲しい。

 神輿みたいにみんなでわっしょいわっしょい俳句原石を鑑賞して欲しい。


 「欲望の機械よ朧なる人よ」は、魅力的な俳句だ。

 欲望の機械とはなにか。どんなに進化した機械でも突き詰める処は、人間がいなくてはならないのではないか。人類の心の不在を私も危惧する。


 「桜貝うつろふものにかこまれて」は、魅力的な俳句だ。

 世のうつろいに俳人は、桜貝の丸びてゆく美意識を見出す。桜貝に乗って安田俳句の人類を観てみよう。


 「約束の夏鶯を待ちゐるか」は、魅力的な俳句だ。

 何度も読み返すと味が出る安田中彦俳句の感性の虹が、弾ける。

 鶯は鳴くたびにさえずりを磨いている。あなたも人生の何処かで約束の物語を紡いだか。俳句の醍醐味がある。


 「鶏頭花たとへば夜の商社員」は、魅力的な俳句だ。

 商社員さえ俳句の題材になる安田俳句の貪欲な俳句創造は、沢山の鑑賞者を待ちわびる。鶏頭の花は、艶めかしい。そんな夜の商社員との組み合わせにハッと顔がほてる。例えば口語俳句のそんな物語なり。


 「小春日の猫のほどけてしまひけり」は、魅力的な俳句だ。

にゃにゃにゃにゃーん。

にゃにゃにゃにゃーん。

にゃにゃにゃにゃーん。

 素敵な小春日の猫と心を通わせる。


 「かたつむりかやうに高き志」は、魅力的な俳句だ。

 俳句は独創性がないと埋没してしまう。安田俳句の魅力のひとつは、この概念からブッ飛んだ飛躍、省略、配合の斬新さにある。


 「蟋蟀の眉間に山河ありにけり」は、魅力的な俳句だ。

 小さな生物に悠久の美意識が余韻を響かせる。


 「とかげまで都市計画の届かざる」は、魅力的な俳句だ。

 現代社会を俳人たちは生きているか。現代に生きる俳人ならば、現代を詠え。


 「この奥は見殺しの森滴れり」は、魅力的な俳句だ。

 この省略に驚嘆してしまう。

 

 「おそらくは仏頂面の大海鼠」は、魅力的な俳句だ。

 海の顔が突起している。おそらくは仏頂面の大海鼠だ。


 俳人は俳句の原石を磨いているか。

 私の自戒を込めてそんな俳句鑑賞者への問いで俳人たちを挑発したい。

 俳句鑑賞も創作なのだから自分の俳句が「載ってるんるん。」ばかりでは、俳句の世界は瘦せ細る。

 それくらい現代俳句を詠う俳人たちの奮闘ぶりを俳人たちは、スルーしているような気がする。

 現代俳句の奮闘ぶりは、現代俳句の鑑賞者をもっともっともっと急募集中なのだ。

 安田中彦句集『人類』は、そんな現代俳句を詠む俳人のひとりであり、怒涛の俳句原石だ。

【連載】現代評論研究:第10回各論―テーマ:「夏」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

2011年09月09日 

●―1近木圭之介の句/藤田踏青

 空壜から流れ出た乞食一人夏を行く

 昭和58年の作品である。乞食という浮遊生活者を流動体の如く、そしてその存在の卑小化が空壜と同じ位相に置かれている。また、空壜という空虚な存在を乞食の人生にも対峙させているのであろうか。更に、空壜と一人という存在を作者の内面で自己対象化させているとも考えられよう。夏の炎天下を一人行く後ろ姿は「ほいとう」と呼ばれた行乞僧・山頭火をも思い起こさせるかもしれない。しかし、次句には「壜の口から乞食襤褸(らんい)の匂いこぼしながら 昭和58年」とあり、山頭火を尊敬していた圭之介にはそのような視点はなかったものと思われる。

 忘れ得ぬ人は初夏に似て虹の終り       昭和59年

 果実と太陽の酸味もつ思慕か         平成11年

 初夏の様に爽やかな面ざしであったが、虹が消え去るように、といった内容であろうか。初夏と虹といった季重なりは超季を主張する自由律俳句に於いては問題にならず、この句の場合にはむしろ並置されることによって情感が増すものと思われる。

 それから25年経っても抱く思慕は甘酸っぱいものであったのか。果実と太陽といった相互作用は意識の時間的経過の素因として、酸味はその熟成の結果としての回顧的な青春性を漂わせている。

 遠雷だポプラ並木の向うをごらん       昭和60年

 デッサンの様な、散文詩的な印象鮮明な語りかけである。一直線のポプラ並木の向うにあるものとは、その存在が眼に見えぬ故に読みのベクトルが多様化されてくる。この様なリズム感をもった歌うような表現は、荻原井泉水が唱えた「自由律俳句は印象の詩である。・・・・・それを外的なリズムではなく、内在的なリズムで詠う」との下に、昭和初期の「層雲」の自由律俳句に多くみられた。代表例をあげてみよう。

 額(ぬか)しろきうまの顔(かほ)あげて夏山幾重   和田光利  昭和6年

 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり         々    昭和7年

 この様な朗誦に堪える作品が現代俳句に見られなくなって久しい。特に後句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句よりも力強く生命力にあふれた作品として記憶されよう。


 最後に、テーマ「夏」にそった圭之介の他の作品を掲げてみよう。

 雲は完全燃焼したか夏の港          昭和28年

 五月は指から蝶がしたたり落ちた       昭和55年

 誰も憎めず鍬形蟲は木にいるだけだ      昭和59年

 ひと夏すぎ 隅の埋まらぬ図残し       平成10年

 七月の町が尽きる 海へ落ち         平成20年

 暑く夕日が好み いつものまわりみち     平成20年


●―2稲垣きくのの句/土肥あき子

 この道や滝みて返すだけの道  『冬濤』所収

 第二句集『冬濤』のなかで、4句並ぶ滝の句の4句目の作品である。

 滝みると人にかす手の恋ならず

 滝の音によろけて掴む男の手

の後に掲句が置かれる。

 大胆に情熱的な句を詠んだかと思うと、一転して冷ややかな句が並ぶのも、きくの作品の特徴である。浮かれた気分から、ふと我に返るというより、本来冷静な視線の方がきくのの本質なのだろう。

「滝を見に行く」「滝を見ている」「帰る」、この単純な道程のなかで、抒情から隔絶できるのが帰り道である。目的地から遠ざかるにしたがって、次第に自己を取り戻す。同じ道の往復で、これほど静かな視線になってしまうことが、きくのの寂しさであり真実である。

 ことに「滝」という、もっとも激しい水の姿、圧倒的なパワーの前に、五感が研ぎすまされたのちであることが、一種の透明感を与えているように思われる。

 先ほどまで轟音を立てていた滝が、今はもう川のせせらぎに変わり、一歩一歩が確実に滝から離れていく。 それはまるで「滝みて返すだけの道」が、人生を折り返すときにさしかかる自分の胸中にも重なっているようだ。

 手を伸ばせば触れられるほどの距離にあった水しぶきも、豪快な水の匂いからも離れ、今はただ単調な山道を踏んでいる。同じ道をたどりながら、往路と異なるのは、唯一滝を見てきた自身の経験である。滝を見て帰る道は、滝を見に行く道とは、心情的に決定的に違うものであることを掲句は示唆する。

 降りかぶった飛沫の湿り気がまだ乾かぬ間に、手を借りた異性のことさえも、きくのにはもう遠い過去となっている。


●―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 炎天といのちの間にもの置かず

 例年にも増して、今年の夏は暑かった。筆者の住む東京都練馬区では、37度を記録したという。そこで、今回は、夏の一句ということもあり、「炎天」の句をあげてみた。

 掲句は、昭和22年作、句集『玄』(*1)所収。

 いつもの如く、まずは自註を見ていく。

 「死の如し」百句中の句。灼けた天蓋と僕のいのちは直通するものである。その間に何ものの存在も許さない。死への没入は独断である。(*2)

 掲句は連作「死の如し」九十七句中の一句。自註では「百句中の句」としているが、句集では「九十七句」とあり不審に思っていた。雑誌掲載時と句集収録時とで句数が違うことはよくあることだが、確証がなかった。今回、俳句文学館の井越芳子氏の協力を得て、初出の「壺」昭和22年12月号の該当箇所を入手。掲載時の百句と句集のそれとの異同を確認することができた。やはり、句集収録時に三句落としたようだ。(*3)

 誌面を借りてあらためて、井越氏にお礼申し上げる。

 さて、掲句であるが、下五に〈もの置かず〉と据えたことで、焼付く夏の太陽の熱気が空一面に充満し、息苦しささえ感じる〈炎天〉がリアルに立ち上がってくる。まるで〈炎天〉と〈いのち〉とが直結しているような印象を〈もの置かず〉と据えたことで与えているように思う。そうした〈炎天〉のありようがみえてきて普遍性を獲得している。中七の〈間〉は「かん」と読む。〈炎天といのちの間にもの置か〉ないこと、それがすなわち「生」(リアル)であると述べているのだ。あるいは〈炎天〉にさらされる〈いのち〉が「生」であり、〈もの置〉く状態が「死」ということかもしれない。どちらにせよ、間接話法によって、観念である「死」の実感を描いて見せようとした点にこの句の面白さがあるように思う。

 さらにいうならば、この句は玄の作句心情を詠んだものともいえる。いうまでもなく「炎天」は季語であり、観念である。俳句とはこの観念を通じて詠み、読み合うものである。「季語と向き合う」という言い方を俳句の世界ではよく使う。一方で「ものをよく見る」「見えたものを的確に写し取る」という言い方もよくされる。だが、実は「季語」と向き合うということは歳時記に記載された観念の集積である先行句と目の前にある対象との差異を発見することに他ならない。いわば観念と自分との間に先行句というものを置いてなぞることで一応俳句らしいものはできあがる。だが、それは観念をなぞっただけのもので、自分の俳句ではなくなるのだ。季語という観念といのちという実態との間に〈もの置かず〉という「真空の場」を設けること。そうした、当時の玄の作句信条が掲句に読み込まれていると解釈することもできる。

 こうした玄の俳句に対する姿勢は、当時、永田耕衣らが提唱した「根源俳句」の影響を少なからず受けているように思われる。あまり知られていないことではあるが、永田耕衣は昭和22年8・9月合併号から「壺」の同人として参加している。

 西東三鬼の推薦で山口誓子の「天狼」同人となるのが昭和23年5月号からなので、「壺」在籍期間は一年にも満たない。しかし、その後もしばらくは交誼が続いたらしく、「壺」昭和23年7月号には「生命往来」と題して、玄と耕衣の往復書簡が掲載されている。当初連載の予定であったらしい。ただその日付が「五月二十九日」で、「鶴」「風」同人を辞める前後のことで、この号以降、耕衣との往復書簡が掲載されることはなかった。その書簡のなかで耕衣は「ご存じのように僕は『根源俳句』を提唱し主に波止影夫氏と肝胆相照らして多少の実践をして来ましたが、そして根源俳句は象徴俳句とはいさゝかその意を異にしてゐますが、この根源俳句といふものに早くも行詰りを感じそめました」と心情を吐露している。その理由として「現象の根源を把握しなければ真に生命に直面し生命を痛感することは不可能であると信じて」いるが、「捉へるといふこと、捉へたといふことにおいて囚はれ易いと思ふ」と述べている。その打開策として「根源に住し切った場所で自由に優遊するところがなければならぬ」としている。

 それに対し玄は、耕衣の言う「根源精神に住し優遊すべき方法」とは具体的に何かを問うている。「物象を根源より求めず、常識的に実想観入」するという「表面より徐々に凝視を連続してゆく方法」との違いを「如実に知りたい」とも。「私は根源俳句といふものは結末ではなく一つの方法論として考えたい」と立場を明確にしている。耕衣は書簡のなかで、「僕の根源俳句は『生命の痛感』といふこと」で、これを「生命主義」あるいは「人生主義」と言ってもよいという。さらには自作の「見る者がつぎつぎ違ふ揚羽蝶」をあげて、「何かしら身を切られるような生命の切ない痛感があると見て戴けないでせうか」と訊ねている。玄は「生命の切なさといふものはうたはなければ流れ出さないもの」という認識を示し、「生命の切なさは根源探究に限って恵与さるべきものではない」と根源俳句の限界を喝破している。「大兄は大兄、私は私、生命の切なさは切つても切れぬものですから、これを俳句と同義なりと思ひ、これに生涯を托するより途は無いやうです」と結んでいる。ここからも分かるとおり、玄は「根源俳句」の影響を受けつつも独自の生命観で俳句と向き合おうとしていたのである。

 明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり   昭和41年作

 その後、玄は昭和28年に「壺」を休刊。妻節子が昭和40年に癌を発病し、その葬送までの顛末を克明に描いた連作「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」193句をまとめるまで、俳壇的には長い休筆期間に入る。その連作中の一句。破調であることで、〈明日死ぬ妻〉の嘆きと〈炎天〉のすさまじさ、「生命の切なさ」が切実に伝わってくる。

 炎天を墓の波郷は立ちてをり   昭和45年作

 前書「深大寺展墓」師石田波郷を前年の昭和44年11月に見送って、最初の夏の句。「炎天や」とせずに〈炎天を〉としたところに俳句形式へのあらがいと情感に流れまいとする矜持を感じる。「炎暑の中を波郷の墓に詣でた。立っている時間よりも臥していた時間が多かった波郷は、墓に化して永久にたち続ける」という自註(*2)の文章にも「生命の切なさ」がにじみ出ている。

 炎天や病臥の下をただ大地   昭和53年作

 炎天下歯ぢからといふ力失せ   昭和53年作

 雀らの地べたを消して大暑あり   昭和53年作

 『雁道』所収の晩年の三句。一、二句目は「死」を観念として捉えていた頃に比べるとわかりやすい。だが、〈もの置かず〉の矜持は崩れていない。

 三句目の〈地べたを消して〉が雀さえも遊ばなくなった〈大暑〉のすさまじさを伝える。

 玄にとっての夏は〈炎天〉に象徴される観念(死)と〈いのち〉が切なくも向き合う季節だったのかもしれない。


*1 第3句集『玄』 昭和46年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

*2 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊

*3  「死の如し(百句)」 「壺」昭和22年12月号(第8巻12号)所収

 ちなみに、句集未収録句は「このいのち風鈴の音の散れる如」「破蓮へ音なく歩むことを得し」「破蓮女の声をとほすなり」の三句。百句の世界観に合わなかったと思われるが、三句とも「音」をモチーフにしているところが興味深い。


●―5堀葦男の句/堺谷真人

 漬け西瓜くるりくるりと濡れ難し

 『火づくり』所収の句。1949年から1952年の作品から成る「水の章」から。

 井戸や水を張った盥に西瓜を漬け、冷やす。電気冷蔵庫が普及する前の、夏の風物詩である。未熟な西瓜は沈み、熟した西瓜は浮く。食べ頃は水面から少し顔を覗かせるくらいのとき。ぽっかりと浮き上がる西瓜はもはや水分が抜け、鬆(す)が入っている。葦男の前にあっていくら押しても沈まない西瓜は、残念ながら食べ頃を逸していたらしい。

 葦男を講師とする月例句会に参加して間もなく、筆者は先輩から句集『朝空』を貰った。1987年のことである。『朝空』は1984年刊。『火づくり』、『機械』、『残山剰水』、『山姿水情』の既刊4句集からの抜粋に、『火づくり』以前と『山姿水情』以降の作品を加えた300句から成る、葦男生前最後の選集である。「漬け西瓜」の句に出逢ったのはこの『朝空』を読んだときであった。

 この連載の第1回でも触れたように、「前衛俳句の論客」という肩書きから漠然と圭角ある人物を想像していた筆者の先入見は、葦男その人との初対面の段階で払拭されていたが、胸中には尚お一抹の疑団が残っていた。「とはいってもやはり前衛俳人。きっと書くものは詰屈聱牙(きっくつごうが)に違いない」と。

 そんな筆者の前にぽっかりと浮かび上って来たのが、冒頭の句だったのである。

 庶民的な素材と飄逸なタッチ。「くるりくるりと濡れ難し」には西瓜と悪戦苦闘する人の姿まで見える。的確にしてユーモラスな表現である。そして一句に横溢する真夏の季節感。無季俳句をもって盛名を得た俳人が、かつてこのような句をものしていたことに、筆者は驚きかつ安堵した。

 『火づくり』には外にも西瓜の句がある。

 満身を没し西瓜の楽々と

 「水の章」に続く「地の章」(1952年~1956年)にある句。こちらは完全に水中に沈んでいる西瓜である。「楽々と」という措辞には、まるで作者自身が風呂に漬かっているかのような体感がある。漬け西瓜と合一した至楽の境地である。

 ところで、西瓜といえば、前衛歌人の塚本邦雄はこのウリ科の一年生果菜が大の苦手であった。随筆『ほろにが菜時記』にいう。

 西瓜が大嫌いで、見てもぞっとし、臭いをかぐと嘔吐を催す私は、夏三月、秋三月、何よりも無花果を賞味する

 塚本邦雄は葦男と交流があった。1963年5月の『十七音詩』25号<火づくり特集号>に「俳風プロメテウス」と題する熱烈な一文を寄せているくらいである。葦男は、前衛短歌の壮麗なる大伽藍を建立したこの歌人が西瓜を嫌うことかくも甚だしいことを、果たして知っていたのであろうか否か。


●―8青玄系作家の句/岡村知昭

 炎天に水あり映らねばならぬ    神生彩史

 昭和24年(1949)「青玄」創刊号掲載。掲出句を含めた作品によって第一回「青玄賞」を受賞、昭和26年(1951)2月号に掲載の受賞作50句にも収録。ちなみに歴代の「青玄賞」受賞作を収録した『青玄賞青玄新人賞作品集』(平成10年9月、青玄俳句会)には未収録である(全作品を30句に統一したせいと思われる)。

 厳しく照りつける夏の日差しの下にようやく現われた「水」。それが洗面器いっぱいに張られて、静かにたたずんでいるものなのか、野山のとある一角に突如現れ、今もなおこんこんと湧き出でる泉なのか、それとも流れのとどまることを知らない川なのか、もしくは眩しく目の前に果てのないかのように水平線いっぱいに広がる海なのか、そのあたりはともかく目の前にはまぎれもなく「水」があり、水面にはまぎれもない己の顔が映し出されている。炎天から降りそそぐ夏の輝きが全身に痛いぐらいに感じられるこのときに出会う「水」は冷たさとともに、自らの心を和ましてくれる存在であるはずでなくてはならないのであるが、掲出の一句において「水」に出会ったこの人物は水面を覗き込んで己の顔に向かい合った瞬間、本来あるはずの何かが映っていないとの疑問に強く襲われ、水面の己の顔をさらに見詰めなおしたのだろう。そしていきなりの疑問を懸命に突き詰めた果てに、本来あるべき何ものかが今ここに存在していないとの確信をはっきりと得てしまったのである。そうでなくては水面に向かって「映らねばならぬ」との痛ましいまでの願いを自ら口に出してしまうまでには、決して至らなかったはずだから。

 ではこの瞬間、この人物にとっては何がいったい「映らねばならぬ」のだろうかと考えてみると、「水」に映る己の顔を真っ向から見つめ続けてしまっている自分自身の姿であろうことは容易に想像がつく。もちろん水面を覗きこんだときに自分の顔や身体が映っていないはずはないのであるが、水面という鏡を通じて露わにされた自分の表情や現状などすべてを含んだありように対して、どうしても納得できない己が心のざわめきは「違う、真に映るべきはこのようなものではない」との呟きを幾度も水面から視線を放せなくなってしまっている自分自身にもたらし、「わたしは今、いったい何ごとかを為しているのか」との問いを水面に映りこんでいる己の顔に、すなわち本来あるべき姿ではない(と思われてならない)自分自身に向かって突きつけてしまうのである。だが水面に映る己の顔からは決してこの問いに対する答えは返ってくることはない、もちろん問いを発した自分自身こそが、そのことをいちばんよく分かっているはずである、自分自身への凝視がもたらした存在への問いを、さらなる凝視を通じて突きつめようとすることこそ、水面に映る己の顔、すなわち今の自分自身のありようへの何よりの答えであるはずだからだ、たとえその答えが余りにも過酷なものとして自分に突きつけられようとも。

 戦前、新興俳句の最前線にあった日野草城の「旗艦」において彩史は「自画像」との前書のもと「あんなに碧い空でねそべつている雲」と詠んだ。それからの転変についてはここでは触れないが、自ら雲となって「ねそべつて」いたひとりの男性が、己の存在のありようを凝視するまなざしをもって見ようとしていたのは、碧い空に白い雲を味わうだけでは済まなくなってしまった自分自身のありようであったことは想像に難くない。「青玄」創刊号に寄せた作品には、その変化からもたらされた作品に対する自負もうかがえるところだが、作品への評価はひとまず置いて、ここは創刊号掲載されたの掲出句以外の作品を引用するにとどめたい。(漢字は一部新字体に改めた)

 荒縄で縛るや氷解けはじむ

 昆虫の仮死へ一気に針を刺す

 深淵を蔓がわたらんとしつつあり

 痰壷をあはれ覗けり油虫


●―9上田五千石の句/しなだしん

 山開きたる雲中にこころざす     五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十九年作。

 『森林』(*1)は、昭和四十四年より昭和五十三年まで、三十六歳から四十五歳までの作品254句を収録する第二句集。

     *

 前回、五千石は俳人協会新人賞受賞後スランプに陥り、その後ひとりで山歩きをはじめたことは書いた。掲句はちょうどその頃の作品で、山開きの句である。

 ちなみに前述のスランプの影響はこの第二句集『森林』の前半に顕著で、たとえば昭和四十五年に残された句はわずかに8句で、この年には夏の句は一句も無い。

 さて、五千石は著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中で、掲句について次のように記している。

 山麓に永らく住んでいながら富士山の「山開き」に参じたことがないのはいけない、と発心して、この年から毎年七月一日浅間大社でのその神事に拝し、身の祓いを受けて一番バスで登山することに決めたのです。

 しばらくは単独、あるいは家妻同行でしたが、俳句の仲間、山の友達などが加わるようになり、いまでは私の主宰誌「畦」の三大行事となり、登山バス三台が用意されるようにまでなりました。

 スランプ克服の山歩きは富士登頂に、単独行から仲間と連れ立ってのイベントに、曳いては結社の行事にまでなったという、五千石の初志貫徹の心を表すようなエピソードである。

 なお、文章中の「いまでは」とは、この本の初版の刊行年から1990年(平成2年)のことになる。つまり、昭和四十九年からこの平成二年時点までに、16年富士登山が行われたことになる。

     *

 掲句の翌年、五千石は主宰誌「畦」を創刊する。仲間が増えることは嬉しいことだが、結社誌ともなれば、それに伴った責任も問われることになる。

 この句の「雲中」は手探りの五千石の胸中、「こころざす」は、それでも一歩一歩進もうとする意志と読むことができる。

 

*1 『森林』 昭和五十三年十月十日 牧羊社刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井

 匕首(ひしゅ)めく手帖胸に潜ませ男のポケット夏

 秘密を秘めた手帖を匕首(あいくち)に見立てたものだ。感心するほどの譬喩でもない。感心してしまうのは、「○○○○○○○○○○夏」と末尾に季語1コを入れることで、俳句として成り立たせてしまうことだ。こんな安直さは他の文学にはあり得ないだろう。有季定型の詩だといいながら、魂に相当する季語をこんな安直に選択し(「夏」である!)、こんな安直な場所に入れるのである。

 また<7+7+8+「夏」>と定型ではないのだが、俳人はこれを定型と読み解く。決して自由律とは言わない。「匕首めく手帖」を上5の3字の字余り、「男のポケット夏」を下5の5文字の字余りと見えてしまうのである。これも不思議な伝統だ。もちろん憲吉が日野草城系の新興俳句派の俳人であるという特殊事情があるように見えるが、俳人の頭はこれをぎりぎり定型と見る枠組みを持っている。

 こんな俳句だから、ちょっと面白いが、現代の俳人は憲吉に目を向けようとしない。俳句の教科書に載る俳句ではないのである。現代の名句とは安心して教科書に載せられる句であるからこうした生徒を混乱させる句はだめなのである。

     *

 にもかかわらず戦後の俳句としては掲げておきたい句である。楠本憲吉の特有の文体が匂い立つからである。いや戦後俳句を読むとき多かれ少なかれにじみ出る特徴が、楠本憲吉のこの失敗作により、その特徴を露骨なほど露出してしまうからである。私は、戦後俳句、それも昭和30年代から40年代にかけての作品をその前後と比較してこんな感想を述べたくなる。


①この時代の戦後俳句は、どんな伝統俳句や保守的俳句であろうと、自分たちの内部を語りたいという切望をもっていた。

②そして彼らは、自分たちの内部を告げるための独特の表現の形式や言い回しを工夫せずにはおかなかった。

③しかし、こうした独特の表現の形式や言い回しが、しばしば、彼らの作品に自己模倣を生み出させる原因ともなっていた。


 この例が典型的に現れるのは楠本憲吉であるが、実は、伝統俳句の代表とされる飯田龍太も、能村登四郎も、草間時彦も、内面を表現する独特の形式を持ちつつ、自家中毒のようにそれが自らを侵しているという現象を見て取ることが出来るように思うのである。不思議なことに、彼らの前の世代の人間探究派にはあまり見られなかった事象である。私が懇切丁寧に研究した作家の数はそう多くはないが、少なくともそれを行った飯田龍太と能村登四郎については間違いなくそれが言えたのである。

 問題はそれを是と見るか、非と見るかである。自己模倣など作家としては最低だという人がいるかも知れないが、独自の表現を持てたことをもって、私は無上の羨望を彼らに感じる。今の時代より、彼らの時代が不幸であったとはどうしても思えないのである。それは、楠本憲吉のこの珍妙な句についても言うことが出来たのである。こんな俳句は現代の若い作家は誰一人書こうとしない。実は、書けないのである。


●―12三橋敏雄の句/北川美美

 天地や揚羽に乗つていま荒男

 「一寸法師」の話。鬼から姫をお守りした一寸法師は小槌の魔法で立派な青年になり姫と夫婦になれた。しかし、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』―「一寸法師の恋」では残酷な続きがある。姫は夫である一寸法師の肝腎なところが一寸法師であることに満足できず、姫は一寸法師と罵り、小槌で叩きあう夫婦喧嘩に。互いに小槌を振り回し、二人は、またたくまに塵ほどの大きさになったという結末である。掲句は、残酷童話の後の一寸法師を詠っているように思えた。姫の支配下から解放され、悠々と空を羽ばたいている一寸法師を想像する。

 揚羽は揚羽蝶のことで季節は夏だが、この句は夏を意識していない。蝶の飛ぶ姿が浮遊する魂を天界に運ぶとされた意味、自然界の魔性を感じる不思議な羽の文様の方に注目すべきだろう。

 一寸法師は、『御伽草子』の中の登場人物であるが、上掲句が収録される『眞神』には、先の第八回テーマ「肉体」―文中引用句「肉附の匂ひ知らるな春の母」で触れた、一寸法師サイズ、生を受ける前の視点で詠まれている句がある。

 霧しづく體内暗く赤くして

 産みどめの母より赤く流れ出む

 身の丈や増す水赤く降りしきる

 そして、母への思慕、エロスへとつながる。

 夏百夜はだけて白き母の恩

 夏百夜の句は、母者物といわれる母親に女性の性を詠んだ句で、人気のある句である。こちらの方が敏雄の夏の句として代表的かもしれない。色紙にも好んで揮毫したようだ。

 句集『眞神』の中の句はどれも一句として独立しながら、無季句をより際立たせるかのように配置の工夫がされている。そして赤子、父、母、たましい、山、川、石、赤・・・「眞神曼荼羅」を巡る題材が詠みこまれている。連句の手法である。

「明治時代に連句が滅びた理由なんていうのは、もう完全なマンネリズムの集積だよね。いろんな約束が多いから、それに則ってやってったら、いくら変化を重んじるっていったって、変化しないわけだ。あたらしい俳句のひとつの方法として、歌仙なんて形ではない、新しい形の「連句」っていうのを考えてみてもいいね。それは、新興俳句のときの連作と、どこかでつながってくるんですね、ですから連作と連句の両方を合わせた新しいスタイルができれば面白いと思うんですよ。僕の『眞神』っていうのは、連句の付け方のいいところをとってやっているわけですよ。これは読んでいれば仕掛けがあるなって分かる。言われちゃうとまずいんだけれど(笑)。同じことをずーっと並べるんじゃなくて、一句一句違った世界が響き合うように並べていくと。」(『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー(*1)

 上掲句に戻る。「天地(あめつち)」は、「自由の天地を求めて旅立つ」「新天地」の天地、あるいは宇宙。そして「荒男(あらお)」は万葉の言葉であり、「荒々しい男。勇猛な男。あらしお。」(デジタル大辞林)という意味。明治~昭和の登山家・随筆家である小島烏水の『梓川の上流』に「北は焼岳の峠、つづいては深山生活の荒男の、胸のほむらか、」という雅なしらべがある。そして白泉にも、荒男の句がある。

 この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉

 そして、蝶に乗ると言えば、この句。

 ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠美秋

 蝶に乗るのは女とは限らない。たったいま魔性の揚羽に乗った男、「いま荒男」は、一寸法師改め、宇宙に存在する生まれてこなかった赤子のたましい、死児の視点を描いたように思える。『御伽草子』の一寸法師も元々は水子、あるいは死児の話かもしれない。


*1)『恒信風第二号』三橋敏雄インタビュー/聞き手:村井康司、寺澤一雄、川上弘美


●―13成田千空の句/深谷義紀

 水着緊むる雪国の肌まぎれなし

 この企画の冒頭に採り上げた「成田千空の感銘句」では、3句のうち夏の句が2句を占めた。

 空蝉の脚のつめたきこのさみしさ

 妻が病む夏俎板に微塵の疵

 個人的には、どうも千空作品の中で夏の句に惹かれるものが多いようだ。短い夏に強い存在感を示す北国の事物や生き物たち。おそらくは読む側の勝手な思い込みだろうが、作者がそうした対象へより強い愛惜を注いでおり、それが印象深い句に結実したように感じてしまう。

 さて、掲句。第1句集「地霊」所収の作品である。

 津軽に生まれ、その地に生きてきた千空の強烈な自意識を感じざるを得ない。雪国青森に生きる自己という存在の再確認と言ってもよいかもしれない。眼目は、その再確認を自分の肌という肉体を通じて意識にのぼらせ表現したことであろう。ほかでもない自分自身の肉体からそうした意識が生れた、あるいは再認識をしたわけである。そのことが作品に強いリアリティをもたらし、印象深い句となったのだと思う。

 この句の主体を自分以外の第三者とし、作者がそれを見て客観的に作品を成したという解し方もあるかもしれないが、ここではあくまで主体は作者、千空自身だと考えたい。そうでなければ、前述したような強固な自意識が生まれないからである。

 「風土」概念が持つ様々な意味については、この企画でも活発な議論が別途行われている。

 千空の作品についても「風土色の濃い作品」であることは間違いないが、千空自身が所謂「風土(性)俳句」と一線を画していたことは以前に述べたとおりである。千空自身にとって大切だったのは、一人の人間として今をいかに生きるか、ということだった。その創作過程のなかで生活根拠たる居住地(千空の場合は津軽)の環境が色濃く投影され、その土地の事物を句作の対象として採り上げるのは自然な帰結であろう。もちろん創作態度として抽象性を志向すれば、そうした影響はおのずと減じてくるのだろうが、千空はそうした方向性を採らなかった。あくまで具体的な事物を対象として採り上げ、平明な表現で作品を生み出していったのである。

 千空自身の創作スタンスはかなり柔軟であり、晩年も新しい素材や表現に関心を持ちながら作品を生み出していった(注)が、「いかに生きるか」という命題を自己に問う態度は最後まで一貫していたのである。

(注) 第6句集「十方吟」あとがきより「月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。(中略)自由な発想と確かな表現を受講者たちに望んだが、それは自身の課題でもあった。」


●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】19.20.21.22./吉村毬子

2013年9月13日金曜日

19 藪の中北窓が開き相逢ふ椅子

 歳時記(角川書店編・第3版)に「北窓塞ぐ」という季語がある。

 北からの寒風を防ぐために、戸を下ろし板を打ち付けたりして北向きの窓を塞ぐ

 それに対してであろう。「北窓開く」という季語の解説。

 冬の間閉ざしていた北窓を開くこと。薄暗く陰気だった部屋がにわかに明るくなり、身も心も開放されたように感じる。春の喜びの一つである。

 苑子は、季語を意識して作句する俳人ではなかったが、春の季語を用いた句は、他の季節に比べて圧倒的に多い。思えば、春(3月)に生まれて、春(1月)にその生を閉じている。

 中七下五の「北窓が開き相逢ふ椅子」とは、北窓が開かなければ、その季節にならなければ、その椅子に座る二人は相逢うことができないということだろう。

  藪の中にひっそりと暮らす女人の家へ、春になり来訪する男。彼は、旅人でもあるのか・・・。永い永い冬を越えて、ようやく再び逢えることのできた喜び。

 しかしながら、藪の中に棲んでいるとは、どんな女人であろうか。

 豊口陽子氏の句集に『藪姫』という句集がある。その中の「藪姫抄」の句を拾ってみる。

 どの屋も棲処ではない渡河の藪姫        豊口陽子 

 藪姫に小さき巣かかる水の上           

 藪姫として衣函に棲む黒きもの           

 藪姫に藪の階調薄日を吹く            

 かの藪姫見知らぬ鳥の積む磧          

 これらの、ある緊迫感を伴う叙情性を感知する句々に比べて、苑子の掲句は明るく開放されているのだが、「藪」という尋常では無い棲処を選択せざるを得なかった女人の生き様とは、如何なるものであったろうか。

心ならずも己が藪に迷いつつ、更なる不可知の彼岸へ旅立った、あまたの女たちに捧ぐ

 これは、「藪姫抄」の前書きである。「藪」・・・その情念の奥底からの移行へ、「更なる不可知の彼岸」へ、苑子の句の「藪」に棲む女も辿り着くのではないかと、私には思えてならない。

 そんな女人に北窓が開く、その束の間の時間は、春の喜びを感受しながらも、春独特の憂いや倦怠を持つ希薄な重圧をも重ねながら、ある物語性を呼び込み、展開を誘う。

 それは、

「藪の中に一軒の家があります。春が来て、その家の北窓が開きました。すると、藪の中に二つの椅子が並べられました。」

という物語仕立ての表記によるものである。

 「鬱葱とした藪の隙間から緩い春の日差しが降りかかります。先ほどの古い二つの椅子には誰も座っていません。でも、ふと耳を澄ますと、草木の葉擦れの音の間に静かに笑い合う声が聴こえてきます。」

 そんな続きを生前の苑子に話していたら、きっと目を輝かせて喜んでくれたはずである。


20 死花咲くや蹴りて愛せし切株に

 立派に死んで死後に誉れを残したり、死の間際に晴れがましいことがあることを「死に花が咲く」という。掲句を初見では、「帰り花、戻り花」のように、樹木としての生命を絶たれた切株に、咲くはずのない花が咲いたと解釈していたが、広辞苑の「死に花が咲く」と取れば句意は変わってくる。

 この切株は他の切株とは全く違う。『星の王子様』(サン・テグジュペリ)の、例のあの薔薇のように愛しい愛しい切株である。その切株に座っては、読書をしたり、物思いに耽ったり、笑ったり泣いたりした。遊びふざけては蹴り、八つ当たりしては蹴り、時には、切株と成り果てた姿に嘆き悲しみ蹴ることもあったであろう。

 その堅い切株は、いつも優しく強く受け留めてくれる。かつては、青々とした葉をそよがせ、美しい花を咲かせ、鳥や虫たちを遊ばせ、蜜を実を与えた。その木と共に、四季を過ごし歳月を重ねたのである。その大切な切株に誉れを残したことを告げているのかも知れない。

 「死」「蹴」「切」の強い語彙に、「花咲くや」「愛せし」が混じり合いながら、愛の一句に仕立て上げられている。

 高屋窓秋は、句集の序文で次のように述べている。

(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息抜きになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。

が、1頁に前句と並べられたこの愛の2句は、『水妖詞館』の中では、「息抜きになる作品」とは呼べないが、これまで緊張しながら書き続けてきた私に、口元を緩ませながら書くことができた句である。これもまた第1章の「遠景」の景色のひとつなのであろう。


21 落丁の彼方よ石の下の唄よ

 どのくらいの割合で落丁になってしまうのかは見当もつかないが、詩歌の書き手にとって、「落丁」は、魅惑的な一語ではないだろうか。想像もせずに突然に、しかも静かに失う空虚感は、その虚空へ詩人を招き入れるようである。

 苑子が高柳重信と自宅を発行所にして『俳句評論』を立ち上げたのは昭和33年(45歳)、『水妖詞館』を出版したのは昭和50年(62歳)である。17年間、俳句誌を出版してきた途上での「落丁」という語は、公私共に身に擦り込まれたものであろう。

 抜け落ちた頁は、彼方へと消えた。そして、それは、石の下の唄と同じようにもう届かない処へ行ってしまったのだと、寂寞たる思いを「よ」のリフレインに寄り叫び詠う。

 しかし、「落丁」の頁も、「石の下の唄」も永遠に失くなってしまった訳ではない。落丁の頁は彼方の何処かに存在するからこそ「落丁の彼方」を詠っているのである。そして、その「彼方」のような「石の下の唄」も石の下で確実に息衝いているのである。

 彼方に行ってしまったものにまた逢うことができるのは、何時であろうか。彼の世かも知れない。此の世で失ったものと彼の世で再び逢うことは、此の世で書き尽くせなかった詩を彼の世で書くことのようである。苑子は、この青空の奥の天上で、下界では重すぎた「石の下の唄」を聴きながら、口ずさみながら、「落丁」という時間をゆっくりと拾っては懐かしみ、書くことに堪能していることだろう。そして、時々は、「石の下の唄」を下界へ詠い零しているのかも知れない。

 空を仰げば、私にも「石の下の唄」の片鱗が触れるかも知れない。そして、私にも未だ此の世で詠い戻す詩があるのかと思う。苑子の棲む彼の世は遠い。

  遠しとは常世か黄泉か冬霞     苑子『吟遊』


22 死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨

 死は永遠の睡りと喩えられるが、掲句は、死後の安らかなる睡りに至らずに、血肉は消失したが、骨となったその身は、母郷に樹となりて立っているという。「樹と立つ骨」の「と」は、「樹と共に立つ」とも考えられるのだが、樹と骨の形状が相似していることだけではなく、樹と骨が一体化したように感じられてならない。

 母郷に立つその樹は、瑞々しい時代はとうに経てささくれ立つ枯木となって、洞をも湛えているかも知れない。そして、そこは母郷なのだから、幼少の頃より慣れ親しんだ樹なのであろう。母なる大地、母なる海などという大仰な原風景ではなく、人は皆、自身の母郷を持ち、同郷の者同士でも琴線に震撼する時間や動植物や山川、空の景色はそれぞれ異なるだろう。

 この骨は、誰の骨であるのか。高柳重信と後半生を共にする前に戦死した新聞記者の夫は佐渡島の出身である。私は佐渡島へ旅した折り、佐渡島へ戻り着いたその夫の霊魂と、佐渡の歴史が生んだ文化を好んだ苑子の此の句を思い出していた。

 此の句に相当する死は、多々あるのだろうが、苑子が死後の自身を語っているのだとしたら、彼女が生まれ育った富士の裾野の伊豆の樹には、深い思い入れがあるのだろう。そういえば、、少女時代の苑子は木登りが好きであった。

 苑子は、死を扱った句が多く、この『水妖詞館』は最もその臭いを放つが、死後の彼の世を描くというよりも、自身が死んだ後の此の世を詠んだ句も多い。

   死後の春先づ長箸がゆき交ひて     苑子『水妖詞館』 

   帰らざればわが空席に散る桜     『吟遊』 

 「帰らざれば・・・」は、花の季節になると感慨深い句である。句会場、成城風月堂3Fの硝子越しの空席に、花を背に透けた苑子が座っているような気がするものである。

 しかし、「死して睡らず今は母郷に樹と立つ骨」は、この2句のように、虚空より残された者達を柔らかい眼差しで見詰めている光景とは、明らかに違う。漂う魂魄ともならずに、骨として母郷の樹と土と化しているのである。睡ることなく眼を見開き、愛する母郷を見守り続けようと、母郷のかたちのひとつになろうという思いと共に、やっと母郷に落ち着いたという安堵感をも持つ。思えば、70年近くも故郷を離れて暮らした苑子である。初学時代の私の拙句

   富士を背に春の校庭暮れなずむ     毬子

を大層喜び、暫く故郷の富士山の話をしてから、また遥かを見ていた。今は、朝な夕なに冨士を見上げているのだろう。

 「遠景」と名付けた章の締めに置いた此の句は、望郷の果ての自らを晒しながら愛惜する苑子の絶唱である。

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(59)  ふけとしこ

   むかし

編みかけの白詰草を風に置き

ネモフィラの花の終りを荒れて夏

虹立つや耕衣の下駄の先が割れ

青葉雨飼はるる鳶が目を開き

ままごとの昔よ桑の実もむかし

・・・

 『語りたい俳人』上下2巻(コールサック社)を頂いた。当-BLOG新空間-にも広告の掲載がある。

 その2冊を私などが戴いていいものか? と恐縮してしまったのだが、でも、頑張って読みなさいという意味だと気を取り直して、気ままに上巻下巻を行き来しながら、ぼちぼちとではあるが読ませて頂いている。

 内容は広く話題になることだろうから、今はおくとして、俳句以外の出来事なども挿入されているのが、日頃近寄りがたく思っている俳人の方々との距離を縮めてくれて有難くもある。

 そんな中でも本当に驚いたのが福永耕二を中原道夫氏が語るという巻(第一章)。

 俳句について書かれたものは時として窮屈になってしまうこともある。それは、単に私の理解が及ばないだけなのだとも言えるのだけれど。

 《語る》というのは、語られることを聞くということでもあるから、親しみやすくて読みやすいものでもある。

 福永耕二のエピソードの一つとして語られていたことに、歯医者嫌いがあった。歯医者が好きという人はいないにしても、これはちょっと酷い話。

 歯科が嫌いでぐらぐらになった歯を何本も持っていて(?)最終的には自分で抜いたりしていたというから、これにはびっくりする。乳歯ならいざ知らず……である。

 口腔衛生に関わることが広く行き渡っている現在ではこんな無茶な話はないだろうが、歯周病(かつては歯肉炎・歯槽膿漏と言われることが多かった)で歯の維持が難しくなることは多い。

 さらに口中の病原菌は絶えず飲み込んでしまうことになるから、全身に及ぼす影響はあって当然である。

 かなり古い話だが記憶に残っていることがある。多分昭和十年代のことだろう。さる人が出征することになった。その壮行会の席で、本人が歯茎からの出血を言い出した。血や膿は全部出してから征くべきだと周囲から言われて、爪楊枝を過剰に使い、それも原因の一つだろうが、蜂窩織炎から敗血症になり入院、出征どころではなく、苦しんで亡くなった、ということを聞いたことがあった。

 当時の私はまだ十代。蜂窩織炎も敗血症のことも知らなかったのだが……。

 福永耕二のことに戻すと、その早世を知ってはいたが、死因が歯科由来の敗血症とその併発による心内膜炎であったとは、今回の中原道夫氏の話で初めて知ったことであった。

 如何に嫌いな歯医者であっても、ちゃんと治療をしておけば敗血症を引き起こすこともなく、俳人としても、もっと活躍できたであろうにと思えば口惜しくもなる。

 それにしても歯科を嫌う人の何と多いことか。


 ちょっと刺激されて『福永耕二句集 踏歌』(邑書林句集文庫)を書棚から探し出した。この1冊は持っているけれど、諳んじている句といえば

  新宿ははるかなる墓碑鳥渡る  耕二

  凧揚げて空の深井を汲むごとし 

この二句のみというのはあまりにも悲しく恥ずかしい。読んでいる内に思い出した句もいくつかあった。これを機にきちんと読み直そう。

 文庫版の有難さは移動中などでも気軽に開けるということでもあるし。

(2024・6)

2025年6月13日金曜日

第248号

   次回更新 6/27


■新現代評論研究

新現代評論研究(第6回)各論:眞矢ひろみ、佐藤りえ、横井理恵 》読む

現代評論研究:第9回総論・戦後俳句史を読む(私性④) 》読む

現代評論研究:第9回各論―テーマ:「精神」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第2回:『天狼』創刊号の「こほろぎ」/米田恵子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年歳旦帖・春興帖
第一(4/25)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖
第二(5/9)ふけとしこ・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(5/23)辻村麻乃・瀬戸優理子

令和六年冬興帖
第一(4/5)仙田洋子・神谷 波・豊里友行・山本敏倖・ふけとしこ
第二(4/11)鷲津誠次・加藤知子・杉山久子・小野裕三
第三(4/25)辻村麻乃・瀬戸優理子
第四(6/13)曾根毅・浅沼璞・なつはづき・下坂速穂


令和六年夏興帖 補遺(6/13)中村猛虎


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【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(58) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり30 中本真人句集『庭燎』 》読む

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【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

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【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 30 中本真人句集『庭燎』(2011年8月刊、ふらんす堂)を再読する。

  『庭燎(にわび)』は、『新撰21』にご一緒させていただいた中本真人さんの第1句集。

NHKの俳句王国でもご一緒させて頂いた。

 その合同句集では、「なまはげの指の結婚指輪かな」の観察眼に瞠目したものだ。

単なる季語や風俗描写を超えている。

 季語の土俵から一歩引いて現代人の生活空間を醸し出す素敵な秀句。


顔舐めに犬寄つてくる帰省かな

 具体的な犬の舐める顔がくしゃくしゃになりながら帰省の感も溢れでる。


握られてびちびち震ふ油蝉

 油蝉を握る指先にびちびちと命の振動が伝わる。五感をフル稼働する中本真人俳句には、実感が湧く。


人を見る目だけ動ける小鹿かな

 人の一挙手一投足を見ている小鹿の目だけが、動いているという。この観察眼の秀句!


糸引いて花火揚がつてゆくところ

 花火が揚がってゆくところの糸を引いていることを丁寧に拾い上げた観察眼の秀句!


焼跡のごと曼珠沙華枯れてをる

 焼跡のような枯れた曼珠沙華の発見。優れた詩的表現でもある。


蟷螂の逃げゆく時も鎌上ぐる

 蟷螂(とうろう)が逃げる際にも鎌(かま)を上げている。


近くには手渡すごとく豆を撒く

 節分の豆まきの所作をしっかりと捉えた秀句。そこには、鬼役の豆まきが人間対人間である関係性を鮮やかに捉えている。


競泳のぶつちぎりなる拳挙げ

 あのオリンピックの名場面だろうか。「気持ちいい!俳句だ。」


吸入の間もぬいぐるみ抱きしまま

 吸入の間もぬいぐるみを抱き続ける子どもへの眼差しにも観察眼が光る。


おでん屋の流れ通しの演歌かな

 俳句日記にもなる日々の観察眼の賜物。


乾杯を待つ夏料理並びけり

 乾杯を待つのは、夏料理が並ぶ。その描写力。


松茸を山盛りにして値を書かず

 値札を書かない。やり取りから始まる。松茸(まつたけ)を山盛りにして。その日常をいったん解体するように市井

 人々の一挙手一投足を描き出す観察眼に脱帽する。


夜ごと来る狸子連れとなりにけり

 夜ごと来る狸(たぬき)の変化、子連れなっている。そこに中本真人の優しい人間味を加わる。


島に着く物資に燕舞ひにけり

 船便の物資の届くお天気までも鮮やかに燕を通して描き出す。


遠足を離れて教師煙草吸ふ

 教師の鏡は、時に子どもらの遠足の場を離れて煙草(たばこ)を吸う。そんな所作のいち教師・中本真人さんなのかもしれない。つぶさに俳句にできる力量もあっぱれ。


生徒みな上がりしプール波残る

 次第しだいに俳句鑑賞者も気付かれているもしれない。観察眼の効いた1句1句がとても尊い俳句なのだ。プールを海原のように揺らしていた。プールも生徒がみんな上がった後も。プールに海原の波が余韻のように残る。

  この1句が小説いち作品に匹敵する。


村ぐるみして隠したる小鳥網

 確かある小鳥は1羽までしか飼えず登録が必要な世の中だったろうか。村ぐるみで隠してある小鳥網。其処にある風土性を見出していく真骨頂がある。


抑へたる目に涙なし菊人形

 菊人形の所作は、動かないままなのだがそこに魂が宿るように動き出す。だが菊人形の所作である抑えた目に涙がないことで人間が感知している菊人形は、人形に戻る。そこに人間が見出す伝統でもあり芸術がある。


よく肥えし生物室の金魚かな

 このような観察眼の練磨による秀句がこつこつと量産されていけば、豊かな中本真人俳句の世界が現れる。よく肥えたユーモラスさとそこに描かれていない生物室の人間模様までも連想させる。575の短い俳句だからこそ言葉に描かれていないものまで喚起できるその観察眼の力量よ。そのことを私の初期の句集鑑賞では見いだせていなかった。優れた俳人である。


流星の力抜けつつ消えにけり

 流星の力が抜けつつ消えるという観察眼に裏打ちされた描写力。


毒茸怒鳴られながら捨てにゆく

 毒茸(どくきのこ)なんかを採取してくる奴がいるか。そんな怒号までも言葉の縁から聴こえてきそうだ。


御神楽の庭燎の太き薪かな

 御神楽(おかぐら)は、日本の神道における神事の際に神様に奉納する歌舞のこと。俳句王国で御一緒した際、にさん交わした会話の際に民俗学を研究されていることをお聴きした。庭燎(にわび)の太い薪(たきぎ)。此処に中本真人の眼差しの地平があるのかもしれない。


直箸を気にせぬ仲のおでん酒

 直箸(じかばし)は、自分の箸を使って大皿料理から直接食べ物を取ることを指す。 これは、マナー違反とされていて、衛生面でも問題がある。けれども家族や拡大解釈されていく地球家族の関係性をきちんとおでん酒の言葉の縁に喚起させる中本真人俳句の秀逸さ。


雪達磨輝きながら解けにけり

 雪達磨が光をまとい、輝きながら解けていく感動をよく描けている。感動の原点をしっかりと観察眼が捉えている。


くちびるの先まで紅し桜鯛

 桜鯛のくちびるの先まで紅い。中本真人俳句の観察眼は、大量に良質な作品を生み出す。


落蝉の事切れし眼の澄みにけり

 落蝉の生命の抜け落ちた様からも観察によって詩が誕生することを中本真人俳句は、顕著に指し示す。


踊子の見分けのつかぬ厚化粧

 中本真人さんの見分けれる女性は御一人だけということか。愛しい人よ。

 

懸賞の数にどよめく相撲かな

 相撲(すもう)のこういう風景も尊い。

選びきれない秀句の数々は、俳句の観察眼の賜物だ。


 徹底した観察眼を磨いた秀作が多く視られる。

 写生俳句による坦々と磨いた観察眼に中本真人さんの人柄と言おうかユーモアとユーモラスさが滲み出て読者をにやりと笑顔にさせる。

 『新潟医科大学の俳人教授たち』(2024年刊、新潟大学大学院現代社会文化研究科)などの俳句論文もコンスタントに発表している。

 この俳句の根幹は、このまま俳句を続けていれば、いずれ大成されること間違いなしだろう。

【新連載】新現代評論研究:各論(第6回):眞矢ひろみ、佐藤りえ、横井理恵

 ★―2橋閒石の句 5/眞矢ひろみ

 物おもう昔ありけり芋の風  「虚」昭60年

 「われ思う故に我あり」(デカルト)と「昔男ありけり」(伊勢物語)を足して二で割ったようなフレーズに始まる。ただし、パロディとするには引用部分が短く、「物おもう」「昔」「あり」という抽象度の高い語彙から連想された、単なるひとつの読みに止まる。言葉に従って、古典の多義的な「ものおもひ」の世界を想起していると捉えるのが本筋なのだろう。いずれにせよ、読み手は句の冒頭基底部(*1)の面白味を曖昧ながらも感じ取ることによって、肩の力をほぐしつつ、干渉部である「芋の風」へと読み進むことができる。面白味とはもちろん句の目指す目的地ではなく、句の意義(詩的意味)に向き合うための「踊り場」と言ってよいだろう。ここでの面白味とは、俳諧、滑稽、諧謔、ユーモア、パロディ、軽口冗談等々、可笑しみを誘発するものを漠然と指している。

 「囚われない心」「いっさいに遊ぶこと」を標とし、「それと人目にも映るなら、これこそ『あそび』の冥利」とした第五句集「荒栲」から、第六句集「卯」、第七句集「和栲」に至る約十年が、俳人閒石の最後の変革時期であり、句風は成熟の域に達する。

  行春のうしろ姿の艶なりけり 「荒栲」昭46年

  螢火の奥は乳房のひしめくや  

  七十の恋の扇面雪降れり


  若竹の時間を睡りころげたり  「卯」昭53年

  蝶になる途中九億九光年

  枯山を見るに枕を高くせり

 「荒栲」は未だ前衛俳句の影響を色濃く残すが、それまでの喩偏重の技巧は減少し、「卯」では自然態の句風が中心となって、平明単純な中に多種多様な詩情を含むようになる。しかし、先に挙げた「いっさいに遊ぶことが~人目にも映る」というレベルに達するのは「和栲」(昭58年)を待たなければならない。

 初稿『橋閒石の句1』において、「和栲」から地口風のずらしを用いた句を挙げたので、ここでは別の面白味を有する句を抽出する。

 麦秋の乳房悔いなく萎びたり     「和栲」(昭58年)

 人になる気配もみえず梅雨の猫

 仮名書に生きて美貌のかたつむり

 秋茄子に目のない男ゆめを見ず     

 ひとつ食うてすべての柿を食い終わる

 これらの句風が、一般的に言われているように、俳諧・連句の諧謔仕込みによるものかどうかは定かでない。閒石本人は「(連句)の思考様式や手法などの示唆するところが、そのまま俳句につながるというふうな短絡的な問題」ではなく(*2)、「連句の生命は、むろん付合いにある。『不即不離』とか『重くれ』『軽み』などすべては呼吸自得の体感」としている。少なくとも作句上の具体的技法の面で意識したことは無く、「囚われない心」で俳句に向き合う際に、自己の内部に沈殿している諸種のものが滲み出るという感触なのだろう。つまり、少年期から蓄積された俳諧と欧米文学の素養、産土・金沢への郷愁、前衛俳句のリテラシー、これらが綯交ぜとなって微妙なバランスを保ち、更に面白味で包み込むようにして句を形作るのである。

 句風は余裕を感じさせる穏やかなものとなり、一般読者も悠然として上質な面白味を十分感じ取ることができる。思想や哲学をバックボーンに、それを匂わせつつ多義性の中に読み手を惑わせるようなことはない。それは閒石流に言えば「灰汁」に他ならない。上記五句にも見られるように、面白味にも常に人の存在、人情の絡みがあって、単純な言葉遊びにしても、風刺であるとか高尚知的でマウントを取るような現代的色合いは無く、長屋の大家さんが与太郎を諭すような優しさ、すっとぼけた可笑しみを感じてしまう。「『あそび』の冥利」としたことは、閒石が読み手にも面白味を感じて欲しい旨の吐露であり、このような立ち位置は現代俳人には珍しい。俳諧宗匠閒石の面目躍如といったところかもしれない。

 以下、余談である。交友関係を持ち、閒石と同じく俳諧や欧米詩にも造詣の深かった永田耕衣や加藤郁乎に比べると、「和栲」以降の閒石句の特色もわかりやすい。ど真ん中へ剛速球を投げ込む耕衣や郁乎に対して、スピードは無いがゾーンぎりぎりを狙って変化球を投げ込むのが閒石である。それも大きく曲がるカーブではなく、通常ラインから微かにずらすスライダーやスプリットの感じ。絶妙のコントロールがあり、さらに老獪な投球術さえあれば、年老いて球がどんなに遅くとも大投手になれるのだ。もちらん、若い頃は剛速球を目指した時期もあった。例えば第三句集「無刻」(昭32年)、第四句集「風景」(昭38年)の頃だが、少々コントロールが捗らなかった。見る側としても、初心の頃は剛速球投手に憧れるものだが、齢を重ねるに従い、絶妙な投球術に拍手喝さいを送りたくなるのも無理からぬことだろう。


*1 「日本詩歌の伝統」川本皓嗣 岩波書店 平3年
 川本は俳句を「基底部:強力な文体特徴で読み手を引き付けながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない“ひとへ”の部分」と「干渉部:基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を方向づけ、示唆する部分」に分割する。
*2 「現代の連句と俳句」(アンケート特集) 『俳句研究』5月号 平3年


★ー5清水径子の句 4/佐藤りえ

 霧まとひをりぬ男も泣きやすし 『鶸』

 ひきつづき句集『鶸』より。掲句の初出は「氷海」11号(昭和26年)「霧まとひをりぬ男も泣き易し」。「男」に対する容赦ない把握でありながら、男「も」、つまりは「女も」泣きやすい存在である、ということを背後に忍ばせているように思えてならない。泣いてしまいたい、それは自分だけではない。「霧」とは五里霧中の「霧」ではなかろうか、時は昭和26年、径子はこれよりさかのぼること2号前の「氷海」9号より同人として題を付した作品発表を始めている。

「鶸」には直近に「寒さくる男の声をはらいのけ」がある。いずれも「男」に対して寄らず凭れず、冷静な観察眼から敷衍的な把握がなされている。句集には採られていないが、この時期、径子は同じように冷静に、距離を置いて観察した「男」を詠んでいる。

 春の雪消えて男の肩歩く  「氷海」創刊号(昭和24年)

 秋娶る男先き行く草いきれ  〃 第2号(昭和24年)

 日蔭にて雪を握れる鈍(のろ)の男よ  〃 昭和29年4月号

 句集においてもこの後もあらわれるのは、身近な存在というよりは、手がかりの少ない、どこか「顔のない」男たちだ。

 あたたかき日の男雛憂ふるよ 「昼月」

 鳩・目白・アパートに胸うすき男  〃

 飾り雛の華やぎに、女雛は堂々たるものの、男雛は憂いを帯びている。「胸うすき男」は誤解を恐れず言えば、強いとか頼りがいのあるものではない、胸とともに幸薄い男なのではないか…。

      *

 少し脱線する。さきごろ出た高橋修宏『暗闇の眼玉』の「他者としての女」の章を読みながら、径子にとっての、この書かれた「男」とはどんな存在だろうかとふと考えた。一部孫引きになるが、少し引いてみる。


(……)鈴木の〈女〉は、自分を何ものかと関係づける媒介的存在なのではないだろうか。だから、これらの〈女〉は、単に異性や他者であるのではなく、鈴木自身の存在を未知へ開くものなのだ。〈女〉と向かい合っているとき、鈴木は自らの存在を確かめたり、自己を未知へ押し出したりできたのではないか。(坪内稔典「ことばの根拠――鈴木六林男」『俳句と片言』)

 

 おびただしき蝌蚪へ女の影落ちる  鈴木六林男

 女無き春の家なり五時を打つ

 沼暗し女にほふは不安なり

 ここで記されている〈女〉とは、作者にとって異なる〈性〉をそなえた存在である。これらの作品では、そのような異なる〈性〉を磁場として、それまで馴致され既知の存在であった〈女〉が、どこか見知らぬ他者として生々しく現前しているのではないのか。そして、この自己に決して還元しえない他者性と呼びうるものが、作者である六林男の「存在を確かめたり、自己を未知へ押し出したり」(坪内)させたのではないだろうか。

……)敗戦後の六林男において、「深夜の手」以降の〈女〉という他者をめぐる作品に表出された隔たりという感情は、そのまま敗戦後の混乱した世界に対する作者の隔絶感と重なるものであったのではないのか。(高橋修宏「他者としての女」『暗闇の眼玉』)


 径子の「男」については、坪内のいう「媒介的存在」という印象は薄い。高橋のいう「隔絶感」のほうを断然強く感じるものがある。書かれた「男」は書き手と直接の関わりのない、働きかけのない存在ばかりである。シビアな観察は「あたたかく見守る」というものでもない。

 用意が少なく印象論となってしまうが、男が「女」というとき、そこには所有格を意味するニュアンスが濃くなりがちである。ワンノブゼムではない、「女」一文字でも見えない「私の」がつきまとう。

「男」はどうか。女が「男」と書いたとき、それはかならずしも「私の男」ではないように見えるのは、筆者が男「ではない」からであろうか。

 径子の「男」は書き手にとって圧倒的な他者に見える。その他者との距離によって隔絶された自己を確かめている、ということができるのではないか。その距離、隔絶感は必ずしも「男」からのみのものではない、社会との隔たりの一端、ではないか。

 ただし、距離を感じつつも、拒絶しているわけではない。「男」の「」に距離感をはかる、共感の残滓のようなものが見える。

 坪内、高橋の文を補助線に、そんなことを考えた。


●―15中尾寿美子の句 6/横井理恵

 肉体を水洗ひして芹になる      『新座』

 第1回の中尾寿美子論で最初に取り上げた句である。前回のテーマ「肉体」では、この句を取り上げることができず、ついに戦線離脱してしまった。というのも、確かに「肉体」という語が用いられてはいるのだが、これが果たして「肉体」をテーマとした句なのかどうか考え込んでしまったからである。ここには「肉体」という語から直接想起される皮膚感覚――痛覚や官能はない。あるのは五感を超越した感覚である。「肉体」という語がありながら、むしろ、これこそが寿美子の「精神」の句なのだと言えはしないだろうか。

 これとは逆に

 浅葱の精神を水通りけり       『老虎灘』

という句は、「精神」という語を用いながら、浅葱になりきって浅葱の身体感覚を詠んでいる。寿美子の句における「肉体」や「精神」という語の解釈は、一筋縄ではいかない。

 粗玉のたましひ葱の匂ひせり     『老虎灘』

 詠われているのは、寿美子にとっての精神風土たる師・永田耕衣の「たましひ」かもしれない。この「たましひ」も、精神性の象徴でありながら、なんと「葱の匂ひ」という嗅覚によってとらえられている。寿美子の感覚は、見えないものを軽々ととらえ、嗅覚や触覚に変換する。

 初夏やたたみ目のつく素魂など    『舞童台』

 魂こそは存在の中核だから、今・ここにある自分を肯定する寿美子にとって、皮膚感覚を詠うことと魂を詠うことには何の矛盾もなかったのだろう。

 そして、最晩年にたどりついたのが冒頭の句である。

 肉体を水洗ひして芹になる      『新座』

 肉体をざぶざぶ洗って、その中核にあるものが見あらわされた瞬間―――それが、すがすがしい存在としての芹への変身だった。そんな存在のとらえ方は、寿美子の「精神」そのものだったと言えるのではないだろうか。(了)